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2021年12月22日水曜日

F-22を海軍仕様に改装する構想があった.....だが実現しなかったのはなぜか.....久しぶりの夢に終わった装備のシリーズ再開です

 




空軍のF-22ラプターは世界最高水準の制空戦闘機といわれるが、あと少しで海軍仕様のNATF-22として加わるはずだったのは知られていない。


Artist’s rendering of the NATF-22



ロッキード・マーティンF-22ラプターは米空軍の高性能戦術戦闘機調達で完全新型機としてソ連のスホイSu-27やミコヤンMiG-29に対抗制圧可能な機体を求めた結果として生まれた機体だ。Su-27やMiG-29は米F-15イーグルやF-16ファイティングファルコンへの対抗を狙い開発されており、1980年代のソ連は終焉に向かっていたが、米空軍は新世代戦闘機の調達を進めていた。


(異論もあるが)F-22はノースロップYF-23との競作で優秀さを認められ、その背景にはロッキードの優れたプレゼンテーションと対照的にノースロップが評判を落としていたことがあった。YF-23が航続距離とステルス性能で優れるとの触れ込みだったが、YF-22及び生産型F-22は堅調な性能に加えロッキード・マーティンの軍用機供給の実績を上手く売り込んだ。YF-22が選定に残ったが、両機とも世界最高水準のステルス戦闘機になる資格は十分あり、新世代機の水準を塗り替える機体だった。YF-23が選定されていれば、海軍仕様も検討されていた可能性は十分ある。


F-23が優秀な戦闘機になっていたはずと主張する向きが今もあるが、F-22は低視認性、スピード、機体制御性で優秀さを示した。ラプターはマッハ2.25を出しながら「スーパークルーズ」でアフターバーナー使わず超音速巡航が可能だ。エンジンはプラット&ホイットニーF119-PW-100双発で推力偏向制御で飛行方向と関係なく、パイロットが機体制御できる。


F-22の高性能ぶりを認め、米議会は海軍にも同機の可変翼型をNATF(海軍向け高性能戦術戦闘機)として採用するよう求めた。またF-22を原型にFB-22にするコンセプトもあり、この場合は三角翼にしたF-22を空軍向け戦闘爆撃機にする構想だった。


海軍がNATFを空母運用機材として検討する一方で、米空軍は艦載ステルス爆撃機として当時開発中だった高性能戦術機(ATA)A-12をF-111後継機として検討することにしていた。


理屈の上では空軍は海軍のR&D結果を活用し新型機を実現できるはずだった。開発費用を各軍で共有すれば、海軍、空軍、海兵隊の機材で最高の存在となるとの主張でF-35共用打撃戦闘機事業が生まれたといえる。ただし、同機は結果としてとんでもない高額事業になってしまったが。


NATF事業およびNATF-22は負担不可能なほど高額になることがわかった。1990年にF-22初飛行から7年が経過していたが、海軍で新型戦闘機開発を主管していたリチャード・ダンレヴィー大将はF-22原型から調達可能な価格水準の海軍機が実現する見込はないと発言していた。その結果、NATF-22構想は1991年に中止となった。


米海軍が空母運用型F-22の実現を進めたとしても、技術面で乗り越えるべきハードルが数々あったはずだ。空母運用型機では陸上運用機と異なる離着艦機能が求められる。機体本体ははるかに堅牢としカタパルト発艦とフックを使用した短距離着艦の大きな衝撃に耐える必要がある。NATF-22はF-14で実用化した可変翼を採用し、安全着艦のため速力を制御するとしていた。


可変翼構造は技術陣には課題だった。まず何といっても、海軍はF-14トムキャットの可変翼の整備保守に高費用負担を強いられていた。新型可変翼でも高運用コストそのものを解消する見込みはなかった。海軍の判断は正しかった。固定翼機構造のF-22でさえも史上最高額の運用経費となっていた。


また可変翼でステルス性が犠牲になるとも判明した。可変翼の接続部分がレーダーに反射すればロックされ兵器が発射されかねない。そうなれば戦闘機として決定的に不利となる。F-22は機体操縦性が高いとはいえ、海軍の既存F-14トムキャットのほうがはるかに高速飛行が可能だった。ただし、整備費が高いとはいえ、空軍が投入した開発内容を流用すれば製造費はずっと低くなる。


NATF-22 Artist’s rendering.


結局のところ、米海軍がNATF-22を断念した理由は簡単だ。NATF-22は複雑かつ高価でありながら、既存艦載機と比較してわずかな改善しかもたらさなかったかもしれない。とはいえ、実用化と無関係かに、可変翼型F-22がスーパー空母艦上で、ファンの多いF-14トムキャットの遺産を継承するコンセプトはあまりにも格好がいい。


F-22は結局186機が製造されたにすぎない。空の世界で君臨する期間は悲しくなるほど短くなる運命だ。もし海軍型のF-22が実現して、同機製造が予算削減の犠牲にならなかったどうなっていただろうか。


現実にはならなかったものの、その姿を想像すれば格好良い結果になっていたはずだ。■



NATF-22: The sweep-wing F-22 Congress wanted for carrier duty - Sandboxx

Alex Hollings | December 20, 2021


This article was originally published 12/1/2020

Feature image: Lockheed Martin concept art


2021年5月27日木曜日

夢に終わった装備(1) X-20ダイナソアは米空軍の宇宙爆撃機になるはずだった.....

 



ペースシャトルが飛ぶずっと前から再利用可能宇宙機を運用する構想が米国にあった。ニューヨーク爆撃後、太平洋に移動する爆撃機を創ろうとし第二次大戦中のドイツ技術を応用したボーイングのX-20ダイナソアはロケット打上げで単座宇宙機になるはずだった。


同機は大気圏と宇宙空間の境界を滑空し、ペイロードをソ連国内の目標地点に投下したあと、大気圏外へ跳びはねて移動する構想だった。X-20は核の時代にサイエンスフィクションの世界から生まれた夢の構想で、実際に機能したはずと見る向きもある。


ペーパークリップ作戦と冷戦の高まり

ジョン・F・ケネディ大統領、リンドン・B・ジョンソン副大統領の間に座るカート・H・デビュNASA局長はV-2ロケットの開発陣の一人だった。WikiMedia Commons)



第二次大戦が終結に向かうと、米国とソ連の関係は気まずくなってきた。米ソは冷戦の到来を予期し、次の大戦で勝利をどう実現するかを考え始めていた。


ナチ科学技術陣がドイツの優位性を実現しており、こうした成果を生んだ科学者が敗戦後に訴追を逃れようとしているのを米ソともに承知していた。両国はナチ科学者技術者の確保が戦略的優位性につながると着目した。ドイツ科学者の確保を米国ではペーパークリップ作戦と呼んだ。


ペーパークリップ作戦を主導したのは共同情報目的庁(JIOA) で米陸軍の対諜報部隊が中心となりドイツ人科学者技術者等を1,600名確保し米国へ移送した。各員には米国の軍事技術開発で役割が与えられた。NASAで名を成したウェルナー・フォン・ブラウンは月ロケット、サターンVロケット開発の中心となったが、ペーパークリップで米国へ連れてこられたドイツ科学陣で最高位の人物だったが、その他にウォルター・ドーンバーガーおよびクラフト・エンリケがいた。


両名はベルエアクラフトで垂直発進式爆撃機とミサイルを合体させたコンセプトを最初に提案した。ドイツではシルバーフォーゲル(銀色の魚)と呼んでいた構想だ。現在の目から見ても理にかなっている構想だ。ロケットブースターに機体を乗せて地球周回軌道下ながら大気圏外高度へ移動させ、瞬間宇宙に入ってから大気圏に向け滑空し、主翼を使い「跳ね返り」ながら移動する。


X-20ダイナソアの想定図  (WikiMedia Commons)



今日では再利用可能宇宙機を準軌道高度へ送る構想は当たり前に聞こえる。だが、ドンバーガー=エンリケ提案は1952年のもので、ソ連が世界初の人工衛星を打ち上げる5年も前だった。ペーパークリップ作戦はドイツ科学を使い米軍事装備開発を一気に進める狙いがあったが、倫理上の問題は別として、狙いは実現したといってよい。


スプートニクの影

1957年10月1日、ソ連が世界初の人工衛星スプートニク1を打ち上げた。小型金属球形状で直径はわずか23インチ、無線アンテナ4本を後部につけ、ソ連のみならず世界各地に信号を送った。西側世界で「スプートニク危機」が発生した。


大戦後の米国は事実上の世界超大国として軍事・経済力で君臨していた。だがスプートニクの打ち上げ成功で米国の優越性に疑問が生まれた。ソ連は米国と核兵器で追いつき、水爆も1953年に実験成功した。今度は米国に追い付くのではなく、ソ連が最初からリードを取った格好となった。米国はドーンバーガー=エンリケ構想を採択し、三段階の事業としていた。ロケット爆撃機(RoBo)、長距離偵察機(ブラスベル)、極超音速兵器研究だ。スプートニク1直後に米国は各事業を整理し、三つを単一のウェポンシステム464Lに統合しダイナソアと呼んだ。



X-20ダイナソア打ち上げの想像図(NASA)


新規事業ダイナソアは三段階で実用化するねらいだった。ダイナソア1は研究用、ダイナソア2は偵察機能、ダイナソア3で爆撃機能を実現するとした。米国は迅速な作業をめざし、1963年までに滑空実験、翌年に動力滑空を行う予定だった。その時点でダイナソア2がマッハ18を実現する。ダイナソアから開発するミサイルが1968年までに実用化され、宇宙機は1974年に実用化となる目論見だった。



(U.S. Air Force image)


三段階の実現目標を達成すべく、ベルエアクラフトとボーイングが提案書を作成した。ベルが先行したがボーイングが契約を獲得し、X-20ダイナソアの開発作業を開始した。



ダイナソアの製造

(Boeing photo)


宇宙機の全体設計が1960年にまとまり、デルタ翼に小型ウィングレットがつき、尾翼は省略された。再突入時の強烈な温度に対応すべく、X-20には超合金の耐熱レネ41を採用し、その他モリブデン黒鉛やジルコンを機体下部の熱遮断に使った。


空軍の主任歴史専門員だったリチャード・ハリオン博士は「超高温に耐えるようニッケル超合金を採用した。主翼前縁にはさらに高性能合金を使い、アクティブ冷却効果を狙った」


その同じ年に宇宙爆撃機の宇宙飛行士が選抜された。その一人が当時30歳の海軍テストパイロット、ニール・アームストロングだった。


同年末までにX-20の制式名称がつき、ラスヴェガスで一般公開された。X-20の大気圏内投下実験にはB-52ストラトフォートレスが母機に選ばれ、ロケットブースターの初の稼働実験も成功した。事業は順調に予定より先行しているように映り、当時の技術でも実現可能性は十分あるように思われた。1960年代初頭の当時にはアメリカが宇宙爆撃機を飛ばす日が来るのは確実だった。


(U.S. Air Force photo)


X-20ダイナソアのモックアップは全長35.5フィート、翼幅20.4フィートで、着陸時には格納式三脚をつかった。大気圏外まではA-4あるいはA-9ロケットが必要だったが、ミッションでは大部分を滑空移動し、大気圏に接近して揚力を確保してから跳ね返り、水面を跳びはねながら移動する小石のように移動する構想だった。最終的に速力が落ちると同機は地球に帰還するのはスペースシャトルと同じだ。



X-20ダイナソアの終焉 

(U.S. Air Force)


X-20構想は奇想天外なものだったが、技術的に実現可能であり、初期テストからダイナソアは目論見通り機能思想だと判明した。しかし、事業はおどろくべきほどの高予算となり、新しく発足した国家航空宇宙局はジェミニ計画を進めると、政府指導層はソ連への対抗として宇宙機の実用化により関心を示し、国際的な地位の誇示には役立たない兵装への関心は低くなった。


「ブラック事業としてU-2のように進めていれば、確実に実現していたはずだ。障害となる技術要因はなかった」(ハリオン)



1963年12月10日にX-20事業は中止となった。米国は410百万ドル(2021年換算で35億ドル超)をつぎ込んだが、X-20が宇宙爆撃機になるのはまだ相当先のことだった。ハリオンの回想どおりでもX-20の完成は2.5年先で370百万ドルが必要なはずだった。宇宙爆撃機は文字通り世界規模の航続距離を実現するが、1957年に米空軍はB-52で世界一周飛行を実現しており、高価格のロケットは不要になった。


X-20事業が中止となり、米政府は残る予算を有人軌道上実験室事業に転用し、ジェミニ宇宙機を使い、有人軍事プレゼンスを地球軌道上に実現しようとした。


だが、X-20は歴史の波に完全に飲み込まれたわけではない。同事業の遺産はNASAのスペースシャトルに見られ、宇宙軍の極秘X-37BにはX-20に通じるものがある。X-37Bが宇宙爆撃機ではないことはほぼ確実だが、米国で最高性能の偵察機材になっている可能性はある。■

 

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X-20 Dyna-Soar: America's hypersonic space bomber

Alex Hollings | February 11, 2021