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歴史に残らなかった機体22 イリューシンのIl-40は進化の枝から外れたジェット強襲機になってしまった

  歴史に残らなかった機体22 Il-2、Il-10と強襲機の成功作を生んだので、そのままジェット化したような機体ですが、戦術作戦の前提が変わってしまい、強襲機そのものが不要になった時点で登場したかわいそうな機体といってよいでしょう。しかし、奇妙な機体ですね 。     第 二次世界大戦が終わると、画期的かつ実験的な各種機体が戦勝国から登場した。ジェット時代に入ると、特にソ連と米国から奇妙な機体が続出した。   ジェット時代に技術課題は山積していた。ジェットエンジンは飛躍的に進歩したが、機体設計は別だった。初期の機体はマッハ1超の速力に最適化され、逆に低速での操縦が大変だった。   ソ連国営航空宇宙企業イリューシンは地上部隊支援の強襲機をジェットエンジンで実現する課題に取り組んでいた。ここから生まれたのがIl-40で、軍の採用は確実と信じていた。     Il-40はある意味で古典的な地上攻撃機の設計だった。操縦士・銃手の搭乗員二名は装甲ポッドに保護され、地上火砲から護られた。さらにコックピットも防弾ガラスをつけ、パイロット座席後部、ヘッドレストも装甲入りだった。パイロットの視界は良好だった。   兵装は極めて通常のものだった。主翼に合計四箇所の小型爆弾倉がつき、小型爆弾を投下する想定で、さらに主翼下に追加燃料タンク、無誘導ロケット弾あるいは追加爆弾を搭載する想定だった。   さらに23ミリ自動機関砲を6門機首に搭載した。だが、これがIl-40の大きな欠陥につながった。   23ミリ自動機関砲を同時発射すると相当の噴煙が発生する。また機首に搭載したため、ガスがジェットエンジンの空気取り入れ口に吸い込まれた。   空気を取り入れ圧縮してエンジンの燃焼室に送るはずが、同機の場合は機関砲を発射するたびに排気噴煙を取り入れてしまった。   これによりエンジンがフレームアウトする不具合が生まれ、さらに問題を悪化させたのは機関砲の取り付け場所で、6門の大閃光でパイロットの視界が奪われた。   そこで機関砲の取り付け場所の変更が検討され、機体下部に搭載する案、空気取り入れ口を機首まで延長する案が提示され、これで同機は二重銃身のショットガンを思わせる形状になった。最終的に設計変更も効果を認められず、Il-40は量産されることはなかった。■   この記事は以下を再構成し、人力翻訳でお

歴史に残らなかった機体20 ノースロップXF-85ゴブリンはB-36を空中母機にする護衛戦闘機構想だった

  歴史に残らなかった機体20 XF-85 爆撃機に援護戦闘機が必要だが、初期ジェット機の航続距離は短い。じゃあ、爆撃機に格納可能な超小型戦闘機を作ればいいという発想にはすごいものがあります。思いついたら実現させるのが軍の得意技ですが、結局実用化もできず新型機の性能の前に陳腐化してしまったというかわいそうな機体です。合掌。   そ のジェット機は卵形の外観でメーカーがつけた「ゴブリン」(邪悪な小人の妖精)とはピッタリの名称だった。 マクダネル XF-85はJ34ターボジェットのてっぺんに与圧コックピットを載せたようだった。小型後退翼は内側に折りたたむ構造だった。尾部には安定板が三枚あり、サメのヒレのようだった。大型フックが空気取入口付近についていた。   ゴブリンには降着装置がついておらず、引き込み式の金属ソリを緊急事態に使う想定だった。これはXF-85が「寄生戦闘機」だったからだ。大型核爆撃機に運ばれ空中投下され母機を敵戦闘機の攻撃から守るのが任務だった。任務を終えた機体は母機に回収する手はずだった。   XF-85はB-35全翼機やB-36ピースメイカー戦略爆撃機の防御用に生まれた機体で爆弾倉に収容する発想だった。 ter   漫画の世界そのままに聞こえるが、寄生戦闘機には長い歴史がある。最初は英複葉機を飛行船に係留した第一次大戦のことで、1930年代には米海軍が全長236メートルの硬式飛行船アクロン、メイコンにそれぞれF9Cスパロウホーク複葉機数機を搭載した。戦闘機はフックで飛行船に「着艦」したのだった。ただし、両飛行船が墜落してしまった。第二次大戦中はソ連がI-16戦闘機をTB-3爆撃機に搭載し空爆作戦を一時的に実施したが、日本はロケット推進方式の桜花カミカゼ攻撃機をG4M一式陸攻に搭載した。   米陸軍航空軍も長距離爆撃機がドイツ戦闘機部隊から多大な被害を受けるのを見て、1944年1月に寄生戦闘機の開発に乗り出した。短期的解決策としてP-47やP-51に落下式燃料タンクをつけ、爆撃機部隊を援護させた。   だが航空軍はジェット戦闘機の登場でピストンエンジン機は一気に見劣りする機体になると見ていたが、燃料消費の多さが難点だった。そこで爆撃機に寄生ジェット戦闘機を運ばせ、敵の領空内で運用すれば航続距離の不足を解消できると考えた。   空軍の呼びかけに応じたのは

歴史に残らなかった機体 番外編 あなたの知らない機体

  成功した機材の裏に失敗作、期待通りにいかなかった数々の機体がある。合掌     1 950年代60年代の米国航空機業界は狂ったように戦闘機、爆撃機、偵察機を開発し正式採用を目指していた。中には成功を収めたF-4、F-15やB-52もある。だが、構想は壮大でも失敗作に終わった機体も数々あった。その一部を見てみよう。     コンベアYB-60 1950年代初期の米空軍はターボジェット方式の長距離核爆撃機の実現をめざしていた。コンベアはピストンエンジンでB-36を製造しており、B-36のエンジンをジェットに換装し、その他一部変更するだけで空軍に採用されると安易に考えた。     そこから生まれたYB-60は全長171フィートの怪物でJ57ターボジェット8基を搭載した。YB-60は巡航速度467マイル時で2,900マイルを飛び、36トンの爆弾搭載量があった。いかにもすごい数字だが、YB-60の性能は競合相手のボーイングB-52に見劣りした。同じ8発のB-52の巡航速度は525マイル時で35トンの爆弾搭載で4,500マイルを飛んだ。空軍はYB-60テストを1953年1月に中止し、B-52は今日でも米空軍で健在だ。       ベル XF-109 1955年、米海軍と空軍がベル航空機に奇抜な構想を持ちかけた。マッハ2で飛行する垂直離着陸可能な戦闘機で、ベルは真剣に機体を設計し、非公式にXF-109と呼んだ。   全長59フィートのXF-109はJ85エンジン8基をつみ、4基にはアフターバーナーたつき回転式翼端ナセルに2基ずつ搭載し、後部にもアフターバーつき、なしそれぞれ2基を格納した。   推力方向を後方、下方に向ける画期的なXF-109の構想はF-35B超音速ジャンプジェット機としてロッキード・マーティンが40年後に実現した。   だがXF-109は先走り過ぎた機体だった。海軍、空軍ともに関心を失い、1961年に開発中止となったが、ベルは試作機も製造していない。世界初の実用垂直離着陸戦闘機になったハリヤーは1967年初飛行したが亜音速機だ。   Lockheed RB-12 1961年1月、ロッキードの伝説的設計者ケリー・ジョンソンが自主提案を米空軍に届けた。マッハ3のA-12スパイ機(SR-71ブラックバードの前身)を超高速戦略爆撃機に転用するというものだった。ジョン

歴史に残らなかった機体19 カーティス・ライトXP-55アセンダー

歴史に残らなかった機体19 奇 抜な形状のXP-55アセンダーには解決できない問題があった。 米陸軍は1939年に既存機種より速力とパイロット視界の双方で優れる機体の提案募集を航空機メーカーに求めた。同時に画期的かつ通例にとらわれない設計を許容すると明示し、カーティス-ライトはXP-55アセンダーでこれに答えた。 アセンダーはプロペラを後部に搭載する「プッシュ」型で通常の「プル」型機と異なっていた。さらにコックピットにプロペラ投棄用のレバーがつく点がユニークで、これはパイロットが機外脱出する際に使用した。 推進式の機体構造は既存機と比べ奇異な形状となった。エンジンが後部にあるため、課題は冷却だった。離陸前に長くタキシングするとエンジンのオーバーヒートが深刻となるのは明らかだった。 機体操縦性も問題だった。いきなり失速する特徴があり、制御をとりもどすのに相当の高度が必要だった。初飛行では10千フィートも降下しやっと制御可能となったほどだ。 同機は一種の全翼機と言える。主翼上には最小限の垂直翼をつけ、機体後部にも制御用に小さな垂直翼があったのみだ。 テストでは離陸に相当の滑走路長が必要と判明した。機首につけた小型カナード翼は離陸を助ける意図でつけたのだが。 方向舵はパイロット後方に格納し、機体制御が難しいため必要に応じ出入りさせた。 性能に目をみはるものはなかった。高速かつ操縦性がすぐれた機種は他に出現していた。ジェットエンジンの登場もあった。XP-55アセンダーがテスト中の1944年、ジェットエンジン搭載機これからの主力と認識されていた。 ターボプロップの性能も有望だったが、ジェットエンジンがターボプロップの性能を上回るのは確実だった。ターボプロップではマッハ1到達が困難だったが、ジェットエンジンはマッハ2まで出せる。XP-55のプロペラ推進は時代遅れになっていた。 XP-55アセンダーには光るものがなかったが機体形状には興味をそそるものがあった。ただし、飛行性能は別だ。量産しなくて良かったと言える。■ この記事は以下を再構成したものです。 The XP-55 Ascender: This Crazy Looking Plane Had Problems

歴史に残らなかった機体18 コンソリデーテッドB-32は日本上空で最後の空戦に巻き込まれ歴史をつくったのだが....

ボ ーイングB-29スーパーフォートレスは爆撃機として名声を得つつ、広島長崎の原爆投下で悪名が付いた。爆弾を大量搭載し、長距離飛行し、高高度を飛ぶ重爆撃機の開発は米国でも第二次大戦中で極度なまで高額につく事業となり、マンハッタン・プロジェクトより高くなった。 ただし、スーパーフォートレスには知名度が低いながら競合機種があった。メーカーのコンソリデーテッドはB-24リベレーター大量生産で知られる会社だった。スーパーフォートレスの性能が期待通り発揮できない場合に備え、B-32ドミネーターが発注された。ただしB-29が想定性能を発揮し太平洋戦線で活躍し始めた1944年にコンソリデーテッドは100機超のB-32を生産しており、同機は1945年中頃に配備された。 大型爆撃機開発は真珠湾攻撃以前に始まっていた。ただし、コンソリデーテッド案はB-24原型の企画でボーイングB-29より相当見劣りがする内容だった。同機の設計は何度も変更を受け、当初の尾翼二枚形状や20ミリ機関砲を各エンジンナセルに搭載し後方発射する奇抜な構想は削除されている。 最終的にB-32の外観上の特徴は10メートルという巨大な尾翼となった。性能面でドミネーターはB-29に匹敵する水準になった。両機種ともエンジンはライトR-3350-23サイクロン4発で共通し、最高速度358マイル毎時は大戦初期のBf-109E戦闘機と同程度で、20千ポンドという爆弾搭載量を誇った。B-32では防御用に有人操作の機関銃10門がついた。 コンソリデーテッドもB-29で採用した与圧式機体と遠隔操作式機関銃の搭載を狙ったが断念した。このためドミネーターは中低高度用爆撃機に区分された。 他方でB-32の航続距離は3,800マイルとB-29より2割長く、巡航速度も290マイルとB-29の230マイルを上回った。ドミネーターには反転ピッチプロペラの他、B-24譲りの分厚いデイヴィス式主翼がつき、低速での抗力を最小限に抑え、着陸時に威力を発揮した。 こうした良い面もあったが、陸軍航空軍はB-29の性能水準に概ね満足しており、B-32はフィリピンでの運用テストを第5空軍の要請で行ったのみの状態だった。最終的に386爆撃飛行隊に編入されたドミネーター各機はフィリピンで日本軍を爆撃した他、台湾