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2019年9月30日月曜日

冷戦時のソ連核攻撃計画の概要が情報公開されました。実施されていれば我々は存在していないかも。



This Was America's Secret Cold War Strategy to Nuke Russia Back to the Stone Ageこれがロシアを核攻撃で石器時代に戻す冷戦時の米秘密戦略構想だった

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戦が熱核戦争になっていたら、米国とソ連は相互に破壊され尽くされていただろう。
今回初めてロシアのどの都市が標的になっていたのか、その理由が明らかになった。米政府が1950年代の戦略空軍(SAC)資料を機密解除し、米爆撃部隊とミサイルが共産圏を広く攻撃対象にしていたことが判明した。
「SACは東ドイツから中国まで都市1200箇所をリストアップし優先順位も決めていた」と今回情報開示を求めたNGO団体ナショナルセキュリテイアーカイブは解説。「モスクワ、レニングラードがそれぞれ第一位、第2位で、モスクワには179地点を爆心地に指定、レニングラードは145地点で人口高密度地点も含まれていた」
だが狙いは単なる破壊にあったわけではない。SACではソ連空軍力を一掃し爆撃機の発進阻止を優先していた。ICBMが実用化となる前の話で、米本土や西欧の爆撃を恐れていた。標的に指定された航空基地は1,100箇所で、Tu-16バジャーの基地がリスト上位にあった。ソ連の航空戦力が破壊されれば次はソ連工業力が次の標的となるはずだった。
だがその過程で多くの無関係な生命が犠牲になっていただろう。SACの標的リストは1956年の作成で1959年版の核攻撃案では一般都市も当然ながら含まれていた。
SACの戦争計画はソ連圏の都市工業の「系統的破壊」であからさまに都市部の「住民」を標的とし、北京、モスクワ、レニングラード、東ベルリン、ワルシャワがリストにあがっていたことが判明した。「意図的に民間人人口稠密部を標的とすることは今日では国際規範に反し、軍事施設への攻撃と都市部への攻撃は明確に区別されている」と研究者は述べている。
800ページにおよぶ文書には標的一覧と関連情報が載っている。SAC立案部門は1959年にB-52、B-47爆撃機の他RB-47偵察機、F-101援護戦闘機合計2,130機の動員を想定していた。また核搭載巡航ミサイル、爆撃機搭載ミサイルが376発あり、初期段階の中距離弾道ミサイルも使えた。1959年の研究ではミサイルは標的に命中する確率が低く(ICBMの実用化は1960年代以降のこと)、有人爆撃機が攻撃手段の中心だった。
SACにはソ連空軍力を早期に破壊するねらいがあり、水爆は地上爆発の設定だった。空中爆破だと熱、放射線ともに出力が増大するが、爆風でソ連の空軍機材や基地を破壊する狙いだった。ただし想定外の副作用もあっただろう。「地上爆風とともに放射性降下物が友軍や陣営内都市にも影響を与えることも考慮されたものの、空軍力除去がなんといっても最大の目標だった」とSAC検討内容にある。
ただしSACではソ連空軍力のインフラを広く解釈し、指揮命令所、産業集積地もその一部としていた。そのためモスクワは多数の軍事司令部、航空機ミサイル工場、核兵器研究機関、石油精製所があることから上位に来た。
核時代に入っていたのにSACの戦略には第二次大戦のドイツ、日本爆撃を思わさせる要素が多かった。ソ連空軍力とインフラを標的にするのは大戦中のB-17やB-29爆撃隊と同じ狙いで、1950年代のSACは当時の人員が中心となっていたせいだ。その中心はカーティス・リメイであった。ソ連は核の一次攻撃を受けても爆撃機や核兵器の大量生産を行う力を温存し、戦況は長期化する前提だったようである。ミサイルが信頼性に欠け、有人爆撃機しか信頼に足る手段がなかったというのは今日の無人機対有人機の論争を思わせるものがある。
SACの標的リストは機能しただろうか。それを試す機会が生まれなかったのは人類にとって幸運なことだった。■



2017年7月27日木曜日

冷戦時ソ連に撃墜され投獄されたRB-47パイロットの運命


冷戦時のソ連は結構荒っぽく、領空侵犯した機、していない機も撃墜しています。今回の記事のパイロットは運悪く撃墜されソ連当局に逮捕されたのですね。投獄7か月が長いのかわかりませんが、おそらく交換の形で帰国できたのでしょう。翻って航空自衛隊パイロットが中国に撃墜され地上で捕獲されたらどうなるのか。まず自衛隊員は軍人ではなく公務員ですので軍人の処遇は受けず民間人スパイと同じ扱いになるのでは。つまり闇に葬られるか、取引の材料とされるのでしょう。考えたくない仮定ですが。今回はオファット基地のあるオマハ地元紙の記事です。

Boeing RB-47H USAF

By U.S. Air Force photo [Public domain], via Wikimedia Commons

55th Wing pilot imprisoned by Soviets in Cold War will be laid to rest

冷戦時にソ連で捕虜となった第55航空団パイロットが安息の時を迎える
Jul 24, 2017 Updated 18 hrs ago
Capt. Bruce Olmstead
ブルース・オルムステッド大尉と妻ゲイル(左)、ジョン・マコーン大尉と当時の妻コニーが1961ン円1月に7か月にわたるソ連監獄生活から解放され再開した。
  • JOHN F. KENNEDY PRESIDENTIAL LIBRARY AND MUSEUM
写真左から、ゲイル・オルムステッド、ブルース・オルムステッド大尉、ジョン・マコーン大尉、リンドン・ジョン副大統領、大統領夫人ジャクリン・ケネディ、ジョン・F・ケネディ大統領。空軍の二名は戦略空軍軍団のRB-47の生存者で、機体はソ連により北極海上空の国際空域で1960年7月1日に撃墜された。White House Photographs. John F. Kennedy Presidential Library and Museum, Boston

  1. ブルース・オルムステッド大尉の銀星章はオファット空軍基地内第55航空団の陳列ケースに収まっている。冷戦時パイロットの勇気の証であり、次代空軍要員への好例となっている。
  2. オルムステッドが受勲したのはソ連で刑務所収容中の苦労に対してだ。乗機のRB-47B偵察機は1960年7月1日にロシア戦闘機により北極海上空で撃墜され同僚5名中4名が死亡した。
  3. 後輩の空軍偵察機部隊乗員はオルムステッドを尊敬の念で見たが同人を友として飲み友達として恐れを知らない冷戦時の飛行士として知る空軍仲間に本人に最後の別れを言うときが訪れた。木曜日に遺体はヴァージニアのアーリントン国立墓地に埋葬される。昨年10月にメリーランド州アナポリスの自宅で81歳で死去していた。
  4. オルムステッドの乗機を撃墜するとKGBは本人をモスクワの悪名高いルビヤンカ刑務所に送り、諜報活動の廉で告発した。暖房のない独房でわずかな食事と睡眠しか与えられず、24時間の尋問を受けた。
  5. 若き副操縦士として本人は相当の極秘情報を知っていたが、本人もジョン・マコーン大尉もKGBに何も与えないまま7か月の独房生活を送った。
  6. 「両名は空軍兵士の座右の銘、屈するなかれ、を常時忘れるませんでした」とオルムステッドと同じ飛行隊にいたレグ・アーシュラー准将(第55戦略偵察航空団司令を後日つとめた)は回想する。「ふたりがどんな苦しみを受けたのか想像もできません」
  7. アーシュラーは第55飛行団からオルムステッドのバイ葬式に参列予定の退役軍人40名の一人だ。その他ネブラスカから第55飛行団同窓会会長ジョセフ・スパイヴィやドン・ベイコン下院議員(共、ネブラスカ)(元同航空団司令、2011年-12年)も加わる。
  8. 第55飛行団のRC-135偵察機一機が会場上空を飛行し哀悼を伝える。オルムステッドの未亡人ゲイルが埋葬後に棺を覆った米国旗を折りたたんで受け取る。
  9. 釈放されたオルムステッドとマコーンにゲイルが合流しホワイトハウスでジョン・F・ケネディ大統領、ジャクリン・ケネディ夫人と紅茶の席に招待された。数年たってオルムステッドは大統領夫妻を「とてもチャーミングだった」と評するのだった。.
  10. オルムステッドは55飛行団で再び操縦することはなかったが、テストパイロットとなりデンマークの大使館月空軍武官になった。1983年に大佐で退役しその後住宅改修業者となった。ロシアを訪問し、ロシア軍の退役関係者を自宅に招いたこともある。
  11. ただし獄中の数か月がその後の人生から消えることはなかった。
  12. 「独房に211日もいて何も影響が残らないことはありえません」と1978年にワシントン・ポストに語っていた。「忘れられず許せないのなら、許した方がいい。そうすれば負けずに生きていけます」
  13. その後オルムステッドは55航空団同窓会に入会し、オマハも数回訪れている。
  14. オルムステッドとマコーン(2013年死去)は2004年に銀星章を受けている。冷戦終結で当時の関係者は戦闘勲章の対象となった。二年後にオルムステッドは自分の勲章を55飛行団に寄贈している。■