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2024年12月7日土曜日

AD-5N「スカイレイダー」が冷戦時に核ミッションを担っていたことを知る人は少ない(The Aviationist)―当時の同機パイロットが50年代末の台湾海峡危機時の内幕を語ってくれた



AD-5N

VA(AW)-33のダグラス AD-5N スカイレイダー(画像提供:米海軍)


1958年後半、台湾海峡で緊張が高まっていた時期に、スカイレイダーのパイロットたちは核攻撃任務の準備をしていた。任務が最終的に中止されるまで、彼らは夜間に機内に座って緊張の時間を過ごし、核爆弾を搭載したカタパルト発射に備えていた…。

 「スパッド」の愛称でも知られたダグラス A-1 スカイレイダーは、伝説の単発機で、米海軍の航空母艦の甲板から飛んだ最後のプロペラ式米海軍攻撃機でもあった。


核攻撃用スカイレイダー

頑丈な設計と長時間の飛行持続力で知られたスカイレイダーは、優れたペイロード能力を備えていた。燃料2,280ポンドを機内に搭載し、2,200ポンドの魚雷、2000ポンド爆弾2発、12.5インチロケット弾、20mm機関砲2門、240ポンドの弾薬を搭載しても、スカイレイダーの総重量は最大重量である25,000ポンドを下回っていた。


第二次世界大戦中に構想されたスカイレイダーは、朝鮮戦争とベトナム戦争で大活躍を見せ、近接航空支援、捜索救難、阻止活動で優れた能力を発揮した。しかし、通常爆弾、ロケット、さらには魚雷を含む多様な兵器を搭載できる能力により、汎用機としての役割も果たした。

AD-5N

1958年頃のVA(AW)-33 Det.42所属のダグラスAD-5Nスカイレイダー(画像出典:米海軍


派生型のAD-5Nはスカイレイダーの特殊バージョンであり、4名の乗員を収容するために胴体を拡幅し、困難な状況下での精密な作戦遂行のための先進的な電子機器を搭載していた。


核攻撃スカイレイダー

1950年代の終わり頃、VA(AW)-33は、主に核攻撃任務の訓練を行うため、空母エセックスからAD-5N機を飛ばした。同隊は、兵器局原子力ロケット(BOAR)ロケットや低空爆撃システム(LABS)爆撃システムなどの技術を使用し、低空長距離作戦を専門としていた。

海面からわずか50フィート(約15メートル)上空を飛行し、陸上では樹木の頂上すれすれを飛行するミッションは最高機密で、各パイロットにはそれぞれの標的が割り当てられていた。3人または4人の乗組員には電子技術者が含まれ、予算が許す限り、米国および欧州で訓練を行っていた。実際のミッションは基本的に一方通行だったが、ロケット推進兵器でわずかだが生存の可能性が向上した。

AD-5Nのパイロット用サイドパネル。右側のパネル上部にLABSタイマーライトが見え、右側にNAV/LABSクロス・ポインター計器が見える。(画像提供Stephen Miller)

スティーブン・ミラーは、引退した電気技師であり、海軍パイロットとして従事した時期もある飛行家だ。飛行訓練の後、ニュージャージー州アトランティックシティのVA(AW)33に配属され、AD-5Nを操縦した。 スカイレイダーで低空長距離核兵器運搬任務に従事した当時のことを、ミラーは次のように語っている。


オハイオ州マイアミ大学を卒業してすぐ海軍に入隊し、当時は商用操縦士免許を取得するまであと数時間というところでした。飛行訓練の後、1956年にAD-5Nを操縦するVA(AW)33に配属されました。


1957年から1958年にかけ、4機で構成されるさ分遣隊が各空母に配属され、巡航任務に従事しました。私の所属していた空母は、USSエセックス(CVA9)でした。これは、朝鮮戦争からベトナム戦争までの冷戦時代の話です。

 

主な任務は、低空長距離での核兵器の投入でした。これは、水上50フィート、地上約150フィート(樹木の頂上レベル)を飛行するものでした。すべての航行は、パイロットによる目視と推測航法によって行われ、日本とヨーロッパの両方で訓練が行われました。当時、低空飛行の航空機を検出できるレーダーは存在しませんでした。地上クラッタが原因です。長距離巡航時の対気速度は160ノットで、エンジンが不安定になるまで待ってから、空の投下タンクからメインタンクに切り替えていました。通常、航法支援には1人または2人の乗組員が従事し、彼らは機器のメンテナンスも担当していました。

 

また、APS-31というポッド搭載翼ユニットの地上マッピングレーダーも装備していました。

 

1957年の中頃、私たちはバージニア州ノーフォークの特殊兵器学校で、兵器の操作、兵器局原子ロケット(BOAR)、低空爆撃システム(LABS)について学びました。教室には弾頭を除いた実働状態のBOARが置かれており、私たちはテストボックスに接続して確認する方法を学びました。私は、核コアを爆発させるために1000ポンドのHE(高性能爆薬)が使用された実物のBOARを搭載し、模擬標的へのテスト飛行を行う予定でした。しかし、最終的にキャンセルとなり、BOARを使用しないまま演習は進められました。

 

投下手順は次の通りでした。LABSにはタイマー、加速度計、精密ジャイロ方位基準が装備されていました。IP(放出地点に向かって最終滑走を開始する初期位置)に到達する直前、航空機は最大速度(約240ノット)で、5分間に限定したフルパワーまたは「軍事用」パワーで、安定した超低空高度を維持しながら、武器を装備した状態で飛行しなければならなかった。

 

IPを通過すると、スティック上のボタンが押し、2~3分のランに向けてタイマーがスタートします。同時に、通常はVOR/TACAN/ILSローカライザーに使用される垂直ナビゲーションインジケーターが切り替わり、正確なヘディング参照値が提供されます。同時に、短いパネルライトとヘッドセットトーンも起動します。


タイマーが切れると、投下捜査を開始する地点に到達したことを示す短いライトとトーンが鳴りました。パイロットは、加速度計を使用して機首を正確に引き上げながら、トリガーを引いて保持します。ILS グライドスロープに使用される水平ナビゲーションインジケーターは、この機能に切り替わり、最初は下がります。パイロットは、機首をスムーズに上げ、インジケーターを中央(水平)の位置に戻します。これにより、リリース時に適切な量の「G」が確保され、リリース姿勢に達すると自動的に発射されます。

 

BOARは散弾銃4発分に相当する爆風で機体から吹き飛ばされ、本体にはピッグテールが取り付けられており、これが伸びてから機体後部から引き抜かれ、ロケットモーターが起動する。この兵器は最高速度が400ノット(時速約720キロ)で、約7.5マイル(約12キロ)の距離をカバーしました。

 

この時点でAD-5Nはループの初期段階に入りましたが、速度が遅すぎてループを完全にすることはできず、機首を上げて速度を上げ、方向を反転させる必要がありました。これは「ハーフ・キューバン8」と呼ばれる機動の改良版で、この場合は「アホ・ループ」と呼ばれています

 

プロペラ機でループを完成させるには、例えば単座のAD6のような高性能な機体でなければ不可能でした。ロケット推進兵器を使用すれば、爆風地帯から逃れることは可能ですが、巨大な衝撃波は予測不可能な結果をもたらします。核兵器の中には、推進装置のない爆弾もあり、プロペラ機でこの方法で投下された場合、爆風から逃れることは不可能でした。このような任務では、誰も生還できないことが予想されました。幸いにも、そのような事態になることはありませんでした。

 

1957年から58年にかけての地中海巡航中には、夜間訓練でBOARの準備を行いましたが、少なくとも私たちの飛行隊では、それ以上のことはありませんでした。ある時期には、この目的のために身元調査を行った上で、各自に最高機密の目標が割り当てられました。これらの目標は、少なくとも私たちには不明のソースから提供されたもので、ジグザグのルートも強調表示されていました。私の推測では、これはペンタゴンから提供されたものではないかと思います。それらは個別の暗証番号でロックされた金庫に保管されていました。私たちは、空いた時間に各自のルートを研究することが求められ、誰も他の誰の目標が何であるかを知りませんでした。これらは厳密に視覚による昼間の任務でしたが、おそらく夜間に発進し、昼までに海岸に到着するでしょう。レーダーの補助機能により、湖や川などの目立つ特徴を特定するメリットはありました。また、乗組員がチェックポイントを探すのを手伝ってくれました。最大の難関は、敵地の上空のチャートには間違いがあることが分かっていたことです。そもそも、樹冠レベルで水路案内や推測航法を使って航行しようとすること自体が困難を極めるのに、これではさらに難易度が上がります!

 

1958年後半の金門・馬祖諸島危機の際、我々はあの海域にいたのですが、私の友人も太平洋艦隊の戦隊とともにそこにいて、AD6を飛ばしていました。 彼は暗い夜に2時間、機体に座ったままでカタパルトに繋がれた状態で、核兵器の発射準備をしていましたが、最終的に中止命令が出されました。これはあまり知られていないことだと思います。その核爆弾はマーク7でした。それは当時標準的な核爆弾で、核コアのサイズによって威力が決定されていました。 典型的な中距離用コアは18~22キロトンで、長崎に投下されたものと同じくらいでした

 

海軍/空軍の他の飛行隊は、さまざまな種類の航空機(主にジェット機)を飛ばしており、それらには他の運搬方法もありました。 これが私たちの特別な経験でした。


海軍航空隊での任務を終えた後、航空業界で数年間、チャーター便や飛行教官として通常の単発・多発エンジン航空機の操縦に携わました。その後、モホーク航空でコンベア240/440機の操縦を担当し、最終的にはFBOO地上運航支援事業者として独立しました。

航空業界を離れ電気工学の学位取得を目指しましたが、パートタイムで飛行は継続し、1967年にマサチューセッツ大学ダートマス校を卒業しました。エンジニアとして設計と管理、商業および軍事、大企業や中小企業など、さまざまな雇用主のもとで働きました。また、社有機パイロットを務めることもよくありました。そのような企業の一つに自動操縦装置メーカーがあり、そこでの経験が、私をこの業界に導きました。

現在90歳になる私は、現役を離れ20年ほどになります。私が提出した情報が、1950年代の冷戦時代に関心のある方々にとって、歴史的な価値となるよう願っています。


David Cenciotti is a journalist based in Rome, Italy. He is the Founder and Editor of “The Aviationist”, one of the world’s most famous and read military aviation blogs. Since 1996, he has written for major worldwide magazines, including Air Forces Monthly, Combat Aircraft, and many others, covering aviation, defense, war, industry, intelligence, crime and cyberwar. He has reported from the U.S., Europe, Australia and Syria, and flown several combat planes with different air forces. He is a former 2nd Lt. of the Italian Air Force, a private pilot and a graduate in Computer Engineering. He has written five books and contributed to many more ones.



The AD-5N ‘Skyraider’ and Its Little-Known Nuclear Role in the Cold War

Published on: November 29, 2024 at 5:28 PMFollow Us On Google News

 David Cenciotti


https://theaviationist.com/2024/11/29/ad-5n-skyraider-nuclear-role/



2023年10月18日水曜日

WW2で木製傑作機モスキートをBOACが運用していた....戦略物資ボールベアリング以外に人員輸送までこなし、ドイツ戦闘機の迎撃を振り切っていた。(The War Zone)

 


Mosquito BOAC WWII nuclear

pixel17 via Wikicommons (Colorized Portrait) and Photo by Simon Watts/Getty Images (Mosquito)

第二次世界大戦のマルチロール機、イギリスのモスキートは、爆弾倉に核物理学者ニールス・ボーアを載せ移動していた

マット・デイモンが "一足早いクリスマス・プレゼントがあります"と告げる。続いてケネス・ブラナーが登場し、喝采する観客を前に法廷を開く。マンハッタン計画の責任者レスリー・グローブス将軍と核物理学者ニールス・ボーアをそれぞれ演じた2人の大スターは、ロスアラモスへのデンマーク人科学者の到着を告げる。ここは、最初の原子爆弾を製造するため1943年ニューメキシコ州に設立され、80年後にクリストファー・ノーランが大ヒット映画『オッペンハイマー』の撮影で再現した秘密施設である。

「イギリスのパイロットが僕を爆弾倉に入れたんだ」と、ボーア役のブラナーが得意のデンマーク訛りで笑いながら語る。「もちろん、私は酸素吸入をしくじって昼寝するふりをしたんだ」。

このシーンは、ナチス占領下のヨーロッパからデンマーク人が劇的な脱出を遂げたスリリングな状況や、安全な場所への飛行での驚くべき物語をほとんど示唆していない。コペンハーゲンのゲシュタポ本部へのイギリス空軍の空襲を描いた新著『モスキート』のリサーチ中に、筆者はこの2つに関する興味深い真実を発見した。

マンハッタン計画に参加した当時、ニールス・ボーアはおそらくアルベルト・アインシュタインの次に世界で最も著名な科学者だった。祖国デンマークは1940年4月以来、ドイツの占領下にあった。

Kenneth Branagh as nuclear physicist Niels Bohr, and the man himself, known to the British Special Operations Executive as the ‘Great Dane.’ <em>via the author</em>

核物理学者ニールス・ボーアを演じたケネス・ブラナーと、英国特殊作戦本部に "グレート・デーン "のコードネームで知られた本人

侵攻当日、教授はコペンハーゲンの研究室で、硝酸と塩酸の混合液で一対のノーベルメダルを溶かそうとしていた。ボーアは、ヒトラー政権下のドイツで反ユダヤ主義から逃れてきた2人のユダヤ系ドイツ人物理学者から預かった23カラット金のノーベル賞が、ナチスの手に移るのを阻止しようとしていたのだ。1940年、フィンランドとソ連との「冬戦争」の犠牲者向け資金集めのため、自分のノーベルメダルを競売にかけた。自分の名前を冠したコペンハーゲンの研究所が、ドイツからの亡命者たちに聖域を提供することを許可したことも、本人の利他主義を物語っている。しかし、それは個人的なことでもあった。ユダヤ人の母を持つニールス・ボーアは、宗教的信条はともかく、血統的にはユダヤ人であった。

1940年、ウィンストン・チャーチルの指示で、扇動と破壊工作により「ヨーロッパを燃え上がらせる」べく設立されたイギリスの特殊作戦実行局(SOE)は、1943年、この科学者の自宅に秘密工作員を送り込み、デンマークからの退去を促した。ボーアがロンドンからの招待を丁重に拒否したことは、3枚の葉書に貼られた切手の下に隠されていた。次に、SOEは詳細な指示とともに書面を送った:

「2つの鍵に深さ4ミリの小さな穴が掘られていた。メッセージの挿入後、穴はふさがれた。ボーア教授は、穴が開くまで、指定箇所をやさしくヤスリで削る。そうすれば、メッセージを注射器でマイクロスライドに浮き上がらせることができる」。

ボーアの友人、リバプール大学のジェームス・チャドウィック教授のメッセージは、砂粒ほどの大きさで、ピンヘッドの幅の穴に入っており、600倍の顕微鏡で解読しなければならなかった。チャドウィックはデンマークから英国に向かうよう促し、「貴殿の援助が最大の助けになる特定の問題 」を暗示した。

チャドウィックは中性子を発見しノーベル賞を受賞した仲間であり、イギリスの原爆研究を率いていた。

ボーアは、占領下のデンマークで良いことができると思い、ここでも丁重に辞退したが、友人の言う「ある問題」の本質について疑いは持っていなかった。

2ヵ月後、ボーアはチャドウィックに、ドイツがウランと重水を使って原子炉を開発する手段を確立したことを新たな情報で確信したと報告した。しかし、チャドウィックは、ニューメキシコ州のロスアラモス研究所でマンハッタン計画の英国代表団団長として新たな職務に就く準備をしていたため、SOEで「グレート・デーン」と呼ばれていたボーアをコペンハーゲンを離れるよう説得しきれなかった。

ゲシュタポで働くデンマーク女性がボーアの逮捕命令を見て、ボーアの兄ハラルドに密告したことで、物理学者はようやく自分が去らねばならないことを受け入れた。ナチスによるデンマークのユダヤ人社会への行動と、特にボーアへの脅威の証拠は、無視できなくなっていた。SS幹部がコペンハーゲンに押し寄せていた。港には大型のドイツ船ヴァルテランドが横付けされ、デンマークにいる7000人のユダヤ人を詰め込めるだけ運ぼうとしていた。

ボーアと妻マルガレーテは、ハラルドの密告から数時間以内にカールスバーグのビール工場内にある自宅を出た。家の裏から抜け出すと、ナチスの掠奪部隊がすでに向かっていた。その後、夫妻が浜辺の小屋から四つん這いになり待っていたボートに乗り込んだ。デンマークで最も有名な男が持っていたのは、バッグひとつ、研究所から取り出した重水の入ったビール瓶、そしてナチスの原子炉の設計図と称するスケッチだった。海峡を渡りスウェーデンに密航する前に、これ以上持ち物を集める時間はなかった。

ニールス・ボーアとマルガレーテ・ボーアは、マルメに到着したことでナチスの魔の手から逃れられたと思っていたかもしれないが、ゲシュタポもデンマーク陸軍の諜報部も別の見方をしていた。

マドリードやリスボン、カサブランカのように、中立国スウェーデンの首都は戦時中の陰謀の温床で、世界中の諜報機関のスパイが競っていた。ストックホルムでは、秘密、嘘、裏切り、欺瞞はすべて共通の通貨であり、カットアウト、諜報員、隠れ家、デッドドロップ、監視、暗号は、取引手段だった。そして、世界で最も有名な核物理学者の登場には、賞金を賭ける価値があった。

当初、スウェーデン当局はボーアが誘拐や暗殺の危険にさらされていることを認めたがらず、保護を任されたデンマーク陸軍大尉に「ここはストックホルムであってシカゴではない」と述べた。冷酷さと残忍さに関しては、ゲシュタポに匹敵するギャングはいないので、「教授に何かあれば、貴国の恥になる」と将校は答えた。スウェーデンにいる間、大尉はボーアのそばを離れなかった。しかし、ここからは武装した3人のスウェーデン秘密警察も加わった。ストックホルムに到着したボーアは、スウェーデン諜報機関が所有する家に連れ込まれ、屋根裏部屋を通って建物の反対側まで連れて行かれた。

3日後、ナチスは計画通りデンマークのユダヤ人に対して動いたが、時すでに遅しだった。ボーア同様に危険が迫っていることを察知したユダヤ人は、同胞により連行され、匿われ、やがて避難した。スウェーデンはボーア自身の働きかけにより、全員受け入れに同意した。デンマークの7000人ほどのユダヤ人のうち、最も弱く弱い284人だけが逮捕された。ナチス高官は、「強制収容所に専用列車を送るだけの数が足りない」と落胆した。

ボーア自身が究極の安全を得るためには、『ストックホルム急行』に頼ることになる。それは列車ではなく、ブリティッシュ・エアウェイズの前身BOAC(英国海外航空公社)が運航していた、スコットランドのルーカーズ空軍基地とスウェーデンのブロンマ空港間でVIP乗客を運ぶためドイツ夜間戦闘機の試練をくぐり抜ける、非武装のデ・ハビランド・モスキートだった。これらの乗客は、モスキートのフェルトで覆った爆弾倉の閉所恐怖症になりそうな狭い場所に搭乗した。このフライトでボーアは死にかけた。その責任はモスキートの比類なき性能にあった。VIPを軍用機の腹に乗せる選択肢は、すべてボールベアリングのためだった。

BOAC Mosquitos carried a single passenger in the felt-lined bomb bay. They were given oxygen, a reading light, a blanket, and a flask of coffee for the two-and-a-half-hour flight. <em>Crown Copyright</em>

BOACのモスキートは、フェルトで覆われた爆弾倉に乗客一人を乗せた。乗客には酸素、読書灯、毛布、そして2時間半の飛行のためのコーヒーのフラスコが与えられた。Crown Copyright

スウェーデンのSKFは35年間、イギリス、ドイツ、フランス、アメリカに工場を開き、高品質ボールベアリングの生産で世界をリードしてきた。しかし、第二次世界大戦の開戦で、イギリスのルートン工場は昼夜を問わず働き続けたものの、需要に対応ができなかった。

英国空軍のアブロ・ランカスター爆撃機1機の製造で175ポンドを超える高品質ボールベアリングが必要で、週に25機程度のペースで生産ラインから完成していた。しかし、それ以外にもスピットファイアやハリケーンなど多数の航空機があった。英国では、多種多様なエンジンを搭載した多種多様な航空機が生産されており、すべてがボールベアリングが必要だった。航空機だけではない。戦車、装甲車、軍艦、高射砲もすべてボールベアリングを必要としていた。複雑な軍用機械でボールベアリングを使わないものはほとんどなかった。マーリンエンジン搭載のモスキートも当然そのひとつだった。

スウェーデン製ボールベアリングを積んだSOE船は、1941年、北海とスウェーデンを結ぶスカゲラク海峡のドイツ軍封鎖を突破した。しかし、1942年6月以来、BOACはルーカーズ基地とストックホルムを結ぶ500マイルのルートで準定期の宅配便を運航していた。英国の諜報機関にとっても戦争産業にとっても非常に重要なこの航空路線は、世界で最も敵対的で厳重に防衛された空を横断していたが、BOACはそのニーズに応える航空機を見つけるのに苦労していた。

遅くて脆弱な時代遅れのRAF爆撃機はすぐに使えなくなり、アメリカから入手した新型機、小型のロッキード・ロードスターやハドソン、型輸送機カーチスC-46コマンドーの最初の試作機セントルイスが使われた。C-46は大量貨物を運べたが、ドイツ空軍には脆弱だった。1943年春に投入されたダグラスDC-3も同様だった。

ルーカーズでは、BOACは英国でDC-3/C-47として知られていたダコタの脆弱性に言及したものである。しかし、1943年春、在ストックホルムの英国公使ヴィクター・マレット卿の電報で、飛行継続の圧力はさらに強まった:

「少なくとも100トンのベアリングの必要性は絶望的であり、他の戦時作戦と同様に危険を冒すべきであり、無乗客の貨物機は夏季の間、明るい夜と関係なく飛行すべきであると勧告する。ドイツ軍が撃墜に踏み切れば、その位置は再考の余地があり、最悪の場合、我々は1機か2機のダコタと乗組員を失うことになる」。

BOACはこれに同意せず、スウェーデンへの代替ルートを試した後、必要なのは「速度、高度、航続距離優れた性能を持つ機体」であると報告書で結論づけた。

No. 105 Squadron Mosquito B.IVs. The B.IV was the first Mosquito to enter service with BOAC and remained popular with crews after the introduction of the&nbsp;subsequent FB.VI&nbsp;because it was a few miles per hour faster. <em>Crown Copyright</em>

105飛行隊のモスキートB.IV。B.IVはBOACに就航した最初のモスキートで、FB.VIが導入された後も、時速が数マイル速いという理由で乗員に人気があった。 Crown Copyright

1938年、ヨーロッパに戦争の予兆が迫る中、ジェフリー・デ・ハビランドが英国航空省に軽量双発爆撃機のアイデアを提案したが、反応はほとんど感じられなかった。それでも彼は、とにかく自社で作ろうと決めた。そして、この新型機を木で作れば、金属製よりもはるかに早く生産に取りかかれるだけでなく、他の軍用機の製造に必要なアルミニウムの重要な供給源への需要も回避できることを知っていた。ロンドンの北、セント・オルバンズ近郊の堀に囲まれた大邸宅の敷地内で、チームは極秘裏に試作機の製作に取りかかった。

幸運だったのは、航空省が懐疑的であったにもかかわらず、空軍の新型機の研究・開発・生産の責任者ウィルフレッド・フリーマン空軍大将が、彼らの努力を断固としてかつ先見の明をもって支援してくれたことである。王立飛行隊(RAFの前身)の若いパイロットとして、デ・ハビランドが設計した初期の爆撃機の性能に感銘を受けていたフリーマンは、非武装爆撃機という概念への爆撃機司令部の反対を回避するため、デ・ハビランドの新型機モスキートを50機発注し、RAFの高空飛行スパイ機という別の要件を満たした。

ロールス・ロイスのマーリン・エンジン2基を搭載したモスキートは、ボーイングのB-17フライング・フォートレスと同じ4000ポンドの爆弾を搭載したままベルリンまで往復できたが、乗員は10人ではなく2人だった。

1941年4月、アメリカ陸軍航空隊のトップであるハップ・アーノルド大将向けに行われた驚くべき飛行展示の後、彼は同機を「傑出したもの」と評価し、設計図一式を持ち帰るよう主張した。その3ヵ月後、最前線に投入された週に、モスキートの最高速度は時速433マイルを記録した。当時、イギリス空軍の最高戦闘機スピットファイアMk Vの最高速度は時速370マイルだった。突然、誰もがモスキートを欲しがるようになり、そのユニークな木材と接着剤による構造のおかげで、イギリス中の家具工場、家具職人、楽器メーカーが大工技術を持つ労働力を投入して需要に対応した。

1941年夏、写真偵察部隊として初めて英国空軍の任務に就いた後、数カ月後には最初のモスキート爆撃機飛行隊が編成された。第105飛行隊は、1942年9月にオスロのゲシュタポ本部を低空で急襲し、「最新のフォッケウルフ(Fw190)を凌駕した」という熱狂的なレポートでモスキートの存在が一般に明らかになるまで、ほぼ1年間機密扱いのままだった。

そして、それこそがBOACが必要としていたものだった。

1943年2月、スウェーデンへのボールベアリング・ランを完了したBOAC初号機はドイツ軍戦闘機隊の攻撃を免れたわけではなかったが、迷彩塗装を施した翼の上下に巨大な文字で民間登録、機首には航空会社のアイコンである「スピードバード」のロゴが描かれたモスキートは、航空会社のパイロットに有利な状況をもたらした。

1機のモスキートは、爆弾倉に1,400ポンドのスウェーデン製ボールベアリングを搭載することができたが、その速度で、1晩でルーカーズとストックホルムの間を2往復、あるいは3往復できた。1943年6月、BOACのモスキートは30往復をこなし、イギリスのボールベアリング不足の解消に貢献したが、それ以上に大きな貢献をしたのは、月末に行われたゲームを変えるような1回のフライトであった。

ヘンリー・ワーリングとヴィル・シベルグは、スコットランドの東海岸にあるセント・アンドリュースで1週間近く踵を返していた。英国製鉄の代表であったワーリングと、SKFのルートン工場を経営するシベルグは、貴重な時間が無駄になっていると感じていた。中立国スウェーデンからのボールベアリングは先着順で供給され、ドイツ軍が大量発注する寸前だとロンドンでは理解されていた。ワーリングは2度にわたってロンドンに電話をかけ、行動を促したが、長く暑い夏の日が続き、雲がまったくなかったため、待機していたロッキード14での飛行は自殺行為になると告げられた。

A BOAC Mosquito FB.VI G-AGGD prepares to land. <em>Crown Copyright </em>

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着陸態勢に入るBOACモスキートFB.VI G-AGGD。 Crown Copyright

ワーリングがプールサイドで日光浴をしていた6月24日、空軍の運転手がホテルにやってきた。水泳パンツ姿のまま、ワーリングはルーカーズに連れて行かれ、その夜、彼とシバーグが急遽改造された2機のBOACモスキートでスウェーデンに向かうことを知らされた。

出発前にウイスキーを一杯飲み、2人のビジネスマンがブロンマに到着したのは、連合国向けにSKFのボールベアリングを確保するドイツの交渉の数時間前だった。貨物目録に "ワーリング1梱包、シベルグ1梱包 "と記録されていた。

ジェフリー・デ・ハビランドはかつて、「サイズが適切であれば、飛行機は非常に多用途になる」と書いている。しかし、モスキートは何でもできた。ドクトリンによれば、航空戦力には、制空権、情報、監視、偵察、攻撃、機動性という4つの役割がある。大雑把に言えば、空軍はこれらの任務を遂行するため戦闘機、偵察機、爆撃機、輸送機を必要とし、それぞれは通常、機体にまったく異なる特性を要求する。しかし1943年以前、モスキートは最初の3つの用途で例外的な例として、すでにその名を轟かせていた。

A BOAC Mosquito pilot climbing aboard an FB.VI. Note the four sealed 20mm cannon gun ports in the nose. <em>Crown Copyright</em>

FB.VIに乗り込むBOACモスキートのパイロット。機首にある4つの20mmキャノン砲ポートに注目。Crown Copyright

合計27,000トン近い爆弾を投下したモスキートは、出撃1,000回あたりの損失が爆撃機部隊のどの機体よりも少なかった。その正確さは、1942年秋のV-1飛行爆弾発射場破壊作戦の後、モスキートが各目標を破壊するのに要した爆弾の量は、次に効果的な爆撃機の4分の1以下であったという記録にも表れている。Dデーの両日には、モスキート戦闘爆撃機がドイツの自動車輸送機を1000台近く破壊した夜もあった。

重武装の8門戦闘機として、特にレーダーを装備した夜間戦闘機として、モスキートは800機以上の敵機を撃墜した。戦争後期、日没後にドイツ軍の飛行場周辺をうろつき、出入りするあらゆるものに襲いかかろうとするモスキートの姿はドイツ空軍に恐怖を与え、モスキートパニックという言葉が生まれた。

写真偵察任務に就いたモスキートは、ほぼ無差別にヨーロッパを横断し、ヒトラーのV-2弾道ミサイルの脅威を遅らせるのに役立つ重要な写真情報を収集した。ルーカーズとストックホルムを結ぶBOACの旅客機/輸送機の役割を引き受けたモスキートは、4つの重要な役割のすべてをうまく実施した、おそらく史上唯一の機体となった。

ワーリングとヴィベルグの飛行から6ヶ月間、モスキートはスウェーデンへさらに129往復飛行し、ボールベアリング100トン以上を持ち帰った。しかし、BOACが雇用したイギリスとノルウェーの民間パイロットと無線オペレーターを本当に際立たせたのは、彼らが運んだ人間の貨物だった。彼らは、スウェーデン、ひいてはデンマークとの間の情報と人員の流れを維持するだけでなく、墜落した連合軍搭乗員の送還も担当していた。

1943年10月6日午前6時半少し前、ブロンマ空港でBOACモスキートFB.VI G-AGGGの乗員はニールス・ボアを爆弾倉に設置し、インターホンと酸素システムの使い方を説明した。乗員は、使う必要があるとき、彼に伝えると言った。機体を放棄しなければならなくなった場合に備えて、照明弾とパラシュートが渡され、2時間半の飛行の間、閉所恐怖症になるくらいコンパクトな空間に閉じこめられた。

15,000フィートを西へ、登山家がデスゾーンと呼ぶ25,000フィート付近の薄い空気に向かい上昇するBOACクルーは、後方でボーアが自分の指示に従ってくれると確信していた。彼らは知らなかったが、科学者の大きな頭にインカムの入った革製飛行用ヘルメットがなかなかフィットせず、ボーアには聞こえていなかった。また、ボーアは驚くほど世間知らずで、酸素の使い方を正しく理解していなかった。

無線士が彼の様子を尋ねたが、爆弾倉から応答はなかった。彼はボーアが酸素欠乏で気絶したのではと心配した。しかし、G-AGGGが南北に張り巡らされたドイツ軍の防空網をかいくぐるまでは、高空飛行を続けなければならなかった。

ブロマを離陸してから2時間半後、北海上空を低空で通過し、モスキートFB.VIはルーカーズ空軍基地に着陸した。そこで大きな安堵の中、グレート・デーンは弱りながらも生きており、機体の腹から解放された。

翌月、ボーアはアメリカに向け出航し、ロスアラモスでマンハッタン計画に参加した。歴史家のアレックス・ウェラーシュタインが書いているように、最初の機能的な核装置の製造におけるボーアの貢献は、その後過小評価されたが、非常に重要なものであった。

一方、戦闘機として、爆撃機として、そしてスパイ機として、デ・ハビランドの「木の驚異」は伝説に近い名声を博し、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングにとって忌まわしき存在として地位を確立した。

占領下のヨーロッパ全土のピンポイント・ターゲットに対する一連の大胆な低空モスキート空襲は、大衆の想像力をかき立て、1964年の映画『633飛行隊』にインスピレーションを与えた。

しかし、BOACの小さな非武装の輸送機隊は、Xウイングというよりミレニアム・ファルコンであり、スウェーデンとの間で重要な人員、貨物、情報を飛ばし、重要な貢献をした。終戦まで520回以上(1944年初頭には一晩で3回も)ケッセルランを達成した非武装のスピードスターは、悪天候や不運でこそ損失を被ったが、攻撃を受けたものの、ドイツ空軍により失われた機体は1機もなかったとされている。

『オッペンハイマー』での短い、一見取るに足らないシーンだが、モスキート自身がスターだったことを暗示している。■


The Nuclear Scientist And The Warplane That Became Britain’s Most Unlikely Airliner

BYROWLAND WHITE|PUBLISHED OCT 13, 2023 3:27 PM EDT

THE WAR ZONE


2022年9月25日日曜日

1965年米陸軍は月面基地へ宇宙部隊の展開を真剣に検討していた.....

 

(U.S. Army Weapons Command/Screenshot via Document Cloud).

 

1965年、米陸軍はダーツ発射式の宇宙銃で武装した即応部隊を想定していた

軍ではあらゆる状況やシナリオにも対応できるよう考えている。そのため、陸軍は月面で起こりうる戦闘を想定して極秘の宇宙兵器開発に取り組んでいた。陸軍は、月面に建設する軍事基地で使用する宇宙用兵器の検討のために、完全な調査を依頼していた。

1960年代。ソ連がスプートニク打ち上げに成功し、宇宙開発競争が始まり、ジョン・F・ケネディ大統領が人類を月に運ぶと約束し、ジェットと原子力の想像力がフル回転していた時代。テクノロジーの進化はめざましく、何でも可能に思えた。そして、そのような「できること」、「未来は今」という考え方のもと、米陸軍には宇宙構想があった。

前書きにはこうある。

この小冊子の目的は、要件設定の責任者から資金調達の責任者、兵器設計者自身に至るまで、兵器関係者全員の思考を刺激することにある。

(C)宇宙(月や他の惑星)にいる人間の主な目的は戦うことではないとしても、必要とあれば自衛の能力が必要となる。月や他の惑星への米国のアクセスを阻止しようとする国があらわれるかもしれない。宇宙を真に平和な場所にするため、地球上と同じく、そこでも強くなければならない。

今回の兵器の提案には、背景がある。1950年代以来、国防総省は、国家安全保障と冷戦の両面において、宇宙を戦線とする可能性を探ってきた。1959年の報告書には、月面基地と、地上から前哨基地への兵員移動の構想がまとめられていた。これはすべて、ユーリ・ガガーリンが人類初の宇宙飛行を行う前のことで、これらの構想が実際に人類にどう影響を与えるかは不明だったことを念頭においています。

この研究は、宇宙空間に部隊配置する問題点を概説している。当初懸念されていたほどではないが、月面は極端な高温であり、宇宙空間は真空であるため、武器の使用にも問題がある。

 

 

This was the Army’s Cold War plan for a war on the Moon, and the weapons it’d use to win it

(U.S. Army Weapons Command/Screenshot via Document Cloud)

 

この陸軍の即応部隊には、基地と合わせ武器が必要だが、ここでも課題があった。論文にあるように、宇宙が兵器の「第二の進化」をもたらす可能性がある。当時は空想的なSFのB級映画やパルプ・アドベンチャーの時代で、陸軍はレーザー銃を検討していた。しかし、陸軍はそのような未来兵器の実現は少なくとも20年先だと判断し、宇宙で運動兵器を有効に使う方法を数点提案した。

This was the Army’s Cold War plan for a war on the Moon, and the weapons it’d use to win it(U.S. Army Weapons Command/Screenshot via Document Cloud)

 

その中で、「実現可能性が確定していないが、思考を刺激するアイデアとして提示される可能性のある兵器コンセプト」との項目で、さまざまな懸念に対応しようとした。中には、従来型ライフルだと反動で兵士が後方に飛ばされるのではないかという懸念も含まれている。そこで、あらかじめダーツの入った筒や、その他の斬新な弾薬を使い、この問題に対処しようというのが、新兵器のコンセプトだ。その中には、2種類の「ソーセージガン」、「マイクロガン」、高火力爆薬からガスを噴射する近距離武器が含まれている。さらに、球状弾丸を発射するバネ式の銃も検討されたが、これは宇宙用とはいえ、よりレトロ感がる弾薬だ。図面案とともに、陸軍は各兵器の姿を示すアートも描かせた

This was the Army’s Cold War plan for a war on the Moon, and the weapons it’d use to win it

(U.S. Army Weapons Command/Screenshot via Document Cloud)

陸軍兵士が宇宙銃を二丁持ちしている。これは米陸軍兵器司令部の提案だった。

宇宙戦争というと、『スターシップ・トゥルーパーズ』やジェームズ・ボンドの『ムーンレイカー』など、宇宙海兵隊が登場するイメージがあるが、1965年に陸軍は月面で戦力になると確信していた。これは陸軍の研究であり、その当時、米軍は宇宙計画を統合した米軍宇宙司令部はなかった。

同研究は、アイデアの刺激をめざしていたが、その後破棄されたようだ。1969年にアメリカは軍パイロットを月に送ったが、すべての歴史的記録を見る限り、この論文が概説した宇宙銃や月面基地の提案はない。発表から50年以上、同論文のアイデアは全く実現しなかったが、陸軍が最後のフロンティアで将来の戦争がどう展開されると考えていたか、ユニークな視点を提供する資料であることに変わりない。■

In the Cold War the Army dreamed up these weapons to fight on the Moon

BY NICHOLAS SLAYTON | PUBLISHED SEP 24, 2022 


コメント:宇宙空間の軍事利用を禁じる宇宙条約は事実上反故にされており、中共が月面などの軍事利用を考えていないとの保証はありません。となると、当時はあくまでも思考の幅を広げる目的の論文だったようですが、現実のものにならないとも限りませんね。


2022年6月29日水曜日

現実のマーベリックは朝鮮戦争でソ連MiG4機を撃墜したものの、政治影響を考慮して秘匿されてきた....


  • あなたの知らない戦史シリーズ(7)

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Royce Williams

朝鮮戦争で、ロイス・ウィリアムズ海軍大尉はソ連戦闘機7機と正面から戦い、生き残っただけでなく、撃墜数機を確認し戦場を後にした。 (Task & Purpose photo composite/Wikimedia Commons/U.S. Navy via Twitter).

 

ありえないドッグファイトは何十年も隠蔽されてきたが、伝説になっている。

 

 

鮮戦争中の1952年11月18日、ロイス・ウィリアムズ海軍大尉は、所属する飛行隊VF-781の他の3人のパイロットと、日本海の荒れた空に空母USSオリスカニーから発進した。朝鮮戦争で海軍は25万回以上の出撃を行ったが、冷戦時代の緊迫した政治環境のため数十年間隠蔽されてきた戦闘は空中戦の偉業となった。

 

この作戦でウィリアムズは、当時最新鋭のジェット戦闘機でソ連空軍のパイロット7名と対戦し、3機撃墜を確認、1機撃墜確実が後に撃墜確認された。ウィリアムズは海軍の要請でこの事件を伏せていたが、現在、当日の行動に対し名誉勲章授与の取り組みが進められている。『トップガン マーベリック』が興行収入記録を更新し話題になっているが、これは実在したマーベリックと、ありえないようなドッグファイトの物語である。

 

オリスカニーは任務部隊77の一員として、北朝鮮の兵站センターを攻撃していた。その日の標的は、中国、北朝鮮、そして当時のソビエト連邦の国境が交わる鴨緑江に沿った会寧(フェリオン)市だった。そのため、各国領空を侵犯する可能性があり、危険な爆撃任務となった。

 

ウィリアムズはこの日2回目の任務で、グラマンF9F-5パンサーで戦闘空中哨戒として飛行していた。

 

The real-life Maverick who took on 7 Soviet jets in a classified Korean War dogfight

1952年7月4日、北朝鮮沖で作戦中のタスクフォース77の艦艇の上を飛ぶアメリカ海軍グラマンF9F-2パンサー(戦闘機隊24(VF-24)「コルセア」所属)。(Wikimedia Commons)

 

「雲を抜けると互いにランデブーし始めた」。 ウィリアムズはタスク&パーパスのインタビューで、「その時、戦闘情報センターから北からボギーが来ていると聞いた」。と回想している。

 

高度12,000フィート以上で雲の上に出たウィリアムズは、上空に7つの飛行機雲を発見した。MiG-15だった。

 

アメリカ空軍のF-86に匹敵するMiGは、速度、機動性、上昇率、兵器でパンサーを凌駕していた。海軍は初期こそMiG撃墜数機を達成していたが、任務は地上攻撃中心へと切り替わっていた。ウィリアムズは1944年から海軍の戦闘機パイロット訓練を受けていたが、朝鮮半島でのパンサーの主要任務は空対地戦闘だった。

 

空中戦は朝鮮半島の西半分に限定され、空軍のF-86セイバーが 「MiGアレイ」と呼ばれる中国からの進入路をパトロールするのが一般的だった。これが、ウィリアムズにとって、相手がソ連から発進した機体であることを示す一つの指標となった。

 

ウィリアムズは機銃のテストを兼ね素早くバースト射撃したが、その瞬間、フライトリーダーが燃料ポンプの警告灯点滅を報告し、艦隊へ戻っていった。交戦が始まる前、7機のMiGs対2機のパンサーになった。

 

ウィリアムズと僚機が26,000フィートを超えて上昇すると、ミグは2つの編隊に分かれ、うちの4機がウィリアムズの10時方向から海急降下して射撃してきた。ウィリアムズは旋回し、ミグ編隊に向かって引き寄せ、グループの「最後尾のチャーリー」に短いバーストで射撃した。これがウィリアムズのこの日最初のキルとなった。

 

2機のMiG編隊が高度を上げ、攻撃飛行に入ると、ウィリアムズは1機の後方につき、2機目をダウンさせた。パンサーはMiGより弾薬搭載量が少ないため、ウィリアムズは慎重に狙いを定める必要があった。

 

「その瞬間、仕事をする戦闘機パイロットになっていた。持っているものを撃つだけだった」。

 

残る5機のソ連機は、順番に上昇し、ウィリアムズに向かいパスした。ウィリアムズはパンサーを限界までひねって、ソ連機が自分の照準の前を通過する際に交戦したり、急旋回で真正面から向き合ったりするしかできなかった。

 

ウィリアムズが別のミグに発砲すると、ミグはバンクして戦闘から離脱した。そのソ連機の僚機がウィリアムズの方を向くと、ウィリアムズはロングバーストを放ち、2機は接近したまま通過し、ソ連機は海に墜落した。

 

30分以上の空戦で、ウィリアムズは少なくとも3機を撃墜し、4機目は大きく損傷した。しかし、ウィリアムズの機も、深刻な損害を被った。

 

「旋回中に37ミリ砲で撃たれ油圧が効かなくなった」。

 

弾薬もなく、飛ぶのもやっとの機体で、ウィリアムズは機体を操りながら、オリスカニーに戻っていった。

 

低空飛行していたウィリアムズは、脱出も考えたが、飛行を続けることにした。

 

「あの天候では、捜索発見されるまで生き残れないと思ったからだ」。

 

ウィリアムズが海軍の任務部隊に近づくと、敵機と間違え発砲してきた。パンサーの通常の着艦速度が105ノット(時速約120マイル)だが、ウィリアムズは機体を170ノット以下にできず、接近が危ぶまれた。しかし、なんとか着艦に成功した。

 

The real-life Maverick who took on 7 Soviet jets in a classified Korean War dogfight1952年11月18日、ソ連のMiG-15戦闘機7機との戦闘でF9F-5パンサーが受けた損傷 (Photo courtesy of U.S. Naval Institute)

 

空母艦上で、ウィリアムズのパンサーに263個の穴が数えられたが、彼は二度とそれを見ることはなかった。機体は甲板から海へ突き落とされ、ガンカメラ映像は分析のため持ち去られたようだ。

 

このことから、接敵が国家安全保障に関わるものであるのが分かる。ソ連志願パイロットが飛行していることが知られていたが、ウィリアムズはソ連空軍と交戦したのである。さらに、ウィリアムズの飛行隊は、国家安全保障局の情報で、ソ連軍機の存在を知っていた。

 

ウィリアムズは、極東海軍司令官ロバート・ブリスコ海軍大将から、3機あるいは4機のミグを撃墜したことは確認できたが、この作戦について誰にも話すなと告げられた。

 

ウィリアムズはそれを実行した。ベトナムでの110回の任務を含む23年間のキャリアを通じ、ウィリアムズ唯一の公式記録は、撃墜1機と銀星章であった。その日、ウィリアムズと飛んだ他のパイロット2人も、敵機を撃墜したことで表彰された。

 

それから40年後、ソビエト連邦の崩壊とともに、モスクワから当日の交戦を確認する記録が出てきた。このドッグファイトは、ロシアの歴史家イゴール・セイドフが2014年に出版した本「Red Devils Over the Yalu」が取り上げている。

 

現在、ウィリアムズに名誉勲章を授与する運動が長く続いている。退役軍人スティーブ・ルワンドウスキーは、この行動を支持する100人近い海軍、海兵隊、陸軍の将校の署名を集め、米国在郷軍人会や殊勲十字章協会の決議も集めている。

 

しかし、この事件は公式には起こっていないことになっているため、公式書類を見つけるのは困難な作業だ。とはいえ、本物のマーベリックを探すなら、そこにいる。■

 

The real-life Maverick who took on 7 Soviet jets in a classified Korean War dogfight


BY MAX HAUPTMAN | PUBLISHED JUN 24, 2022 10:45 AM

 

Max Hauptman

Max Hauptman has been covering breaking news at Task & Purpose since December 2021. He previously worked at The Washington Post as a Military Veterans in Journalism Fellow, as well as covering local news in New England. Contact the author here.