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歴史に残る艦(2) 日本海軍に対抗し建造され、真珠湾攻撃も生き延びたUSSフィーニックスは、アルゼンチンへ売却されへネラル・ベルグラーノとして英原潜の魚雷攻撃で生涯を閉じた。

      こ れまで原子力潜水艦で沈められた艦艇は一隻のみだ。日本軍と戦う想定で建造されたUSSフィーニックスは真珠湾攻撃を生き残り、太平洋各地で戦闘に加わった。真珠湾攻撃の41年後に、同鑑はフォークランド諸島沖大西洋で英潜水艦HMSコンカラーに撃沈された。   USSフィーニックスは軽巡洋艦ブルックリン級5番艦で設計はロンドン海軍条約(1930年)による制約を受けた。主要国海軍は戦艦建造に制限がつき、巡洋艦に着目した。新条約体制で加盟国間の重巡洋艦の8インチ主砲搭載数で制約がついた。英国は帝国各地の警備用に軽巡洋艦が必要で、6インチ主砲の新型巡洋艦で小型化を狙った。   予算難の英海軍本部に不幸だったのは米国と日本の優先事項が別だったことだ。日本は6インチ主砲15門を三連装5砲塔に搭載し、全長は重巡洋艦並みの軽巡最上級を建造した。これに対抗したのがブルックリン級で同じく6インチ砲15門を搭載した。ブルックリン級の排水量は10千トンと最上級よりわずかに低く、最大速力は33ノットだった。当時の米海軍の考え方では軽巡洋艦は主力艦戦列に沿い火力を展開し、敵駆逐艦の接近を拒む任務を期待された。機能面で重巡洋艦と軽巡洋艦の違いは軽微で、6インチ主砲は8インチ主砲より威力が劣ったものの、再装填時間が短く大きな効果があった。     USSフィーニックスは1935年起工され、1938年末に就役し真珠湾へ配備されたが、真珠湾攻撃を無傷で過ごした。攻撃当日の午後にフィーニックスは急遽編成された日本の機動部隊追尾部隊に加わった。1942年はじめ南太平洋へ展開し、蘭印東インディーズ諸島制圧をねらう日本の動きを封じようとした。1943年は大部分を修理に費やしたが同年12月に第一線復帰した。   太平洋に戻ると同艦はダグラス・マッカーサーのニューギニア攻略作戦に加わり、フィリピン解放にも投入された。1944年6月に日本軍の空襲を受けたが、目立つ損傷はなかった。ジェシー・オルデンドーフ提督のもと、スリガオ海峡海戦に1944年10月に加わり、日本の戦艦山城の撃破を助けた。その後は援護役にまわることが多くなり、援護対象艦が神風攻撃をうけたが、フィーニックスに損傷は皆無だった。戦後に予備役にまわされた。   1951年4月にフィーニックスはアルゼンチンへ売却され、ディエシシエテ・デ・オクトゥーブレ