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2022年10月26日水曜日

歴史に残らなかった機体 B-58ハスラーの不幸な生涯、偵察機としても花を咲かせなかった超音速高高度飛行を狙ったコンベアの失敗作

 

U.S. Air Force


米空軍は、マッハ2対応のB-58ハスラー爆撃機を偵察機に転用しようと試みたのだが...

 

ンベアB-58ハスラーは、冷戦時代に米戦略空軍で最も華々しい爆撃機として、今日も広く記憶されている。しかし、核爆弾だけでなく、デルタ翼のハスラーがスパイ機としても採用され、60年前の今月、ポッドに搭載されたレーダー偵察システムでキューバ危機のミッションにも飛行した。

B-58Aハスラー59-2442は、戦略航空軍で使用された後期の代表的な機種。ハスラーは様々な工夫を凝らしながらも、高速偵察機としてのポテンシャルを発揮することはなかった。U.S. Air Force

B-58は最高速度マッハ2.2、高度63,000フィート以上を誇り、戦略空軍の抑止力として核爆弾の自由落下投下を主な任務とし、偵察機としても最適な機体だった。また、「ミッション・ポッド」と呼ばれる、機体中心線上の格納庫に、武器、燃料、防御電子機器、センサーを様々な組み合わせで搭載できるモジュール性も有利な点だった。

YB-58Aハスラー55-0667に2分割のミッションポッドを試験搭載した。B-1-1と書かれた上段には武器と燃料が、B-2-1と書かれた下段に2つの燃料区画が収納され、空になった後に投下すると武器庫が露出し、攻撃時に使用する想定だった。 U.S. Air Force

RB-58Aハスラー 58-1011は2種類のポッド構成で、ハンドリングトロリーに2分割のミッションポッドが搭載されているのが見える。U.S. Air Force

B-58の初飛行の7ヶ月前、1956年4月には早くもRB-58A偵察機用ペイロードが提案されていた。当時、RB-58は爆撃機と同様、高高度を無人飛行すると期待され、そのミッションポッドは当時としては著しく先進的なものだった。光学センサーの代わりにヒューズのAN/APQ-69サイドルッキング・エアボーン・レーダー(SLAR)が搭載されることになった。これは50フィートの巨大アンテナを使い、高周波で航空機の側方の地形をスキャンし、詳細な地上画像を提供するねらいだった。

ハスラー用のAN/APQ-69ポッドの研究は1956年9月に開始されたが、サイズが大きすぎ燃料搭載ができなくなり、航続距離が大幅に短縮されると判明した。同時に、このポッドは標準的なMB-1ストア(燃料と武器)より長く、角ばっていたため、RB-58は亜音速運用に制限されてしまった。

 

 

戦略空軍のB-58Aハスラー乗員がMB-1ポッド搭載機で緊急発進する。 U.S. Air Force.

AN/APQ-69はセンサーとしての可能性が残っていたが、RB-58用ポッドは追求する価値がないと判断され、1958年にキャンセルされた。ヒューズは1959年2月にポッドを完成させ、B-58A 55-0668に搭載し飛行試験した。ポッド搭載のまま25回のテスト飛行が行われた。

ピーター・E・デイヴィスの著書『B-58ハスラーユニット』によると、同ポッドは「50マイルまでの距離で満足のいく結果を得た」という。解像度は10フィートのオーダーであった。これは当時としては印象的なセンサー性能であったが、ポッドを追加した結果、速度と射程距離が低下し、そもそもB-58に搭載するメリットが失われてしまった。

 

 

 

最終組み立て中のB-58Aハスラー60-1116。後方、右側に見えるのが2分割式のミッションポッド。U.S. Air Force

また、1958年には、メルパーのALD-4電子情報(ELINT)装置を搭載したB-58の電子偵察版の開発案もキャンセルされた。これは敵の電子通信を自動収集し、分析する想定であったが、代わりにSACのRB-47爆撃機に搭載されたが、B-58の宇宙時代の性能には及ばなかった。

それでも空軍は、ハスラーを偵察任務に活用する方法を検討し続けた。1958年6月、ライト航空開発センターの航空偵察研究所から全天候型偵察「システム」の要請があり、これを受けてコンベアはグッドイヤー・エアクラフトに提案を持ちかける。このプロジェクトは「クイックチェック」と名付けられた。

クイックチェックの結果、9番目に製造されたハスラー55-0668がテストベッドに改造された。この機体はYB-58A試作機として製造され、後にTB-58A練習機となったが、この試験作業のためRB-58Aとされ、愛称のピーピング・トムにふさわしい機体となった。

 

 

TB-58A練習機に改造された後、クイックチェック計画のテストベッドとなった55-0668 Peeping Tom。 U.S. Air Force

1960年6月、RB-58Aピーピング・トムはクイック・チェック・プロジェクトで改造され、大幅に改良されたMB-1ポッドの前面にグッドイヤーAN/APS-73というXバンドの合成開口レーダー(SAR)が搭載された。これは、最大80海里の範囲で航空機の両側をスキャンするものです。ポッドからの画像は5インチのフィルムに収められ、後で解析できた。AN/APQ-69ポッドと異なり、燃料搭載スペースも確保された。機体では、機首レドームが改修され、その後ろにレイセオンの前方監視レーダーが設置され、ナビゲーターのコックピット上に恒星追跡装置が新たに設置された。

ピーピング・トムがクイック・チェック・コンフィギュレーションで唯一の作戦行動に投入されたのは、二つの超大国が核紛争の瀬戸際に立たされたキューバ・ミサイル危機の際であった(知られている限りでは)。1962年10月30日、コンベアとジェネラル・ダイナミクスの共同クルーは、キューバの北海岸に沿い特別に改造されたハスラーを操縦し、AN/APS-73でカリブ海に浮かぶ島の地形をマッピングした。

 

1962年10月現在のキューバを基点としたIL-28ビーグル、SS-4サンダル(R-12 MRBM)、R-14(SS-5 スケアンIRBM)の有効射程距離Defense Intelligence Agency

「AN/APS-73は、超音速飛行中に80マイル範囲で詳細な全天候型地形図を提供するのに有効であり、キューバでの飛行も高速で行われた」とデイヴィスは書いている。「しかし、ポッドは亜音速の方がより良い結果をもたらすと証明された」。

キューバ危機でのあまり知られていない活躍にもかかわらず、空軍は年内にクイック・チェック・プロジェクトを放棄することを決定した。その後戦略偵察の任務は、より専門的な他機種が担当した。各機はハスラーの性能には及ばないものの(少なくとも1960年代末にSR-71が登場するまでは)、当時のレーダーセンサーは一般に亜音速プラットフォームから運用する方が有効だったようだ。ソ連への偵察飛行が中止されると、RC-135のような大型機体もソ連国境沿いで運用されるようになった。このようなスタンドオフ・プラットフォームは、より多様な情報収集機器を搭載するスペースに加え、「製品」をリアルタイムで監視する専任オペレーターが搭乗できる重要な利点を備えていた。

B-58A爆撃機がSACに定着した1963年、空軍はキューバ沖での性能に触発されたのか、ハスラー偵察機のアイデアに再び目を向ける。プロジェクト・メインラインでは、既存のMB-1Cミッション・ポッド10機に、低空撮影用の前方パノラマ・カメラ1台を搭載した。このポッドを使用するためB-58Aの45機が改造され、高度500フィート、マッハ1で飛行するミッション・プロファイルが設定された。訓練された乗員は良い結果を出せたが、その他のB-58は戦略偵察任務には真剣に考慮されることはなかった。その代わり、主に自然災害の監視に使用され、カメラは第2コックピットのナビゲーターが操作した。

なお、YB-58Aは偵察ポッドを搭載する予定で17機の就役試験機がRB-58Aとして完成したが、ほとんどはXB-58やYB-58Aとともに各種試験計画に使用された。その後、B-58A量産型に改修され、運用部隊に配備された。

 

 

 

1960年4月13日、カリフォーニア州エドワーズ空軍基地で離陸時に右主脚が故障したRB-58A ハスラー 58-1015。. U.S. Air Force

偵察機としてのハスラーは短命に終わる運命にあった。B-58爆撃機でさえ、運用コストの高さとソ連の防空技術の進歩、大陸間弾道ミサイルの出現により、わずか10年の就役で退役している。

RB-58Aハスラーのマニュアルの表紙。 Public Domain

B-58は、性能と技術において画期的な機体だったが、同時に「こうなっていたかもしれない」という可能性にも目を向けるべきだろう。1950年代後半、B-58のさらに高性能でエキゾチックな派生型、いわゆる「スーパーハスラー」の研究が進められていた。9万フィートで4,000マイルの距離を飛行するコンセプトは、CIAの要請を受けてコンベアーが考案したもので、当然ながら、戦略的偵察プラットフォームとなるはずだったが、攻撃型も構想されていたようだ。

当初の「スーパーハスラー」は、ラムジェットエンジンを搭載したパラサイト2段目と、同じくラムジェットエンジンを搭載した無人3段目を、ほぼ標準的なB-58Aで運搬する3段構えのコンセプトが採用されていたようだ。

最終的には、B-58のDNAをほとんど残さず、ロッキードのA-12と同じJ58ターボジェットエンジンを搭載した単段機のキングフィッシュの設計が行われた。偵察機として開発されたキングフィッシュは、高度12万5千フィートでマッハ6という驚異的な速度を記録すると期待された。

 

 

1959年頃、キングフィッシュの最終コンセプトデザインの図面。コンベアーのデザインは、ロッキードA-12に敗れた。 Lockheed Martin

A-12の登場により、キングフィッシュは行き詰まり、コンベアはCIAや空軍に高高度・高マッハ偵察機を提供できなくなった。

しかし、ハスラー偵察機の物語は、ある意味で一周することになる。空軍が戦略偵察機SR-71を導入し始めると、それにふさわしい乗組員が必要になった。SR-71クルーには、U-2クルーもいれば、B-58クルーで高速飛行に適した飛行士もいた。実際、第9戦略偵察飛行隊に配属された26名のSR-71乗組員のうち、半数はB-58の経験者だった。ハスラーは間もなくお蔵入りになってしまうが、ハスラーを操縦した者の中には、その後何年もの間、戦略偵察の世界で重要な役割を果たした者もいたのである。■

 

The Convair RB-58 Recce Hustler’s Short But Fascinating Career

BYTHOMAS NEWDICK|PUBLISHED OCT 21, 2022 4:22 PM

THE WAR ZONE

 


2017年11月17日金曜日

歴史に残らなかった機体(11)コンベアB-58ハスラー


歴史に残らなかった機体(11)はコンベアB-58ハスラーです。外観と高性能と裏腹に使えない機体になってしまったのですね。システム構築が誤ったというより時代の変化についていけなかったので全員の熱意が無駄になった例です。進化の木の変な枝に入り込んだような機体ですね。そういえば同社の前作B-36も結局使えない装備になってしまいましたね。

The B-58 Hustler Was a Beautiful Mistake

B-58は美しい失敗作だった

Blazing-fast nuclear bomber had many problems

高速核爆撃機には多くの問題があった

The B-58 Hustler Was a Beautiful Mistake
November 16, 2017 Robert Beckhusen


1956年11月11日、B-58ハスラーが初飛行した。高速飛行で核攻撃を目的に作られた独特の美しさを備えた爆撃機だがソ連の戦術変更や技術開発がハスラーの運命も変わった。B-47ストラトジェットの後継機の想定だったが実戦には投入されなかった。
  1. コンベア製デルタ翼のハスラーはマッハ2.0超音速飛行が可能でB-52ストラトフォートレスやB-47より大幅に高速で上昇限度も63,400フィートと他機より高高度だった。
  2. ハスラーは爆撃機としては小ぶりでB-52より全長で64フィート、翼幅で128フィートも小さい。
  3. ハスラーではスピードがすべてで、空軍は9メガトンB53核爆弾一発あるいはB43あるいはB61核爆弾4発を搭載させソ連や中国に飛び込ませ迎撃態勢が届かない高速と高高度を活用するつもりだった。
  4. 1964年にCIAは同機を迎撃可能な中国機はMiG-21フィッシュベッドのみで、迎撃成功の確率は「わずか」と評価した。
B-58A Hustler in 1968. U.S. Air Force photo

  1. それを可能にしたのは四基のJ79-GE-5Aターボジェットで各10,400ポンドの推力を発揮した。デルタ翼で抗力が生まれたため機体形状は再設計で「コークボトル」形にした。大型爆弾ポッドと燃料ポッドは機体下に取り付けた。
  2. 耐熱対策でコンベアはB-58の表皮をはにかむハニカム構造ファイバーグラスをアルミ、鋼板の上にリベットではなく接着剤で貼り付けた。この工法はその後の民間航空機に応用された。
  3. ただしハスラーの小型外寸がソ連領空への侵入機として決定的な欠陥を生んだ。空中給油なしでは行動半径が1,740マイルしかなかった。このためハスラーはヨーロッパに配置するか、相当数の給油機を配置する必要があった。
  4. 短距離性能が空軍内部でも深刻に受け止められていたことが2012年刊行のRearming for the Cold War, 1945-1960 でわかる。著者は米空軍退役大佐エリオット・V・コンヴァースIIIである。
  5. 戦略航空軍団司令カーティス・ルメイ中将は同機を忌み嫌い、SACから排除したがっていた。「1955年に作戦担当のジョン・P・マッコネル少将はカナダならまだしもソ連が敵なら距離が肝心だと皮肉を込め発言していた」とコンヴァースが記している。
B-58 Hustler. U.S. Air Force photo

  1. 構造が複雑なことが事態を悪くしたし、運用費用はB-52の三倍で開発も手間取った。機体を「コークボトル」形状に変更したため開発が遅れ費用が増大した。
  2. 調達機数も変更され、116機と当初の三分の一に削減された。高速性能のため航法、爆撃照準装備もスぺリー AN/ASQ-42を新たに導入したがこれが開発の足を引っ張った。
  3. J79エンジンもトラブルが続き、ブレーキ、射出座席も同様で後者は射出可能ポッドに変えられた。「スピード記録こそ樹立したがB-58は支出の価値があるのか疑問だった」(コンヴァース)
  4. ハスラーの運命を決めたのは二つの要素だった。まずソ連が地対空ミサイル性能を向上し1960年5月に高高度飛行中のU-2スパイ機を撃墜した。使われたS-75(NATO名SA-2ガイドライン)はB-58の上昇限度を数千フィート上回る性能があった。
  5. 解決策として低空飛行があったが空気密度が高いため高速飛行ができない。またハスラーは高速飛行を想定したので低速では機体制御が難しい。これで機体の2割を喪失した。
  6. 次に空軍が開発を同時並行で求めたことがある。
  7. 「中心にシステムは最初から統合された形で企画すべしとの考えがあり、これに基づいて各要素がシステム、サブシステムとして成り立ち、その他支援装備、訓練内容まで同時に準備するものとされた」(コンヴァース)
  8. だがいざ着手すると問題が洪水のように全体事業に影響した。「技術問題が出現するたびに事業全体の見直しが必要となるか問題解決まで待たされた。このため開発が遅れ、せっかく準備した生産体制を廃棄する事態も発生し、費用が上昇し、展開が先延ばしされた」
  9. どこかで聞いたような話に聞こえるのはF-35のためだ。空軍は同時並行方式で費用を抑えられるとステルス戦闘機事業で公約していたが事実はその真逆だ。
  10. B-58は一回も実戦投入されず、非核任務も想定外だった。1970年1月に全機が退役し、空軍の核攻撃ミッションはB-52、B-1、F-111、ステルスB-2、弾道ミサイルに引き継がれた。なお、ミサイルは同時並列開発の成功例である。
  11. B-58の失敗例は画期的な新型機開発で同時並列手法を誤る危険性を包み隠していたのだ。■