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2019年6月19日水曜日

1940年代末に米空軍はロボット爆撃機でソ連への核攻撃を想定していた




U.S. Air Force Considered Building Robot B-47 Bombers for One Reason 米空軍は無人B-47爆撃機でソ連攻撃を想定していた

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June 16, 2019  Topic: Security  Blog Brand: The Buzz  Tags: B-47Hydrogen BombsNuclear BombsNuclear Bomber


1949年末、米空軍はプロジェクト・ブラスリングを立ち上げB-47ストラトジェット爆撃機を遠隔操縦核兵器運搬手段に変えようとした。

空軍が無人核爆撃機の取得をめざした経緯はA History of the Air Force Atomic Energy Program: 1943–1953として空軍が当時検討していたた内容が機密解除で入手できる。結局、同構想は途中で中止されたが。


日本への原爆投下で第二次大戦が終了すると米国はより強力な水素爆弾の開発を開始しソ連を標的に想定した。

原子力エナジー委員会は核兵器開発を担当し水爆開発に走ったが。核兵器を運ぶのは空軍の役目なのに空軍は全く関与しなかった。

その結果、空軍は新型兵器の外寸や効果を教えてもらえず推測で運搬手段を整備することとなった。

当時は核兵器の効果を理解するものは皆無で、空軍のブラスリングに関する記録では立案者は水素爆弾は「森林を20マイルに渡り焼き尽くす地獄を作り出す」効果があり「小規模ハリケーンを呼び起こす」と想定していた。

空軍はパイロットが今後登場する爆弾を運べるのか、爆発後に生存できるのか疑い始めた。
空軍は大きな課題に直面した。10千ポンド兵器を4千カイリ先に運び、目標地点からニマイル以内で爆発させる任務を二年半以内に実現するのだ。

空軍はミサイル開発はデッドライン前に実現できるとは考えす、既存の爆撃機を無人機に改装する、いわば窮余の策を思いつく。

無人機にB-47を選んだのは比較的低コストで、頑丈で利用できるからだった。ブラスリングでは無人B-47の運用は三通り想定していた。

一つは完全無人機化して地上基地から制御する案で、もうひとつは乗員が離陸させてコースに乗せてから友好国上空で機外脱出するものだった。

最後がDB-47A制御機でMB-47B無人機を遠隔操縦する案だ。

標的地点で無人ストラトジェットは降下して自爆、あるいは爆弾を投下してから自爆するはずだった。

どこかで聞いた話だった。プロジェクト・ブラスリングには無人爆撃機攻撃の前例があったのだ。

第二次大戦中の米陸軍航空軍は無人爆撃機をアフロダイト作戦として運用を試みていた。極秘プランでは使い古したB-17やB-24に爆発物を満載しサーボモーターと無線制御装置を搭載しそばを飛ぶ母機から操縦し地上目標に突っ込ませる計画だった。

爆弾搭載機を離陸時はパイロットが操縦し、最初のウェイポイントで機体脱出しその後の操縦は母機に任せる構想だった。

1944年8月12日に悲劇が起こった。ジョセフ・P・ケネディJR(ジョン・F・ケネディ大統領の兄)がアフロダイトミッションで死亡した。

ケネディとウィルフォード・ウイリー注意はPB4Y爆撃機をRAFウィンファーティング基地のあるイングランド南部から離陸させ最初のウェイポイントを目指すはずだったが、離陸直後に爆発し両名とも死亡した。

だが爆撃機を十分信頼できる形で運用するのはアフロダイト作戦で難関だった。それから数年してブラスリングになったが空軍は調達部門がいつも経験する頭の痛い問題に直面した。

機体製造と改修を担当するボーイングと航法装置を担当するスペリーが対立し、お互いに情報を開示しなくなった。別の問題も発生した。既成品の自動航法装置で4千マイルの行程の制御は困難と判明した。またロボット機は妨害に弱いこともわかった。

空軍技術陣は後者については指向性アンテナ採用で緩和できると見た。

そして要求内容の変化がやはり発生した。1951年6月になるとロスアラモスの科学陣がH爆弾の寸法見積もりを変更してきた。

重量10千ポンドの想定が50千ポンドになり、全長は20フィート、直径6フィートになった。B-47はこの大きさも対応できるし4千マイルの飛行も可能だがそれは空中給油を受けて低空飛行した場合に限られる。最終的に別の技術開発によりブラスリングの課題は不要となった。

「核兵器の外寸が急速に小型化されたことと運搬手段の改良で爆発後の衝撃効果を回避する問題が解決された」とB-47の運用記録に詳しいシグマンド・アレクサンダー退役大佐が書いている。

オペレーションアイヴィー核実験が1952年に行われ原子力科学者には有人爆撃機で最新の核兵器を投下しても爆発前に安全な距離に退避することが可能と判明した。
プロジェクト・ブラスリングは幕引きとなった。空軍は1953年に同事業を終了し、実施していても効果の保証はなく当てにならない核兵器運搬方法になると見ていた。

無人B-47構想は放棄され、空軍は有人核爆撃機B-36の運用を続けた。

ライトパターソン空軍基地のライト航空開発センターがブラスリングの中心となっていたが無人飛行と航法の研究には戦略爆撃任務以上の意義があると確信しその後も研究を続けようとした。にもかかわらず空軍は研究活動を終了させた。

ごく最近までだ。今日の空軍は新型長距離打撃爆撃機の無人運用を模索している。同機は「任意有人機」と基本が無人機になるといわれ60年前にブラスリングで想定したB-47を思い起こす。■

This article by Adam Rawnsley originally appeared at War is Boring in 2014.

2018年2月11日日曜日

★冷戦時、ソ連製装備品はこうして米国の手に入っていた


This Is How the CIA Got Its Hands on Some of Russia's Most Powerful Weapons CIAはロシア最強兵器をこうして入手した



 




February 9, 2018


戦時に思わぬ宝が手に入ったことがあるようだ。一方の陣営が新兵器を登場させると相手陣営はなんとしても入手して分析の後、リバースエンジニアリングするか敵陣営と戦う戦闘員に供与しようとした。
米国はこの動きを海外軍事探求(FME)と名付け、国家安全保障アーカイブでロシア製装備の入手が広く行われていたことがわかる。
 一例をあげると1951年の米空軍情報部報告がソ連のMiG-15を入手した経緯を述べている。1951年7月9日、平壌北西でのドッグファイトでMiG-15パイロットが機外脱出した機体は朝鮮半島西海岸の浅瀬に墜落したのが目撃された。英軍機が墜落地点を確認したが、米空軍は機体回収できなかった。
 直後に英米合同の任務部隊が機体回収を再度試みた。やはり回収しようと共産軍の発砲はあったが英米チームはほぼ機体全体を回収でき、米国に送付し分析した。その他のソ連製機体も回収されており、Yak-28ファイヤーバー迎撃戦闘機は西ベルリンで1966年4月に墜落した機体だ。
 中でも一番有名な事案が1960年代初頭にあり、CIAがメキシコで展示中のソ連ルナ衛星を「拝借し」写真撮影したことだ。1965年にはCIAが新型Mi-8輸送ヘリコプター一機を手に入れ、別件ではミンスク-2デジタルコンピューターを100千ドルで入手しようとした。(もちろん成功している)
 冷戦期には敵味方が常に入れ替わっており、第三世界に供与した兵器が同盟関係の変更で反対陣営の超大国の手に渡ることはよくあった。1966年にCIAはソ連製対空兵器をガーナで入手している。同様にソ連もF-14他米製兵器をイラン革命後に入手したはずだ。
 情報活動では成果が努力に見合うものになっているか時として問題になることがある。だが機密解除文書を見るとソ連製装備やマニュアルの入手が成果を十分に上げていることがわかる。特に米空軍に当てはまる。
 空軍が1966年7月の日付でCIA宛に送ったソ連のSA-2対空ミサイルに関するメモが例だ。「海軍、空軍のパイロットがSA-2ミサイルを北ヴィエトナムでうまく回避しているのはご承知と思う」と空軍中将ジョセフ・キャロルが書いている。「成功の背景には同装備のマニュアル他情報を貴局が入手してくれたことが大きい」
 ただし空軍の別メモではSA-2現物を米国が入手していないことを指摘している。だが1967年の六日間戦争で待望の機会が現実になった。イスラエルがエジプトから捕獲したのだ。
 イスラエルがソ連製装備の最大の供給元だったのは確かで、1967年、1973年、1982年の武力衝突のたびに大量の兵器をアラブ軍から捕獲している。1967年6月のメモでは六日間戦争中に手に入れた装備は「国防総省が情報探求の点で大変必要としていたもの」と認めている。ただし1967年9月の空軍メモではイスラエルが米国に装備大部分の検分を許しているが、一部高価値装備でイスラエルが「極端な躊躇」を示していると指摘している。特にSA-2ミサイルが対象でイスラエルは同装備を公開する代わりに米国からの見返りを期待していると空軍は考えていた。
 にもかかわらず米国は最終的にSA-2含むソ連装備すべてを調査できた。SA-2では付属品のFan Songレーダーの現物を調べてジャミング対策を講じる事が急務だった。その他対空砲、無線機、戦車等があった。「全体としての調査で今まで不明だった情報内容がわかり研究開発でのギャップが埋まり、一部は直接東南アジアでの紛争に応用できた」と空軍はまとめている。そうした知見からソ連の「設計内容、製品の品質管理、研究開発の方向性がわかった」とある。
 ソ連製装備には情報面以上の価値もあった。捕獲した武器をソ連と戦う勢力に供与し、とくにソ連占領下のアフガニスタン反乱勢力がこの恩恵を受けた。ここでもイスラエルが大きな供給源となり、1982年のレバノン戦争がその機会だった。同紛争では米国とイスラエルで緊張も発生したが同時にペンタゴンに計り知れない価値の情報がMiG-23やT-72のような高性能ソ連装備で手に入った。
 皮肉にも米国はイスラエルからの装備提供は対価を伴わない贈与と考えていた。米国の援助から当然と考えていたのだ。「イスラエルへの我が国の交渉上の立場は非常に弱い」とCIA長官ウィリアム・ケイシーは国防長官キャスパー・ワインバーガーに伝えている。「それでも貴省の手助けをいただいて欲しい兵器を低価格あるいは無償で米政府が入手できるようにしたい」
Michael Peck is a contributing writer for the National Interest. He can be found on Twitter and Facebook.

Image: Wikimedia Commons.

冷戦終結でこうした動きが消えたわけではなく、今日でも虚々実々のの駆け引きでハードウェアの入手がつづいているはずです。現に米空軍にはスホイなどロシア製機材で飛行隊があるという話です。しかし、現在は最ばースパイの脅威の方が深刻ですね。

2017年7月27日木曜日

冷戦時ソ連に撃墜され投獄されたRB-47パイロットの運命


冷戦時のソ連は結構荒っぽく、領空侵犯した機、していない機も撃墜しています。今回の記事のパイロットは運悪く撃墜されソ連当局に逮捕されたのですね。投獄7か月が長いのかわかりませんが、おそらく交換の形で帰国できたのでしょう。翻って航空自衛隊パイロットが中国に撃墜され地上で捕獲されたらどうなるのか。まず自衛隊員は軍人ではなく公務員ですので軍人の処遇は受けず民間人スパイと同じ扱いになるのでは。つまり闇に葬られるか、取引の材料とされるのでしょう。考えたくない仮定ですが。今回はオファット基地のあるオマハ地元紙の記事です。

Boeing RB-47H USAF

By U.S. Air Force photo [Public domain], via Wikimedia Commons

55th Wing pilot imprisoned by Soviets in Cold War will be laid to rest

冷戦時にソ連で捕虜となった第55航空団パイロットが安息の時を迎える
Jul 24, 2017 Updated 18 hrs ago
Capt. Bruce Olmstead
ブルース・オルムステッド大尉と妻ゲイル(左)、ジョン・マコーン大尉と当時の妻コニーが1961ン円1月に7か月にわたるソ連監獄生活から解放され再開した。
  • JOHN F. KENNEDY PRESIDENTIAL LIBRARY AND MUSEUM
写真左から、ゲイル・オルムステッド、ブルース・オルムステッド大尉、ジョン・マコーン大尉、リンドン・ジョン副大統領、大統領夫人ジャクリン・ケネディ、ジョン・F・ケネディ大統領。空軍の二名は戦略空軍軍団のRB-47の生存者で、機体はソ連により北極海上空の国際空域で1960年7月1日に撃墜された。White House Photographs. John F. Kennedy Presidential Library and Museum, Boston

  1. ブルース・オルムステッド大尉の銀星章はオファット空軍基地内第55航空団の陳列ケースに収まっている。冷戦時パイロットの勇気の証であり、次代空軍要員への好例となっている。
  2. オルムステッドが受勲したのはソ連で刑務所収容中の苦労に対してだ。乗機のRB-47B偵察機は1960年7月1日にロシア戦闘機により北極海上空で撃墜され同僚5名中4名が死亡した。
  3. 後輩の空軍偵察機部隊乗員はオルムステッドを尊敬の念で見たが同人を友として飲み友達として恐れを知らない冷戦時の飛行士として知る空軍仲間に本人に最後の別れを言うときが訪れた。木曜日に遺体はヴァージニアのアーリントン国立墓地に埋葬される。昨年10月にメリーランド州アナポリスの自宅で81歳で死去していた。
  4. オルムステッドの乗機を撃墜するとKGBは本人をモスクワの悪名高いルビヤンカ刑務所に送り、諜報活動の廉で告発した。暖房のない独房でわずかな食事と睡眠しか与えられず、24時間の尋問を受けた。
  5. 若き副操縦士として本人は相当の極秘情報を知っていたが、本人もジョン・マコーン大尉もKGBに何も与えないまま7か月の独房生活を送った。
  6. 「両名は空軍兵士の座右の銘、屈するなかれ、を常時忘れるませんでした」とオルムステッドと同じ飛行隊にいたレグ・アーシュラー准将(第55戦略偵察航空団司令を後日つとめた)は回想する。「ふたりがどんな苦しみを受けたのか想像もできません」
  7. アーシュラーは第55飛行団からオルムステッドのバイ葬式に参列予定の退役軍人40名の一人だ。その他ネブラスカから第55飛行団同窓会会長ジョセフ・スパイヴィやドン・ベイコン下院議員(共、ネブラスカ)(元同航空団司令、2011年-12年)も加わる。
  8. 第55飛行団のRC-135偵察機一機が会場上空を飛行し哀悼を伝える。オルムステッドの未亡人ゲイルが埋葬後に棺を覆った米国旗を折りたたんで受け取る。
  9. 釈放されたオルムステッドとマコーンにゲイルが合流しホワイトハウスでジョン・F・ケネディ大統領、ジャクリン・ケネディ夫人と紅茶の席に招待された。数年たってオルムステッドは大統領夫妻を「とてもチャーミングだった」と評するのだった。.
  10. オルムステッドは55飛行団で再び操縦することはなかったが、テストパイロットとなりデンマークの大使館月空軍武官になった。1983年に大佐で退役しその後住宅改修業者となった。ロシアを訪問し、ロシア軍の退役関係者を自宅に招いたこともある。
  11. ただし獄中の数か月がその後の人生から消えることはなかった。
  12. 「独房に211日もいて何も影響が残らないことはありえません」と1978年にワシントン・ポストに語っていた。「忘れられず許せないのなら、許した方がいい。そうすれば負けずに生きていけます」
  13. その後オルムステッドは55航空団同窓会に入会し、オマハも数回訪れている。
  14. オルムステッドとマコーン(2013年死去)は2004年に銀星章を受けている。冷戦終結で当時の関係者は戦闘勲章の対象となった。二年後にオルムステッドは自分の勲章を55飛行団に寄贈している。■