ラベル #朝鮮戦争 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル #朝鮮戦争 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2025年12月1日月曜日

今日、朝鮮戦争が再発したらどうなるか?(National Security Journal)

最悪の事態に備えておくことが危機管理の要であり、こうした事態が現実のものにならないようにするため抑止力が必要です。


アンドルー・レイサム

2025年10月7日

要点と要約

 – ツキディデスは休戦を悲劇が再開するまでの短い間奏と表現した。1953年の朝鮮休戦は史上最も長い間奏となるのか、それとも大惨事の前奏曲となるのか?北朝鮮が取る可能性のある行動は以下の通りだ。

 – 戦慄の幕開け:北朝鮮のミサイルとドローンの集中攻撃が空軍基地、港湾、電力網、兵站を麻痺させる。持続性化学剤が反撃を封じ込め、その後「警告」としての核爆発が戦術核攻撃へとエスカレートする。

 – 日本が攻撃を受け米国の軍事力投射が阻害される。オーストラリアは後方拠点だが標的となる。中国とロシアは全面戦争を回避しつつ結果を左右すべく周辺部から圧力をかける。宇宙とサイバー空間が争奪戦の舞台となり、海底ケーブルは切断され、港湾・橋梁・燃料拠点は再攻撃を受ける。

 – 死傷者は数百万人に達し、世界経済は停滞する。戦争は勝利ではなく消耗で終結し、再び停戦が宣言される。著者レイサムの警告は、終幕を迎える前に強固な抑止力、緊密な同盟関係、確実な撤退経路の構築を促すものだ。

朝鮮戦争の再燃は恐ろしい事態となる

トゥキディデスが記したニキアスの和平(紀元前421年)は、アテネとスパルタの戦争における一時休戦に過ぎず、名誉・恐怖・利害の力がその短命を確実に保証するものとされた。この論理によれば、戦火の再燃は偶然ではなく確実といってよい結末だった。

一見すると、1953年の朝鮮休戦協定はこの説を覆しているように見える。50年続くとされたニキアスの休戦は約6年で終焉を迎えたが、政治的解決に代わる一時的な停戦と常に理解されてきた朝鮮休戦は、今や70年以上も続いている。これがこれまでのスコアカードだ。しかし疑問は残る。休戦協定に関するトゥキディデスの見解が正しければ、朝鮮休戦は最終幕前の長すぎる幕間劇に過ぎないのではないか。もしそうなら、彼すら予想しなかった悲劇が待ち受けている。

北朝鮮と韓国の不安定な休戦

想像してほしい。冒頭の場面は1950年の再現だ——奇襲攻撃である。北朝鮮のミサイルドローンが厳密に連鎖した波状攻撃で撃ち込まれ、韓国軍は対応する間もなく圧倒される。短距離弾道ミサイルと巡航ミサイルに続き、片道ドローンが航空基地、港湾、燃料貯蔵施設、ミサイル防衛レーダー、兵站基地を攻撃する。滑走路はクレーター状に陥没し、防護シェルターの扉や燃料パイプラインは破裂する。レーダーは点滅し、復旧するも、次々と襲来する攻撃で再び点滅を繰り返す。砲兵はインターチェンジや橋梁アプローチを破壊し幹線道路を封鎖する。サイバー作戦は電力網制御を汚染する:配電ソフトが電力を誤送し、遮断器が開放状態に固着し、操作員は手動切替に逆戻りする。鉄道信号の同期が崩れ貨物輸送は麻痺し、港湾はクレーンの遠隔計測機能を喪失し、空港アプローチはGPS偽装で不安定化する。北朝鮮の攻撃による目的は機能麻痺だ。

攻勢が停滞し連合軍の反撃が激化するが、平壌はエスカレートする。持続性化学剤が反撃部隊の進軍の遅延に用いられる。砲身砲やロケット砲で発射され、可能な場合は事前調査済みの漂流経路に沿って無人機で散布されるマスタード系皮膚刺激剤や持続性神経剤が、河川渡河地点、山岳狭隘部、鉄道分岐点、主要飛行場・兵站基地への進入路に散布される。

目的は作戦遅延だ:部隊を汚染経路に誘導し、完全防護装備を強制させ、出撃率を低下させ、損傷した滑走路・橋梁・燃料貯蔵施設から修理班を拘束する。天候と地形が残りを行う:微風は切り通しや地下道に蒸気を閉じ込め、寒冷な夜は道路や装備上の汚染を保持する。迅速な検知と除染があっても、累積効果は時間としてあらわれる——数時間が数日に延びる——これにより体制は発射装置の再構築、砲兵の再配置、指揮所の強化を行う余地を得つつ、無差別破壊の閾値を下回るエスカレーションを維持できる。

平壌は攻勢を続ける

平壌の攻勢が失速するにつれ、体制存続への不安が高まる。長年準備されてきた戦術核オプションがその不安を和らげるために用いられる:まず海上での低威力爆発による警告射撃だ。作戦が継続されれば、軍事編成上空での空中爆発、そして主要港湾への地上爆発だ。

これはハルマゲドンではないが、大量死をもたらす。公表された被害範囲の上限値では、最初の1ヶ月で死者30万~60万人と最大100万~200万人の負傷者・病人が発生し、攻撃が継続すれば1年で死傷者は合計200万~400万人に達する。

戦術的・作戦的敗北に直面した平壌は、戦争の戦略的規模を拡大する選択をする。米国の軍事力投射の要である日本を攻撃し、米軍の増強を遅らせるとともに、日本政府に戦争への不介入を迫る。

弾道ミサイルと巡航ミサイルが嘉手納横須賀佐世保の米軍基地に向け発射され、日本全国の工業地帯ではサイバー攻撃による広範囲な停電が発生する。日本の死者は数万人に達し、保険会社が撤退し要所が麻痺したため、港湾の取扱量は半減する。

オーストラリアは地理的・戦略的位置から紛争に巻き込まれる。米空母と重爆撃機が最も密集した脅威圏から後退する中、北オーストラリアの飛行場と燃料拠点が、攻撃・情報収集・監視・偵察のための強靭な後方支援拠点となる。

大陸からの海上監視が列島間の隙間を埋める。工場や備蓄庫から弾薬や予備部品が前線へ流れ込む。こうした役割がオーストラリアを標的にする――可能なら長距離からの嫌がらせ、ミサイルが届かない場合はサイバー攻撃や破壊工作だ。損失は韓国や日本ほど大きくないものの、数か月で大きな規模に達し、防衛物資の供給網、鉱物輸出、オーストラリアとアジア・米国を結ぶケーブルハブへの妨害も伴う。

大国の存在

大国の動きが締め付けを強める。国境付近でのエスカレーションリスクを管理し、交渉の可能性を形作るため、中国は安定化パトロールを実施し、国境検問を強化し、近隣海域・空域で存在感を急増させ、北朝鮮の交渉力を維持しつつ、同盟国の攻撃プロファイルを複雑化する位置に人民解放軍を配置し停戦案を提示する——影響力を行使できるほど近く、しかし先制攻撃を躊躇させる距離だ。ロシアはグレールートを通じ弾薬と技術支援を供給し、外交的カバーと引き換えに影響力を獲得し、標的選定の教訓を収集する。

両者とも米国との全面戦争を望まず、米国の戦力を消耗させる危機を利用している。摩擦は増幅する:混雑した回廊での危険な迎撃、ISR機へのレーザー眩惑、民間電力網へのサイバー作戦。各事象は、緊張緩和と第二戦線化のコイン投げとなる。

インフラが戦場となる。漢江と洛東江の橋梁は修復開始と同時に再び攻撃を受ける。鉄道網の要衝は日常的に爆破され、港湾クレーンは岸壁で歪み、乾ドックは炎上する。LNGターミナルや燃料貯蔵施設は繰り返し警告されるも爆発や停止を繰り返し、海水淡水化プラントや廃水処理施設は日光と清浄な空気ではなく、暗闇と煙の中で稼働する。海底ケーブルは「偶発的に」切断され、護衛下での修復には数週間を要する。

軌道上では、中国ロシアの対衛星攻撃及び同軌道妨害活動により、気象観測・通信・情報収集・監視・偵察(ISR)機能を低下させる宇宙デブリが発生する。精密誘導兵器の目標捕捉や軍事通信を妨害するだけでなく、民間生活に壊滅的な影響を及ぼす。

死傷者数は拡大し、戦争の規模を明らかにする。半島での200万から400万の死傷者に加え、日本は数万の死者、数十万の負傷者や避難民を出した。米国の損失は、前線基地や海上目標への攻撃で数千の軍人と民間人数百名が犠牲となり、グアムと沖縄が最も大きな打撃を受けた。オーストラリアは散発的な攻撃、サイバー起因の事故、絶え間ない作戦展開により数百から数千の死傷者を出した。中国とロシアは事故、国境紛争、ISR衝突による損失を計上——比較的小規模だが政治的代償は大きい。

北朝鮮攻撃による広範な破壊

経済的破壊は人的被害をさらに深刻化させる。半導体、電池、特殊化学品の供給が途絶し、造船スケジュールは崩壊する。航空機整備は迅速に補充できない予備部品を消費し尽くし、エネルギーと保険のショックがインフレを加速させる。輸送ルートの変更と検疫による遅延が重なり、輸入依存国では飢饉リスクが高まる。

半島での復旧作業——土壌と地下水の除染、港湾の修復、橋梁と鉄道の架け替え——には数兆ドルの費用と数十年の歳月を要する。

戦争は勝利ではなく恐怖と消耗の中で終わる。終戦時の地政学的地図は、平壌攻撃前とほとんど変わらない。

皮肉にも、しかし確実に悲劇的に、戦争は全面核戦争へのエスカレーション前に合意された停戦で終結する。だがその前に、第二次世界大戦以来の未曾有の破壊が解き放たれるのだ。

トゥキディデスの世界では、悲劇は市民を戒める手段として機能した。選択から結果へと連鎖する現実を直視させる警告の物語として。ここで描かれた惨事が同様の役割を果たすなら――政策決定者と国民が抑止力を強化し、同盟関係を規律正しく維持し、緊張緩和の道を閉ざさないよう促すなら――その教訓は果たされたことになる。

その場合、トゥキディデスの見解は正しいと証明されるかもしれない。つまり、朝鮮半島での「ニキアスの和平」は、休憩というより決定的な幕引きとなるかもしれない。■

著者について:アンドルー・レイサム博士

アンドルー・レイサムは、平和外交研究所のシニア・ワシントン・フェロー、ディフェンス・プライオリティの非居住フェロー、ミネソタ州セントポールのマカレスター大学国際関係・政治理論教授である。X: @aakatham で彼をフォローできる。彼はナショナル・セキュリティ・ジャーナルに毎日コラムを執筆している。


North Korea Talk

What If the Korean War Restarted in 2025?

By

Andrew Latham

Published

October 7, 2025

https://nationalsecurityjournal.org/what-if-the-korean-war-restarted-in-2025/



2023年1月16日月曜日

朝鮮戦争での航空戦の教訓は今日に特に有効だ。(現状は朝鮮戦争開始前の準備不足の状態に極めて近い)

 

温故知新。現在の米空軍の状況は朝鮮戦争開戦前の状況と似ているとの指摘で、ミッチェル研究所幹部が今、中国との大規模航空戦が戦えるのか検討しています。Air and Space Forces Magazineに転載された論文のご紹介です。

朝鮮戦争でこのC-47のような損傷機は、部品取りに使われた。部品や整備、航空機の不足を理由にした出撃制限は、朝鮮戦争で起こったように、大きなリスクをもたらす。今日戦争が始まれば、人員や機体の不足を補う時間はない USAF




第二次世界大戦後の軍縮で、米空軍は準備が不十分だった。今日との類似点には啓発されるものがある


朝鮮軍は1950年6月25日(日)午前4時に38度線を越え韓国に侵入し、世界の安全保障環境を根本的に変えた戦争が始まった。韓国とアメリカの陸上部隊は不意を突かれたが、航空戦力がパニック状態の後退を効果的な反撃に転換させた。航空戦力は、戦略、作戦、戦術の各レベルで主要手段となり、地上軍だけでは実現できない航空優勢、空対地攻撃、近接航空支援、偵察、指揮統制で機動力を発揮した。最終的には、航空戦力で国連軍は敵対行為を終了させることができた。

 しかし、航空部隊は作戦用機材の不足など、厳しい課題の克服を迫られた。前線投入された航空機の多数は第二次世界大戦時の機材で、メンテナンス問題で稼働できないことが多かった。さらに、朝鮮半島に適切な飛行場がなく、日本からの飛行が必要となり、航続距離が極限まで伸びた。また、ロシアとの戦争になることを懸念し、主要な敵戦力を標的にできないため、司令部の決定は複雑になった。一方、地上部隊の指揮官は、航空戦力をどう活用するのが最善かについて、航空指導者と衝突した。

 空軍は、老朽機の在庫、十分な空軍基地の利用可能性、訓練能力の不足、航空戦力の最適な活用方法に関する共同司令部との意見の相違など、一連の課題に対処しようとしており、これらの経験は今日でも関連性がある。


Download the entire report at http://MitchellAerospacePower.org.

No Bucks, No Air Power

North Korea’s invasion of the South was a surprise to the United States and its allies, who were not ready to fight so soon after World War II. Massive disarmament efforts had slashed the U.S. Air Force active aircraft inventory 82 percent from its peak in WWII to 1950. A mere 2,500 jets of all types populated Air Force ramps, and the rest were predominantly WWII leftovers of dubious technological relevance. Air Force manpower and budgets had been slashed, squeezing training pipelines, spare parts inventories, maintenance depots, and logistics lines. Everything was in short supply. 

The Cold War was now well underway. Air operations over Korea ranked behind Cold War activities as national concerns, and leaders prioritized maintaining sufficient reserves in Europe to deter and, if necessary, fight a war against Soviet forces. The same held true for defending the continental United States. The Air Force was now too small to concurrently meet the nation’s requirements. 

The motley collection of aircraft in theater at the start of the war included 657 airplanes: F-80 jet fighters, F-82 Twin Mustang propeller-driven interceptors, B-29 and B-26 bombers, plus C-54 and C-47 WWII-era transports. USAF’s Far East Air Force (FEAF), the command responsible for air operations over Korea, asked for more aircraft, but too often spares did not exist or were not readily accessible. Airmen were left to improvise with was available. To meet the demand for more F-80s, early models lacking key combat capabilities had to be rapidly upgraded and deployed. 

In March 1951, FEAF commander Gen. George E. Stratemeyer wrote to Gen. Hoyt  S. Vandenberg that he was losing F-80s so quickly that new types, like the F-84, had to be rushed to Korea to sustain operations. One month later, FEAF lost 25 P-51s, 13 F-80s, and 2 F-84s to ground fire. Strategic Air Command, worried that F-84 crews were losing bomber escort proficiency for the nuclear deterrence mission, withdrew their F-84s later that year, further squeezing the force. Backfill fighter aircraft were receiving just a 10 percent attrition reserve, rather than the 50 percent required for a combat unit. 

Shortages affected everyone. In August and September of 1951, B-26 squadrons lost 11 aircraft, but the Air Force had no combat-ready replacements available, and no production line to produce new planes. Desperate to offer combat units a solution, Air Force leaders deployed B-26s without required operational capabilities. 

A pilot shortage contributed to the troubles. The A-26 training pipeline produced only 45 crews per month, too few to overcome FEAF attrition that demanded 58 to 63 crews a month. FEAF air commanders had to limit A-26 sortie rates, matching not what combat requirements demanded, but what crew and aircraft backfills could sustain. 

Parts shortages further degraded sortie rates. Production lines had long since closed for WWII-era aircraft, so there was no ready source of component parts. By January 1952, the F-86 mission capability rate was just 45 percent. Spare parts supplies were programmed at peacetime, not wartime rates, forcing planners to ration flight hours to what they could sustain. 

Rapid technological development ratcheted up the pressure. Air Force pilots challenging communist opponents over MiG Alley along the North Korea-Manchurian border began the war flying propeller-driven and early jet aircraft. But on Nov. 1, 1950, Chinese pilots flying Soviet MiG-15s squared off against U.S. aircraft over the Yalu River. “Almost overnight, communist China has become one of the major air powers of the world,” Vandenberg declared.   Air Force leaders had no choice but to deploy their newest fighter, the F-86 Sabre. 

The first F-86 engagement against MiG-15s followed just weeks later, on Dec. 17, 1950, and for the rest of the war, the U.S. Air Force would struggle to keep enough F-86s in the Korean theater to control the skies. F-86s were often outnumbered by MiG-15s three or four to one, even by accelerating F-86 production with added manufacturing capacity in Canada. 

予算なければ、航空戦力もない

 北朝鮮の南侵は、米国と同盟国を驚かせたが、第二次世界大戦後すぐ戦える状態ではなかった。大軍縮で、アメリカ空軍の航空機保有数は第二次世界大戦のピーク時から1950年までに82%削減された。ジェット機は2,500機しかなく、残りは効果が疑わしい第二次世界大戦の残り物だった。人員と予算は削減され、訓練のパイプライン、予備部品の在庫、整備工場、物流ラインは圧迫された。すべて不足していた。

 冷戦はすでに始まっていた。朝鮮半島の航空作戦は、国家的な関心事として冷戦の下に位置づけられ、指導者たちはソ連軍を抑止し、必要であれば戦争を遂行するためヨーロッパに十分な予備兵力を維持する方を優先させた。米国本土防衛についても同様だった。空軍は、国家の要求を同時に満たすには、小さくなりすぎていた。

 開戦時、戦場にあった航空機は657機だった。F-80ジェット戦闘機、F-82ツインマスタングプロペラ迎撃機、B-29とB-26爆撃機、そしてC-54とC-47第二次世界大戦時代の輸送機である。朝鮮半島での航空作戦を担当する米空軍の極東空軍(FEAF)は、航空機増産を要求したが、スペアが存在しない、あるいは容易に入手できないことがあまりに多かった。予備機がなく、入手しにくいことが多く、航空隊員は手持ち機材で即席対応を迫られた。F-80の増産要求には、戦闘能力を欠いた初期モデルを迅速にアップグレードし、配備する必要があった。

 1951年3月、FEAF司令官ジョージ・E・ストラテマイヤーは、ホイト・S・バンデンバーグ将軍に、F-80があまりにも早く失われたため、F-84含む新型機を韓国へ急行させ、作戦を維持しなければならない、と書き送った。1ヶ月後、FEAFはP-51を25機、F-80を13機、F-84を2機、地上戦で失った。戦略空軍は、F-84搭乗員が核抑止任務の爆撃機の護衛能力を失っていることを懸念し、同年末にF-84を撤退させ、戦力をさらに縮小させた。後方支援戦闘機には、戦闘部隊に必要な50%ではなく、10%の消耗予備費が与えられるだけであった。

 不足はすべてに影響した。1951年8月と9月、B-26飛行隊は11機失ったが、空軍には投入可能な代替機がなく、新しい飛行機を生産するための生産ラインもなかった。空軍指導層は、戦闘部隊に解決策を提供することに必死になり、必要な運用能力がないB-26を配備してしまった。

 パイロット不足も問題を大きくした。A-26訓練課程は月に45人しか排出できず、月に58から63人を必要とするFEAFの消耗を克服するには少なすぎた。FEAFはA-26の出撃率を制限しなければならず、戦闘要求より、乗員と機材補充に合わせなければならなかった。

 部品不足がさらに出撃率を低下させた。第二次世界大戦時の航空機の生産ラインは長く閉鎖されていたため、構成部品をすぐ調達できなかった。1952年1月までに、F-86の作戦遂行率はわずか45%であった。予備部品の供給は戦時中のレートではなく、平時レートで計画されていたため、計画者は飛行時間を維持可能な範囲に割り当てることを余儀なくされた。

 さらに、急速な技術開発がプレッシャーとなった。北朝鮮と満州の国境に沿ったミグ・アレイで共産主義の敵に挑む空軍パイロットは、プロペラ機と初期型ジェット機で戦争を始めた。しかし、1950年11月1日、ソ連のMiG-15に乗る中国パイロットが鴨緑江上空で米軍機と対決した。「一夜にして、共産中国は世界の主要な航空大国の1つになった」とバンデンバーグは宣言した。 空軍のは、最新鋭の戦闘機F-86セイバーを配備するほかなかった。

 F-86がMiG-15と初めて交戦したのは、数週間後の1950年12月17日である。その後、アメリカ空軍は韓国戦線で空を支配するためF-86を十分な規模で維持するのに苦労することになる。F-86は、カナダでの製造能力を加え生産を加速しても、3、4対1でMiG-15に劣勢に立たされた。

 第二次世界大戦後、飛行予算が削減され、新しいパイロットは必要な飛行訓練を受けられなくなった。戦闘能力は低下した。航空機が不足していたため、非戦闘的な任務はほぼ不可能になった。

 航空戦のシステム全体が大きくバランスを崩し、航空兵は命をかけて犠牲になった。しかし、航空優勢を失えば、戦争の全側面に深刻なリスクが生まれる。国連軍地上部隊は無差別空爆を受けることになる。敵の兵站線に対する攻撃任務が維持できなくなる。沖合で活動する海軍部隊は、さらに沖合への退却を余儀なくされる。勝つために飛んで戦うのではなく、生き延びるために航空兵力を管理すれば、危険なリスクを伴う。もしこれらの作戦が同程度の戦力を有する勢力の脅威に対するものであったなら、破滅的な結果になっていたかもしれない。



基地なくして航空戦力なし

 共産主義軍が南部に侵攻開始したとき、地域には10箇所の主要飛行場があったが、ほとんどは修理不十分な第二次世界大戦の遺物だった。水原と金浦の2カ所だけが、コンクリート滑走路だった。他は砂利、土、芝生の飛行場で、ジェット機は対応できない。戦闘技術者も不足していた。FEAFは、士官定員4,315人のうち、半分強の2,322人しか充足できなかった。時代遅れの装備が仕事を難しくしていた。部隊をフル稼働させるのに1年以上かかり、人材の育成にも時間がかかった。

 第二次世界大戦中の原始的な滑走路を穴を開けた鉄板で覆ったのは、改善だった。しかし、F-51、B-26、C-47などピストンエンジン機の基本運用は可能である。1951年春、大邱の桟橋滑走路はノンストップの離着陸でボロボロになり、全面改修のため閉鎖せざるを得なくなった。

 補給線と整備も大変だった。金浦飛行場の第51戦闘機群は、毎日6万ガロンの燃料を消費していた。ハンガーがないため、整備兵は多くの機材を木箱に保管していた。第49戦闘航空団は大邱で活動していたが、F-80を大がかりなオーバーホールのために日本へ送っていた。

 多くの戦闘機が日本から700マイルを飛行していたため、有効な任務遂行時間は事実上、数分に短縮された。日本から韓国への移動だけでF-80の飛行運用の85%を占め、戦闘に使える時間は15分しかなかった。日本から発進したF-84が前線で近接航空支援を行えるのは30分であった。しかし、韓国基地から発進したF-86は、北朝鮮と満州国境に沿うミグ・アレイ上空を25分間飛行するのが限界だった。ミグパイロットはこの制限を知っており、それを利用した。

 北朝鮮戦闘機も米軍基地を攻撃できる範囲にいた。開戦日、C-54が北朝鮮の戦闘機の空爆で破壊され、1950年秋には前線航空基地でP-51が11機破壊された。空襲は戦争が終わるまで続いた。


朝鮮戦争時、韓国の水原基地で戦闘準備をするノースアメリカンF-86セイバー戦闘機。穴のあいたスチールマットに注目。スチールマットのおかげで、一部の航空機は韓国基地の劣化し朽ち果てた滑走路をうまく使えた。 USAF



航空戦中心のリーダーシップ 

 朝鮮戦争では、空軍と地上指揮官の間で、航空兵力をどのように活用するのが最善かで、見解が分かれた。地上軍司令官は、最前線の敵軍に航空兵力を集中させることを好んだ。一方、航空指導者は、戦略・戦術目標に焦点を当て、攻撃対象の敵領土を拡大しながら北方にまで関与しようとした。

 各軍の見解は、部隊司令官に表現された。極東航空部隊、極東海軍部隊(NAVFE)、極東陸軍部隊(AFFE)の各司令官が、各軍の意見を代表していた。しかし、総司令官ダグラス・マッカーサー元帥は、陸軍司令官、国連軍司令官、極東軍司令官(CINCFE)を加えた3つの肩書きを持つという前例を作った。空軍と海軍の指導者は従属的な地位に置かれることになった。マッカーサーは陸軍士官を中心に幕僚を構成した。朝鮮戦争に関する空軍の公式見解は、総司令部(GHQ)を「本質的に陸軍幕僚」と評しているほどである。「航空、海軍、陸軍士官の共同代表を欠いていたため、GHQスタッフは朝鮮における航空戦力の最も効率的かつ適時な運用を達成できなかった」と公式歴史に書かれている。

 陸軍は、戦争の初期段階から大きな影響力を発揮して航空戦力運用を指揮した。航空隊員は、より有利な北方の目標がほとんど守られていないときでさえ、最前線に任務を集中するよう命じられた。開戦から数週間は、敵の兵站線、補給基地、航空基地、その他の重心が米軍の航空攻撃によって脅かされることはなかった。航空隊が38度線以北の目標を攻撃する権限を得たのは、敵対行為が始まって丸1カ月後のことであった。

 空軍、海軍、海兵隊の航空機が同じ領土を飛行し、戦っていたため、正式な調整もなく、当初は自軍中心の指揮であった。実際、朝鮮半島沖を航行する航空母艦が無線封印を主張したため、開戦当初の数週間にわたり、空軍は海軍指導者と話すことさえできなかった。航空戦力の要請を管理するため、CINCFEスタッフは「ターゲットグループ」を組織したが、航空戦力の戦略・戦術のバックグラウンドを持たない陸軍スタッフがほとんどの席を占め、海軍と空軍の各代表を封殺するのが常であった。

 しかし、1952 年にマーク・クラーク大将が国連軍司令部兼 CINCFE に就任して、最初に行ったのは、本部幕僚における各軍代表のバランス調整だった。「陸軍プロジェクトではなく、3軍の共同作戦であるべきだ」と彼は言った。 また、陸軍から共同作戦原則を攻撃されると、共同作戦による解決策を提唱した。陸軍の指導者の中には、クラークのアプローチの背後にあるメリットを理解する者もいた。ウォルトン・ウォーカー将軍は、「海兵隊航空部隊による支援は、よく耳にし、読まれている。しかし、それを主張する人たちが座って、近接航空支援だけに航空部隊を供給するコストを計算したら、我々が持つべき規模の軍隊にその比率で供給したら、彼らは驚くだろう」。 

 このような教訓は第二次世界大戦中に既に得られていたのだが、朝鮮半島で再浮上したのである。


主要な戦闘能力を欠いた初期型F-80は、米空軍の戦闘機ニーズに合わせて急速に改良され、配備された National Museum of the U.S. Air Force


朝鮮戦争の教訓を今日に生かす

 70年後の今日、朝鮮戦争の経験は、太平洋における中国の脅威の文脈で、意味がある。当時も今も、空軍は深刻な資源難に直面している。

 冷戦後、空軍予算は大幅削減された。1989年度から2001年度にかけて、調達費は52%減少し、他軍より20%近く多かった。9.11以降、空軍予算は、統合司令部の航空戦力への要求に追いつけなくなった。アフガニスタンやイラクで急増した情報、監視、偵察などの新しい共同任務に資金が必要であった。

 空軍は、兵力全体を縮小する一方で、遠隔操縦機の大規模部隊を獲得し、運用した。そして、2019年に宇宙軍が創設され、空軍は新しい軍事組織を立ち上げる新たな任務を負ったが、すべて既存の予算枠の中で行われた。

 同時に、空軍省予算が他機関に直接渡されるパススルー支出も増え続けた。現在、年間予算のうち400億ドルが国防総省の他省庁に割り当てられている。これらだけの予算はF-35を約400機購入するのに十分であるが、空軍省はこれら流用予算の使途で何の発言権もない。

 1950年と同様、今日の空軍はの縮小版であり、史上最も古く、最も少ない航空機の在庫を運用している。爆撃機のは現在141機で史上最低、戦闘機は2016年に史上最低を記録し、回復し始めたばかりだ。5,625機という総軍の航空機在庫は、40年前の半分以下の規模。

 機動性、指揮統制(C2)、情報・監視・偵察(ISR)用機材の在庫も同様に脆弱だ。ステルスのような重要機材は不足し、敵のレーダーを回避でき可能なのは戦闘機の20%、爆撃機の13%に過ぎない。部品の入手可能性は任務遂行能力に直結するにもかかわらず、予算削減の対象とされることが多く、スペアパーツ確保も問題である。パイロット不足もまた、空軍を悩ませている。必要条件と現実のギャップを埋めるだけのパイロットを迅速養成するための訓練機材と飛行時間が不足している。また、ベテラン整備士の不足も、70年前の朝鮮戦争直前と同じ状況だ。

 空軍は、太平洋で再び戦闘になった場合に備え、米軍をよりよく準備させるための新しい作戦概念に投資し、実験中だ。アジャイル戦闘配置(ACE)のようなコンセプトは、より大きな作戦基地から分遣隊を前進させ、分散させ、柔軟で予測しにくくするねらいがあるが、新しい要件を満たすため進化が必要な兵站と維持に関する問題の解決に依存する。70年前の朝鮮半島で航空兵が直面した厳しい環境は、今日ACEで航空兵が直面する環境とさほど変わりがないが、現在はより広い地域で、第5世代の感知・攻撃能力で武装した、より高度な敵に相手に活動する予想だ。

 その中で、韓国で起こったような部品や整備、航空機の不足を理由にした出撃制限は、以前より大きなリスクとなる。戦争が始まれば、人員や航空機の不足を補う時間はない。新しいパイロットの訓練や新しい航空機の製造に必要なスケジュールは、数カ月ではなく、数年、数十年で測られる。初日から戦い、勝つための態勢を整えていない指揮官は敗北の危険がある。

 朝鮮戦争時のリーダーシップ問題は、今日見られるパターンと似ている。インド太平洋軍、中央軍、韓国軍の統合司令官を務めた空軍将校は一人もいない。南方軍を指揮した空軍士官も一人だけである。トッド・D・ウォルターズ大将は7月に退任し、欧州軍をクリストファー・G・カボリ陸軍大将に引き継いだが、同軍が創設されてからの70年で空軍出身は4人だけだった。空軍の統合参謀本部議長は、2001年から2005年まで務めたリチャード・B・マイヤーズ大将以降皆無だ。マティス元海兵隊大将、マーク・エスパー元陸軍中佐、ロイド・オースティン元陸軍大将(現国防長官)と、過去3人の国防長官がいずれも陸軍を退官しており、長官職も陸軍中心になっている。これは、1950年の朝鮮半島の状況と類似している。

 統合とは、全員が各任務分野に関与することを意味しない。各領域の重心を開発し、それらがどの領域から発生したかに関係なく、望ましい戦略的効果を最もよく達成できるメニューを組み立てる統合司令官に対して、価値を明確に説明できるようにすることである。

 AFA のミッチェル航空宇宙研究所の所長デビッド・デプテュラ中将(退役)は、次のように説明する。「米国と同盟国は、共同作戦を行うために、別々の部隊を必要とする。米国と同盟国が共同活動するためには、それぞれの領域で活動する利点を最大限に活用できる方法を軍人が理解することが不可欠である。自分の所属部隊の長所や価値を明確にすることが、まさに 『統合』なのです」。空軍のリーダーが主要な統合司令部を率いることがないため、空軍は控えめな地位に追いやられている。このことは、将来の紛争に対する投資や態勢に影響を与え、不注意に戦略を導いてしまうことになる。例えば、長距離攻撃について考えてみよう。陸軍は、統合能力を活用した解決策を開発するより、独自の弾薬、発射機、C2ISR 構 築など、完全に有機的な長距離打撃解決策に投資している。同様に、宇宙軍は、空軍と海軍の宇宙資産をほとんどすべて吸収したが、完全な統合になっておらず、陸軍は重要な有機的宇宙能力を保持している。

 最後に朝鮮半島で航空兵が直面した限定戦争の問題は、特に米国とその同盟国が中国に特化した新たな競争の時代に焦点を当てているため、今日の空軍指導者が検討すべき非常に有益な領域で参考になる。軍の指導者は、関係者を考慮して、望ましい結果を達成する手段を備えているかを慎重に検討しなければならない。

 米国がアフガニスタンとイラクで学んだように、戦略目標と現地住民間に根本的な断絶があれば、優れた軍事力も意味をなさなくなる。朝鮮戦争で米国が不完全ながらも有利な結果を得られたのは、国連、米国、韓国国民が目標を共有したからである。このような連携は、作戦の成功の基礎であるが、アフガニスタンとイラクでは根本的に欠けていた。

 2018年、ヘザー・ウィルソン空軍長官(当時)はこう宣言した。「国家防衛戦略では、大国間競争の時代に戻ったことを明確に認識している。我々は準備しなければならない」。

 この呼びかけは、それ以来、空軍のすべての指導者が繰り返しているが、朝鮮戦争の航空戦力の教訓が意味をもってくる。朝鮮戦争の歴史は、過去1世紀におけるあらゆる軍事作戦の成功に航空戦力が不可欠であったことから、今日でも有益である。21世紀も、20世紀同様に、過去の教訓を未来の課題に適用してこそ、「航空戦力による勝利」は可能となる。  ■ 


Air War Over Korea: Lessons for Today’s Airmen - Air Force Magazine

Aug. 12, 2022



Douglas A. Birkey is the Executive Director for the Mitchell Institute for Aerospace Studies.

           


2020年2月24日月曜日

朝鮮戦争参戦のソ連パイロット最後の一人が語る真相



朝鮮戦争へのソ連パイロットの参戦は今でこそ公然と語られていますが、戦争中は絶対にソ連も認めない事実で、撃墜し降下する赤毛のパイロットを捕虜にしようと待ち構える米軍の目の前で僚機が件のパイロットを射殺したとも伝えられています。共産主義プロパガンダの前に犠牲となったわけですね。今回の述懐は呪縛がなくなったためか信憑性が高いと思います。MiGは23ミリ、37ミリ機関砲でB-29を最初から排除する設計思想だったのでソ連パイロットが操縦すれば恐ろしい相手だったでしょう。

鮮戦争へのソ連空軍の介入は長年に渡り国家機密とされてきた。米側には創立から日が浅い中国や北朝鮮の空軍部隊が強力な米空軍の機体をやすやすと撃墜できるのはなぜだろうとの疑問が生まれていた。
ロシアで国際戦士の日がおごそかに祝われた。冷戦中に世界各地で犠牲となったソ連兵士に捧げる祝日で、第二次大戦でソ連空軍のエース、セルゲイ・クラマレンコ少将(退役)(97歳)が朝鮮戦争のエースともなった最後の生存者としてジャーナリストに回想した。
年齢に反し、本人の意識ははっきりしており、まず第二次大戦中に得た経験を朝鮮で応用したという。1942年から1945年にかけ、LaGG-3、La-5戦闘機でドイツ空軍の3機を撃墜し、その他13機に損傷を与えた。
「大戦末期には戦闘戦術や操縦技術でドイツを上回っていた。朝鮮動乱に応用し、米軍を安安と撃破できた」
Sergei Kramarenko during WWII.
© PHOTO : SERGEI KRAMARENKO'S PERSONAL ARCHIVE.
第二次大戦中のセルゲイ・クラマレンコ


「米軍パイロットはドイツのエース級より御しやすかった。ドイツはもっと戦闘意欲があったが、米軍は戦闘を避ける傾向があった。朝鮮ではこちらの訓練、技量が劣っていない事が証明され、こちらの機体が優勢であることもわかった」
クラマレンコによれば新型MiG-15戦闘機への機種転換は驚くほど容易で、機体の応答性や高速、高高度性能に気づいたという。とくに高高度性能で米F-86を上回り、ソ連軍パイロットはこれを活用し、米機を上空から攻撃した。
1950年11月に中国が参戦すると、クラマレンコはじめ第176防空戦闘航空連隊31名のパイロットがこっそりと移動し、人民解放軍空軍パイロットの訓練に従事した。ことの性質上、仕事の内容は一切明かすことが許されず、故国への郵便でも同様だった。ソ連パイロットはF-86セイバーの断片的な情報をつなぎあわせ、MiG-15より操縦性が優れているが、運用高度限界でMiGが優っていると判断した。
Sergei Kramarenko in the cockpit of his MiG.
© PHOTO : SERGEI KRAMARENKO'S PERSONAL ARCHIVE.
MiG操縦席に座るセルゲイ・クラマネンコ.


銃火の洗礼を受ける
ソ連空軍が朝鮮戦線に直接介入したのは1951年春のことで、クラマレンコは4月1日に初出撃したと認めている。
「戦闘機援護がついた偵察機一機が侵入してきたので緊急発進した」「上昇し、鴨緑江ぞいに移動した。高度7千メートルで敵機が正面に現れた。前方に双発偵察機、後方に戦闘機8機がついていた。こちらは4機のMiGだった。攻撃を指示した。ウィングマンのイワン・ラズチンが偵察機に下方から接近し攻撃した。すると突然セイバーの一隊がその背後に回った。『右へロールしろ』と叫んだ。ラズチンが急旋回すると敵機がその後を追った。こちらは編隊をはぐれた一機に照準をあわせ背後から射撃した。この機体は海面に墜落した。残る敵機は慌てて上昇した。別のウィングマン、セルゲイ・ロディノフへ別のセイバー編隊が攻撃をしかけてきた。そこで右へ方向転換を命じ、こちらはもう一機を攻撃した。その後、セイバー編隊と偵察機はその場から逃げ去った」


「暗黒の木曜日」

クラマレンコは1951年4月12日、米空軍パイロットが「暗黒の木曜日」と呼んだ空戦に参加していた。MiG-15の30機がB-29爆撃機編隊を遅い、援護するF-80、F-84およそ100機と交戦し、B-29数機を撃墜しながら、ソ連側には一機も損失がなかった。米軍司令部はこの事態に動揺し、朝鮮半島空爆を三ヶ月停止し、昼間爆撃はこれが最後となった。
「空戦ではB-29の48機中25機を撃墜したよ。爆撃は鴨緑江にかかる橋を狙っていた」「いまでも光景をありありと思い出すよ。戦闘態勢で飛ぶ編隊はパレードのようで美しかった。突如、こちらが攻撃をしかけ、爆撃機の一機を狙い射撃を開始した。すぐに白煙が出てきたのは燃料タンクに命中したからだ。すぐに僚機が加わり、実に簡単に米軍機を狩った。こちらの戦闘機は全機帰還した。USAFは一週間にわたり服喪しその地区へは爆撃機を再度送り込む勇気を失っていたね」


米軍エースとの交戦

クラマレンコは米空軍334飛行隊司令で第二次大戦のベテラン、グレン・イーグルソンとの遭遇を回想している。
「イーグルソンは3機編隊で飛んできた。2機がイーグルソンを援護し、本人は上空から攻撃を仕掛けてきた。命中せず、そのまま下方へ降下していった。こちらは左へ急旋回し、ロール、ダイブをした。ダイブがおわるとイーグルソンがこちらへ射撃してきた。ともに「ダンス」しながらしばらくそのまま続けた。ついにこちらが相手の上になったので再び射撃した。セイバーから破片が飛び散り、再び降下し始めた。すると敵のウィングマンが背後に回った。もう一度ロールして急降下し、北朝鮮の対空砲陣地に向かった。後ろを見ると800メートルほどの距離で二機がこちらを追っており、急に対空火砲の弾片が前方に飛び散り始めた。味方の射撃で死ぬほうがマシと思った。そのまま飛んだが幸運にも一発も命中しなかった。セイバー編隊も追跡をあきらめ帰投した。イーグルソンは米軍基地に着陸させた。負傷し、本国へ戻ったきり戦闘には復帰しなかった。


危うく干し草フォークで刺されかける

1952年1月17日にクラマレンコの幸運も尽きたようだった。セイバー2機を相手と思ったら、実は別の米軍機が上空から降下し発砲してきた。MiGに甚大な損傷が生じ、制御を失い、クラマレンコは脱出しパラシュートで命からがら生き延びた。
「パラシュートにつかまっていると米戦闘機がこちらに発砲してきた。なんども射撃をし、こちらの下を飛んでいたので思わず脚を引き上げたほどだ。400から500メートルで旋回し、再度こちらに向かってきた。だが幸運がまだ残っており、雲の中に入ったので、米機はこちらを見失った。更に降下すると森林が見えた。右から雲が晴れてきた。ハーネスを引っ張り、方向を変え樹木の中に降下した。見渡したが出血していない。首を触ると大きく腫れていた。どこかにぶつけたようだ。パラシュートを集め、道路へ出ると西に向かった。台車が目に入った。朝鮮人が薪を集めていた。こちらに気づくと朝鮮人は米軍人だと思い干し草フォークをこちらへ向け敵意を示した。そこで「金日成ホー、スターリン・ホー」と伝えた。ホーは朝鮮語で良いを意味する。そこでやっとわかった現地人は私を台車に載せ、村落へ連れて行ってくれた。食事をもらい、床の上で休んだ。朝になると車両がやってきて飛行場へ連れ戻した。これがソ連帰国前で最後の戦闘体験となった」
クラマレンコによればパラシュートを狙う米空軍パイロットは異例のことではなく、同僚一名が実際に死亡しており、もう一名が降下中に負傷したという。
176防空戦闘連隊から8名のパイロットと12機の喪失が生まれた。同時に爆撃機50機を撃破しており、これ以外に戦闘機の撃墜もあった。クラマレンコは21機を撃墜したが、公認撃墜は13機で残りは海上に墜落したという。ソ連パイロットが技能を発揮したので第三次大戦が回避できたと本人は信じている。
「米軍は原爆300発をソ連に投下する計画だった」とし、「だが朝鮮でB-29では我が国への侵攻は不可能とわかった。交戦一回で48機編隊の25機が損傷を受け、米軍はソ連への原爆投下戦略を放棄せざるをえなくなった」という。
クラマレンコはソ連空軍を1981年退役し、最後は戦闘機連隊や師団の司令を務めたほか、友邦国空軍部隊の顧問もした。1979年2月に第23空軍の副参謀長になった。
最後の操縦は1982年だった。「もう操縦はしない。若い連中が上空を飛ぶのを見ると羨ましく感じる。最新鋭機材は高性能で重武装だ。そんな機体で雲の中へ突入する夢を見ている」
Soviet WWII and Korean War ace Sergei Kramarenko.
© RIA NOVOSTI . SERGEI PYATAKOV
ソ連時代の第二次大戦、朝鮮戦争のエース、セルゲイ・クラマネンコ


70年近くたっても、朝鮮上空の空戦議論で決着がつかない

朝鮮戦争中のMiG対セイバーの戦いは今日でも議論に決着がついていない。米歴史家の試算ではセイバー喪失224機に対し、MiG-15は566機が撃墜されたとしている。(被撃墜機は大半が中国人、朝鮮人パイロットの操縦)だが、ロシアでは逆に1,106機を撃破し、MiGの被撃墜は335機としている。
朝鮮戦争は航空力重視の第二次大戦後の米軍事思想の黎明期となった。戦争中に連合軍のじゅうたん爆撃で北朝鮮の人口集中地点の四分の三が破壊されたとの試算がある。米軍は635千トンを投下し、うち32千トンはナパーム弾だった。この投下量は第二次大戦時の日本への爆弾投下量を上回る。■
この記事は以下を再構成したものです。


Last Surviving Soviet Ace of Korean War Opens Up on Clandestine Ops Against US Air Force
18:54 GMT 16.02.2020(updated 19:24 GMT 16.02.2020)Get short URL