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2021年1月11日月曜日

歴史に残らなかった機体21 なぜこの機体は採用されなかったのか----戦略空軍でつなぎ機材として導入されたFB-111のストレッチ版とB-1の関係

 歴史に残らなかった機体21

FB-111H concept Art

GENERAL DYNAMICS

 

FB-111Aは戦略空軍用のF-111アードヴァークで人気を呼ばない機材だった。戦術用途のF-111は投入当初こそ問題があったが最終的に冷戦時の最優秀機材とまで評価される機体になった。一方でFB-111は戦略空軍で補完的な存在の機体で76機が製造され次世代爆撃機が登場するまでのつなぎだった。

だが当初構想のB-1が1977年に開発中止となると、FB-111にチャンスが急遽開けた。大型で高性能のB-1の後釜として空軍は改良型「スーパーFB-111」の可能性を検討し始め、B-1がレーガン政権で復活する1981年まで構想は残っていた。再開したB-1は今日のB-1Bランサーである。

FB-111Aのメーカー、ジェネラル・ダイナミクスでは1974年から同機の改修を検討しており、航続距離とペイロードの不足分は同機が戦略用途を想定していなかったためで、戦略空軍も意思に反して同機を運用していた。

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76 機導入されたFB-111As がフライトラインで点検を受けている。

 

ストレッチ型FB-111AはFB-111Hと呼ばれ、ジェネラル・ダイナミクス社内で秘密のうちに開発構想を固める一方で、空軍はB-1に注力していた。同社は自社資金10百万ドルを投じた研究を開始し、風洞実験は800時間に及び、縮小モデルでレーダー断面積の測定までフォートワース(テキサス州)で行っていた。

ジミー・カーター大統領は1977年6月にB-1開発事業をキャンセルし、「非常に高価な兵器」で「今必要な機材ではない」としたのは「巡航ミサイルの最近の進歩」が理由だとした。敵地侵攻型爆撃機構想では速力を重視しており、スタンドオフ地点からの巡航ミサイル運用は想定していなかった。

空軍はB-1が消えたことで航続距離、搭載量をともに二倍にする大胆な改修案に注目した。

下院歳出委員会も代替策を模索し始めた。リストにはB-1再開、完全新型B-X侵攻型爆撃機、B-52の新型侵攻型案、既存B-52を巡航ミサイル母機にする、民間ワイドボディ機を巡航ミサイル発射機にする案、さらにFB-111H案があった。

下院はB-1を支持していたが、1977年9月に上院軍事委員会は1978年度にFB-111H検討を提言した。同機はB-1とほぼ同じ機能を実現できるが、兵装ペイロードはB-1の半分程度になるとあった。

FB-111H初号機は供用中のFB-111Aを改装すればよいので二年で運用開始できるとあり、試作2号機はその半年後に実現するとあった。

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標準型FB-111Aが編隊飛行中。

 

ジェネラル・ダイナミクスは二機のテスト案を作成し、1号機で推進系含む性能と安定性、制御、フラッター、運用荷重等を、2号機は電子関係、地形追尾レーダー、航法爆撃制御をテストする予定だった。

性能で問題なければ、65機をFB-111A仕様から改装し、ジェネラル・ダイナミクスは生産ラインを再開し100機を新規製造する構想だった。

167機合計で総額70億ドルとの試算があり、機体単価は42.1百万ドルとB-1Aの半分未満だった。さらにFB-111Hの追加発注で、戦略空軍で老朽化してきたB-52の後継機種にもする目論見もあった。

 

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FB-111H想像図では空気取入口、尾翼の設計変更部分がわかる。 

 

FB-111Aと構造が43パーセント共通でサブシステムの79パーセントも類似性があるH型は基本形アードバークと外観が大きく異なるはずだった。胴体を延長し新型エンジンを格納し、燃料搭載量が増え、兵装庫を拡大したため降着装置を再設計し、空気取り入れ口は別形状になる。F-111/FB-111独特の搭乗員射出モジュールはそのまま採用された。

エンジンはジェネラルエレクトリックF101ターボファン二基で、B-1Aまたその後のB-1Bと同じでアフターバーナーを使い各30千ポンドの推力を生むはずだった。

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B-1Bが搭載する F101 ターボファンエンジンを見る見学者

 

F-111の可変翼構造はそのままだが、後退角はFB-111Aの72.5度が60度になった。これは低空での超音速「ダッシュ」飛行が不要となったためで、H型は海面上でマッハ0.95を出せるはずだった。

その他性能ではFB-111Hは高度36千フィートでマッハ1.6が最高速度で巡航速度はマッハ0.75、低空侵入速度は高度200フィートでマッハ0.85の想定だった。後者はFB-111のマッハ2.2より低速だが、かわりに航続距離や兵装搭載量が増えるはずだった。

胴体は104インチ伸び、全長88フィート2.5インチとなり、FB-111Aの73フィート6インチより大きくなる。機体重量も増え、空虚重量は51,832ポンド、最大重量は155千ポンドとなった。FB-111Aはそれぞれ116,115ポンド、122,900ポンドだった。戦略的な意味を与えるため、機体内部燃料搭載量が二倍の64千ポンドに増やす必要があった。

FB-111Hの真価は飛行距離だった。FB-111Aの5,300カイリに対し、FB-111Hは44%増の7,632カイリの予想だった。空中給油が前提で、低空で時速1,200カイリのダッシュ速度を示し、機内に核爆弾二基を搭載する。さらにFB-111HはFB-111Aと同じ飛行距離ならペイロードが三倍になるはずだった。

 

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509爆撃航空団のFB-111がKC-135ストラトタンカーから空中給油を受ける。Pease Air Force Base, New Hampshire上空。

 

機内兵装庫は二倍に広がり、核兵器も4ないし5発まで収納可能だった。機外ハードポイントも12点に増え、うち6点は空気取り入れ口の下部、側部になるはずだった。FB-111Aも最大6発の核兵器を搭載可能だったが、H型は15発で、自由落下式爆弾、AGM-69短距離攻撃ミサイルの選択が可能で、後者は冷戦時の制圧兵器だった。

FB-111Hのエイビオニクス、機体防御装置はB-1用に開発された装備を流用し、AN/APQ-144レーダー、AN/APQ-134地形追尾レーダー、AN/APN-200ドップラー速度センサー、AN/AJN-16とSKN-2400の慣性航法装置、CP-2Aコンピューター二基、AN/ALQ-131と AN/ALQ-137電子戦ジャマー、AN/ALQ-153/154後部警戒レーダー、AN/ALR-62レーダー警報受信機、AN/ALE-28チャフ・フレア放出機となるはずだった。

FB-111Hを魅力ある選択肢にする別要因はペイロードだった。FB-111Aは戦略空軍所属だったが戦略機材の区分でなく、FB-111Hが実現していれば同じ扱いになっていただろう。そのため戦略兵器制限交渉(SALT)の対象から外れると見られていた。ソ連がTu-22Mバックファイヤーは非戦略機材と主張していたが、米国もFB-111HはFB-111の派生型と発表していたはずだ。

だが上院委員会がB-1ではなくFB-111H導入を決めると下院歳出委員会は不満を表明した。カーター政権に対し同機では期待される戦力とならず、別の機体で侵攻任務を行わせるべきと告げた。1977年10月末に下院は上院提案のFB-111H研究予算を却下し、B-1復活を提案した。

ただしFB-111Hはこれで息の根を止められたわけでなく、再度予算化されれば復活は可能との合意が議員間に見られた。

当時の国防長官ハロルド・ブラウン博士はFB-111Hについて以下記している。「当方の分析ではB-1に対し費用面の優位性は見つからなかった。このため、不確実性もあり、開発に要する時間も考慮すれば、既存機とほぼ同じ水準の性能を有する機体を今から調達する意義がない。ただし、B-1開発を取り消したことで、今後数年たつとFB-111の派生型を整備する方がB-1より安上がりになる可能性は残っている」

 

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B-1A試作機がF-111チェイスプレーンと飛行した。January 1983

 

その後の予算にFB-111Hを求める動きはなかったが、1979年末に空軍はFB-111改良型のFB-111B/C構想に関心を示した。

これもFB-111Aのストレッチ案で燃料、兵装を増やし、エンジン換装をF101にする案だった。FB-111Bの離陸重量は140千ポンドになるとされた。予想兵装料はFB-111H案とほぼ同じだった。いずれも敵領空を高度200フィートでマッハ0.85で突破する構想だった。

再度の提示案ではFB-111Aの66機を新仕様へ改装し、F-111Dも89機改装するとあった。後者は戦術空軍から移籍して同様の改装を施す予定だった。FB-111B/Cは1983年以降に戦力となり、改修作業は1985年に完了するとあった。

FB-111B/C構想では新規製造機体を想定せず、FB-111H事業より予算規模は縮小し、戦略空軍司令リチャード・エリス大将は「侵攻型爆撃機の直近の解決策として最善の策」と評していた。

FB-111B/C構想は1981年でも検討課題に残っていたが、同年10月にロナルド・レーガン大統領がB-1事業復活に踏み出した。低空飛行ミッションに最適化したB-1Bとしてであり、B-2ステルス爆撃機開発にも予算を投入した。

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B-1Bの生産機体一号機がロックウェルインターナショナルコーポレーションのパームデイル工場のハンガーから姿を見せた。

 

FB-111の敗北はB-1の勝利であり、今日でもB-1は空軍の働き手として残っているが、これまで数回に渡り廃止案が出ている。FB-111HあるいはFB-111B/Cが採用されていれば、どんな働きを長期的に示したが不明だが、B-1Bが証明した通常型兵装の大量搭載能力は実現できなかっただろう。

FB-111派生型が低コストで多数調達できれば長距離兵力投射任務をこなしていたはずだ。B-1Bが冷戦後は通常兵器を搭載し今日もこれを定期的に果たしている。長距離運用可能な「域内爆撃機」になっていれば冷戦後の世界でも有効活用されただろう。

とはいえ、今から見ればFB-111は冷戦時の爆撃機で空軍の戦略部門での位置は不動のものでなかったことがわかる。

この記事は以下を再構成したものです。

This Stretched Super FB-111 Was A Low-Cost Challenger To The B-1 Bomber

BY THOMAS NEWDICK JANUARY 8, 2021


2016年7月17日日曜日

歴史に残る機体⑥ F-111 カダフィをあと一歩で殺害できた骨太爆撃機


ずっとなぜF-111はFなのか疑問に思っていましたが、この記事で疑問が解けました。F-117も同様の理由なのでしょうかね。ずっと期待され甘やかされながら活躍できず厄介者になりそうだったのが人生の後半でやっと真価を発揮したようなものでしょうか。でも人件費が高いので退職においやられた、そんな人生もありそうですね。

War Is Boring
ドロップアンドバーン」をするオーストラリアのF-1112008年 Allan Henderson/Flickr photo

The F-111 Was a Muscular Bomber That Nearly Killed Gaddafi

Aardvarks flew combat missions in Vietnam, Libya and Iraq

by SEBASTIEN ROBLIN
  1. 低空攻撃機ジェネラル・ダイナミクスF-111アードヴァーク(ツチブタ)は別の仕様を想定していた空軍と海軍に当時の国防長官が無理やり押し付けて誕生した機体だ。
  2. 開発中はトラブル続きだったが、高性能ハイテク夜間爆撃機として数十年に渡リ供用され、すっきり優雅な姿が特徴的だった。
  3. 米空軍は1960年代初頭には高高度飛行する爆撃機は低速でSA-2などレーダー誘導式地対空ミサイルから逃げられないと気づく。そこで小型長距離超音速爆撃機で地表すれすれを飛びレーダー探知を逃れる新構想が生まれた。
  4. 米海軍も空母防衛のため高速長距離迎撃機に空対空ミサイルでソ連爆撃機を遠方で排除させる構想の検討に入っていた。
  5. 新任の国防長官ロバート・マクナマラは共通機材にすれば両軍の要求を満足させつつ開発費用を大幅に節約できると信じ、空軍海軍は仕様面の妥協は本意ではなかったが、結局TFX事業へ協力せざるを得なくなる。1962年ペンタゴンはジェネラル・ダイナミクスに契約を交付する。
  6. 機体は空軍が望んだ戦略爆撃機より小さいため海軍が使う「攻撃機」の略称を避け、戦闘機の「F」がついた。

革新的な設計

  1. F-111は強力かつ燃料消費が優れたTF30ターボファン(アフターバーナー付き)双発機で、機体内部に爆弾を31千ポンドと作戦半径2,500マイル分の燃料を搭載し、外部タンクをつければ1,000マイル延長できた。空虚重量は20トンという大型機で完全装備するとこの二倍となった。
  2. F-111設計陣には一つ課題があった。飛行は超高速でも離着陸は短距離にする必要があったのだ。
  3. 主翼を小さくすれば抗力が減り、速度は高くなるが揚力が小さくなり離陸速度を早くする必要から長い滑走路も必要となる。当時の超音速戦闘爆撃機F-105サンダーチーフも主翼が小さく、離陸には1マイルもの滑走が必要で運用基地が制限されていた。
  4. そこでF-111では新技術の可変翼が採用された。離陸時は主翼を広げ最大限に揚力を得て、飛行時には主翼をしまい高速を得る。以前も試行はあったが実用化はF-111が初めてになった。
  5. 搭乗員二名はコックピットポッドに隣り合わせで座る。脱出時はロケット噴射でポッドを射出し、宇宙カプセルと同じように地上へパラシュート落下させた。
  6. 鍵となった技術革新は地形追随レーダーで機体前面の地形を把握し衝突回避できる飛行経路を自動形成するものだった。これによりF-111は地上200フィートを夜間や悪天候でも安全に高速飛行でた。
  7. 暗闇を物ともせず長い機首を地上スレスレに飛行することからツチブタの愛称が生まれた。
  8. 初期型は期待通り低空をマッハ1.2で、高高度ではマッハ2.5を出しながら着陸滑走路長はわずか2,000フィートで十分だった。また戦術機で初めて米大陸からヨーロッパまで無給油で横断飛行できた。
  9. だがF-111の基本設計は空軍の要求内容を重視していた。空母搭載迎撃機モデルF-111Bの公試結果はひどい有様でマッハ1を超えるのに苦労するほどだった。多額の出費の末の妥協の挙句、海軍型はスクラップにされた。ただし一部の機構はF-14トムキャットに引き継がれている。

  FB-111s. U.S. Air Force photo

アジアへの展開

  1. 空軍のF-111戦闘デビューは幸先悪いものだった。F-111A分遣隊がヴィエトナムに展開したのは1968年でうち3機がわずか55回の出撃で墜落喪失したのは主翼の安定機構の不良のためだった。空軍はF-111全機を飛行停止とし、解決に100百万ドル支出した。
  2. 1972年にラインバッカー空襲が始まるまで実力発揮の場がなかった。北ヴィエトナムのレーダー網をかいくぐりF-111は夜間空襲で飛行場や対空陣地を粉砕し、その後に続くB-52用に防空体制を弱体化した。
  3. アードヴァークは護衛戦闘機、電子支援、空中給油機が不要で悪天候でも稼働可能だった。ヴィエトナム戦で延べ4千回ミッションをこなしたが戦闘中喪失はわずか6機と当時の全機種で最低水準だった。
  4. F-111の東南アジア最後の実戦はカンボジアでクメール・ルージュがコンテナ船S.S.マヤゲスを拿捕した1975年5月だった。アードヴァーク2機が訓練飛行中で同船を発見し、その後1機のF-111が同船に随行していたクメール・ルージュ哨戒艇を撃沈した。
リビア空爆の準備をするF-111F,1986年4月 U.S. Air Force photo

派生型各種

  1. F-111は各型あわせ563機が製造され、A型に続くD型、E型は電子装備が充実し、エンジンの空気取り入れ口の変更と、推力がを増加した。
  2. FB-111は戦略爆撃機でエンジン性能を引き上げ全長を2フィート延長し燃料を追加搭載した75機が戦略航空軍団で稼働した
  3. F-111Cはオーストラリア専用に米国が売却したもので、FB-111とF-111Eの特徴を併せ持っていた。
  4. 決定版がF-111Fで推力35パーセント増のエンジン、性能向上型レーダー、ペイヴトラック赤外線目標補足ポッドで地上目標を捉え、精密誘導弾薬で攻撃可能だった。
  5. 1970年代中頃から42機のF-111Aが無武装のEF-111Aレイヴン(大カラス)電子ジャミング機に15億ドルで改装された。EF-111の中核装備はALQ-99Eジャミングポッドでレーダーを放射線で妨害し、味方機の探知を不可能にした。
  6. ジャマーの電流は機内に漏れて搭乗員の毛髪が立つほどでだった。このためレイヴンは「スパークヴァーク」の異名がついた。EF-111は尾翼上の受信用ポッドで識別が可能だ。
F-111F がマーク82爆弾を訓練投下している。1986年、 U.S. Air Force photo

エルドラドキャニオン急襲作戦

  1. F-111が世界史に再び現れたのは1986年でリビア工作員がベルリンのラ・ベルナイトクラブを爆破し米軍人2名が命を落とした事件の直後だ。
  2. レーガン大統領はリビアの独裁者ムアマール・カダフィの住居をトリポリ郊外で攻撃する命令を下した。作戦名はエルドラドキャニオン作戦とされ、国家元首を空爆で初めて暗殺する先駆けとなった。
  3. トリポリはSAMの25陣地で守られていた。F-111F一個飛行隊18機が攻撃の中心となり、4機のEF-111レイヴンが防空レーダーを妨害した。別に海軍がベンガジ付近を空襲した。
  4. ヨーロッパ各国が上空通過を拒否したためアードヴァーク各機は英国を離陸後、スペインへ迂回しフライトは13時間に及び空中給油を往復で6回行った。戦闘機の最長ミッション記録となった。
  5. 空爆は大きな効果を上げとはいうものの、F-111の作戦効果と作戦内容で不満足さが残った。F-111は1機を喪失。おそらくSAMによるもので乗員は死亡した。4機はエイビオニクス故障で兵装を投下できず、1機はエンジンのオーバーヒートでスペインに緊急着陸を迫られた。7機は目標を外し、爆弾数発が一般人居住地に落下し、危うくフランス大使館に命中するところだった。
  6. カダフィは空襲の直前にイタリア首相から警報を受け辛くも逃げ延びた。子ども8名と妻が負傷し、養子の幼児ハンナが死んだとされる。(ハンナの出生については謎があり、実際に生き残ったとも言われる)
  7. カダフィは衝撃を受けたものの、その後もテロ攻撃を継続し、中でもパンナム73便のハイジャック、スコットランド、ロッカビー上空でのパンナム103便爆破はよく知られている。
砂漠の盾作戦でのF-111F U.S. Air Force photo

イラク

  1. 1991年1月17日、砂漠の嵐作戦開幕の夜にアードヴァークは砂漠を低高度で縫うように飛び、イラクの防空、主要軍事施設をレーザー誘導爆弾で攻撃した。一方、EF-111レイヴンは連合軍部隊に随行しイラク国内深くに侵入し、イラク防空レーダーをジャマーで妨害した。
  2. 1991年のイラク戦に投入されたのはF-111Fが66機とF-111Eの18機でミッションは5千回にのぼった。
  3. 風説と違い、開戦初日のイラク空軍は無力ではない。F-111の2機がMiG-23の赤外線誘導式R-23ミサイルにより被弾した。MiG-29も別のアードヴァークをR-60ミサイルで被弾させている。頑丈なアードヴァークの面目躍如でこの3機は基地に帰還している。
  4. 2月にはEF-111でそこまで幸運でない事例が出た。敵機を探知後、回避行動中で地上に激突し、乗員全員が死亡した。
  5. ただしジェイムズ・デントンの操縦するレイヴンは尋常でない勝利を手にした。砂漠の嵐作戦初日にデントンのEF-111は早朝の暗さの中を高度400フィートで飛行し、F-15E戦闘爆撃機編隊と上空護衛するF-15C戦闘機編隊を先導していた。
  6. 飛行場H3を通過するとイラクのミラージュF1戦闘機一機が後方から迫ってきた。デントンは鋭い左旋回のあと右に方向を変えチャフを放出し、熱追尾ミサイルを回避した。イラクのパイロットはレイヴンの回避行動に対応する中で空間識を失い、地上へ激突した。無武装のレイヴンが空中戦勝利をあげ、F-111「戦闘機」となった。
  7. イラク防空網が弱体化すると、アードヴァークは地上攻撃に中心を移した。F-111Fのペイヴタック装備は「タンク・プリンク」すなわち赤外センサーによる装甲車両識別で効果を発揮し、レーザー誘導爆弾を頭上から投下した。F-111はイラク車両1,500両を識別した。
  8. その他の標的にサダム・フセインが妨害工作をした油田の連接管がありペルシア湾を汚染した原油流入を止めた。
  9. 砂漠の嵐作戦はアードヴァークの最後の現役活躍の場となり、F-111は1998年に米空軍から退役した。アードヴァークは効果は高いが保守点検コストが高く、空軍は短距離攻撃ミッションはF-15Eストライクイーグルで、長距離攻撃任務はB-1爆撃機が引き継げると判断した。
  10. 空軍にEF-111の交代機種がなく、ジャミング任務は海軍海兵隊のEA-6BプラウラーとEA-18Gグラウラーが今でも実施している。
オーストラリのゴールドコーストで「ダンプアンドバーン」をするF-1112008年.Simon Morris/Flickr photo

オーストラリア

  1. オーストラリアのF-111は2010年まで供用され、同国では愛情をこめ「ピッグ」と呼ばれた。
  2. 1973年受領のF-111C24機に加えFB-111を15機、F-111A4機をオーストラリアは運用した。戦闘投入は一回もなかったが、オーストラリアはF-111で兵力投射能力を確立し外交上の強みとなった。
  3. ピッグはオーストラリアの航空ショーの目玉で燃料を放出したところにアフターバーナーで点火する「ダンプアンドバーン」は有名だった。同国は対艦ミサイル運用の改修のほか、4機を偵察用に改造した。
  4. ただし運航コストが高く、F-18Fスーパーホーネット24機に交代させた。
  5. こうしてF-111は全機が退役したが、類似機種がまだ使われている。ロシアのスホイSu-24フェンサーはF-111の直後に企画され、驚くほど外観や任務が似ており、可変翼付きでもある。
  6. アードヴァークの航続力、速力、兵装搭載量には及ばないが、Su-24の生産数は三倍で、今日でも300機近くが稼働中だ。
  7. トルコ空軍のF-16が2015年にシリア上空で撃墜した機体もロシア空軍のSu-24で外交面で大事件になった。■