スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

ラベル(期待にこたえられなかった装備)が付いた投稿を表示しています

この兵器はなぜ期待外れに終わったのか④ ハインケル177は空飛ぶ棺桶とまで酷評され、貴重な資源を消費してしまったドイツ唯一の大型爆撃機。この機体にも急降下爆撃を求めたドイツの用兵思想にも問題が....

    読 者が第二次大戦時のドイツパイロットだったとしよう。「炎の棺」別名「帰還不能の爆撃機」「火山」と呼ばれる機体の操縦には不安を感じたはずだ。   高温に悩まされ発火が頻発したHe 177グライフ(グリフィン)はナチドイツ唯一の長距離重爆撃機で実際に生産された機体だ。満載時自重35トンの同機は失敗作で、貴重な資源をつぎ込んでドイツの敗北を早めたといえる。   He 177は技術的にも興味をそそる機体だったが、これが根本的な問題を引き起こした。1937年にハインケル航空機製造が試作機を納入すると、軍は急降下爆撃性能を求めてきた。ドイツ空軍がこだわった戦術で、重爆撃機に急降下爆撃を求めたのである。   急降下爆撃機には大Gがかかるため、過大なストレスに耐えるべく小型機が通例だった。Ju-87スツーカの機体強度は高くなり結果として重量が増えた。とはいえ機体が大きすぎても重すぎても不適だ。   He 177はそこまで巨大な機体ではなかったが、垂直に近い急降下爆撃には不適で、試みれば地上に激突するのであった。浅い角度でのみ急降下爆撃に耐えた。   戦闘機なら急降下爆撃にも耐えられたが、それでも高速度で降下してから機体を引き戻すのは危険だったし、急降下中に機体分解のリスクもあった。さらに急降下爆撃では標的に極力接近することで精度を高めた。   エアブレーキで降下速度を減じれたが、機体サイズ、重量、堅牢度のバランスが急降下爆撃の成否を左右した。   He 177には別の問題もあった。大型機のため駐機中は絶好の標的になった。兵装ペイロード13千ポンドで攻撃半径が3千マイル超の性能の代償で燃料を大量消費し、機体強度を確保すべく構造改修したことで重量増を招いた。「改良」型の燃料消費はさらに悪化したが、連合軍爆撃機がドイツの石油供給をか細くしていた。   「ガソリン消費が多いため飛行中止措置を迫られた。燃料供給が全く足りなかった」とドイツ空軍トップのヘルマン・ゲーリングが戦後に米戦略爆撃調査団に語っている。   グライフは最初から妥協の産物だっといえる。興味を引くのは急降下爆撃仕様の技術課題をどう解決したかである。   ハインケルの解決策はDB601エンジン4基の2基ずつ連結構成で、双発機のようにプロペラ二基を回転させた。各ペアで1,900キロワット超の出力が得られ、プロペラが二つ

この兵器はなぜ期待外れに終わったのか➂ コンヴェアB-58は時代の変化に対応できなかっただけでなく、開発のシステム思考に問題があった。F-35に教訓は全く生かされず残念な結果が繰り返された。

      コ ンヴェアのデルタ翼爆撃機ハスラーは一歩先を行く機体だった。   1956年11月11日、B-58ハスラー一号機が初飛行した。同機は実戦に投入されることはなかった。独特の形状で優雅な同機は高速飛行し核攻撃を行う想定で作られたが、ソ連の防空戦術の変更に対応して開発方針が変わったため経費が高騰し、自ら首をしめることになったが、もともとはB-47ストラトジェットの後継機の想定だった。   コンヴェアが開発したデルタ翼のハスラーは超音速爆撃機としてマッハ2.0飛行を実現しB-52ストラトフォートレス、ストラトジェットと一線を画す機体になった。   ハスラーは全長95.10フィート、翼幅56.9フィートと爆撃機としては小型機で、これに対しB-52は全長で64フィート、翼幅で128フィートも大きい。   ハスラーはスピードが命で、空軍はB53核爆弾(9メガトン)一発あるいはB43あるいはB61核爆弾4発をパイロンに搭載し、迎撃機が対応できない速力と高度でソ連や中国にダッシュ侵入する想定だった。   CIAは1964年に同機を迎撃可能な中国機はMiG-21フィッシュベッドのみで、かつ迎撃に成功する可能性は「わずか」と分析した。   これはすべてJ79-GE-5Aターボジェットエンジン4基各10,400 ポンド推力で実現したことだ。デルタ翼形状も高速飛行に寄与したが、抗力の発生により機体形状を再設計し、カーブのついた「コークボトル」となった。大型の燃料兵装ポッドを胴体下部に装着した。   発熱を抑えるべくコンヴェアはB-58の表面をハニカム構造のファイバーグラスのサンドイッチ構造でアルミ、スチールを一体化し、鋲の代わりに接着剤を使った。この技法がそののちの民生機にも応用されるはずだった。   ただし、ハスラーの小型形状がソ連領空進入の面で最大の欠点となった。空中給油なしだと航続距離はわずか1,740マイルとなった。このためハスラーはヨーロッパに配備し、同時に相当数の空中給油機も準備した。   航続距離の短さを空軍が懸念したと空軍大佐(退役)エリオット・V・コンヴァースIIIが著した冷戦時の回想録 Rearming for the Cold War, 1945-1960 にある。   戦略空軍のカーティス・ルメイ中将は同機が気に入らず、はやく戦略空軍から除去したかった。

期待にこたえられなかった装備②ヘンシェルHs 129対戦車攻撃機はなにがまずかったのか

期待にこたえられなかった装備シリーズ②はドイツのヘンシェルHs129対戦車攻撃機です。コンセプトはいいのですが、優秀なエンジンは戦闘機優先で使えずフランス製の非力エンジンを搭載しましたが、登場のタイミングが悪くあと数年前に供用開始していれば話はかわっていたでしょう。ヘンシェルと言う会社には航空機部門はあまり重要ではなかったようです。 The Hs 129 Was Supposed to Be the A-10 of World War II  Hs 129は第二次大戦時のA-10をめざしたがエンジンの性能不足と官僚統制のまずさで傑作機になれなかった Bad engines and poor management doomed the German ground-attacker March 21, 2016 Paul Richard Huard http://warisboring.com/the-hs-129-was-supposed-to-the-a-10-of-world-war-ii/ ヘ ンシェル Hs 129は一見すると完璧な対地攻撃機に見える。 双発で強力な装甲を施したコックピットはパイロットを小火器銃弾から守る。同機は当時最大級の機関砲を前方発射する設計だった。 Hs 129はドイツ空軍の究極の戦車キラーとなりソ連T-34戦車を上空から葬るはずだった。言い換えると第二次大戦版のA-10ウォートホグになったはずだ。 一つだけ問題があった。Hs 129の性能だ。原型のHs 129 A-1の性能が低すぎてドイツ空軍も受領を拒否したほどだ。 Hs 129はウォートホグではない。失敗作だった。 ただし同機は航空史上で特異な位置につく。ジェット戦闘機や弾道ミサイルまで製造したドイツ技術でも失敗作があることがわかるからだ。 「Hs 129はその時点でのA-10を目指したもののその目的は果たせなかった」とジョン・リトル(シアトルの航空機博物館学芸員)が語る。「A-10は低速ながら操縦性が高く戦車を狙い撃ちしてパイロットは生還できる」 「Hs 129は再設計し強力なエンジンに換装し低速性能を強化しながら操縦性を高めて標的を視認しやすくするべきだった」とリトルは述べる。「ドイツ空軍には残念ながらHs 129の必要

期待にこたえられなかった装備①米空軍初のジェット戦闘機P-80

  新シリーズ 「 期待にこたえられなかった装備」  世の中には想像図の域を超えられなかった装備は山ほどありますが、鳴り物入りで投入したのに想定した性能を超えられなかった装備は何が問題だったのか。どんな運用をされたのかをお伝えします。第一回はロッキードF-80シューティングスターです。   America's First Fighter Jet (Built to Fight Hitler) Was Sent to North Korea. It Ended Badly. 米国初のジェット戦闘機(対ヒトラー戦用)が北朝鮮上空に投入されたが散々な結果だった Sebastien Roblin March 8, 2018 http://nationalinterest.org/blog/the-buzz/americas-first-fighter-jet-built-fight-hitler-was-sent-north-24802?page=show 1950年 11月8日、4機の直線翼機が中国国境近くの北朝鮮新義州の航空基地に降下を開始した。F-80シューティングスターが基地を機首の.50口径機関銃6門で襲撃するとたちまち黒煙が空に舞い上がった。 シューティングスター各機は数か月前に現地に到着し北朝鮮による全面侵攻に対応する手段とされていた。緒戦こそ大変だったが国連軍の反攻で情勢は逆転した。第51戦闘航空団のF-80は米軍占領下の平壌から発進し北朝鮮軍の生き残りを攻撃し、中国国境に迫っていた。 三回目の通過飛行をした後エヴァンス・スティーブンス少佐はウィングマンのラッセル・ブラウン中尉と高度20千フィートに上昇し残り二機の援護を務めた。突如としてブラウンが高高度に銀色に光る10機ほどのジェット戦闘機が中国国境からこちらに向かい飛ぶのを視認。無線で僚機に攻撃中止を伝えた。MiG編隊がこっちにやってくる! 直後に史上初のジェット戦闘機同士の空中戦が生まれた。だが米軍機は相手より低速機だった。 ナチ新鋭ジェット機の対抗策として急きょ開発  米国はじめてのジェット機ベルP-59エアラコメットは1942年10月初飛行で60機生産されたが実戦配備されなかったのは初期ターボジェットが信頼性乏しく最高速