ラベル F-100スーパーセイバー の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル F-100スーパーセイバー の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2021年2月8日月曜日

歴史に残る機体31 ノースアメリカンF-100スーパーセイバーは初の超音速ジェット戦闘機でセンチュリーシリーズの一番手、高い事故率に苦しみつつも、ベトナムで活躍した。

 歴史に残る機体31


 

 

1947年10月14日、オレンジ色に塗ったベルX-1をチャック・イエーガーが操縦し、

水平飛行で初めて音速の壁を破った。X-1はロケット推進の実験機だったが、ジェットエンジン技術も進んでおり、超音速飛行の実現もまもなくとの期待が高まっていた。

 

ノースアメリカンは自社事業でF-86セイバーを超音速仕様に進化させようとしていた。セイバーは35度後退翼で高速度性能を実現した。F-100「スーパー」セイバーでは45度にし、機首の空気取入口は押しつぶした台形状になった。1950年代当時の新鋭機「センチュリーシリーズ」で一番手となったF-100についたニックネームは100を短くした「ハン」だった。

 

エンジンはJ-57-P-7 ターボジェットでアフターバーナーつきで、高高度で時速850マイルを実現した反面で燃料消費も著しかった。F-100は速度記録を更新した。

ghter

 

空軍はF-100Aを1954年10月に供用開始したが、事故が多発し、空中分解でエースパイロットのジョージ・ウェルチが死亡し全機飛行停止となった。尾翼が小さすぎることで不安定になり制御不能なヨーが発生したためだった。

 

この問題は解決したものの、ハンには別の欠陥もあった。高速発射可能な20ミリM-39機関砲4門を搭載したものの、想定がすでに旧式になっていた。空対空ミサイルはまだなく、長距離捜索レーダーもないまま、短距離性能の欠点を補うため落下式燃料タンクを追加した。事故多発のF-100Aは早くも1958年に第一線を退いた。

 

RF-100A高速偵察機にはカメラ4基を機関砲の代わりに搭載し、短期間ながら成功作とされた。ドイツ、日本に配備され、高度50千フィートという高高度で東欧、中国、北朝鮮上空を飛んだ。当時は同機に追いつく迎撃機がなかったが、1956年に更に高高度を飛ぶU-2に交代した。

 

その後登場したのがF-100C戦闘爆撃機で476機が生産され、主翼を延長強化し、エンジンを強力なJ-57-P21 とし、最高時速が924マイルとなり、パイロン6箇所に6千ポンドの兵装を搭載した。さらに燃料搭載量が2倍になり、空中給油用のプローブもついた。これを利用しF-100Cの三機編隊が単発機として最長距離記録となったロサンジェルス-ロンドン間飛行を14時間で1957年5月13日に実行した。サンダーバーズ飛行展示チームがF-100Cを1956年に採用し、ソニックブームで地上の群衆を驚かせるのが常だったが、FAAにより禁止された。

 

F-100Dはさらに洗練され、1274機を製造し、尾翼主翼をさらに引き伸ばし、レーダー警告装置を搭載し、機体下部にハードポイント7つ目が追加され、AIM-9B熱追尾空対空ミサイル運用が可能となった。C型D型で搭載可能な兵装はナパームキャニスター、ズーニ2.75インチロケット弾、クラスター爆弾、AGM-45ブルパップ・AGM-83の対地誘導ミサイルまで多岐にのぼった。

 

NATOに配備されたF-100飛行隊は戦術核兵器4種類を運用し待機した。だが、核爆弾投下の場合に高速機といえども爆発の影響を受けずに脱出できたのか。通常兵器でも同様にリスクがあったが。

 

ハンパイロットは「肩越し」トス投下方式を訓練し、超音速バレルロールで上昇するのだった。機体が垂直に近づくと機内のMA-2低高度爆撃装備が核爆弾を自動投下する。爆弾が弧を描き落下すると、スーパーセイバーはロールしアフターバーナーを点火し反対側に逃げるのだった。

 

空軍はF-100でZEL(ゼロ距離発進)も試し、巨大ロケットブースターを機体下に装着し、トラックの荷台から発進させた。この方法を試したのはNATO航空基地がソ連の核攻撃で破壊された場合の代替離陸方法が必要だったからだ。テストは順調に進んだがZELが実際に採用されることはなかった。

 

Vietnam Workhorse—and First MiG Kill of the War?

 

1961年4月、フィリピン配備のF-100Dがタイ王国へ移動し、東南アジアに初めて米軍ジェット機が配備された。実戦出動の機会がなかったが、1964年に北ベトナム対空陣地制圧に出動した。1965年3月2日にローリングサンダー作戦でF-105戦闘爆撃機の援護を開始した。

 

1965年4月4日にはドナルド・キルガス大尉操縦のF-100がタンホア橋空襲部隊の援護にあたっていると、北ベトナムのMiG-17の四機編隊が雲の中から現れ、ベトナム戦初の空対空戦闘がはじまった。MiG-17は速力が劣りミサイルも搭載していなかったが、強力な機関砲三門がF-105を撃破し、二機目にも甚大な損害を与えた。

 

キルガスは燃料タンクを落下し、急角度で方向を変えMiGの後方に回ろうとした。ソ連製機体は垂直に降下し、キルガスを誘い込んだが、重量が大きい大尉の機体では引き起こしがそのうち不可能となる。高度7千フィートでキルガスは機関砲を使った。

 

「煙と閃光がMiGの垂直尾翼上に見えたが、すぐ何も見えなくなった。580ノットで飛んでいた。トンキン湾のしぶきが見えたと大袈裟に言うつもりはないが、ぎりぎりで機体を上昇させた」

 

当日にMiG三機を撃墜したが、二機はベトナム軍地上砲火によるものだった。3番目の機体がキルガスの相手で、実戦で初のMiG撃墜事例のはずだったが、空軍は「可能性濃厚」としただけだった。

 

その後のF-100は地上部隊支援任務で南ベトナムに回された。1967年にF-100C配備の州軍飛行隊が配属された。最盛期には南ベトナムに490機ものスーパーセイバーが展開し、毎日平均地上支援ミッション2回をこなし、予め設定した標的を攻撃したほか、地上部隊の求めに応じ近接航空支援をおこなった。

 

空軍は複座のF-100Fを初の「ワイルドウィーゼル」に投入し、敵防空レーダーを探知させた。EF-100Fにはレーダー受信機2つを搭載し敵レーダーの位置をわりだし、位置を随行するF-105に攻撃させた。その後のウィーゼル任務ではAGM-145シュライクレーダーホーミングミサイルでレーダーを撃破した。試行結果に満足した空軍はウィルドウィーゼル任務にF-105やF-4を投入した。F-100Fは「高速前方航空統制機」になり敵を探知すると煙ロケットで印をつけ僚機に攻撃させた。コールサイン「ミスティ」の高速FACは防空体制が整った危険地帯上空を飛んだ。

 

スーパーセイバーは高テンポで戦闘投入され、爆弾、ナパームの投下量は40百万ポンドに上り、出撃は360,283回になって1971年に戦場から離れた。この規模はF-4ファントム、F-105のいずれよりも多い。代償もあったベトナムでのF-100喪失は242機にのぼり、対空火砲で186機、基地駐機中に7機を失った。

 

ただし、スーパーセイバーの事故率は高く、コンプレッサー作動中止、主翼損壊、ヨー不安定などのほうが多くの犠牲者を生んだ。全生産2,294機中で889機が事故喪失で324名の生命を奪った。

 

フランス、デンマーク両国がF-100D、F型を運用し、フランスはアルジェ反乱分子の制圧に投入した。台湾もF-100Aを118機導入し、レーダー警報装置及びサイドワインダーミサイル運用能力をその後付与した。台湾機は中国のMiGと対決したほか、危険なスパイ任務にも使われたといわれる。

 

トルコはC型D型F型を200機以上調達し、ソ連領空への侵入にも投入され、Su-15迎撃機を振り切ったといわれるが、地対空ミサイルで一機を喪失している。1974年7月のキプロス介入作戦ではトルコは地上砲火で6機を、さらに事故で2機喪失した。トルコ機は750ポンド爆弾でニコシア空港を空爆し、ヘリコプター侵攻部隊を上空援護し、自軍の駆逐艦コチャテップをギリシア艦と誤認し沈めている。

 

州軍航空隊ではスーパーセイバーを1980年まで共用した。用済みとなった325機はオレンジ色塗色のQF-100標的無人機になりミサイルテストの標的となったが、現在でも数機が飛行可能な状態で保存されている。

 

米国初の超音速機は戦闘機として決して卓越した機体ではなかったが、甘受しがたい事故率を記録したものの、革命的な新技術を駆使し、戦術も生み出し、最終的に地上部隊支援機としてベトナム戦に活躍したのだった。■

 

この記事は以下を再構成し、人力翻訳でお送りしています。市況価格より2-3割安い翻訳をご入用の方はaviationbusiness2021@gmail.comへご連絡ください


The F-100 Super Sabre Was America’ First Supersonic Jet

February 4, 2021  Topic: Security  Blog Brand: The Reboot  Tags: F-100Air ForceMilitaryTechnologyWorldWar

by Sebastien Roblin

Sébastien Roblin holds a Master’s Degree in Conflict Resolution from Georgetown University and served as a university instructor for the Peace Corps in China. He has also worked in education, editing, and refugee resettlement in France and the United States. He currently writes on security and military history for War Is Boring. This article first appeared three years ago.

Image: Wikipedia


2018年9月17日月曜日

歴史に残る機体17 ノースアメリカンF-100スーパーセイバー

歴史に残る機体17 F-100スーパーセイバー

こうやって見ると航空機の歴史はいろいろわからない事象に果敢に挑戦した先人の苦労でいっぱいだとわかります。またA型で成功した機材は以外に少なく、以後BCD...と続いて改良され傑作機といわれるようになったのがわかります。F-100は傑作機とは言えないでしょうが歴史に残る機体でしょうね。台湾の話が出てきますが、実は日本でも一時採用候補になっていたのでは。しかし最後はCAS任務についたというのは悲しいですね。


The F-100 Super Sabre Was the Air Force’s First Supersonic Jet F-100スーパーセイバーは米空軍初の超音速ジェット機And workhorse of the Vietnam War. そしてヴィエトナム戦で大活躍した




1947年10月14日、オレンジ色塗装のベルX-1をチャック・イエーガーが操縦し水平飛行で初の音速飛行を達成した。X-1はロケット推進で実験機だったが、ジェットエンジン技術が進展し超音速戦闘機の実現が見えてきた。

ノースアメリカン社は独自に朝鮮戦争時の最殊勲戦闘機F-86セイバーを超音速機に変えようとしていた。セイバーの主翼後退角は35度で高速飛行に適し機首に大型空気取り入れ口があった。F-100「スーパー」セイバーでは主翼が45度になり、機首空気取り入れ口は整形され楕円形になった。1950年代の最新戦闘機「センチュリーシリーズ」一号機としてF-100には「ハン」のニックネームがついた。100(ハンドレッド)の短縮形だ。

搭載するJ-57-P-7ターボジェットにアフターバーナーがつき、燃料を直接テールパイプに放出した。燃料が大量消費されるがF-100は高高度で時速850マイルの超音速を実現し、F-100でスピード記録が数点生まれた。

空軍は同機を採用しF-100Aが1954年10月に就役した。ただし事故が多発し、空中分解でエースパイロットのジョージ・ウェルチが死亡するなど災難が続き全機飛行停止措置が必要となった。不安定な飛行や制御不能なヨーは小さすぎる尾翼が原因と判明した。

これは解決したがハンには別の問題もあった。高速飛行可能で20ミリ機関砲M-39を四門搭載したものの同機の設計思想は一時代前のままで、空対空ミサイル、長距離レーダーは未搭載で航続距離の短さは落下タンクで補っていた。事故多発のF-100Aは1958年までに順次撤去された。
RF-100Aは高速偵察機としてカメラ四台を機関砲の代わりに搭載し、原型機より成功したと言える。ドイツ、日本へ配備された同型機は東ヨーロッパやおそらく中国北朝鮮の上空50千フィートからスパイ飛行を行った。当時撮影された画像では迎撃機が遥か下方で懸命に追いつこうとしている様子が残っている。高高度偵察飛行は1956年に登場したU-2が交代した。

その後登場したF-100C戦闘爆撃機(476機製造)では主翼を大型化かつ強化し、エンジンも強力なJ-57-P21に換え最高速度は924マイルになりパイロン6箇所に6千ポンドを搭載した。さらに燃料搭載量が二倍になり主翼上に空中給油用プローブがついた。これによりF-100Cは単発機として当時最長距離のロサンジェルス・ロンドン間を1957年5月13日に14時間で飛行している。サンダーバード飛行展示隊がF-100Cを1956年採用し、来場者をソニックブームで驚かしたがその後FAAがこれを禁じてしまった。

F-100Dは1,274機製造され主翼尾翼が大型化されレーダー警報装置もつき、ハードポイントが追加され、AIM-9B熱追尾空対空ミサイルを運用できるようになった。C型D型ともにナパーム弾、ズーニ2.75インチロケット弾、クラスター爆弾、AGM-45ブルパップ初期型、AGM-83空対地誘導ミサイルが搭載可能だった。

NATO配備のF-100飛行隊では戦術核爆弾四種類の運用に備えた。だが高速低空飛行する戦闘爆撃機が自機が投下した核爆弾の爆風から逃げられたのか。通常兵器でも同じ危険があったが。

ハンパイロットは「肩越し」のトス投下で超音速機をバレルロールで上昇させた。ハンのMA-2低空爆撃装置が自動的に爆弾を投下させる間ほぼ垂直に飛行し、核爆弾は弧を描き目標に接近するが機体は上空をロールしつつアフターバーナー全開で反対方向に退避するのだった。

空軍はF-100 ZEL(ゼロ長離陸)もテストし、巨大ロケットブースターを機体下部に取り付け軌道上を一気に離陸する構想だった。この奇妙な発進方式の背景にはNATO航空基地がソ連核攻撃で抹消される危惧があったことがある。テストは成功したがZELが実戦配備されることはなかった。

ヴィエトナム戦争での大活躍---MiG撃墜一号記録を作ったのか

1961年4月、F-100D部隊がフィリピンからタイヘ移動し東南アジアでの米軍ジェット機の初の展開となった。戦闘投入は1964年が初めてで北ヴィエトナム対空陣地制圧にむかった。その後1965年3月2日にF-105戦闘爆撃機の援護としてローリング・サンダー爆撃作戦に加わった。ドナルド・キルガス大尉操縦のF-100はタインホア鉄橋攻撃に加わっていたがヴィエトナムのMiG-17四機編隊が雲中から突如現れた。これがヴィエトナム戦初のジェット空戦となった。MiG-17は米戦闘機より低速かつミサイル未搭載だが強力な機関砲三門でF-105一機を撃墜し2機目に甚大な損害を与えた。

キルガスは落下タンクを捨て急旋回しながらMiGの後尾につこうとした。ソ連製戦闘機は垂直降下しキルガスを誘おうとした。F-100は大型機のため機体引き起こしができなくなる。高度わずか7千フィートでキルガスは機関砲四門を浴びせた。以下本人による記録である。

「MiGの垂直尾翼上に閃光を目にしたと思うとすぐにMiGの姿が消えた。速度は580ノットだったと思う。トンキン湾の飛沫を浴びた、と大袈裟に言うつもりはないがぎりぎりのところで機体を引き起こした」

その日、MiGは三機喪失したが、二機はヴィエトナム側対空火砲の誤射のためだった。三番機の運命が不明だがキルガスが同機を仕留めたと主張しているのは正しいのかもしれない。ただし空軍は「可能性あり」としか認めていない。

その後旧式化したF-100は北爆任務から外され、南ヴィエトナム出ヴィエトコン相手に戦う地上部隊の支援に回された。1967年、州軍部隊四個飛行隊がF-100Cで現地に派遣された。最盛時にはスーパーセイバー490機が南ヴィエトナム上空を舞い連日地上支援ミッションを平均二回こなしていた。事前に計画された標的の攻撃以外に近接航空支援を必死に求める声に臨機対応した。
複座F-100F練習機の7機が初の「ワイルド・ウィーゼル」に改装され敵防空レーダー探知に投入された。EF-100Fにはレーダー受信機二式が搭載され敵レーダーの位置を探り、ロケットポッドで位置を知らせ随行するF-105に攻撃を任せた。その後AGM-145シュアライク・レーダー追尾ミサイルも搭載し、自機でレーダー施設を排除できるようになった。この試行で9箇所を破壊したものの二機を喪失した。実験成果に喜び空軍はF-4やF-105をワイルドウィーゼル任務に投入した。

F-100Fは「高速前線航空統制」任務にも投入され後部座席から敵を探知し、位置を煙幕弾で味方航空部隊に知らせた。コールサイン「ミスティ」の高速FACは優勢な防空体制の上空を飛び、その他の低速観測機では危険な任務だった。

スーパーセイバーは爆弾やナパーム弾40百万ポンドを投下し、合計360,283ソーティーをこなし1971年に現地から撤退した。この実績はF-4ファントムやF-105を上回る。F-100パイロットは代償も払った。戦中の喪失機材は242機でうち敵火砲により186機、基地攻撃により7機を失った。

ただしスーパーセイバーの極端に高い事故率はコンプレッサー失速や主翼破損、さらに一貫して発生したヨーの不安定さが原因で深刻だった。全生産2,294機のうち889機を喪失し324名のパイロットの命を奪った。

その他運用国での実績

フランス、デンマークでもF-100D型、F型を運用し、フランスはアルジェリア反乱勢力への空爆に投入した。台湾もF-100A戦闘機仕様118機を導入しその後レーダー探知機やサイドワインダーミサイルを搭載した。中国のMiG相手の空戦や大陸上空のスパイ飛行もこなしたと言われる。

トルコもF-100C型、D型、F型200機以上を受領し、Su-15と交戦多数を行い、少なくとも一機を地対空ミサイルで喪失している。スーパーセイバーの500ソーティで1974年7月のキプロス介入を支援したが対空火砲で6機を喪失しさらに2機が事故で失われた。750ポンド爆弾でニコシア空港を空爆し、ヘリコプター強襲作戦を上空援護し、誤爆でトルコ駆逐艦コチャテプを撃沈した。

晩年

米州軍では1980年までスーパーセイバーを運用した。退役後の325機はオレンジ色に塗装されQF-100標的無人機としてミサイル試射に投入されたが、今でも飛行可能な状態のF-100が数機残る。

米国初の超音速ジェット機は戦闘機としては卓越した存在ではなく、恐ろしいほど高い事故率にみまわれたものの革命的な新技術の先駆けで新戦術も生んだ。だがヴィエトナムで苦戦する地上部隊の支援という地味な仕事についたのである。■

Sébastien Roblin holds a Master’s Degree in Conflict Resolution from Georgetown University and served as a university instructor for the Peace Corps in China. He has also worked in education, editing, and refugee resettlement in France and the United States. He currently writes on security and military history for War Is Boring.
Image: Wikipedia