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歴史に残らなかった機体15 メッサーシュミット110

1 930年代中葉のナチドイツには問題がひとつあった。ハインケル111のような双発中距離爆撃機は1,500マイルの戦闘半径があったが、単発戦闘機メッサーシュミット Bf 109 はわずか400マイルだった。1939年当時の航空兵力信奉者は爆撃機が敵防空網を突破できると信じていたとはいえ、ドイツは目的地まで援護し帰還可能な長距離戦闘機の必要性を感じていた。 解決策がメッサーシュミット110双発戦闘機で、外観は小型爆撃機そのものだった。初期型のBf 110Cでも戦闘行動半径1,500マイルを実現し、単発機を上回る武装の機関砲4門、機関銃4本を前方に、さらに後部銃手が機関銃で後部に食いつく敵機を追い払うはずだった。最高速度350マイルは第二次大戦初期の戦闘機の多くを上回っていた。 戦闘機の設計では全てが思い通りに実現しない。燃料を大量搭載するため機体は大型化され重戦闘機となった。大型で重量がますため双発とし、重量が追加された。その結果、Bf 110 の機体重量は4トンと、Bf 109の2倍になった。 同機は駆逐戦闘機と呼ばれ、重戦闘機へのドイツの信頼の象徴となった。ドイツ空軍ではエリート部隊とされ、1939年の開戦時にはポーランドの複葉機や援護無しでドイツへ飛来した英爆撃機を駆逐した。 ところが英国の戦いが1940年夏に始まるとルフトバッフェはそれまでの地上部隊への航空支援と全く異なる状況に入った。フランスやノルウェイを離陸した攻撃部隊に対しBf 109は航続距離が圧倒的に足りず、ロンドン上空で10分しか余裕がない始末だったので爆撃機部隊は英空軍の迎撃を食らった。 長距離援護戦闘機の必要性を痛感したルフトバッフェはエリート部隊のBf 110の投入に踏み切った。低速のボーランド軍複葉機が相手と違い、RAFのハリケーン、スピットファイヤは高速で、Bf 110は単発戦闘機の前に操縦性、加速性がいずれも劣ることを思い知らされた。爆撃機の護衛を放棄し、Bf 110部隊は弧を描く飛行で各機を防護する必要に追い込まれ、RAF戦闘機を近づけさせないようにするのが精一杯だった。 英国の戦いでドイツ空軍はBf 110を237機投入し、223機を喪失した。犠牲者の一人が空軍司令ヘルマン・ゲーリングの甥ハンス-ヨアヒム・ゲーリングだ