ラベル あなたの知らない戦史シリーズ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル あなたの知らない戦史シリーズ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2026年7月28日火曜日

不都合な事実―ブッシュ父大統領は一歩間違っていたら日本軍に人肉食されていた―戦後日米政府が必死に隠してきた小笠原諸島守備隊の実態

 

1944年4月、トラック環礁付近に浮かぶグラマンTBFアベンジャー。近くには、乗組員たちが乗った救命筏が見える。後に大統領となったジョージ・H・W・ブッシュは、父島付近で同様の機体を失い、現地駐屯部隊による捕獲を間一髪で免れた。(米海軍)

第二次世界大戦中、米海軍のパイロットが人肉食の危機を免れ――後に大統領となった

A US Navy Pilot Was Nearly Eaten in World War II—and Later Became President


https://nationalinterest.org/blog/buzz/us-navy-pilot-nearly-eaten-world-war-ii-later-became-president-wl-072626

父島付近で撃墜された米海軍航空兵9人のうち8人が、島の日本軍守備隊に殺害され、4人は人肉食の対象にされた。唯一の生存者はジョージ・ブッシュという名の若いパイロットだった

1989年から1993年まで米国を率いたジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ元大統領が、第二次世界大戦中に米海軍の戦闘機パイロットとして従軍していたことは、多くの人に知られている。1944年9月に搭乗していたTBFアベンジャー魚雷爆撃機が撃墜され、米潜水艦に救出されたことを知っている人もいるだろう。

しかし、ブッシュが経験したこの過酷な試練が、はるかに悲惨なものになり得たことを知っている現代のアメリカ人はごくわずかだ。ブッシュは、いわゆる「父島事件」で撃墜された9人のパイロットの唯一の生存者で、太平洋の辺境の島に駐屯する日本軍の手による恐ろしい運命を免れたのである。

1944年、米海軍は太平洋戦線で連勝を続けていた

1944年の秋までに、米国が太平洋戦争で勝利への道を歩んでいることは、すべての関係者に明らかになっていた。その夏、米軍は目覚ましい進撃を次々と遂げていた。6月のフィリピン海海戦では、米軍機が日本軍機に対して圧倒的な撃墜比を記録し、パイロットたちはこれを「マリアナの大狩り」と表現した。この海戦によりマリアナ諸島への道が開かれ、7月には米軍が戦略上極めて重要なサイパン島を占領した。1941年12月の真珠湾攻撃の作戦指揮官であった南雲忠一提督は、サイパン島の戦いで戦死した一人であり、米国への降伏を拒み自決した。真珠湾攻撃の首謀者である山本五十六海軍大将は、その前年、米軍の空襲により戦死していた。

マリアナ諸島の占領が極めて重要だったのは、日本の本土が米軍のB-29爆撃機の射程圏内に入ったからである。有名な「ドゥーリトル空襲」を含む、それまでの日本本土への爆撃は散発的なもので、戦略的な目的というよりは、決意を示すためメッセージを送ることを意図していた。1944年にマリアナ諸島の残りの地域を確保した後、戦略爆撃作戦は本格的に開始されることになった。

その次の標的となったのは小笠原諸島(ボニン諸島)であった。同諸島は、B-29が日本へ向かう最も直線的なルート上に位置しており、今後予定されていた海上攻勢の右翼を脅かす存在となっていた。この脅威により、硫黄島が主要標的として特定され、翌年には爆撃作戦を支援するため同島の占領が行われた。

しかし1944年後半、硫黄島の北150マイルに位置する別の島も脅威と見なされていた。父島は小さな火山島で、2万5000人の日本軍守備隊が駐屯し、小規模な水上機基地と砲艦数隻に支援されていた。起伏の激しい地形は長い滑走路の建設には不向きであり、日本軍が島から出撃できないことから、硫黄島のように上陸作戦の標的と見なされることはなかった。この島が重要視されたのは、二つの山頂に設置された大型無線中継所があったためであり、守備隊は上空を通過する米軍爆撃機編隊の報告を東京へ中継でき、本州の日本軍防衛部隊に米軍の航空機動向を伝え続けていた。そのため、攻勢の次の段階に備えさらに北へ進出した米海軍にとって、これらの施設は最優先の攻撃目標となった。

この時点で、マーク・ミッチャー提督率いる第58任務部隊は、米太平洋艦隊において最も強力な攻撃兵力となっていた。その編成は、大型艦隊空母8隻、軽空母9隻、支援用の戦艦、巡洋艦、駆逐艦、そして1,000機以上の航空機から成っていた。米第5艦隊から分離した第58任務部隊は、1944年9月1日と2日に父島を爆撃した。その任務は、島の施設を破壊し、滑走路にクレーターを作り、航空機や装備を破壊し、2基の無線塔を無力化することであった。

父島上空でのブッシュ中尉の運命の飛行

1944年頃、TBMアベンジャー爆撃機に搭乗するジョージ・H・W・ブッシュ中尉。(海軍歴史遺産司令部)

通信塔への攻撃任務に割り当てられたパイロットの中には、軽空母USSサン・ジャシントから出撃した、20歳の魚雷爆撃機パイロット、海軍中尉ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュがいた。ブッシュのグラマンTBFアベンジャー――当時の婚約者バーバラ・ピアースにちなんで「バーバラII」と名付けられていた――は、魚雷だけでなく通常爆弾も搭載可能で、その日は500ポンド爆弾を4発搭載していた。

ブッシュの機体は、4機編隊の3番手として、割り当てられた通信塔への攻撃に向かった。彼の30度の滑空軌道は正確で、報告によれば爆弾が全弾目標に命中した。しかし、日本軍は自軍の塔の重要性を理解しており、対空砲でそれを囲んでいた。ブッシュと、無線手ジョン・デラニー、銃手ウィリアム・ホワイトという2人の乗組員は、鉛弾と爆弾の嵐の中を飛行し、「バーバラII」を含む数機が被弾した。

ブッシュの「アベンジャー」は、滑空から引き上げる際に炎上した。中尉は、不時着水する前に島からできるだけ遠くへ離れたいと願い、可能な限り長くコックピットにとどまった。ついに、彼は他の乗組員に「パラシュートを展開せよ」――機体を放棄してパラシュートで脱出せよ――と命じた。

不運にも、デラニーのパラシュートは開かず、ホワイトは機体と共に海に沈んだ。2人とも命を落とした。ブッシュは脱出に成功したが、気流に流されて尾部構造物に叩きつけられ負傷したものの、無事に海上にパラシュートで着水した。

この空襲で撃墜された米軍乗組員のうち9人が生き残った。ブッシュは潜水艦USSフィンバックに救助され、捕虜にならなかった唯一の人物だった。彼は自分が思っている以上に幸運だった。

父島の日本軍司令官はレバーを好んだ

父島の日本軍守備隊は、空襲後に数機の航空機が海に墜落するのを見届け、生存者が救助される前に巡視艇を派遣して回収した。海からアメリカ人8名を救出し、島へ連れ帰った。

日本軍は太平洋戦線において、捕虜に公正な待遇を保障するジュネーブ条約を一度も遵守せず、米軍パイロットたちは残酷に殴打され、即決処刑された。これは衝撃的な出来事ではあったが、父島に限ったことではなかった。

父島において唯一特異だったのは、その後に起きた出来事であり、それがスキャンダルを引き起こし、米国と日本の双方が、これらの男たちの最期に関する話を隠蔽することにつながった。詳細は、2003年に歴史家ジェームズ・ブラッドリーの著書『フライボーイズ:勇気の真実の物語』が刊行されるまで公表されなかった。ベストセラー『フラッグス・オブ・アワー・ファザーズ』の著者でもあるブラッドリーは、1944年9月2日に父島上空で命を落とした男たちを取り巻く沈黙に気づき、調査を決意した。

あるパイロットを処刑した直後、日本軍の守備隊長立花義雄中将は、その男の肝臓を食べることを提案した。一部日本軍将校は、この慣行が闘志の表れであり、健康上の利点もあると信じていた。立花の提案を受け、又場末雄少佐は兵士たちに、死体の肝臓を切り取るよう命じた。兵士たちはその指示に従い、肝臓に加え、太ももの肉も切り取った。

結局のところ、死亡した8人のアメリカ人のうち4人は、肝臓やその他の肉を食人目的で切り取られた。又場は、ある肝臓は「竹串で刺され、醤油と野菜と一緒に調理された」と説明した。それは「胃に良い薬」として、小さく切り分けられて食べられたという。

その後、この事件に関し、立花、又場、および将校数名が戦争犯罪で裁判にかけられた。又場は、兵士が飢えており、単に生存のためにパイロットを食べただけだと主張したが、戦争犯罪裁判所はその弁明を退けた。当時の戦況において、米軍の潜水艦活動により食糧輸送は大幅に減少していたが、駐屯地が飢餓状態に陥ったのは、それから約6か月後の1945年春になってからであった。もちろん、人肉食に加え、又場らによる、降伏した米兵の殺害という事実もあった。最終的に、裁判所の見解では、一部の殺害に儀礼的な性質が見られたこと、そして日本軍将校たちが正式な食事の席で肝臓の一部を食した様子は、飢えに駆られた者たちの衝動的な行動ではなく、意図的な決定であったことを示唆していた。

立花、又場、吉井静雄大尉の3名は、この事件により戦争犯罪で有罪判決を受け、絞首刑に処された。軍法には人肉食に関する規定がなかったため、彼らは殺人罪および「名誉ある埋葬の妨害」の罪で有罪判決を受けた。当時、父島の航空基地を指揮し、この事件を知っていた森邦三海軍中将は有罪判決を受け、終身刑を言い渡された。彼は後に、オランダ領東インド(現在のインドネシア)で犯した残虐行為により、オランダ当局によって処刑された。関与したすべての下士官および見習医官の寺木忠は投獄されたが、8年以上の刑期を服した者はいなかった。

戦後、米国と日本両政府は、この事件が米国内で引き起こすであろう激しい非難を懸念し、それぞれ事件を隠蔽した。米軍は、兵士たちの家族が息子や兄弟に実際に何が起きたのかを知ることで受ける苦痛を和らげるため、一部に軍法会議の審理内容を機密扱いとした。家族は、60年近く経った2003年にブラッドリーが真実を明かすまで、事態を全く知らされていなかった。

2002年に戦没者追悼式典のため父島を訪問していたブッシュ自身も、ブラッドリーから聞かされるまでこの件について全く知らなかった。元大統領の反応は控えめなものだった。ブラッドリーが回想するところによると、「何度も首を振り、沈黙が続いた。嫌悪感や衝撃、恐怖といった反応ではなかった。彼は別の世代の退役軍人なのだから」。

著者について:ウィリアム・ローソン

ウィリアム・ローソンは、第二次世界大戦、20世紀の紛争、およびアメリカ南北戦争を専門とする軍事史家である。専門分野は作戦レベルの戦争、特にアメリカの水陸両用作戦の教義である。歴史、政治、銃器に関する記事を、複数の出版物や歴史雑誌に寄稿している。『Saber & Scroll Journal』および『Military History Chronicles』の編集諮問委員を務め、軍事史学会およびアメリカ歴史学会の会員でもある。ローソンはヴァージニア州を拠点としている。

2025年12月21日日曜日

朝鮮戦争中にソ連MiG-15と空中戦し、4機撃墜の海軍エイビエーターに73年後に名誉勲章を授与する動き。それにしてもグラマン鉄工所のF9Fパンサーは頑丈に作られていたんですね

 ソ連軍4機を撃墜したが作戦を極秘扱いにされていた海軍パイロットに名誉勲章受章の可能性がでてきた(Task & Purpose)

事後点検で自機F9F-5パンサーには263発の銃弾痕が確認された。

ニコラス・スレイトン

2025年12月8日 午後3時52分 EST 公開

Royce Williams

1952年にソ連のMiG-15戦闘機4機を撃墜した伝説の海軍航空士官ロイス・ウィリアムズは、軍人や退役軍人が名誉勲章を授与されやすくする法案のきっかけとなった。写真は米国海軍協会と議会名誉勲章協会提供。

軍史上最長の空中戦で4機撃墜を記録して70年以上経った今年、ロイス・ウィリアムズに名誉勲章がついに授与されそうだ。

議会は妥協案の国防授権法の条文を公開した。これは年次防衛政策法案で、支出計画と目標を定めるものだ。今年の予算は過去最高の9010億ドルである。この大規模な国防予算法案の中に、第591条が盛り込まれている。同条項は「朝鮮戦争中の勇猛な行為」に対して、ウィリアムズの海軍十字章を名誉勲章に格上げするものである。

その行為とは、7機のソ連製MiG-15と35分間にわたる空中戦をほぼ単独で戦い抜いたことだ。ウィリアムズの功績にもかかわらず、この戦闘は長年極秘扱いにされていた。

1952年11月18日、当時海軍中尉だったウィリアムズはグラマンF9F-5パンサーでその日2度目の任務に就いた。日本海上空で他の3機の戦闘機と共に飛行中、ソ連空軍の戦闘機7機が突如現れた。米軍機2機は機械的トラブルで空母へ帰還を余儀なくされ、ソ連機が接近する中、ウィリアムズと彼のウィングマンだけが空に残された。接近したソ連機に対し、ウィリアムズはF9Fの機関銃を連射し命中させた。1機のMiGが墜落し、ウィリアムズの僚機はそれを追撃するため離脱した。ウィリアムズは今や単独で、自機より高性能なジェット機を操る6人のソ連パイロットと対峙することになった。

35分間にわたり、ウィリアムズはパンサーを旋回させながら機体をくねらせ、ミグの照準に捉えられないよう回避した。彼は素早く2機目のソ連機を撃墜し、限られた弾薬で通過射撃を続けるため機動性を駆使した。3機目を撃墜。さらに別の機体を大破させ、最終的に撃墜に追い込んだ。

「あの瞬間、俺は任務を遂行する戦闘機パイロットだった」とウィリアムズは2022年に本誌に語った。「持てる弾を撃ち尽くしただけだ」。

やがて弾薬が尽き、離脱を余儀なくされた。海軍機動部隊へ帰還する途中——当初は味方艦艇から誤認射撃を受けた(敵機が圧倒的に多かったためだ)——何とか着艦に成功した。事後点検でパンサーに263発の銃弾痕が確認された。奇跡的にウィリアムズと機体は生き延びた。

この日の激しい空中戦での活躍により、ウィリアムズは銀星章を授与された。しかし彼の行動は隠蔽された。公式記録では敵機1機撃墜・1機損傷とされた。米ソ緊張を悪化させる恐れがあったためである。ベトナムでの作戦や艦艇指揮を含むその後の軍歴においても、記録は変更されず、真実は闇に葬られた。退役大佐となったウィリアムズの真実が明るみに出たのは、21世紀に入ってからのことだった。

10年以上にわたり、退役海軍少将ドニファン・シェルトンや議員ら支援者によるウィリアムズへの名誉勲章授与運動が続いた。3年前の2022年12月、当時のカルロス・デル・トロ海軍長官は彼の銀星章を海軍十字章に格上げし、「ウィリアムズは高リスク任務で明らかに顕著な功績を挙げ、正当な評価に値する」と述べた。ウィリアムズは2023年1月にこの勲章を受章した。

本年提出された国防費法案の条文は、現在100歳のウィリアムズへの名誉勲章授与を承認し、授与に関する時効を免除する内容となっている。

法案の採決は今月中に予定されている。■

ニコラス・スレイトン

寄稿編集者

ニコラス・スレイトンはTask & Purposeの寄稿編集者である。速報記事に加え、歴史・難破船・軍による未確認異常現象(旧称UFO)の調査について執筆している。

Navy pilot who took out 4 Soviet jets in covered-up mission may get Medal of Honor

After-action inspections found 263 bullet holes in his F9F-5 Panther.

Nicholas Slayton

Published Dec 8, 2025 3:52 PM EST

https://taskandpurpose.com/history/medal-of-honor-royce-williams-ndaa/



2024年12月7日土曜日

AD-5N「スカイレイダー」が冷戦時に核ミッションを担っていたことを知る人は少ない(The Aviationist)―当時の同機パイロットが50年代末の台湾海峡危機時の内幕を語ってくれた



AD-5N

VA(AW)-33のダグラス AD-5N スカイレイダー(画像提供:米海軍)


1958年後半、台湾海峡で緊張が高まっていた時期に、スカイレイダーのパイロットたちは核攻撃任務の準備をしていた。任務が最終的に中止されるまで、彼らは夜間に機内に座って緊張の時間を過ごし、核爆弾を搭載したカタパルト発射に備えていた…。

 「スパッド」の愛称でも知られたダグラス A-1 スカイレイダーは、伝説の単発機で、米海軍の航空母艦の甲板から飛んだ最後のプロペラ式米海軍攻撃機でもあった。


核攻撃用スカイレイダー

頑丈な設計と長時間の飛行持続力で知られたスカイレイダーは、優れたペイロード能力を備えていた。燃料2,280ポンドを機内に搭載し、2,200ポンドの魚雷、2000ポンド爆弾2発、12.5インチロケット弾、20mm機関砲2門、240ポンドの弾薬を搭載しても、スカイレイダーの総重量は最大重量である25,000ポンドを下回っていた。


第二次世界大戦中に構想されたスカイレイダーは、朝鮮戦争とベトナム戦争で大活躍を見せ、近接航空支援、捜索救難、阻止活動で優れた能力を発揮した。しかし、通常爆弾、ロケット、さらには魚雷を含む多様な兵器を搭載できる能力により、汎用機としての役割も果たした。

AD-5N

1958年頃のVA(AW)-33 Det.42所属のダグラスAD-5Nスカイレイダー(画像出典:米海軍


派生型のAD-5Nはスカイレイダーの特殊バージョンであり、4名の乗員を収容するために胴体を拡幅し、困難な状況下での精密な作戦遂行のための先進的な電子機器を搭載していた。


核攻撃スカイレイダー

1950年代の終わり頃、VA(AW)-33は、主に核攻撃任務の訓練を行うため、空母エセックスからAD-5N機を飛ばした。同隊は、兵器局原子力ロケット(BOAR)ロケットや低空爆撃システム(LABS)爆撃システムなどの技術を使用し、低空長距離作戦を専門としていた。

海面からわずか50フィート(約15メートル)上空を飛行し、陸上では樹木の頂上すれすれを飛行するミッションは最高機密で、各パイロットにはそれぞれの標的が割り当てられていた。3人または4人の乗組員には電子技術者が含まれ、予算が許す限り、米国および欧州で訓練を行っていた。実際のミッションは基本的に一方通行だったが、ロケット推進兵器でわずかだが生存の可能性が向上した。

AD-5Nのパイロット用サイドパネル。右側のパネル上部にLABSタイマーライトが見え、右側にNAV/LABSクロス・ポインター計器が見える。(画像提供Stephen Miller)

スティーブン・ミラーは、引退した電気技師であり、海軍パイロットとして従事した時期もある飛行家だ。飛行訓練の後、ニュージャージー州アトランティックシティのVA(AW)33に配属され、AD-5Nを操縦した。 スカイレイダーで低空長距離核兵器運搬任務に従事した当時のことを、ミラーは次のように語っている。


オハイオ州マイアミ大学を卒業してすぐ海軍に入隊し、当時は商用操縦士免許を取得するまであと数時間というところでした。飛行訓練の後、1956年にAD-5Nを操縦するVA(AW)33に配属されました。


1957年から1958年にかけ、4機で構成されるさ分遣隊が各空母に配属され、巡航任務に従事しました。私の所属していた空母は、USSエセックス(CVA9)でした。これは、朝鮮戦争からベトナム戦争までの冷戦時代の話です。

 

主な任務は、低空長距離での核兵器の投入でした。これは、水上50フィート、地上約150フィート(樹木の頂上レベル)を飛行するものでした。すべての航行は、パイロットによる目視と推測航法によって行われ、日本とヨーロッパの両方で訓練が行われました。当時、低空飛行の航空機を検出できるレーダーは存在しませんでした。地上クラッタが原因です。長距離巡航時の対気速度は160ノットで、エンジンが不安定になるまで待ってから、空の投下タンクからメインタンクに切り替えていました。通常、航法支援には1人または2人の乗組員が従事し、彼らは機器のメンテナンスも担当していました。

 

また、APS-31というポッド搭載翼ユニットの地上マッピングレーダーも装備していました。

 

1957年の中頃、私たちはバージニア州ノーフォークの特殊兵器学校で、兵器の操作、兵器局原子ロケット(BOAR)、低空爆撃システム(LABS)について学びました。教室には弾頭を除いた実働状態のBOARが置かれており、私たちはテストボックスに接続して確認する方法を学びました。私は、核コアを爆発させるために1000ポンドのHE(高性能爆薬)が使用された実物のBOARを搭載し、模擬標的へのテスト飛行を行う予定でした。しかし、最終的にキャンセルとなり、BOARを使用しないまま演習は進められました。

 

投下手順は次の通りでした。LABSにはタイマー、加速度計、精密ジャイロ方位基準が装備されていました。IP(放出地点に向かって最終滑走を開始する初期位置)に到達する直前、航空機は最大速度(約240ノット)で、5分間に限定したフルパワーまたは「軍事用」パワーで、安定した超低空高度を維持しながら、武器を装備した状態で飛行しなければならなかった。

 

IPを通過すると、スティック上のボタンが押し、2~3分のランに向けてタイマーがスタートします。同時に、通常はVOR/TACAN/ILSローカライザーに使用される垂直ナビゲーションインジケーターが切り替わり、正確なヘディング参照値が提供されます。同時に、短いパネルライトとヘッドセットトーンも起動します。


タイマーが切れると、投下捜査を開始する地点に到達したことを示す短いライトとトーンが鳴りました。パイロットは、加速度計を使用して機首を正確に引き上げながら、トリガーを引いて保持します。ILS グライドスロープに使用される水平ナビゲーションインジケーターは、この機能に切り替わり、最初は下がります。パイロットは、機首をスムーズに上げ、インジケーターを中央(水平)の位置に戻します。これにより、リリース時に適切な量の「G」が確保され、リリース姿勢に達すると自動的に発射されます。

 

BOARは散弾銃4発分に相当する爆風で機体から吹き飛ばされ、本体にはピッグテールが取り付けられており、これが伸びてから機体後部から引き抜かれ、ロケットモーターが起動する。この兵器は最高速度が400ノット(時速約720キロ)で、約7.5マイル(約12キロ)の距離をカバーしました。

 

この時点でAD-5Nはループの初期段階に入りましたが、速度が遅すぎてループを完全にすることはできず、機首を上げて速度を上げ、方向を反転させる必要がありました。これは「ハーフ・キューバン8」と呼ばれる機動の改良版で、この場合は「アホ・ループ」と呼ばれています

 

プロペラ機でループを完成させるには、例えば単座のAD6のような高性能な機体でなければ不可能でした。ロケット推進兵器を使用すれば、爆風地帯から逃れることは可能ですが、巨大な衝撃波は予測不可能な結果をもたらします。核兵器の中には、推進装置のない爆弾もあり、プロペラ機でこの方法で投下された場合、爆風から逃れることは不可能でした。このような任務では、誰も生還できないことが予想されました。幸いにも、そのような事態になることはありませんでした。

 

1957年から58年にかけての地中海巡航中には、夜間訓練でBOARの準備を行いましたが、少なくとも私たちの飛行隊では、それ以上のことはありませんでした。ある時期には、この目的のために身元調査を行った上で、各自に最高機密の目標が割り当てられました。これらの目標は、少なくとも私たちには不明のソースから提供されたもので、ジグザグのルートも強調表示されていました。私の推測では、これはペンタゴンから提供されたものではないかと思います。それらは個別の暗証番号でロックされた金庫に保管されていました。私たちは、空いた時間に各自のルートを研究することが求められ、誰も他の誰の目標が何であるかを知りませんでした。これらは厳密に視覚による昼間の任務でしたが、おそらく夜間に発進し、昼までに海岸に到着するでしょう。レーダーの補助機能により、湖や川などの目立つ特徴を特定するメリットはありました。また、乗組員がチェックポイントを探すのを手伝ってくれました。最大の難関は、敵地の上空のチャートには間違いがあることが分かっていたことです。そもそも、樹冠レベルで水路案内や推測航法を使って航行しようとすること自体が困難を極めるのに、これではさらに難易度が上がります!

 

1958年後半の金門・馬祖諸島危機の際、我々はあの海域にいたのですが、私の友人も太平洋艦隊の戦隊とともにそこにいて、AD6を飛ばしていました。 彼は暗い夜に2時間、機体に座ったままでカタパルトに繋がれた状態で、核兵器の発射準備をしていましたが、最終的に中止命令が出されました。これはあまり知られていないことだと思います。その核爆弾はマーク7でした。それは当時標準的な核爆弾で、核コアのサイズによって威力が決定されていました。 典型的な中距離用コアは18~22キロトンで、長崎に投下されたものと同じくらいでした

 

海軍/空軍の他の飛行隊は、さまざまな種類の航空機(主にジェット機)を飛ばしており、それらには他の運搬方法もありました。 これが私たちの特別な経験でした。


海軍航空隊での任務を終えた後、航空業界で数年間、チャーター便や飛行教官として通常の単発・多発エンジン航空機の操縦に携わました。その後、モホーク航空でコンベア240/440機の操縦を担当し、最終的にはFBOO地上運航支援事業者として独立しました。

航空業界を離れ電気工学の学位取得を目指しましたが、パートタイムで飛行は継続し、1967年にマサチューセッツ大学ダートマス校を卒業しました。エンジニアとして設計と管理、商業および軍事、大企業や中小企業など、さまざまな雇用主のもとで働きました。また、社有機パイロットを務めることもよくありました。そのような企業の一つに自動操縦装置メーカーがあり、そこでの経験が、私をこの業界に導きました。

現在90歳になる私は、現役を離れ20年ほどになります。私が提出した情報が、1950年代の冷戦時代に関心のある方々にとって、歴史的な価値となるよう願っています。


David Cenciotti is a journalist based in Rome, Italy. He is the Founder and Editor of “The Aviationist”, one of the world’s most famous and read military aviation blogs. Since 1996, he has written for major worldwide magazines, including Air Forces Monthly, Combat Aircraft, and many others, covering aviation, defense, war, industry, intelligence, crime and cyberwar. He has reported from the U.S., Europe, Australia and Syria, and flown several combat planes with different air forces. He is a former 2nd Lt. of the Italian Air Force, a private pilot and a graduate in Computer Engineering. He has written five books and contributed to many more ones.



The AD-5N ‘Skyraider’ and Its Little-Known Nuclear Role in the Cold War

Published on: November 29, 2024 at 5:28 PMFollow Us On Google News

 David Cenciotti


https://theaviationist.com/2024/11/29/ad-5n-skyraider-nuclear-role/



2023年10月18日水曜日

WW2で木製傑作機モスキートをBOACが運用していた....戦略物資ボールベアリング以外に人員輸送までこなし、ドイツ戦闘機の迎撃を振り切っていた。(The War Zone)

 


Mosquito BOAC WWII nuclear

pixel17 via Wikicommons (Colorized Portrait) and Photo by Simon Watts/Getty Images (Mosquito)

第二次世界大戦のマルチロール機、イギリスのモスキートは、爆弾倉に核物理学者ニールス・ボーアを載せ移動していた

マット・デイモンが "一足早いクリスマス・プレゼントがあります"と告げる。続いてケネス・ブラナーが登場し、喝采する観客を前に法廷を開く。マンハッタン計画の責任者レスリー・グローブス将軍と核物理学者ニールス・ボーアをそれぞれ演じた2人の大スターは、ロスアラモスへのデンマーク人科学者の到着を告げる。ここは、最初の原子爆弾を製造するため1943年ニューメキシコ州に設立され、80年後にクリストファー・ノーランが大ヒット映画『オッペンハイマー』の撮影で再現した秘密施設である。

「イギリスのパイロットが僕を爆弾倉に入れたんだ」と、ボーア役のブラナーが得意のデンマーク訛りで笑いながら語る。「もちろん、私は酸素吸入をしくじって昼寝するふりをしたんだ」。

このシーンは、ナチス占領下のヨーロッパからデンマーク人が劇的な脱出を遂げたスリリングな状況や、安全な場所への飛行での驚くべき物語をほとんど示唆していない。コペンハーゲンのゲシュタポ本部へのイギリス空軍の空襲を描いた新著『モスキート』のリサーチ中に、筆者はこの2つに関する興味深い真実を発見した。

マンハッタン計画に参加した当時、ニールス・ボーアはおそらくアルベルト・アインシュタインの次に世界で最も著名な科学者だった。祖国デンマークは1940年4月以来、ドイツの占領下にあった。

Kenneth Branagh as nuclear physicist Niels Bohr, and the man himself, known to the British Special Operations Executive as the ‘Great Dane.’ <em>via the author</em>

核物理学者ニールス・ボーアを演じたケネス・ブラナーと、英国特殊作戦本部に "グレート・デーン "のコードネームで知られた本人

侵攻当日、教授はコペンハーゲンの研究室で、硝酸と塩酸の混合液で一対のノーベルメダルを溶かそうとしていた。ボーアは、ヒトラー政権下のドイツで反ユダヤ主義から逃れてきた2人のユダヤ系ドイツ人物理学者から預かった23カラット金のノーベル賞が、ナチスの手に移るのを阻止しようとしていたのだ。1940年、フィンランドとソ連との「冬戦争」の犠牲者向け資金集めのため、自分のノーベルメダルを競売にかけた。自分の名前を冠したコペンハーゲンの研究所が、ドイツからの亡命者たちに聖域を提供することを許可したことも、本人の利他主義を物語っている。しかし、それは個人的なことでもあった。ユダヤ人の母を持つニールス・ボーアは、宗教的信条はともかく、血統的にはユダヤ人であった。

1940年、ウィンストン・チャーチルの指示で、扇動と破壊工作により「ヨーロッパを燃え上がらせる」べく設立されたイギリスの特殊作戦実行局(SOE)は、1943年、この科学者の自宅に秘密工作員を送り込み、デンマークからの退去を促した。ボーアがロンドンからの招待を丁重に拒否したことは、3枚の葉書に貼られた切手の下に隠されていた。次に、SOEは詳細な指示とともに書面を送った:

「2つの鍵に深さ4ミリの小さな穴が掘られていた。メッセージの挿入後、穴はふさがれた。ボーア教授は、穴が開くまで、指定箇所をやさしくヤスリで削る。そうすれば、メッセージを注射器でマイクロスライドに浮き上がらせることができる」。

ボーアの友人、リバプール大学のジェームス・チャドウィック教授のメッセージは、砂粒ほどの大きさで、ピンヘッドの幅の穴に入っており、600倍の顕微鏡で解読しなければならなかった。チャドウィックはデンマークから英国に向かうよう促し、「貴殿の援助が最大の助けになる特定の問題 」を暗示した。

チャドウィックは中性子を発見しノーベル賞を受賞した仲間であり、イギリスの原爆研究を率いていた。

ボーアは、占領下のデンマークで良いことができると思い、ここでも丁重に辞退したが、友人の言う「ある問題」の本質について疑いは持っていなかった。

2ヵ月後、ボーアはチャドウィックに、ドイツがウランと重水を使って原子炉を開発する手段を確立したことを新たな情報で確信したと報告した。しかし、チャドウィックは、ニューメキシコ州のロスアラモス研究所でマンハッタン計画の英国代表団団長として新たな職務に就く準備をしていたため、SOEで「グレート・デーン」と呼ばれていたボーアをコペンハーゲンを離れるよう説得しきれなかった。

ゲシュタポで働くデンマーク女性がボーアの逮捕命令を見て、ボーアの兄ハラルドに密告したことで、物理学者はようやく自分が去らねばならないことを受け入れた。ナチスによるデンマークのユダヤ人社会への行動と、特にボーアへの脅威の証拠は、無視できなくなっていた。SS幹部がコペンハーゲンに押し寄せていた。港には大型のドイツ船ヴァルテランドが横付けされ、デンマークにいる7000人のユダヤ人を詰め込めるだけ運ぼうとしていた。

ボーアと妻マルガレーテは、ハラルドの密告から数時間以内にカールスバーグのビール工場内にある自宅を出た。家の裏から抜け出すと、ナチスの掠奪部隊がすでに向かっていた。その後、夫妻が浜辺の小屋から四つん這いになり待っていたボートに乗り込んだ。デンマークで最も有名な男が持っていたのは、バッグひとつ、研究所から取り出した重水の入ったビール瓶、そしてナチスの原子炉の設計図と称するスケッチだった。海峡を渡りスウェーデンに密航する前に、これ以上持ち物を集める時間はなかった。

ニールス・ボーアとマルガレーテ・ボーアは、マルメに到着したことでナチスの魔の手から逃れられたと思っていたかもしれないが、ゲシュタポもデンマーク陸軍の諜報部も別の見方をしていた。

マドリードやリスボン、カサブランカのように、中立国スウェーデンの首都は戦時中の陰謀の温床で、世界中の諜報機関のスパイが競っていた。ストックホルムでは、秘密、嘘、裏切り、欺瞞はすべて共通の通貨であり、カットアウト、諜報員、隠れ家、デッドドロップ、監視、暗号は、取引手段だった。そして、世界で最も有名な核物理学者の登場には、賞金を賭ける価値があった。

当初、スウェーデン当局はボーアが誘拐や暗殺の危険にさらされていることを認めたがらず、保護を任されたデンマーク陸軍大尉に「ここはストックホルムであってシカゴではない」と述べた。冷酷さと残忍さに関しては、ゲシュタポに匹敵するギャングはいないので、「教授に何かあれば、貴国の恥になる」と将校は答えた。スウェーデンにいる間、大尉はボーアのそばを離れなかった。しかし、ここからは武装した3人のスウェーデン秘密警察も加わった。ストックホルムに到着したボーアは、スウェーデン諜報機関が所有する家に連れ込まれ、屋根裏部屋を通って建物の反対側まで連れて行かれた。

3日後、ナチスは計画通りデンマークのユダヤ人に対して動いたが、時すでに遅しだった。ボーア同様に危険が迫っていることを察知したユダヤ人は、同胞により連行され、匿われ、やがて避難した。スウェーデンはボーア自身の働きかけにより、全員受け入れに同意した。デンマークの7000人ほどのユダヤ人のうち、最も弱く弱い284人だけが逮捕された。ナチス高官は、「強制収容所に専用列車を送るだけの数が足りない」と落胆した。

ボーア自身が究極の安全を得るためには、『ストックホルム急行』に頼ることになる。それは列車ではなく、ブリティッシュ・エアウェイズの前身BOAC(英国海外航空公社)が運航していた、スコットランドのルーカーズ空軍基地とスウェーデンのブロンマ空港間でVIP乗客を運ぶためドイツ夜間戦闘機の試練をくぐり抜ける、非武装のデ・ハビランド・モスキートだった。これらの乗客は、モスキートのフェルトで覆った爆弾倉の閉所恐怖症になりそうな狭い場所に搭乗した。このフライトでボーアは死にかけた。その責任はモスキートの比類なき性能にあった。VIPを軍用機の腹に乗せる選択肢は、すべてボールベアリングのためだった。

BOAC Mosquitos carried a single passenger in the felt-lined bomb bay. They were given oxygen, a reading light, a blanket, and a flask of coffee for the two-and-a-half-hour flight. <em>Crown Copyright</em>

BOACのモスキートは、フェルトで覆われた爆弾倉に乗客一人を乗せた。乗客には酸素、読書灯、毛布、そして2時間半の飛行のためのコーヒーのフラスコが与えられた。Crown Copyright

スウェーデンのSKFは35年間、イギリス、ドイツ、フランス、アメリカに工場を開き、高品質ボールベアリングの生産で世界をリードしてきた。しかし、第二次世界大戦の開戦で、イギリスのルートン工場は昼夜を問わず働き続けたものの、需要に対応ができなかった。

英国空軍のアブロ・ランカスター爆撃機1機の製造で175ポンドを超える高品質ボールベアリングが必要で、週に25機程度のペースで生産ラインから完成していた。しかし、それ以外にもスピットファイアやハリケーンなど多数の航空機があった。英国では、多種多様なエンジンを搭載した多種多様な航空機が生産されており、すべてがボールベアリングが必要だった。航空機だけではない。戦車、装甲車、軍艦、高射砲もすべてボールベアリングを必要としていた。複雑な軍用機械でボールベアリングを使わないものはほとんどなかった。マーリンエンジン搭載のモスキートも当然そのひとつだった。

スウェーデン製ボールベアリングを積んだSOE船は、1941年、北海とスウェーデンを結ぶスカゲラク海峡のドイツ軍封鎖を突破した。しかし、1942年6月以来、BOACはルーカーズ基地とストックホルムを結ぶ500マイルのルートで準定期の宅配便を運航していた。英国の諜報機関にとっても戦争産業にとっても非常に重要なこの航空路線は、世界で最も敵対的で厳重に防衛された空を横断していたが、BOACはそのニーズに応える航空機を見つけるのに苦労していた。

遅くて脆弱な時代遅れのRAF爆撃機はすぐに使えなくなり、アメリカから入手した新型機、小型のロッキード・ロードスターやハドソン、型輸送機カーチスC-46コマンドーの最初の試作機セントルイスが使われた。C-46は大量貨物を運べたが、ドイツ空軍には脆弱だった。1943年春に投入されたダグラスDC-3も同様だった。

ルーカーズでは、BOACは英国でDC-3/C-47として知られていたダコタの脆弱性に言及したものである。しかし、1943年春、在ストックホルムの英国公使ヴィクター・マレット卿の電報で、飛行継続の圧力はさらに強まった:

「少なくとも100トンのベアリングの必要性は絶望的であり、他の戦時作戦と同様に危険を冒すべきであり、無乗客の貨物機は夏季の間、明るい夜と関係なく飛行すべきであると勧告する。ドイツ軍が撃墜に踏み切れば、その位置は再考の余地があり、最悪の場合、我々は1機か2機のダコタと乗組員を失うことになる」。

BOACはこれに同意せず、スウェーデンへの代替ルートを試した後、必要なのは「速度、高度、航続距離優れた性能を持つ機体」であると報告書で結論づけた。

No. 105 Squadron Mosquito B.IVs. The B.IV was the first Mosquito to enter service with BOAC and remained popular with crews after the introduction of the&nbsp;subsequent FB.VI&nbsp;because it was a few miles per hour faster. <em>Crown Copyright</em>

105飛行隊のモスキートB.IV。B.IVはBOACに就航した最初のモスキートで、FB.VIが導入された後も、時速が数マイル速いという理由で乗員に人気があった。 Crown Copyright

1938年、ヨーロッパに戦争の予兆が迫る中、ジェフリー・デ・ハビランドが英国航空省に軽量双発爆撃機のアイデアを提案したが、反応はほとんど感じられなかった。それでも彼は、とにかく自社で作ろうと決めた。そして、この新型機を木で作れば、金属製よりもはるかに早く生産に取りかかれるだけでなく、他の軍用機の製造に必要なアルミニウムの重要な供給源への需要も回避できることを知っていた。ロンドンの北、セント・オルバンズ近郊の堀に囲まれた大邸宅の敷地内で、チームは極秘裏に試作機の製作に取りかかった。

幸運だったのは、航空省が懐疑的であったにもかかわらず、空軍の新型機の研究・開発・生産の責任者ウィルフレッド・フリーマン空軍大将が、彼らの努力を断固としてかつ先見の明をもって支援してくれたことである。王立飛行隊(RAFの前身)の若いパイロットとして、デ・ハビランドが設計した初期の爆撃機の性能に感銘を受けていたフリーマンは、非武装爆撃機という概念への爆撃機司令部の反対を回避するため、デ・ハビランドの新型機モスキートを50機発注し、RAFの高空飛行スパイ機という別の要件を満たした。

ロールス・ロイスのマーリン・エンジン2基を搭載したモスキートは、ボーイングのB-17フライング・フォートレスと同じ4000ポンドの爆弾を搭載したままベルリンまで往復できたが、乗員は10人ではなく2人だった。

1941年4月、アメリカ陸軍航空隊のトップであるハップ・アーノルド大将向けに行われた驚くべき飛行展示の後、彼は同機を「傑出したもの」と評価し、設計図一式を持ち帰るよう主張した。その3ヵ月後、最前線に投入された週に、モスキートの最高速度は時速433マイルを記録した。当時、イギリス空軍の最高戦闘機スピットファイアMk Vの最高速度は時速370マイルだった。突然、誰もがモスキートを欲しがるようになり、そのユニークな木材と接着剤による構造のおかげで、イギリス中の家具工場、家具職人、楽器メーカーが大工技術を持つ労働力を投入して需要に対応した。

1941年夏、写真偵察部隊として初めて英国空軍の任務に就いた後、数カ月後には最初のモスキート爆撃機飛行隊が編成された。第105飛行隊は、1942年9月にオスロのゲシュタポ本部を低空で急襲し、「最新のフォッケウルフ(Fw190)を凌駕した」という熱狂的なレポートでモスキートの存在が一般に明らかになるまで、ほぼ1年間機密扱いのままだった。

そして、それこそがBOACが必要としていたものだった。

1943年2月、スウェーデンへのボールベアリング・ランを完了したBOAC初号機はドイツ軍戦闘機隊の攻撃を免れたわけではなかったが、迷彩塗装を施した翼の上下に巨大な文字で民間登録、機首には航空会社のアイコンである「スピードバード」のロゴが描かれたモスキートは、航空会社のパイロットに有利な状況をもたらした。

1機のモスキートは、爆弾倉に1,400ポンドのスウェーデン製ボールベアリングを搭載することができたが、その速度で、1晩でルーカーズとストックホルムの間を2往復、あるいは3往復できた。1943年6月、BOACのモスキートは30往復をこなし、イギリスのボールベアリング不足の解消に貢献したが、それ以上に大きな貢献をしたのは、月末に行われたゲームを変えるような1回のフライトであった。

ヘンリー・ワーリングとヴィル・シベルグは、スコットランドの東海岸にあるセント・アンドリュースで1週間近く踵を返していた。英国製鉄の代表であったワーリングと、SKFのルートン工場を経営するシベルグは、貴重な時間が無駄になっていると感じていた。中立国スウェーデンからのボールベアリングは先着順で供給され、ドイツ軍が大量発注する寸前だとロンドンでは理解されていた。ワーリングは2度にわたってロンドンに電話をかけ、行動を促したが、長く暑い夏の日が続き、雲がまったくなかったため、待機していたロッキード14での飛行は自殺行為になると告げられた。

A BOAC Mosquito FB.VI G-AGGD prepares to land. <em>Crown Copyright </em>

.

着陸態勢に入るBOACモスキートFB.VI G-AGGD。 Crown Copyright

ワーリングがプールサイドで日光浴をしていた6月24日、空軍の運転手がホテルにやってきた。水泳パンツ姿のまま、ワーリングはルーカーズに連れて行かれ、その夜、彼とシバーグが急遽改造された2機のBOACモスキートでスウェーデンに向かうことを知らされた。

出発前にウイスキーを一杯飲み、2人のビジネスマンがブロンマに到着したのは、連合国向けにSKFのボールベアリングを確保するドイツの交渉の数時間前だった。貨物目録に "ワーリング1梱包、シベルグ1梱包 "と記録されていた。

ジェフリー・デ・ハビランドはかつて、「サイズが適切であれば、飛行機は非常に多用途になる」と書いている。しかし、モスキートは何でもできた。ドクトリンによれば、航空戦力には、制空権、情報、監視、偵察、攻撃、機動性という4つの役割がある。大雑把に言えば、空軍はこれらの任務を遂行するため戦闘機、偵察機、爆撃機、輸送機を必要とし、それぞれは通常、機体にまったく異なる特性を要求する。しかし1943年以前、モスキートは最初の3つの用途で例外的な例として、すでにその名を轟かせていた。

A BOAC Mosquito pilot climbing aboard an FB.VI. Note the four sealed 20mm cannon gun ports in the nose. <em>Crown Copyright</em>

FB.VIに乗り込むBOACモスキートのパイロット。機首にある4つの20mmキャノン砲ポートに注目。Crown Copyright

合計27,000トン近い爆弾を投下したモスキートは、出撃1,000回あたりの損失が爆撃機部隊のどの機体よりも少なかった。その正確さは、1942年秋のV-1飛行爆弾発射場破壊作戦の後、モスキートが各目標を破壊するのに要した爆弾の量は、次に効果的な爆撃機の4分の1以下であったという記録にも表れている。Dデーの両日には、モスキート戦闘爆撃機がドイツの自動車輸送機を1000台近く破壊した夜もあった。

重武装の8門戦闘機として、特にレーダーを装備した夜間戦闘機として、モスキートは800機以上の敵機を撃墜した。戦争後期、日没後にドイツ軍の飛行場周辺をうろつき、出入りするあらゆるものに襲いかかろうとするモスキートの姿はドイツ空軍に恐怖を与え、モスキートパニックという言葉が生まれた。

写真偵察任務に就いたモスキートは、ほぼ無差別にヨーロッパを横断し、ヒトラーのV-2弾道ミサイルの脅威を遅らせるのに役立つ重要な写真情報を収集した。ルーカーズとストックホルムを結ぶBOACの旅客機/輸送機の役割を引き受けたモスキートは、4つの重要な役割のすべてをうまく実施した、おそらく史上唯一の機体となった。

ワーリングとヴィベルグの飛行から6ヶ月間、モスキートはスウェーデンへさらに129往復飛行し、ボールベアリング100トン以上を持ち帰った。しかし、BOACが雇用したイギリスとノルウェーの民間パイロットと無線オペレーターを本当に際立たせたのは、彼らが運んだ人間の貨物だった。彼らは、スウェーデン、ひいてはデンマークとの間の情報と人員の流れを維持するだけでなく、墜落した連合軍搭乗員の送還も担当していた。

1943年10月6日午前6時半少し前、ブロンマ空港でBOACモスキートFB.VI G-AGGGの乗員はニールス・ボアを爆弾倉に設置し、インターホンと酸素システムの使い方を説明した。乗員は、使う必要があるとき、彼に伝えると言った。機体を放棄しなければならなくなった場合に備えて、照明弾とパラシュートが渡され、2時間半の飛行の間、閉所恐怖症になるくらいコンパクトな空間に閉じこめられた。

15,000フィートを西へ、登山家がデスゾーンと呼ぶ25,000フィート付近の薄い空気に向かい上昇するBOACクルーは、後方でボーアが自分の指示に従ってくれると確信していた。彼らは知らなかったが、科学者の大きな頭にインカムの入った革製飛行用ヘルメットがなかなかフィットせず、ボーアには聞こえていなかった。また、ボーアは驚くほど世間知らずで、酸素の使い方を正しく理解していなかった。

無線士が彼の様子を尋ねたが、爆弾倉から応答はなかった。彼はボーアが酸素欠乏で気絶したのではと心配した。しかし、G-AGGGが南北に張り巡らされたドイツ軍の防空網をかいくぐるまでは、高空飛行を続けなければならなかった。

ブロマを離陸してから2時間半後、北海上空を低空で通過し、モスキートFB.VIはルーカーズ空軍基地に着陸した。そこで大きな安堵の中、グレート・デーンは弱りながらも生きており、機体の腹から解放された。

翌月、ボーアはアメリカに向け出航し、ロスアラモスでマンハッタン計画に参加した。歴史家のアレックス・ウェラーシュタインが書いているように、最初の機能的な核装置の製造におけるボーアの貢献は、その後過小評価されたが、非常に重要なものであった。

一方、戦闘機として、爆撃機として、そしてスパイ機として、デ・ハビランドの「木の驚異」は伝説に近い名声を博し、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングにとって忌まわしき存在として地位を確立した。

占領下のヨーロッパ全土のピンポイント・ターゲットに対する一連の大胆な低空モスキート空襲は、大衆の想像力をかき立て、1964年の映画『633飛行隊』にインスピレーションを与えた。

しかし、BOACの小さな非武装の輸送機隊は、Xウイングというよりミレニアム・ファルコンであり、スウェーデンとの間で重要な人員、貨物、情報を飛ばし、重要な貢献をした。終戦まで520回以上(1944年初頭には一晩で3回も)ケッセルランを達成した非武装のスピードスターは、悪天候や不運でこそ損失を被ったが、攻撃を受けたものの、ドイツ空軍により失われた機体は1機もなかったとされている。

『オッペンハイマー』での短い、一見取るに足らないシーンだが、モスキート自身がスターだったことを暗示している。■


The Nuclear Scientist And The Warplane That Became Britain’s Most Unlikely Airliner

BYROWLAND WHITE|PUBLISHED OCT 13, 2023 3:27 PM EDT

THE WAR ZONE