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2018年8月27日月曜日

歴史のIF(5) B-52がなかったら米空軍はどうなっていたか

歴史のIF(5)----B-52が初飛行したときに生まれている人がこれから減っていきますが当の同機は2050年代まで稼動するとは恐れ入ります。米国としても投資効果が史上最高の機体になりますね。ではそのB-52が生まれなかった世界はどうなっていたでしょうか。


The Air Force Would Have Serious Problems if the B-52 Bomber Never Happened B-52がなければ米空軍は大変な状況だったはず

Image result for B-52H wikipedia

ーイングB-52ストラトフォートレスは1955年以来米国の国防最前線で飛び続けている。当初はソ連への戦略核兵器投下が役目だったが、ソ連崩壊後もミッションを実施している。

これまでミッションの範囲が広がり、ヴィエトナムでは通常爆弾で戦略爆撃を、ソ連海軍には対艦攻撃を、イラク軍には通常弾で阻止消耗攻撃を、その他テロ対策で破格主任務もこなしてきた。現時点ではB-52はB-1BやB-2退役後も供用され、また初飛行時に生まれていない人が大多数となっているが2050年を過ぎて最終的に退役する予定だ。

だがそのBUFFが米空軍とその他軍の間で繰り広げられた調達をめぐる争いに敗れていたらどうなっていただろうか。
米空軍さらに米軍全体としてB-52が生まれなかった場合の穴をどのように埋めていただろうか。

第二次大戦終結してほどない時期に爆撃機構想が多数生まれた。米陸軍航空軍(まもなくUSAFになった)は戦時中はB-29生産に集中するため新型爆撃機の開発を凍結していた。

ジェット推進方式や核兵器の登場で調達そのものに変化が生まれ、ピストンエンジン方式のコンベアB-36ピースメーカーが大陸間戦略爆撃機として唯一の存在だった。だがB-36の開発開始は1940年代初頭でドイツ攻撃を念頭においた機体でジェット時代についていけないのは明白だった。このためUSAFにはピースメーカーを整備しながら並行して新型機開発が必要だった。その後B-52になった機体の原型は1945年末に設計図としてあらわれた。

B-36, Wikipedia

B-52設計案はその後二年間で大幅変更を受け、直線翼のピストンエンジン爆撃機から後退翼ジェットエンジン爆撃機になった。だが1947年12月にキャンセルになるところだったのはコスト超過とともにエンジンで不安が生まれたためだ。その他数社も実用化はともかく代替提案を示し、ストラトフォートレスの生き残りは疑問視された。

B-52がキャンセルされていればUSAFは苦しい立場に追いやられていただろう。

B-36は初号機が工場を出た段階ですでに陳腐化しており、短距離しか飛べない戦闘機を爆弾倉に搭載するなど対策が必要となっていた。ソ連迎撃機はピースメーカーをやすやすと餌食にしたはずで、このためカーティス・ルメイ司令官は朝鮮戦線への同機投入をためらった。

USAFには中距離爆撃機としてボーイングB-47ストラトジェット、B-50(B-29改良型)があった。それぞれ航続距離やペイロードに制約があったが、海外基地の利用や空中給油によりソ連国内の目標への到達は可能だった。コンベアB-58は1960年に供用開始となったが、総合的に及第点しか取れない機体だった。つまりピースメーカー後の中距離爆撃機では戦力不足だったろう。
YB-60 Wikipedia


USAFはB-60に期待したかもしれない。コンベアがB-36をジェット推進式にした機体でB-36と機体に共通点が多々あった。機体の大きさや操縦性の不足などだ。B-60はB-52より爆弾搭載量が大きいものの速力が低かった。史実ではB-60は試作機一機が初飛行したが不採用となった。B-52がそれだけ期待にこたえる存在だったためだ。ただしB-60はB-36と部品多数を共用していたためストラトフォートレスより低価格になるはずだった。

だがB-60ではソ連がSA-2地対空ミサイルを稼動させた後の状況に適合するのが大変だったはずだ。機体の大きさのためB-52でその後実現した低空侵入飛行ミッションは苦手で、電子装備を搭載する余裕が機内にあったことは利点となっただろう。総合すると空軍がB-60を長期稼動させていたとは考えにくい。


空軍はB-70推進に傾いた。国防総省がB-70をキャンセルしたのはソ連の防空技術の進展が理由だったが、B-52が満足できる結果をだしていたためもある。戦略爆撃機で穴が開いていればB-70が実現した可能性は高かっただろうが、SAMや高速迎撃機の存在は大きかった。B-70にはB-52並の柔軟性が欠如していたため、BUFFと同じミッションの実施は容易でなかったろう。

USAFが外国機材調達に傾いた可能性がある。USAFはイングリッシュエレクトリック製キャンベラをマーティンにB-57としてライセンス生産させ1950年代の中型爆撃機不足を補ったが、米企業の設計案不足をそのまま英国機でカバーしたとは思えない。ただしアヴロ・ヴァルカン、ハンドレページ・ヴィクター、ヴィッカース・ヴァリアントにはそれぞれ米国中型爆撃機にはない長所があったし、ペイロードはB-52やB-60に匹敵するものがあった。

さらに空軍は核兵力整備では弾道ミサイル開発に努力を振り向けていた。有人爆撃機に対して弾道ミサイルには大きな利点があり、USAFの組織文化を変えていった。ソ連の統合防空体制が整備されたことでUSAFもミサイル依存を高めていき、当然その他装備の調達に影響が出た。

B-52はその他の爆撃機でできなかった仕事をこなしていった。ミサイル時代でも十分役割を果たしており、長距離低空侵攻戦略爆撃機として、大量通常爆弾の搭載機として、その他長距離軍用機として活躍した。B-52後継機の中で同様の働き振りを示した機材はない。
B-52が存在していなければヴィエトナム戦の余波で生まれた戦闘機出身将官の興隆で戦術機材重視の流れがいっそう強まっていただろう。B-60あるいはB-70(またはその双方)が第二次大戦同様の編隊飛行でハノイをラインバッカーII作戦で爆撃していたら当惑する結果になっていたはずで、爆撃機至上主義者でさえ勘弁してほしいと思う事態だっただろう。1970年代に入りネット評価が実用化されて戦略爆撃機部隊に新しい意義が生まれたとはいえ、爆撃機推進派は依然として強力でB-1Bを実現させている(あるいはその前身のB-1Aも供用されていたかも)が、B-52不在で生まれた穴の多くはミサイルや戦闘機が埋めていただろう。

米国がB-52調達に向かわなかった可能性を考えるのは困難なほどだ。ただしその場合は空軍全体や国防総省に波及効果が生まれいたはずだ。B-52が通常型核運用の双方で使えなかったら空軍の姿も変わっていたはずだ。B-70ヴァルキリーが今も供用中だったかもしれない。B-1Bランサーは生まれていなかったかもしれず、B-60が形を変えながら今も供用されていたかもしれない。■

Robert Farley , a frequent contributor to TNI, is author of   The Battleship Book .

2018年2月7日水曜日

★この装備はなぜ実現しなかったのか、配備されていたらどうなっていたか

The Navy Had a Plan to Build a Mini 'B-2 Bomber' To Fly from An Aircraft Carrier




February 1, 2018


兵器体系が消えるのにはいろいろな理由がある。登場時期が悪いこともあり、予算が厳しい状況とか取り扱い人員に難がある場合もある。あるいはペンタゴンの官僚主義の犠牲になったり、各軍の対立にまきこまれることもある。また発想そのものに難があり日の目を見ないこともある。同様に実は低性能の防衛装備が追及を受けずにそのまま居座ることもあれば、隙間の存在になり生き残ることもある。
この記事では正式採用されなかった装備五種類に脚光を当てるが、生き残っていれば相当に変身していたかもしれない装備もある。変身ぶりで戦争そのものの様相は変わらなかっただろうが(勝敗は技術だけで決まらない)、波及効果が国防産業全般に広がっていた可能性は考えられるし、米軍の戦闘の仕方や調達方法でも変化を生んでいたかもしれない。ただし以下のすべての装備が優れていたわけではなく、取り消しにはそれなりの理由が見つかる。


AH-56シャイアン:
1960年代はじめ、米陸軍はヘリコプター部隊の真価に気づき始めた。第二次大戦末期にヘリコプターは投入されていたが、朝鮮戦争で偵察や傷病兵搬送に広く使われはじめられた。機体技術が次第に発展すると高性能ヘリコプターで広範なミッションをめざした。
その花形になるはずだったのがAH-56シャイアンで画期的な設計で高速飛行と攻撃力の両立をめざした。シャイアンで輸送ヘリコプターの援護にあて、地上攻撃支援や単独攻撃を想定した。とくに推進機構がすぐれ時速275マイルをめざした。
だがそのシャイアンは自らの目標に倒れてしまった。技術が未成熟で初期試作型は問題の山に直面、墜落もした。空軍はシャイアン構想が気に入らず、陸軍が近接航空支援任務を奪うと疑った。空軍は固定翼攻撃機を提案しこれがA-10になったが、シャイアンをつぶすためだった。ヴィエトナム戦争で国防予算が厳しくなり、予算は戦闘継続に流用された。
シャイアンは制式化されなかったが、数年後に陸軍はAH-64アパッチを求めてきた。このためシャイアン取り消しは高性能攻撃ヘリコプター出現を遅らせる効果になっただけだが、アパッチは通常型機構の採用でシャイアンよりはるかに安全度が高い装備となったが、逆に陸軍航空戦力の発展性にブレーキをかける効果になった。


B-70 ヴァルキリー:
B-70ヴァルキリーにはオペラのような展開が似合う。当初B-52ストラトフォートレス、B-58ハスラーの後継機として想定されたB-70は高高度マッハ3でソ連防空網を突破する機体として企画された。先の大戦中の爆撃機攻勢を経験した「爆撃機マフィア」のお気に入りのB-70こそ空軍の将来像の象徴だった。
B-70は美しい機体で、むしろ宇宙船のような姿だ。試作機がデイトンの米空軍博物館に残る。


だがヴァルキリーはとても高価な機体でその値段が命取りとなった。まずアイゼンハワー大統領が、その後マクナマラ国防長官がICBMでソ連本国に核兵器を届ける性能が向上する中でこれだけの出費で重爆撃機を作っていいのかと疑問を呈した。ソ連の迎撃装備の性能向上さらに地対空ミサイルの登場でB-70の任務遂行は当初より危険になっていった。


わずか二機しか製造されず、しかも一機をPR撮影中に喪失し、空軍は生産を終了した。15年後にB-1Bが就役したが同機の特徴を残している。


B-70が空軍にどんな影響を与えていただろうか。極めて悪い影響しか思いつかない。戦略爆撃機を一種類増やして予算を使えば戦術航空機材やミサイル部隊にしわ寄せが行っていただろう。B-70をラインバッカーI、II作戦で北ヴィエトナム空爆させていたかもしれないが、B-52以上の戦果はあげられなかったはずだ。B-52とB-1Bがともに驚くべき柔軟性をミッション実施や改修で示したのは乗員がそれぞれ4名、5名と多いのも理由だが、ヴァルキリーは2名運用前提だった。実施していれば三十年間の深い穴を生んでいたはずの調達を取り消すことでマクナマラは空軍を救ったと言える。


A-12アヴェンジャー:
空母運用のステルス攻撃爆撃機があればどうなっていたか。1980年代中ごろに米海軍は愛されながらも脆弱性が目立ってきたA-6イントルーダー後継機種を模索していた。ステルス技術をもとにマクダネル・ダグラスはA-12アヴェンジャーを作った。亜音速「全翼機」爆撃機はまさにB-2スピリットの縮小版の趣だった。ステルスと空母運用に必要な柔軟性を組み合わせたA-12は他に例のない長距離攻撃能力を実現するはずだった。空軍もA-12に関心を示し、F-111アードヴァークの後継機に検討したほどだった。


ただし問題があった。初期ステルス効果への期待は楽観的すぎた。また改修で機体重量が増えた。出費もどんどん増えたが機体は一向に飛ばなかった。だが最大の問題はアヴェンジャーの設計製造サイクルが冷戦終結時になったことだ。国防予算緊縮で国防長官ディック・チェイニーはA-12を中止し低リスク事業を優先させた。


中止の影響は今も残る。高性能ステルス攻撃機のかわりに海軍はスーパーホーネットで手を打ち、改修を加えつつ供用中だ。ステルス機の必要からF-35Cが生まれたが、F-35事業は「大災難」と「歴史的大災難」の中間を漂っている。かりにF-35Cが使い物になっても、スーパーホーネット採用で長距離攻撃能力を断念してしまったことに変わりない。空軍はA-12と類似点の多い次世代爆撃機を開発中だ。A-12を葬って米海軍空母航空隊の能力は変質し、その影響はこれからも続く


将来型戦闘システムズ:
21世紀初頭に軍事革命(RMA)理論から陸軍n「将来型戦闘システムズ」が生まれた。ひとことでいえばRMA理論を近代戦に応用して精密誘導砲弾、高速情報処理、リアルタイム交信、全般的センサー性能を組み合わせて陸軍の戦闘方法そのものを変貌させようとした。将来型戦闘システムズは兵器、車両、センサーを組み合わせてあらゆる戦闘場面で殺傷力を決定的に高めようとした。陸軍はこのシステムでセンサーと砲を組み合わせたり、攻撃力を増進しながら被探知性を減らそうとした。陸軍は軽量ながら足腰の強い旅団が生まれるとFCSに期待した。
だがブッシュ政権が米陸軍をイラク戦に投入した。イラクではFCS開発に深刻な影響が生まれた。知的資源は戦闘にどう勝利するかよりFCSコンセプトを極限まで考えることに費やされた。戦闘から各種システムが生まれたがどれもFCSコンセプトに合う存在にならなかった。おそらく一番重要だったのは戦闘の進展でRMA理論に疑問が生まれたことで、非正規戦闘員が最先端技術を駆使する米軍に多大な損失を与えたことだ。


FCSはゆっくりと死に向かった。システムにシステムで対応する考え方は戦場で必要な装備を一つずつ整備するニーズに勝てなかった。陸軍はイラク、アフガニスタン戦で新旧装備取り混ぜて戦い、そこには将来の展望の入る余地はなかった。FCS構想の個別構成部品はまだ残っているが、構想は予算と軍の現実の前に屈服した格好だ。


制海艦:

超巨大空母数隻の代わりに海軍が小型空母の大量の建造に乗り出していたらどうなっていたか。第二次大戦中に英海軍、米海軍は護衛空母を大量投入し、対潜戦や上陸作戦の支援にあてていた。


1970年代初頭にエルモ・ズムワルト海軍大将が制海艦(SCS)構想を提唱し、小型空母で海上交通路をソ連の長距離攻撃機や潜水艦から守うろとした。超大型空母の建造費高騰と長年活躍してきたエセックス級空母の退役を受けてズムワルトは低コスト解決策として大型空母群の航空運用能力を一部割愛した形を想定した。護衛空母は大西洋の戦いで有益な働きを示し、制海艦も同様にNATO対ワルシャワ同盟の戦いで効果を上げると期待したのだ。


米海軍は構想をヘリコプター空母USSグアムで実証しようとしハリヤー戦闘機まで加えた。最終的に海軍は新型艦建造費と超大型空母建造へのリスクが出ることを勘案して構想を退けた。


ただしタラワ級ワスプ級の大型揚陸艦が制海任務に代わる存在になる。名称こそ強襲揚陸艦だが米海軍は制海艦を取得しており、もっと広い範囲の任務を与えているのだ。また他国に小型空母を建造させてSCSが想定した任務を任せればよい。英国、スペイン、イタリア、日本が本質的にSCS任務を果たすことになる。


制海艦を追い求めると海軍戦力構造の変更につながり、海軍航空兵力でも変化が生まれる。最大の違いは用兵思想で、制海艦で海軍航空部隊が国際安全保障に与える役割が変わっていただろう。小型空母で多様な任務に効果を生む能力でマハン流の大海軍から自由になれるかもしれない。また最新CVNの建造費が膨大になっていることから、SCS構想で海軍兵力投射の在り方も違ってくるかもしれない。


結論:
技術は疑いなく重要だが、個別の技術結果が戦術効果で決定的に有利になることはまれだ。むしろ、技術革新や技術要素の選択で軍事組織や広義の軍産複合体は戦争への対応が決定される。それぞれのシステムで画期的な組織上の役割や優先順の見直しがあってしかるべきだ。また各装備の取り消しで性能に大きな穴が開き、その穴を埋めるべく画期的な手段が必要となることが続いている。


選外:
USSユナイテッドステーツ級空母、USSモンタナ級戦艦、USSレキシントン級巡洋戦艦、B-49、F-23「ブラックウィドウ」、F-20タイガーシャーク。

Robert Farley is a senior lecturer at the Patterson School of Diplomacy and International Commerce. His work includes military doctrine, national security, and maritime affairs. He blogs at Lawyers, Guns and Money and Information Dissemination and The Diplomat. Follow him on Twitter:@drfarls.