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イスラエルのイラク原子炉空爆(1981年)から学べる点とは---イラン攻撃はあり得るのか

イラクがこの時点で脅威だったのは事実ですが、イスラエルの独断での行動が非難対象になったのはなんとも皮肉です。当時と違い現在は国連など相手にせず単独行動をとっても批判の量が減っていると思いませんか。さて、イラン攻撃が何度も話題に登るイスラエルですが、本当にテヘラン攻撃に踏み切る可能性はあるのでしょうか。マサダコンプレックスや大戦中の大量虐殺の記憶が生々しいイスラエルの人たちの思考方法は実に明確で、自信に満ちていますね 。 どの国も動かない中、イスラエルが作戦を実施し、核兵器製造用と思われたイラクの施設を空爆した。 イラクがサダム・フセイン独裁体制のもとで核兵器の入手を画策していることを1970年代末に国際社会は知るに至った。発電用の原子炉購入を隠れ蓑にしようとしていた。当時のイラクは領土拡張の野望と、「シオニストの本拠地」イスラエルへの敵意を隠す素振りもなかった。フセインは1968年にイラク大統領の座に上り詰める前20年にわたりバース党で戦闘や暗殺の現場に立っていた。 大統領に就任したフセインはイラクを核保有国にして、イスラエルが保有しているとされる核兵器に対抗せんとした。フランスと締結していた条約を利用し1975年にフランスから原子炉をチグリス川のほとりアル-ツワイタ研究施設に建造するため資材を購入することとした。ここは首都バグダッドからわずか12マイルしか離れていない。フランスは同時に濃縮兵器級ウラン72キロの売却も承認し、原子爆弾一個分の製造が可能となる量だった。専門家は原爆完成を1980年代初頭と見ており、イスラエル首都のテルアビブへ投下すれば10万名が死亡すると推定した。 世界はこの売却に警戒した。米国は英国と外交上の懸念を示し、国連の国際原子力エネルギー機関はイラクの核開発事業への査察を増やした。だが西側はアラブ世界の排除には気乗りせず、1973年の石油禁輸措置の記憶が新鮮だった。そうなるとフセインのめざす核武装でまっさきに脅威を受けるイスラエルは独自に対応が必要となった。その第一波が1979年4月でイスラエル情報機関モサドの工作員がフランスからイラクへ移動途中の炉心部を ラ・セーヌ=シュル=メールで 差し押さえた。工作員は倉庫を爆破し、炉心部品を損傷させた。イラク関係筋はフセインが怒り狂うのを恐れ、損傷した部品の受け取りに合意した。