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2021年4月18日日曜日

この兵器はなぜ期待外れに終わったのか④ ハインケル177は空飛ぶ棺桶とまで酷評され、貴重な資源を消費してしまったドイツ唯一の大型爆撃機。この機体にも急降下爆撃を求めたドイツの用兵思想にも問題が....

 

 

者が第二次大戦時のドイツパイロットだったとしよう。「炎の棺」別名「帰還不能の爆撃機」「火山」と呼ばれる機体の操縦には不安を感じたはずだ。

 

高温に悩まされ発火が頻発したHe 177グライフ(グリフィン)はナチドイツ唯一の長距離重爆撃機で実際に生産された機体だ。満載時自重35トンの同機は失敗作で、貴重な資源をつぎ込んでドイツの敗北を早めたといえる。

 

He 177は技術的にも興味をそそる機体だったが、これが根本的な問題を引き起こした。1937年にハインケル航空機製造が試作機を納入すると、軍は急降下爆撃性能を求めてきた。ドイツ空軍がこだわった戦術で、重爆撃機に急降下爆撃を求めたのである。

 

急降下爆撃機には大Gがかかるため、過大なストレスに耐えるべく小型機が通例だった。Ju-87スツーカの機体強度は高くなり結果として重量が増えた。とはいえ機体が大きすぎても重すぎても不適だ。

 

He 177はそこまで巨大な機体ではなかったが、垂直に近い急降下爆撃には不適で、試みれば地上に激突するのであった。浅い角度でのみ急降下爆撃に耐えた。

 

戦闘機なら急降下爆撃にも耐えられたが、それでも高速度で降下してから機体を引き戻すのは危険だったし、急降下中に機体分解のリスクもあった。さらに急降下爆撃では標的に極力接近することで精度を高めた。

 

エアブレーキで降下速度を減じれたが、機体サイズ、重量、堅牢度のバランスが急降下爆撃の成否を左右した。

 

He 177には別の問題もあった。大型機のため駐機中は絶好の標的になった。兵装ペイロード13千ポンドで攻撃半径が3千マイル超の性能の代償で燃料を大量消費し、機体強度を確保すべく構造改修したことで重量増を招いた。「改良」型の燃料消費はさらに悪化したが、連合軍爆撃機がドイツの石油供給をか細くしていた。

 

「ガソリン消費が多いため飛行中止措置を迫られた。燃料供給が全く足りなかった」とドイツ空軍トップのヘルマン・ゲーリングが戦後に米戦略爆撃調査団に語っている。

 

グライフは最初から妥協の産物だっといえる。興味を引くのは急降下爆撃仕様の技術課題をどう解決したかである。

 

ハインケルの解決策はDB601エンジン4基の2基ずつ連結構成で、双発機のようにプロペラ二基を回転させた。各ペアで1,900キロワット超の出力が得られ、プロペラが二つのため、滑空降下中の機体が安定した。とはいえ、スツーカ並みの急角度降下はできなかった。

 

結果としてグライフは急降下爆撃機でなく、滑空爆撃機となった。とはいえ、この形の爆撃でも機体が大きすぎた。深刻なのはエンジンに発火しやすい傾向があったことで、複雑な機構でぎっしり配置され、さらに空隙のないカウリングがついたため、高温になる傾向があり、整備に手を焼いた。この高温と発火の危険性が常についてまわった。

 

He 177のためその他のドイツ試作装備にも悪影響が生まれた。ドイツはハイテク対艦誘導爆弾二型式を開発していた。液体燃料式Hs293と自由落下式フリッツXである。

 

双方ともHe 177から投下し無線誘導する構想だった。だが、He 177の爆弾搭載性能が期待以下で「新型爆弾運用に大きな制約が生まれたため、ドイツは統合に苦労した」と米空軍トッド・ショラース中佐が米空軍兵たん機関誌に記述している。

 

He 177の悪影響は革新的実験機にも及んだ。世界初の実用ジェット戦闘機メッサーシュミットMe 262の戦闘投入が遅れ、大きな戦果を挙げられなかったが、早期に戦力化されていたとしてもドイツの運命を変えるまでの影響はなかっただろう。だが、He 177の悪印象がヒトラーをしてジェット戦闘機への疑いを増したといえる。

 

ヒトラーは貴重な資源をBf 109後継機のMe 209につぎ込んだ。当然、Me 262生産に支障が出るのは承知の上だったとショラース中佐は解説している。

 

結果としてドイツはHe 177を1,000機超生産した。各機にDB601あるいは発火問題を解決したDB605エンジン四基が搭載されていたのは上述の通りだ。このエンジンはBf 109にも搭載されていた。

 

役立たずのHe 177用に大量のエンジンが生産され、ドイツ空軍の戦いが長期化し、苛烈になればなるほど、Bf 109が大量に必要となったが、同戦闘機はすでに優位性を失っていた。

 

 

リチャード・サケンウィズが1959年の著書「ドイツ空軍の歴史的転回点」でドイツ空軍の戦闘力喪失の原因のひとつにHe 177をあげている。

 

同書ではグライフの四本プロペラ化提案にも触れている。1944年7月3日付で戦闘機軍団に上がった報告書で以下の表現がある。

 

「...元帥との土曜日の会議は5時間近くになり、旧型He-177は生産中の機体が完成次第生産中止し、従事中の労働力は別事業に振り向けるよう命令が出た。さらに、新型He-177生産は開始しないことに決まった。」

 

それから10カ月後に、ドイツは敗北した。He 177がドイツ崩壊に貢献したのは明らかだ。

 

ひとつ重要な教訓が得られる。間違った設計への過大な資源を投入で自軍の航空部隊に大きな災厄が生まれることだ。■

 

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Nazi Germany Had a Flying Coffin Bomber That Flopped

April 17, 2021  Topic: History  Region: Americas  Blog Brand: The Reboot  Tags: GermanyPilotHistoryMilitaryTechnology

by Robert Beckhusen

 

Image: Wikimedia Commons


2021年4月6日火曜日

この兵器はなぜ期待外れに終わったのか➂ コンヴェアB-58は時代の変化に対応できなかっただけでなく、開発のシステム思考に問題があった。F-35に教訓は全く生かされず残念な結果が繰り返された。

 


 

 

ンヴェアのデルタ翼爆撃機ハスラーは一歩先を行く機体だった。

 

1956年11月11日、B-58ハスラー一号機が初飛行した。同機は実戦に投入されることはなかった。独特の形状で優雅な同機は高速飛行し核攻撃を行う想定で作られたが、ソ連の防空戦術の変更に対応して開発方針が変わったため経費が高騰し、自ら首をしめることになったが、もともとはB-47ストラトジェットの後継機の想定だった。

 

コンヴェアが開発したデルタ翼のハスラーは超音速爆撃機としてマッハ2.0飛行を実現しB-52ストラトフォートレス、ストラトジェットと一線を画す機体になった。

 

ハスラーは全長95.10フィート、翼幅56.9フィートと爆撃機としては小型機で、これに対しB-52は全長で64フィート、翼幅で128フィートも大きい。

 

ハスラーはスピードが命で、空軍はB53核爆弾(9メガトン)一発あるいはB43あるいはB61核爆弾4発をパイロンに搭載し、迎撃機が対応できない速力と高度でソ連や中国にダッシュ侵入する想定だった。

 

CIAは1964年に同機を迎撃可能な中国機はMiG-21フィッシュベッドのみで、かつ迎撃に成功する可能性は「わずか」と分析した。

 

これはすべてJ79-GE-5Aターボジェットエンジン4基各10,400 ポンド推力で実現したことだ。デルタ翼形状も高速飛行に寄与したが、抗力の発生により機体形状を再設計し、カーブのついた「コークボトル」となった。大型の燃料兵装ポッドを胴体下部に装着した。

 

発熱を抑えるべくコンヴェアはB-58の表面をハニカム構造のファイバーグラスのサンドイッチ構造でアルミ、スチールを一体化し、鋲の代わりに接着剤を使った。この技法がそののちの民生機にも応用されるはずだった。

 

ただし、ハスラーの小型形状がソ連領空進入の面で最大の欠点となった。空中給油なしだと航続距離はわずか1,740マイルとなった。このためハスラーはヨーロッパに配備し、同時に相当数の空中給油機も準備した。

 

航続距離の短さを空軍が懸念したと空軍大佐(退役)エリオット・V・コンヴァースIIIが著した冷戦時の回想録Rearming for the Cold War, 1945-1960にある。

 

戦略空軍のカーティス・ルメイ中将は同機が気に入らず、はやく戦略空軍から除去したかった。

 

同機の機構が複雑なことが状況を悪化させ、多額の費用が発生した。運航経費はB-52の三倍になり、対応が困難だった。機体再設計で「コークボトル」にしたことで開発が遅れ、経費も上昇した。

 

調達数も変更となった。空軍は116機で打ち切り、当初構想の三分の一規模になった。同機の高速飛行に呼応し航法、爆撃用にスペリーがAN/ASQ-42を開発したが、費用も高騰し、厄介な開発となった。

 

J79エンジンも難航した。ブレーキ、射出座席も開発がスムーズにいかなかった。「B-58は数々の速度記録を樹立したが、巨額の開発費用に見合わなかった」とコンヴァースは記している。

 

ハスラーの前途に立ちふさがった二つの事象が決定的となった。まず、ソ連の地対空ミサイル開発が進展し、1960年5月に高高度を飛行中のU-2スパイ機を撃墜するまでになった。この際に使われたS-75ドヴィナ(NATO名称SA-2ガイドライン)はB-58の実用最高高度の数千フィート上空までを有効射程に収めた。

 

対応策として低空飛行があったが、大気密度のため飛行速度が犠牲になる。ハスラーの設計目標に反することとなり、さらに低速度での機体制御が難しくなった。このため相当の機体を喪失した。

 

二番目の問題は米空軍が開発の各要素を同時進行で求めたことで、その後のF-35共用打撃戦闘機と類似している。

 

「システムとして最初から統合した形で構想し、原案をもとにすべての面でシステム形成をめざし、サブシステムや支援施設装備の投入、訓練内容も計画し、すべて同時並行で進めることをめざした」と上述のコンヴァースが述べている。

 

困ったことに一つに問題が発生すると全体の進捗に波及的な影響が生まれた。「B-58で些細な問題が見つかると、システム規模で再設計するか、問題が解決されるまで待つことを与儀なくされた。そのため開発が遅れ、せっかく準備した生産体制を破棄することになり、コストが上昇し、開発全体が遅れた」

 

これは遅延が何度も発生したF-35のようだ。空軍は同時進行開発によりステルス戦闘機は効率よく開発できるとしていたが、そうならず、現実はその反対となった。

 

B-58ハスラーは実戦を見ることなく、非核ミッション仕様にも改装されなかった。1970年1月に同機は用途廃止となった。空軍の核攻撃ミッションは低空飛行をするB-52、B-1、FB-111、ステルスB-2、弾道ミサイルにまかされた。

 

B-58の失敗体験が生かされず、革新的技術を応用する機体を同時進行で開発する危険性が画されてしまったといえる。■

 

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How the Beautiful B-58 Hustler Lost Its Chance at Life

April 4, 2021  Topic: B-58 Bomber  Blog Brand: The Reboot  Tags: B-58MilitaryTechnologyWorldBomber

by Joseph Trevithick

Image: Wikipedia.


2018年3月21日水曜日

期待にこたえられなかった装備②ヘンシェルHs 129対戦車攻撃機はなにがまずかったのか

期待にこたえられなかった装備シリーズ②はドイツのヘンシェルHs129対戦車攻撃機です。コンセプトはいいのですが、優秀なエンジンは戦闘機優先で使えずフランス製の非力エンジンを搭載しましたが、登場のタイミングが悪くあと数年前に供用開始していれば話はかわっていたでしょう。ヘンシェルと言う会社には航空機部門はあまり重要ではなかったようです。

The Hs 129 Was Supposed to Be the A-10 of World War II Hs 129は第二次大戦時のA-10をめざしたがエンジンの性能不足と官僚統制のまずさで傑作機になれなかった

Bad engines and poor management doomed the German ground-attacker

The Hs 129 Was Supposed to Be the A-10 of World War II
March 21, 2016 Paul Richard Huard


ンシェルHs 129は一見すると完璧な対地攻撃機に見える。
双発で強力な装甲を施したコックピットはパイロットを小火器銃弾から守る。同機は当時最大級の機関砲を前方発射する設計だった。
Hs 129はドイツ空軍の究極の戦車キラーとなりソ連T-34戦車を上空から葬るはずだった。言い換えると第二次大戦版のA-10ウォートホグになったはずだ。
一つだけ問題があった。Hs 129の性能だ。原型のHs 129 A-1の性能が低すぎてドイツ空軍も受領を拒否したほどだ。
Hs 129はウォートホグではない。失敗作だった。
ただし同機は航空史上で特異な位置につく。ジェット戦闘機や弾道ミサイルまで製造したドイツ技術でも失敗作があることがわかるからだ。
「Hs 129はその時点でのA-10を目指したもののその目的は果たせなかった」とジョン・リトル(シアトルの航空機博物館学芸員)が語る。「A-10は低速ながら操縦性が高く戦車を狙い撃ちしてパイロットは生還できる」
「Hs 129は再設計し強力なエンジンに換装し低速性能を強化しながら操縦性を高めて標的を視認しやすくするべきだった」とリトルは述べる。「ドイツ空軍には残念ながらHs 129の必要性は高く実戦化前の段階で投入する必要があった。Hs 129は頑丈に作ってありパイロットの間ではA-10と同様だった」
1930年代末にドイツ軍地立案部門はルフトヴァッフェには専用の対地攻撃機が必要と判断した。スペイン内戦でコンドル部隊が対地攻撃ミッションを行い、低空攻撃で共和国軍が対地掃射で士気が低下する効果を確認し、物資補給処を攻撃し、砲兵隊をピンポイント攻撃していた。
攻撃専用機構想は前からあり、第一次大戦に初の機体が生まれている。

だがヒトラーは第一次大戦のやり方で戦争したくたなかった。迅速な移動でドイツの敵を一掃したかったのだ。このためドイツ地上部隊を支援する専用機材が必要となった。
だが設計上の困難さ、情報収集の失敗、空軍上層部の決定のまずさがHs 129の製造と配備に悪影響を与えたとリトルは言う。
上層部は「専用対地攻撃機の必要度を低く評価し特に対戦車攻撃機でこの傾向が強く、時を逸した」とし、「バルバロッサ作戦の前にドイツ情報部はソ連の戦車はわずか1万両と見積もっていたが、実は2万4千両だった。ドイツで専用対戦車攻撃機が必要と痛感されるまでに時間がかかりすぎた」
さらにドイツ政府はヘンシェルを汎用メーカーとみなし、他社機材の生産にあたらせたりしていた。
その結果、ヘンシェル製造の機体は少ない。Hs 129試作機が3機、Hs 129生産前試作機8機のあとHs 129は870機しか製造していない。これに対しメッサーシュミットBf 109は33千機、フォッケウルフFw 190は20千機も製造された。
Hs 129量産が始まった時点でドイツ陸軍は守勢に回り、ソ連装甲車両の破壊が急務となっていた。十分な機数がそろい兵装を積んだHs 129はソ連戦車に効果を発揮した。
ドイツでは残念ながらHs 129は5飛行隊しか編成されずしかも最適な兵装を搭載したとはいえなかった。
さらに設計に問題があった。Hs 129は満載時最高速が200マイルと低速でキャノピーは三インチのガラスがパイロット視野を妨げていた。
さらにHs 129が搭載したフランス製ノーム・ローヌ14Mエンジンが埃や砂に極度に弱く飛行中に突然停止することがあった。
パイロットが頑強な機体のHs 129を気にいったのはほぼ破壊不可能なためだった。また装甲車両攻撃用に大重量のRüstsätze攻撃パッケージを搭載できた。
ドイツ空軍の対地攻撃エースのルドルフ・ハインズ・ルファーは戦車80両を撃破し鉄十字騎士賞を受けている。ルファーは戦車撃破パイロットとして史上最も大きな成果を上げた。

だが本人のHs 129戦闘記録の幕切れは悲惨だった。1944年にソ連対空砲火が乗機をポーランド上空でとらえた。ルファーは即死し乗機は爆発した。■

2018年3月11日日曜日

期待にこたえられなかった装備①米空軍初のジェット戦闘機P-80

 

新シリーズ 「期待にこたえられなかった装備」 
世の中には想像図の域を超えられなかった装備は山ほどありますが、鳴り物入りで投入したのに想定した性能を超えられなかった装備は何が問題だったのか。どんな運用をされたのかをお伝えします。第一回はロッキードF-80シューティングスターです。

 

America's First Fighter Jet (Built to Fight Hitler) Was Sent to North Korea. It Ended Badly. 米国初のジェット戦闘機(対ヒトラー戦用)が北朝鮮上空に投入されたが散々な結果だった





March 8, 2018

1950年11月8日、4機の直線翼機が中国国境近くの北朝鮮新義州の航空基地に降下を開始した。F-80シューティングスターが基地を機首の.50口径機関銃6門で襲撃するとたちまち黒煙が空に舞い上がった。
シューティングスター各機は数か月前に現地に到着し北朝鮮による全面侵攻に対応する手段とされていた。緒戦こそ大変だったが国連軍の反攻で情勢は逆転した。第51戦闘航空団のF-80は米軍占領下の平壌から発進し北朝鮮軍の生き残りを攻撃し、中国国境に迫っていた。
三回目の通過飛行をした後エヴァンス・スティーブンス少佐はウィングマンのラッセル・ブラウン中尉と高度20千フィートに上昇し残り二機の援護を務めた。突如としてブラウンが高高度に銀色に光る10機ほどのジェット戦闘機が中国国境からこちらに向かい飛ぶのを視認。無線で僚機に攻撃中止を伝えた。MiG編隊がこっちにやってくる!
直後に史上初のジェット戦闘機同士の空中戦が生まれた。だが米軍機は相手より低速機だった。


ナチ新鋭ジェット機の対抗策として急きょ開発
 米国はじめてのジェット機ベルP-59エアラコメットは1942年10月初飛行で60機生産されたが実戦配備されなかったのは初期ターボジェットが信頼性乏しく最高速度も410マイルとP-51マスタングより遅かったためだ。だが連合軍情報部は1943年にナチがMe-262ジェットで最高速度540マイルで実戦投入しそうと知り、ロッキードに英国製ターボジェットの出力増強型を搭載した新型戦闘機開発の打診が入った。ただし6か月の条件つきで。
伝説の航空技術者クラレンス・「ケリー」・ジョンソン(その後SR-71ブラックバードを開発)がゼロから開始しエレガントでアールデコ調の線と三点着陸式機をもとに設計を完成させた。試作機は完全な情報管理下でわずか143日で完成し、関与したのは130名だけだが開発の目的がジェット機だと知っていたのは少数のみだった。
XP-80試作機は速度500マイルを出し、当時のピストンエンジン機をすべて追い抜いた。デハヴィランド製ゴブリンエンジンはその後さらに強力なアリソンJ33に換装されキャノピー下左右に空気取り入れ口が付いた。
ただしシューティングスターはは直線主翼で尾翼は第二次大戦時のピストンエンジン機同様のため音速近くで足を引っ張った。燃料ポンプが原因でXP-80はロッキードの首席テストパイロットのリチャード・ボング(大戦時のエース)が死亡した。
ナチのジェット機は強敵ではあったが燃料不足と産業基盤崩壊で大きな脅威にならなかった。英国もメテオジェット機で対抗したが、大戦中にジェット機同士の空中戦は発生していない。
量産前のYP-80A四機が第二次大戦終結前にヨーロッパに送られ、二機は英国に残り、うち一機が翌年に墜落した。残り二機はイタリアへ送られ終戦まで数回ミッションを実施した。
それでもロッキードはシューティングスター1,700機を大戦後に生産し、設計改良しF-80とした。新型F-80Bで射出座席が導入された。F-80Cはエンジンをさらに強力なJ33-A-35にし時速600マイルを達成し、左右翼端の260ガロンタンクが特徴で、飛行半径が1,200マイルに伸びた。一部が海軍、海兵隊に移管され拘束フックを付け空母運用型になった。RF-80写真偵察機は透明機首にカメラを搭載し広く使われた。
アメリカ初の実用ジェット戦闘機は記録更新もした。1946年にジェット機による初の大陸横断飛行をロングビーチ(カリフォーニア)からニューヨークまで実施。同年に大西洋横断も達成した。特殊改造P-80Rが時速623マイルの記録も出した。


朝鮮戦争に投入されてどうだったのか
 シューティングスターは北朝鮮人民空軍が朝鮮戦争緒戦で運用したYak-9戦闘機やIl-10ステゥモーヴィク強襲機へは優勢だったがMiG-15となると話は別だった。
はるかに先端設計のソ連のMiG-15は後退角付き主翼とロールスロイス・ニーンからリバースエンジニアで実現したVK-1ターボジェットを搭載。英政府がソ連にエンジン技術を供与したのは驚くべきことだった。最高時速670マイルとシューティングスターを楽々追い抜くだけでなく、武装も23mm機関砲二門に加え大型37mm砲も備えていた
MiGは中国内戦末期に初めて実戦に登場していたが、朝鮮戦争では1950年11月1日に初めて中国から飛来し米軍F-51編隊を強襲しうち一機を撃墜した。ソ連教官が北朝鮮パイロットを養成していたがロシアの大戦時経験者が朝鮮上空の戦闘のほとんどをこなしていた。
11月8日のP-80との遭遇ではソ連戦闘機二機が迎撃コースに入っていた。スティーブンスとブラウンは鋭く左旋回し接近する敵機を射程に収めようとした。ブラウン機のM3機関銃門の銃弾が詰まり、数発しか射撃できなかった。MiGはロールしながら降下しブラウンが追跡し時速は600マイルに近づいた。その後敵機が炎に包まれるまで射撃を続け機首を上げた。
初のジェット機同士の空中戦でブラウンは一機撃墜を主張した。
ただし同日のソ連記録では違う話になっている。MiGのパイロット、ウラジミール・ハリトノフ中尉は米軍機から攻撃を受けたと報告しているが降下で攻撃を回避し、途中で外部タンクを放棄したと報告している。ロシアの戦史記録では初のジェット機同士の空中戦は11月1日となっておりセミヨン・ホミニッチ中尉操縦のMiGがF-80(フランク・ヴァン・シックル中尉)を撃墜したとある。ただし米軍記録ではヴァン・シックルは地上に墜落炎上している。ブラウンの空中戦の翌日に米海軍F9Fパンサージェットがミハイル・グラチェフ操縦のMiG-15を撃墜しており、これは両国の記録で一致している。
そこでジェット機同士の初空中戦での撃墜について意見が食い違うが、MiG-15がF-80を速度、操縦性能いずれも上回っていたのは事実だ。米側記録ではシューティングスター合計17機が空中戦で喪失とあり、MiG-15の撃墜数は7機、プロペラ機11機も撃墜とある。B-29爆撃機編隊を100機のF-80とF-84で援護中にMiGの30機編隊が襲ったのが1951年4月12日でB-29の三機が撃墜され、攻撃側には損失はゼロだった。
米空軍は当時最新鋭の戦闘機F-86セイバー派遣を急がざるを得なくなった。MiG-15と互角に戦える戦闘機としてだ。これで戦況が有利となり中国国境付近の「MiG横丁」で空中戦が頻繁に発生し撃墜被撃墜比率が好転した。F-80には対地攻撃任務が与えられたが想定していない任務で5インチロケット弾8発あるいは千ポンド爆弾二発を主翼下に積み出撃した。
終戦までにシューティングスター113機が対空砲火で墜落した。1952年11月22日にはチャールズ・ローリング少佐機が中国の対空砲火を浴びた。少佐は国連軍を釘付けにしていた火砲陣地を狙っていた。ウィングマンから攻撃中止の勧めを聞かず、少佐は損傷を受けた機体を銃座に体当たりさせ、戦死後に名誉勲章を受けた。
朝鮮にはF-80飛行隊10個が展開したがすべてF-86セイバーあるいはF-84対地攻撃機に1953年までに機種転換を完了した。ただし一個飛行隊のみ旧式マスタング戦闘機に変更している。シューティングスターは随時退けられ、南アメリカ各国に供与されブラジルでは1960年代70年代前活躍した。


その後の展開
シューティングスターは朝鮮上空では旧型化していたがその後派生型二つを生んだ。一つが知名度が低いF-94スターファイヤーで複座レーダー装備夜間戦闘機で朝鮮で六機撃墜したとされ、MiG-15とも初の夜間交戦をした。
もうひとつが伝説のT-33複座練習ジェット機だ。6,500機が製造され、カナダでもライセンス生産で650機が生まれ40か国の空軍で供用された。キューバのT-33はCIA支援による反カストロ軍迎撃に出撃し、B-26三機と数隻を撃破している。
20世紀後半の世界各国の戦闘機パイロット数千名がT-33でジェット機訓練を受けた。2017年にボリヴィアがT-33を退役させ、同機の長い運用に幕が下りた。
1940年代にナチドイツ新鋭機への対抗手段として急ぎ設計された米国初の実用戦闘機には当初予想もしなかった長きにわたる活躍が展開した。■
Sébastien Roblin holds a Master’s Degree in Conflict Resolution from Georgetown University and served as a university instructor for the Peace Corps in China. He has also worked in education, editing, and refugee resettlement in France and the United States. He currently writes on security and military history for War Is Boring.
Image: Wikimedia Commons

こうやってみるとP-80が駄作だったのではなく、初期ジェット機の性能進化が早すぎて短期で陳腐化した構図ですね。たたかれてもただでは起きないのがロッキードでP-3も売れなかったエレクトラ旅客機が原型でしたね。たくましい会社です。