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2023年9月12日火曜日

22年目の9.11:「決して忘れない」から「決して学ばない」へ

 


9/11 Image: Creative Commons.

9/11 Image: Creative Commons.




米国指導層の無知と傲慢は、9.11に至るまでの数年間で、危険なほど誤った国家安全保障意識へと凝り固まっていた


日は2001年9月11日の同時多発テロから22年目にあたる。この日、アルカイダで活動する一握りのイスラム主義テロリストの凶悪な行動によって、約3000人が殺害された。

 その直後、米国は「世界対テロ戦争」(GWOT)というお粗末な戦争に突入することになる。アフガニスタンに侵攻し、アフリカの角や南アジアでイスラム主義者を追い詰め、最終的にはイラクに侵攻した。

すべては9月のある美しい日の数時間のために。

 長年の調査から今わかっていることは、9.11の背後にはもちろんもっと多くの物語があるということだ。

 たとえば、コーランを直訳主義的に解釈するサウジアラビア人、エジプト人、ヨルダン人、その他のアラブ人たちのほとんどは、高学歴で中流階級以上の人々である。


ビン・ラディンの大戦略

大きな戦略が働いていた。具体的には、オサマ・ビン・ラディンの戦略だ。世界中のあらゆる資金と資源にもかかわらず、アメリカの巨大な諜報機関と国防機関は見逃していた--ビン・ラディンがその意図を明らかにした後でさえも。

 アフガニスタンでソ連の敗北に貢献した直後、サウジアラビア生まれのビン・ラディンは、サウジアラビアの大富豪一家の後継者として、アルカイダ(「基地」)として知られるようになった聖戦主義運動に資金を提供し続けた。

 ビン・ラディンはアフガニスタンの麓で労働に励むかたわら、残された唯一の超大国であるアメリカに対する怒りを矛先に向けて陰謀を企てた。

 一方、アメリカ人は「歴史の終わり」を生きていた。ソビエトは打ち破られ、ベルリンの壁は崩壊し、冷戦は終わった。アメリカのグローバル資本主義の拡大と全面的な軍事支配に対する真の脅威は存在しなかった。

 ビン・ラディンには別の計画があった。彼は海外のアメリカの資産や同盟国を攻撃し始め、1993年には世界貿易センターを攻撃することに成功した。それでも、アメリカ人はアルカイダやビン・ラディンを真剣に受け止めなかった。(CIAでは、ビン・ラディンは単に "金融屋 "と誤って呼ばれていた)。


ビン・ラディンの固執

1996年に彼はABCニュースに、無防備で傲慢なアメリカ人に戦争を仕掛ける計画を語り、その理由を説明した。

 ジョージ・W・ブッシュ大統領(当時)や彼の仲間の新保守主義者たちが9.11テロの直後に主張したこととは反対に、ビン・ラディンがアメリカを攻撃したのは、この国の自由を憎んでいたからではなく、彼らの真の戦略的野心と、大中東におけるアメリカの外交政策に対する怒りからだった。


無視された指標と警告

9.11に先立つ10年間、アルカイダからは脅威を強調する複数の指標と警告(通常は残忍なテロ攻撃という形で)があった。しかし、象のように巨大な国家安全保障官僚機構は断固とした行動をとることはなかった。

 確かにCIAはアルカイダを世界規模で監視していた。実際、この有名な秘密諜報機関は、アルカイダの米国に対する最終的な陰謀について、彼らが公の場で認めている以上に理解していたかもしれない。FBIは、当初理解されていたよりもはるかに多くのアルカイダを追跡していた。

 国防総省の国防情報局(軍のCIAに相当)は、エイブル=デンジャーという組織を通じて、アルカイダの脅威を注意深く監視していた。

 クリントン政権でホワイトハウスのテロ対策担当官を務め、ブッシュ政権に引き継がれたリチャード・クラークは、脅威を認識し、耳を傾けるあらゆる政策立案者に警告を発しようとしていた米国政府高官の一人だった。

 だが本人の努力は無視され、9月11日の同時多発テロの直前には非難さえされた。

 2001年8月、CIAのアナリストたちはビン・ラディンの脅威を過小評価し、ブッシュ大統領に "ビン・ラディンは我々を攻撃することを決定した "と題する悪名高いメモを送った。

 そのメモは無視された。

 情報が決定的ではなかったという古い言い訳は、精査しても通用しない。このようなメモがあれば、ブッシュ政権は少なくとも、アメリカの空港やその他の潜在的なソフトターゲットに対して、海外でも国内でも何らかの防御策を取らざるを得なかったはずだ。しかし、同時多発テロのわずか数週間前にホワイトハウスに送られたこのメモの懸念に、ブッシュ政権が少しでも対処するための大きな行動は、事実上何も起こらなかった。

 同時多発テロの当日、ジョージ・テネットCIA長官(当時)はジョージタウンのカフェで同僚たちと朝食をとっていた。テロ事件のニュースが流れると、テネット長官はすぐに、テロを起こしたのはアルカイダだと同僚たちに伝えた。

 これほど多くの諜報関係者が気づいていたにもかかわらず、なぜこれほど優柔不断だったのか?ビル・クリントンとジョージ・W・ブッシュという2人大統領が、9.11以前のアメリカの対テロ戦略を、特に当時は他に目立った脅威がなかったのに、どうしてこれほど間違えてしまったのだろうか?

 インターネット上にどのような陰謀論が存在しようとも、アメリカの国家安全保障機構がアルカイダの脅威を少なくとも部分的には認識していたことに変わりはない。

 しかし、アルカイダがアメリカ本土を攻撃する前に、その脅威に対処するために必要な行動をとった者はいなかった。

 政治と官僚の惰性が、これに一役買ったのは確かである。


耳を傾けていれば

しかしそれ以上に、ビン・ラディンの脅しを信じようとしなかったこと、そしてアルカイダは中東のクー・クラックス・クランに相当するものであり、それゆえ万能の米国にとって真の脅威となるはずがないという傲慢な主張が、9.11を引き起こした。

 ビン・ラディンが攻撃する前に、その脅威を十分に理解し対応することができなかったために、アメリカは戦争の道を歩むことになり、自らの対応によって、ビン・ラディンが望んだ通りの戦略的損失をこの地域にもたらした。

 9.11がなければ、アメリカは2003年のイラク戦争のように、この地域を不安定化させることはなかっただろう。アメリカはその後、シリアやリビアなどでイスラム反体制派を支援し、自国の利益を損なった。

 GWOTの期間中、ワシントンの政策立案者たちは、アメリカがアフガニスタンやイラクで戦争していたイスラム主義グループを支持する一方、エジプトのような主要なイスラム諸国の親米独裁政権を転覆させようとした。ワシントンはその後、イランの乱暴なイスラム主義政権に力を与えようとしたが、これはかつて大中東で支配的だったアメリカの立場をさらに弱体化させるだけだった。

 もちろん、アメリカがアフガニスタンを完全に放棄したとき、事態は完全に崩壊した。アフガニスタンは、2001年に最初に戦争を仕掛けた勢力、タリバン、ひいては彼らの同盟国であるアルカイダの手に委ねられたのだ。


不本意な対応

基本的に、ビン・ラディンが米国との戦争に踏み切ったのは、米国がこの地域の「弱い馬」だと考えたからである。ビン・ラディンは、この地域の住民にアメリカが血を流させることができることを示すことで、より広範な地域革命を引き起こすことを望んでいた。それゆえ彼は、レーニンの前衛イデオロギー戦線であるボリシェヴィキによく似た振る舞いをする「ベース」というレーニン主義的なタイトルを自分の組織に選んだのである。

 ビン・ラディンが1980年代にアフガニスタンでソビエトに対して自分一人でやったと信じていたように、アメリカを血祭りに上げる過程で、ジハード主義者はアメリカが必然的にこの地域から追い出されることを予期していた。

 ビン・ラディンが予想したよりも時間がかかったかもしれず、アルカイダはもはやこの地域の主要なイスラム主義テロ組織ではなくなっており、ビン・ラディン自身も死亡しているが、この地域におけるアメリカの役割の縮小と相まって、汎イスラム復興という彼の夢は結実しつつある。

 そのイデオロギーは、アルカイダが技術的にどのような欠陥を持っていたとしても、アメリカの指導者たちの多くが可能だと信じていたものよりもはるかに大きなダメージをアメリカ人に与えることが証明された。


無知は罰だ

米国の指導者たちの無知と傲慢は、9.11に至るまでの数年間で、危険なほど誤った国家安全保障意識へと凝り固まった。

 そして、地平線の彼方に迫っている脅威を理解しようとしなかったことが、9.11テロと20年にわたる大中東戦争を引き起こした。  GWOTは、地政学的に極めて重要な地域における米国の戦略的敗北となった。

 1990年代から2000年代初頭にかけて、アルカイダの脅威に関連してアメリカに誤った安心感をもたらしたのとまったく同じ無知と傲慢が、今日のアメリカの国家安全保障体制に蔓延している。

さらに危険なことに、9.11の指標と警告を無視した同じ人物、あるいはその同盟者の多くが、今日アメリカの安全保障を担当している。

 9.11の後、私たちは「決して忘れない」と言った。

残念なことに、私たちは決して学ばないということが証明されつつある。■


9/11 at 22: From 'We Will Never Forget' to 'We’ll Never Learn' - 19FortyFive

Ignorance and arrogance on the part of U.S. leaders congealed in the years leading to 9/11 into a dangerously false sense of national security. 


By

Brandon Weichert


2016年9月12日月曜日

★★回想の9/11 体当たり攻撃をしてでも旅客機を食い止める覚悟だった米空軍搭乗員



9/11では当時から空軍戦闘機が迎撃に向かったとの話は流布していました。今回は当時のパイロットからの回想が紹介されていますが、セレブの話題など中心のメディアでこんな記事が出るところがアメリカの懐の深さでしょうね。

Inside a Hero Fighter Pilot's Decision to Give His Life in Kamikaze Mission on 9/11: 'We Were Going to Do the Unthinkable'


BY NICOLE WEISENSEE EGAN

UPDATED 09/11/2016 AT 09:00 AM EDT ORIGINALLY PUBLISHED 09/09/2016 AT 04:50 PM EDT


米空軍中佐マーク・サセヴィルが世界貿易センターに飛行機が衝突したとの一報を聞いた2001年9月11日、中佐も他の数百万名同様に単なる事故だと思っていた。


.だが二機目がタワーに衝突したと聞き、中佐は第121戦闘機飛行隊の隊員とアンドリュース空軍基地(メリーランド)で直ちに行動に移った。


三機目がペンタゴンに突っ込むと93便がワシントンDCへ向かっているとの一報が入った。


「93便の行き先は誰も知らなかった」と中佐は本誌に語ってくれた。「そのためわれわれはとりあえず滞空待機を命じられた」


「旅客機が本来の目的地以外の場所へ突っ込んでいることはわかった」「ホワイトハウス、議会議事堂などに激突すれば大惨事になる。ペンタゴンは軍事目標として受け入れられても、その他は想定外だ」


中佐と同僚パイロット、ヘザー・「ラッキー」・ペニーがそれぞれ自機F-16に向かった。


「たったひとつの問題は機体が武装していなかったことだ。通常は武器を搭載して飛ぶことはない」と現在は少将に昇進しペンタゴンに勤務するサセヴィルは語る。


両機の唯一の武器は機体そのもので、サセヴィルとペニーは神風ミッションに出撃したのだった。


「機に向かう途中、ラッキーと短く言葉をかわし、これからする仕事のこと、必要となったら普段は考えもしないことをどう実施するかを話した」


旅客機撃墜の訓練を受けておらず、両名は自分で案を立てる必要があった。


Inside a Hero Fighter Pilot's Decision to Give His Life in Kamikaze Mission on 9/11: 'We Were Going to Do the Unthinkable'| September 11th, Real People Stories

当時のサセヴィル少佐  COURTESY: MARC SASSEVILLE


「旅客機をどうしたら迅速に撃墜できるかを考えだす必要があった」「二機一緒に飛び、こちらが旅客機の一部に激突し、彼女が残りの部分に当たるつもりだった」


「コックピットを狙うからな」と中佐。「では尾部を狙います」と彼女が答えた。「『狙う』といったのは激突する意味だった。なんといっても両機は武装していなかった」


空に上がるとまず93便を探し始めた。ペンタゴン上空を飛ぶと炎上がる建物から人命を救おうとする懸命の様子が目に入った。「信じられないほど混乱した光景だった」という。


「煙はコックピットまで入ってきた。いまだから話すが吐き気を感じた。匂いんの問題ではなく、国土が攻撃されたことで動転したのだ」 「ここまでの攻撃をやってのけたことに驚いた」


中佐はラッキーとDCあたりを旋回飛行しつつ、再度93便をどう撃墜するかに集中した。


「操縦席周りと尾部に体当りしても同機はすぐ墜落しなかっただろう」「そのため狙うなら主翼で飛行能力を奪うことだと考え、機体の主力近くに狙いを定めることとした。激突したら可能なら射出脱出し、すべてそこまでうまく行けばの話だった」


「主翼を狙わないかぎり機体の飛行性能をダメにできない。主翼が狙いだった。問題は同機がどこを飛んでいるのかわからないことだった」


心のなかでは自分が命を失う可能性と何百名もの罪のない乗客が93便におり、自分が任務に成功すればこの人達が死ぬことを秤にかけていた。


「士官学校での哲学講座どおりで一人の命を犠牲にすれば数百名を救える、また壊滅的な国家聞きを回避できると考えていた」


Inside a Hero Fighter Pilot's Decision to Give His Life in Kamikaze Mission on 9/11: 'We Were Going to Do the Unthinkable'| September 11th, Real People Stories

マーク・サセヴィル少将 NATIONAL GUARD BUREAU


同じ「道義上の計算」を93便の乗客を対象にあてはめれば中佐が任務に成功すれば機体は地上に激突し全員が命を奪われるのだった。


「機内が満席でないよう祈っていたが、どちらにせよ墜落すれば地上でも余分な犠牲者が増えるだろう」「ペンタゴン以外の国家の象徴が標的になるのは考えたくないことだった。実現すれば21世紀の行方が全く変わってしまう」


中佐は後に知るのだが93便の乗客も全く同じ結論を出し、自分たちの力で同機をシャンクスヴィル(ペンシルバニア)に墜落させたのだった。


「信じられない話だ。乗客たちこそ真の英雄だ。自分たちで状況を理解し、正しく把握した上で何をすべきか決断したのだ。話を聞いて涙が出て仕方がなかった。今でも同じです」「まさしく同じ計算を心の中で行い、倫理上の重荷を自ら背負ったのだから」


「そのことと関連して当時も今も変わらない事実はこの国が攻撃を受けたことだ。怒りが湧く。しかも攻撃はまだ終わていない」「事実にどう向き合うべきか。まず戦いは長い長いものとなっており今も続いている」


サセヴィルはペンタゴン勤務の今でも9/11の記憶は消せないという。「駐車場で毎日攻撃箇所が目に入りますから、どうしても記憶が鮮明に蘇ります。犠牲になった人たち、悲しみにくれる家族、建物内で無事だった人たちも多数います」「テロ攻撃でPTSDに苦しむ人も多い。ニューヨーク・シティでも同じでしょう」


現在のわれわれは15年前より「遥かに準備が整っており」同じ状況は再発しない。


「警戒に当たる機体は24時間7日間連続で待機し、武装もしていますので、本日同じことが起こっても対応は全く違う」


15周年記念日が今年は日曜日で、ササヴィル少将の予定は単純だという。「祈りを捧げてから犠牲者のために乾杯します」



9/11から15年。アメリカ的思考はその教訓をこうまとめる



うーん、どうなんでしょう。いかにもアメリカ的というか。これが3.11の15周年エッセイならこんなトーンの回想録が日本人に書けるでしょうか。思考の方向性が全く違う気がします。日本メディアが日本人の思考でまとめた記事とも全く違っているでしょう。ご参考までに。

The National Interest

9/11 Anniversary: 10 Lessons Learned From the 15-Year ‘Long War’

September 8, 2016


9/11当日に筆者は軍務にいたが、この15年で生活も国の動きも大きく変わってたとはとても思えない。
渦中にいたものには時間は早く流れた感が強いがその他国民にとっては過去の歴史の一部だろう。現在ヘリテージ財団でインターンをする若者は4歳5歳だった。この長期戦で得られた教訓は何なのか。
1.  どの国も脆弱、民主体制も同様。アメリカの自由と開放さが攻撃を招いた。9/11のテロリストはアメリカを世界に紹介する制度を利用して入国している。これまでは2つの大洋が直接攻撃を防いできた。すべてのグローバル化がその仮定を変えてしまった。アメリカも他の国同様に外部から攻撃されることを示した。
2. アメリカの回復力は高い。9/11攻撃が他国で起こっていれば衝撃の脅威で服従させられただろう。だがアメリカは違う。たしかに動揺し、混乱させられたが直後数時間のことで、国家指導層は対応が早かった。米経済は崩壊せず、政府機構は機能不全にならず、世界各地からの軍撤退を求める声は殆ど出ずか細いものだった。困難にめげず頑張る姿勢がアメリカにあり、大混乱のあとも仕組みが機能しつづけていた。
3. 国家勢力相手の戦いより対テロリズム戦は長期戦になる。アメリカでは外交政策は期限付きで考えることが多い。特に軍事作戦が絡むとこの傾向が強い。第二次大戦は数年間でお終わり、ヴィエトナムは長かったが最終では終結した。テロとの戦いではまだ終結の兆しが見えない。オバマ大統領も「永久に戦い続けるわけに行かない」と述べたほどだが、残念ながら大統領は「敵も得点する」きまりを忘れているようだ。急進イスラム教徒のテロ集団はまだ野望を捨てておらず、こちらも見逃すわけに行かない。戦いは今後も続く。
4.  保安体制と市民の自由の双方を最大限実現する必要がアメリカにある。9/11直後は保安体制強化に傾いたのは追加攻撃の恐れがあり当然と言える。その後、方向は逆に向かった。今日でも議論は続いている。これはリベラル派対保守派の重箱の隅をつつくような論争ではない。アメリカを世界唯一の存在にしている精神、心の問題だ。確かに米国のような民主制度は権利を守り、開放佐を維持しているゆえに脆弱さがある。米指導層の課題は市民の生命財産を守りつつ自由を犠牲にしないことだ。これは簡単ではないし、疑問もう無だろうが、指導層に求められたもっとも重要なバランス作業だ。その意味で今も続く議論は継続すべきだ、どちらの方向に向かうにせよ。
5. アメリカ国民一人ひとりが原則を確認すべきだ。政治家の多くが重要課題を風向きが変わったかのごとく話す。政府高官の座についても安全保障対市民の自由問題ではコロコロと方向を変える。それぞれ「反対する前は賛成だった。反対の前は賛成だった」と表現される現象を示し、国民は重要課題を政治家だけには任せられないと感じている。アメリカ国民全員が関与する必要があり、したがって基本原則に親しんでおく必要がある。これは「プロ集団だけにまかせておけばいい」課題ではなく、全アメリカ人の課題だ。
6. 敵をみつけなくても良い時がある、筆者自身のことで恐縮だが、陸軍特殊部隊の幹部として世界中を駆け回り、9月11日にはバージニア州北部で私服のまま戦闘に入った。それ以前もアルカイダが宣戦布告していたが、その日初めて現実に直面したのだ。誰だってこれは望むことではなかったが、アメリカは対応を迫られたのだ。
7. 世界「最悪」かつ最良の軍が非対称の敵との戦い今も手こずっている 米軍は世界各所で叩く準備を整えておく必要があり、敵となる相手は多様だ。アメリカの権益はグローバルに分布し、敵も同様だ。kのためアルカイダのような想定外の課題に迅速かつ最適な対応が必要であり、今はこれがイスラム国になっているわけだ。さらにアメリカは規則に則って戦う。だが相手となる非対称勢力はこれをしない。だからこちらが変わる必要があるというのではないが、イデオロギーで動く敵は撲滅が困難だ。
8. アメリカ指導層には指導力が必要だ。傍観は望ましい選択肢ではない。指導力を発揮するとはまとめればこんなところだろう。米国民にこの先起こることへ準備させることであり、実態をぼやかしたり、正面から説明することを避けてはならない。事実を語る。事実を隠したり、論点を見えなく仕様としても失敗する。さらに信頼を失う。厳しい決断をすべきだ。指導層は選挙の洗礼を経て指導する立場になるのであり、票で生きているのではない。アメリカにとって正しいこと最善なことで生きるのだ。最後に憲法が与えた仕組みを活用することだ。ねじまげたり、闘争手段にしてはならぬ。アメリカの制度は単純ではないが、世界の統治機構としては最善の存在だ。政争に明け暮れず仕事をしてもらいたい。
9. アメリカ若年層は今でも最高。いつの世も若い世代は年長から不信の目を向けられるものだ。たしかに2000年世代はひとりひとりの関与の仕方が弱い。だがすばらしい個人も存在する。米軍に志願する若者は偉大な世代に属する。政府に加わり、各地で自らを犠牲にしてまで働く若者の数はアメリカを前進させる頼もしい力だ。
10. 最後にアメリカは完璧ではないが、国民は世界とともにアメリカが特別の存在であると承知し、役目を果たすことを期待している。マイク・ヘイデン将軍がアメリカがこの七年半にわたり指導性を発揮しなかったのは古典的映画になった「素晴らしきかな人生」のようだと表現した。絶望した主人公は本人がもし生きていなかったら全然異なっていた世界を見るのだ。ヒント、これはまずいことだ。アメリカは最良ではないが、この国は建国の父祖が独立宣言や憲法に盛り込んだ原則から生まれる役割を演じてきた。アメリカは独特の存在であり、指導性を示せねばならない。
.ここまで長く辛い15年だった。アメリカ人が誰も望まなかった犠牲と苦闘の時だった。そこからの教訓に耳を傾ければ、アメリカの時代はまだ終わったわけではないのがわかる。
This first appeared in The Daily Signal here.