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歴史のIF ジェット戦闘機橘花が実用化されていれば戦局はどうなっていた?

  コメント投稿が(また)できなくなったとのご報告をいただきましたが、こちらは設定をいじっておらず、Google側の話ではないでしょうか。お分かりになる方いらっしゃればご教示ください。コメント希望の方はしばらくお待ちくださいますようお願いします。   第 二次大戦中にジェット戦闘機を開発したのはドイツだけではない。ドイツが最先端だったのは確かだが大戦中に主要国がジェット機開発を進めており、日本もそのひとつであった。 その中で知名度が高い桜花はロケット推進式有人神風攻撃機であった。だが日本には終戦までに実際に飛行までこぎつけ終戦していなければ実戦投入されていたジェット機があった。中島飛行機の橘花である。 日本の科学技術陣は1930年代からジェットエンジン研究を始めていたが、政府支援がわずかでも、ターボジェット試作型は1943年に完成していた。日本政府はドイツのMe-262ジェット戦闘機の試験状況を1942年時点で知っていたものの、1944年にB-29が本土空襲を開始し、ついに海軍が皇国二号兵器の実現を求めこれが橘花になった。 橘花はMe-262のコピーだったのか 橘花とMe-262の外観が似たのは偶然ではない。だが単純な模倣でもない。日本のジェット機開発にはドイツの研究成果から得たものが多いが、ドイツの援助はそのまま実現したわけではない。1944年7月、ドイツ空軍トップのヘルマン・ゲーリングが日本にMe-262、ユンカースのユモ004、BMW003の両ターボジェットエンジン設計図、さらにMe-262実機の提供を命じた。だが輸送にあたった海軍潜水艦はシンガポール付近で米軍により沈められ、救援部隊はBMWエンジンの断面図一枚のみを回収しただけだった。 橘花には二つの面で注目すべき点があった。まず外観でMe-262を小型化した観があったが、ドイツ版と異なり橘花の主翼は直線翼だったことが性能面で不利だった。もう一つが最初から特攻兵器として開発されたことだ。航空史が専門のエドウィン・ダイヤーは「特攻任務を想定し、当初の設計では着陸装置はなく、カタパルト発進でRATOロケット補助離陸を想定していた」「計算上の航続距離がわずか204キロになったのはネ12エンジンの燃料消費率のせいだった。海面上の推定速度は639km/hで、機体に固定した爆弾が唯一の兵装だった。もう一つの特徴は折り畳