ラベル 朝鮮戦争 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 朝鮮戦争 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020年4月11日土曜日

歴史に残る機体24 ロッキードF-80


チのジェット戦闘機への対抗手段として開発されながら、朝鮮戦争で初投入されたF-80はどこまで戦力になったのだろうか。
 1950年11月8日、直線翼のジェット機4機編隊が北朝鮮新義州の飛行場を急襲した。F-80シューティングスター各機は機首搭載の50口径機関銃で飛行場を掃射すると対空火砲が周りで炸裂した。
シューティングスター各機は数ヶ月前に現地到着したばかりだった。北 朝鮮軍は圧倒的戦力で南を侵攻し、その後国連軍が事態を一転させた。第51航空団所属のF-80は米軍占領下の平壌から中国国境付近に飛び、残存する北朝鮮軍に攻撃を加えていた。
 3回目の通過飛行を終えたエヴァンス・スティーブンス少佐、ウィングマンのラッセル・ブラウン中尉は高度20千フィートへ上昇し、残る僚機の援護にあたった。すると、ブラウンが約10機の戦闘機が高高度からこちらへ突進してくるのに気づいた。
 歴史初のジェット戦闘機の空中戦で、米側は速力が劣る機材を使っていた。

ナチのジェット戦闘機への米側対抗手段として
米国初のジェット機はベルP-59エアラコメットで1942年10月初飛行したが一回も作戦投入されていない。エンジンの信頼性が低く、速力も410マイルがやっとで、P-51マスタングに及ばなかった。1943年に連合軍情報部はナチのMe-262は速力540マイルで作戦投入寸前とつかんだ。英国製ターボジェットでジェット戦闘機製造の要請がロッキードに下った。わずか6ヶ月で。
 伝説の航空技術者クラレンス・「ケリー」・ジョンソンがアールデコを思わせる優雅な機体を設計した。完全な秘密体制で試作機はわずか143日で完成し、作業に130名が投入されたが、ジェット機製作とはだれも知らなかった。
 試作機XP-80は時速500マイル超で、当時のピストンエンジン戦闘機の水準を超えた。当初のデハヴィランド製ゴブリンエンジンは強力なアリソンJ33ターボジェットエンジンに換装された。
ただし、主翼は直線翼で尾翼は当時のピストンエンジン戦闘機の形状のままと、音速付近で不利な設計だった。XP-80は燃料ポンプの不良でロッキードの主任テストパイロットのみならず当時のエース、リチャード・ボングの命を奪った。
 Me-262は手強い相手になるはずだったが、ドイツは燃料不足や産業基盤の悪化で戦局を覆せなかった。
 試作型YP-80A4機が1945年にヨーロッパに派遣され第二次大戦が終結した。二機は英国に残り、一機は事故で喪失した。残る二機はイタリアで戦線に投入されたところで大戦が終結し、敵機との遭遇もなかった。
 戦後にロッキードはシューティングスターを1,700機生産し、制式名はF-80に変わった。F-80B型が続き、射出座席を採用し、次のF-80Cではエンジンをさらに強力なJ33-A-35に取り替え時速600マイルとし、翼端燃料タンク(260ガロン)で航続距離が1,200マイルになった。
 米国初の実用ジェット戦闘機は次々に記録更新していった。1946年には米大陸横断飛行をジェット機で初めて実施し、同年に大西洋横断にも成功。特別改装のP-80Rで短期間ながら623マイルの最高速度記録を樹立した。

朝鮮での空戦
北朝鮮のYak-9戦闘機やIl-10強襲機が相手ならシューティングスターは十分に有利でもMiG-15は別だった。
 F-80より先進設計のMiG-15は後退翼で、ロールスロイス・ニーンをリバースエンジニアリングしたVK-1ターボジェットを搭載した。英国政府が同エンジンのソ連売却を1946年に承認したのは驚くべきことだ。MiG-15の速力は670マイルでシューティングスターを上回り、23ミリ機関砲2門、37ミリも1門と重武装だった。
 MiGは中国内戦の最終局面で登場したが、朝鮮で存在が確認されたのは1950年11月1日のことで、中国から飛び立ちF-51マスタング編隊を待ち伏せ攻撃し、一機を撃墜している。大戦時のソ連ベテランパイロットが空中戦で活躍していた。
 冒頭の11月8日に話を戻すと、スティーブンスとブラウンは左へ急転回し、接近する敵機を射撃する態勢に入った。ブラウン機のM3機関銃4門が弾づまりしたが、敵機に数発を命中させた。このMiGは反転降下し、ブラウンが追尾し時速600マイルで地表に向かった。ブラウンがさらに数発命中させると相手は爆発炎上した。ブラウンはぎりぎりで機体を引き起こした。
米側はジェット戦闘機で初の空中戦で撃墜に成功したと主張。
だが、ソ連側戦史では11月8日の記録は全く違う。MiGパイロットのウラジミール・ハリトノフ中尉は米戦闘機一機の待ち伏せを受けたが降下で逃げ切ったと報告している。ロシア記録ではジェット戦闘機同士の初の空戦は11月1日で、MiGのパイロット、セミヨン・ホミニッチ中尉がF-80(フランク・ヴァンシックル中尉操縦)を撃墜したとある。米側記録ではヴァンシックルは地上砲に撃墜された。いずれにせよ、ブラウンの交戦後に海軍のF9Fパンサーがミハイル・グラチェフ大尉操縦のMiG-15を撃墜し、これは双方の記録が一致している。
 ジェット空戦で初の撃墜で主張が食い違うが、MiG-15が速力、操縦性、武装のいずれもF-80をうわまわっていたことで意見の相違はない。米記録ではシューティングスターは17機を空中戦で喪失し、撃墜したMiG-15は6機、その他プロペラ機11機だった。B-29大編隊をF-80、F-84混成100機で護衛したが、MiG30機の待ち伏せを受け、B-29が3機撃墜されたのが1951年4月12日のことだった。
 空軍は急いで最新鋭機F-86セイバーを派遣し、これでMiG-15と互角に戦えるようになった。中国国境近くの「MiG横丁」上空で空中戦が続き、撃墜実績が米側に好転した。F-80は対地攻撃任務に回され5インチロケット弾8本あるいは千ポンド爆弾2発を主翼下に搭載した。
 朝鮮で対空砲火によるシューティングスター喪失は113機に及んだ。例として1952年11月22日、チャールズ・ローリング少佐は国連軍を釘付けしていた砲兵陣地の攻撃中に対空砲の命中弾を受けた。少佐は傷ついた機体を陣地に突入させ、死後に名誉勲章を受けた。
 朝鮮にF-80飛行隊10個が展開したが、1953年までにすべてF-86セイバーあるいはF-84対地攻撃機に転換した。うち、一個飛行隊はマスタング供用に戻った。米軍でのシューティングスター供用が減ると、余剰機は南アメリカ各国の空軍部隊に払い下げられ、60年代70年代まで使用された。
 朝鮮戦線でシューティングスターはすでに旧式化していたが、2形式の機体の原型となった。知名度が低いのはF-94スターファイヤー複座レーダー夜間戦闘機で朝鮮で6機を撃墜し、MiG-15も初の夜間ジェット空戦で撃墜している。
 もう一方が伝説の機体T-33複座ジェット練習機だ。6,500機が生産され、40カ国の空軍部隊で供用された。CIAが進めた1961年のキューバ侵攻ではB-26爆撃機を三機撃墜し、艦船数隻を沈めている。
 20世紀後半に世界各地のパイロット数千名がT-33で訓練を受けた。ボリビアが2017年にT-33供用を終了し、同機の運用に幕が下りた。
 1940年代に急ぎ開発された米国初の実用ジェット戦闘機は予想外の長い供用実績のもととなった。■

この記事は以下を再構成したものです。

Meet the F-80: America's First Fighter Jet

It wasn't great but it was a start.
April 9, 2020  Topic: History  Region: Americas  Blog Brand: The Buzz  Tags: HistoryNorth KoreaMilitaryTechnologyWorldF-80


2019年4月21日日曜日

クラシック機体シリーズ 米海軍初の実用ジェット戦闘機の朝鮮戦争での実績



Air War: How the Navy’s 1st Fighter Jet Battled MiGs over North Korea 米海軍初のジェット戦闘機はMiGと北朝鮮上空でどう戦ったのか


二次大戦後の米海軍はジェット戦闘機の実用化を急いでいた。ただし高速飛行可能な機体を空母の限られた飛行甲板で運用するのは難易度が高い課題だった。海軍初の実用型ジェット機FHファントムは出力不足でわずか二年間しか供用されなかった。
海軍機メーカーのグラマンに1946年にターボジェットG-75試作機四機をピストン機F7Fタイガーキャットを原型で制作する契約が入った。しかし、構想は挫折し、同社は契約資金で単発機G-79製造に切り替えた。これがXF9F試作機となり1947年11月に初飛行した。
米空軍初の実用ジェット戦闘機P-80シューティングスター同様にグラマンは直線翼を採用したため音速近くになると性能に限界があった。グラマンは海軍機には空母着艦の激しい環境に耐える頑丈さが重要と考えた。パンサーには折り畳み翼がつき、飛行甲板を有効に使用する機構となり、パイロットにもうれしい射出座席や与圧式コックピットがついた。
グラマンはF9F-2にロールスロイス製ニーンターボジェットエンジンを搭載し、F9F-3にはアリソンJ33を採用し、英国製エンジンが不調になった場合に備えた。ただしライセンス生産のJ42ニーンは性能が優秀とわかりF-3も適宜改造された。パンサーは取扱と操縦取り回しが楽で時速575マイル、航続距離1,300マイルを翼端燃料タンク2個により実現した。ただし、尾部テイルフックの強度不足を着艦時に露呈した。
パンサーは海軍、海兵隊に1949年から配備され、ブルーエンジェルスも同機を初のジェット機材として導入した。
朝鮮戦闘で初の空戦撃墜
1950年6月25日、北朝鮮人民空軍は100機あまりのソ連供与Yak-9戦闘機、Il-10強襲機編隊で韓国「空軍」の10機弱の訓練機、連絡機を地上で撃破した。
トルーマン大統領が米軍の介入を决定するや、まず航空優勢の確保が課題とアンった。7月3日早朝、海軍はピストンエンジンのスカイレイダー、コルセア編隊を空母ヴァレイフォージから発進っせ平壌の北朝鮮空軍基地を襲撃させた。ここにVF-51所属F9F-3も初の実戦に出動し、攻撃隊の前に北朝鮮戦闘機を排除した。
パンサー編隊が航空基地上空に到着すると北朝鮮Yak-9数機が迎撃に離陸してきた。エルドン・ブラウン少尉、レナード・プロッグ中尉が各一機を撃墜したのが朝鮮戦争初の空中戦成果となった。プロッグはYakの一機は「完全にこちらを狙える位置についたが、これだけ高速に飛ぶ相手をしたことがないのはあきらかだった」という。
北朝鮮空軍は数日にして排除されたが四ヶ月後にソ連パイロットがMiG-15を鴨緑江の反対側の中国から出撃し国連軍を脅かし始めた。MiG-15は軽量で後退翼でこれもニーンターボジェットが原型の発動機をソ連で生産し搭載していた。MiGは高高度性能がパンサーやP-80より優れ、速度も100マイル早かった。
パンサーが性能で劣るのは明らかだったが、特定高度では操縦性が優れ、武装も20見るM3イスパノ機関砲4門と強力だった。射速が早いため毎秒16ポンドの高性能火薬銃弾を打ち込み、合計13秒分の銃弾を搭載していた。MiG-15は射撃時に安定性が欠け23ミリ機関砲二門、37ミリ機関砲一門を搭載したが、後者は命中させるのが難しい上に射速が遅く精度が低かった。
11月9日に、パンサー編隊が中国国境近くの新義州で橋梁攻撃の上空援護を行っているとMiG-15編隊が向かってきた。ミハイル・グラチェフ大尉が率いる第139護衛戦闘連隊の機体だった。VF-111「サンダウナーズ」編隊長ウィリアム・エイメン少佐がグラチェフ乗機が後部に接近し旋回するのをみつけた。ソ連機はパンサー編隊の位置を見失ったようでエイメンはウィングマンのジョージ・ホローマンとMiG機の後方にまわり機関砲を斉射した。
ジグザク飛行で回避しようとグラチェフは急速降下で追撃機を振り切ろうとしたがエイメンの技量はそれをものともせず銃撃を続け、飛行速度は限界に近づいた。エイメンはついに機首を引き起こしたが高度はわずか200フィートだった。グラチェフ機は山の側面に激突した。
これがパンサーによる初のジェット機撃墜事例になった。だがジェット機による撃墜は前日にP-80がMiG-15とのジェット機同士の初の空戦で記録していた。ただし、ソ連米国双方の戦史記録はともに撃墜の事実を確認しておらず、11月9日についても同様だ。
パンサーは11月18日にMiG2機を撃墜している。だが次の空中対決は二年待ってやっと実現した。海軍海兵隊は使用機材がMiGに見劣りすることを認識し沿岸地区での運用に集中させ、空軍の新型F-86セイバーが中国国境近くの「ミグ横丁」で対応した。
ハリウッド映画トコリの橋への登場
だがパンサー搭乗員が安全になったわけではない。朝鮮戦争ではパンサーが87千回の出撃をし、対地攻撃ミッションで橋梁や兵站拠点を攻撃した。F9F-2は千ポンド爆弾2発と127ミリロケット弾6発を搭載可能に改装されていた。
攻撃任務には強烈な対空射撃がつきもので、パンサーは例外的なまでの強靭性を証明し、同機がなければ米人パイロット多数が犠牲になっていただろう。
その後宇宙飛行士になったニール・アームストロングもF9Fで78回のミッションをUSSエセックスから行った。このうちマジョンリの兵站基地への強襲で低空飛行した乗機は山間のケーブル線を引っ掛けた。衝撃で主翼を6フィート失ったが機体をなんとか友軍の戦線まで飛ばし射出脱出した。
その後同僚となったジョン・グレンもパンサーを海兵隊飛行隊VMF-311で1953年に飛ばし、「マグネットアス」のあだ名を頂戴したのは多数の対空砲火を後部に浴びたためだった。そのうち85ミリ砲弾が主翼に3フィートの大穴をあけたが、グレンは基地まで乗機を飛ばした。その一週間後、37ミリ対空火砲弾が命中したがなんとか着陸させた。グレンはその後F-86に乗り換えMiGを3機撃墜した。
グレンのVM-311での戦友にレッドソックスの打者テッド・ウィリアムズがいた。この野球選手は海兵隊予備役として召集され朝鮮で39回の戦闘ミッションをこなした。平壌の訓練基地を襲撃した際に対空砲で乗機F9Fの油圧系統、電子装備が使えなくなり、射出脱出で膝を痛めたくなかったウィリアムズは燃えるパンサーをなだめつつ基地まで帰った。乗機は不時着で損傷したが本人は一年足らずで野球界に復帰した。
2機のパンサーが尾翼と胴体それぞれ破損して帰還した。整備陣破損性のない青色尾翼と銀色の胴体でフランケン・パンサーをこしらえ12回のミッションに活用された。
そこまで運に恵まれなかったものもある。リチャード・ハリオン著The Naval Air War in Korea,によれば空母航空隊は平均10%の搭乗員は朝鮮で失っている。海軍の記録では67機のパンサーを喪失しているが、敵砲火より恐ろしいのが着艦時だと判明した。
ある飛行隊では最初の二ヶ月で受けた損害は敵火砲による穴ひとつだけだったのに35回もの非戦闘事故が発生している。パンサーは着艦時に誤って甲板上の機体に衝突することがあった。だが逆に着艦を誤り艦に激突することもあった。
発艦に失敗し海面に激突する事例も多く発生した。射出脱出で着水しても日本海の冷たい海中では救難ヘリが間に合わないとパイロットが凍死する危険があった。
これとは別の危険は北朝鮮国内の橋梁攻撃でジェイムズ・ミッチナーがマジョンリ事例を中編小説「トコリの橋」にし、1954年に映画化されたが空母運用の複雑な様子を描くとともに米国内で関心の低い戦役に動員された隊員の悲劇をとりあげた。原作はF2Hバンシーだったが、ハリウッドはVF-192「ゴールデンドラゴン」飛行隊のパンサーを使った。実機に加えモデル機を使った撮影を交えた戦闘シーンは60年たった今でも息を飲むものがある。
パンサーからクーガーへ
パンサーの速力不足を痛感したグラマンはパンサー改良型を二形式試した。まずF9F-4がアリソンJ-33を搭載し、F-5はロールスロイスのテイ(7千ポンド推力)を積んだ。ここでも英国設計のエンジンが優秀と判明し、パンサーの最高速度は625マイルになり最大離陸重量も75%増えた。F-4は大半がF-5仕様に改装された。
F9F-5にはレーダー照準射撃性能もつき、機体を延長し燃料搭載量を増やしたほか、尾翼を延長し低速域の操縦性を改良した。グラマンはベアメタル仕上げの機体も試したが耐腐食性能が劣ることがわかった。
この改良型パンサーが朝鮮に姿を表したのは1952年末で海軍の大規模航空戦の最後に間に合った。ソ連崩壊まで極秘扱いだったがF9F-5を操縦するロイス・ウィリアムズがMiG-15の7機編隊とウラジオストック付近で交戦する事案が11月18日に発生した。ソ連機で無事帰還したのは3機だけだった。ウィリアムズも昇降舵のみでやっと着陸したが機体には263個の穴があいていた。ウィリアムズはアイゼンハワーとウィスキーを楽しむ特権を与えられたが、ソ連軍とのドッグファイトの事実は秘密扱いと言い聞かされた。
海軍はパンサーの可能性を認識し、グラマンは後退翼型をF9F-6クーガーとして製造した。クーガーはさらに高速で高高度飛行が可能となったものの航続距離が機体重量増加で短くなった。朝鮮戦争には投入されなかったがパンサーと交替して供用された。クーガーでサイドワインダー空対空ミサイルや戦術核弾頭の搭載が可能となったが、実戦に参加したのはヴィエトナム戦争で前方航空統制官が使用した海兵隊TF-9J練習機のみだった。
ただパンサーにはこれ以外に奇妙な実戦投入事例がある。28機がアルゼンチン海軍に移管されたのは1958年のことで1963年4月2日に海軍内の強硬はが政権転覆を図った。陸軍が戦車連隊を送り、海軍の本拠地プンタインディオの占拠に接近すると同基地に配備されていたパンサーが戦車攻撃に出撃しシャーマン戦車数両を破壊したがパンサーも一機を50口径機関銃で喪失した。プントインディオ基地は翌日陥落した。
パンサーは当時でも最高性能を誇る機材ではなかったが搭乗員の技量と勇気に機体の信頼性と残存性が加わり航空史で特筆すべき実績を残したのである。■
Sébastien Roblin holds a Master’s Degree in Conflict Resolution from Georgetown University and served as a university instructor for the Peace Corps in China. He has also worked in education, editing, and refugee resettlement in France and the United States. He currently writes on security and military history for War Is Boring.

2018年3月11日日曜日

期待にこたえられなかった装備①米空軍初のジェット戦闘機P-80

 

新シリーズ 「期待にこたえられなかった装備」 
世の中には想像図の域を超えられなかった装備は山ほどありますが、鳴り物入りで投入したのに想定した性能を超えられなかった装備は何が問題だったのか。どんな運用をされたのかをお伝えします。第一回はロッキードF-80シューティングスターです。

 

America's First Fighter Jet (Built to Fight Hitler) Was Sent to North Korea. It Ended Badly. 米国初のジェット戦闘機(対ヒトラー戦用)が北朝鮮上空に投入されたが散々な結果だった





March 8, 2018

1950年11月8日、4機の直線翼機が中国国境近くの北朝鮮新義州の航空基地に降下を開始した。F-80シューティングスターが基地を機首の.50口径機関銃6門で襲撃するとたちまち黒煙が空に舞い上がった。
シューティングスター各機は数か月前に現地に到着し北朝鮮による全面侵攻に対応する手段とされていた。緒戦こそ大変だったが国連軍の反攻で情勢は逆転した。第51戦闘航空団のF-80は米軍占領下の平壌から発進し北朝鮮軍の生き残りを攻撃し、中国国境に迫っていた。
三回目の通過飛行をした後エヴァンス・スティーブンス少佐はウィングマンのラッセル・ブラウン中尉と高度20千フィートに上昇し残り二機の援護を務めた。突如としてブラウンが高高度に銀色に光る10機ほどのジェット戦闘機が中国国境からこちらに向かい飛ぶのを視認。無線で僚機に攻撃中止を伝えた。MiG編隊がこっちにやってくる!
直後に史上初のジェット戦闘機同士の空中戦が生まれた。だが米軍機は相手より低速機だった。


ナチ新鋭ジェット機の対抗策として急きょ開発
 米国はじめてのジェット機ベルP-59エアラコメットは1942年10月初飛行で60機生産されたが実戦配備されなかったのは初期ターボジェットが信頼性乏しく最高速度も410マイルとP-51マスタングより遅かったためだ。だが連合軍情報部は1943年にナチがMe-262ジェットで最高速度540マイルで実戦投入しそうと知り、ロッキードに英国製ターボジェットの出力増強型を搭載した新型戦闘機開発の打診が入った。ただし6か月の条件つきで。
伝説の航空技術者クラレンス・「ケリー」・ジョンソン(その後SR-71ブラックバードを開発)がゼロから開始しエレガントでアールデコ調の線と三点着陸式機をもとに設計を完成させた。試作機は完全な情報管理下でわずか143日で完成し、関与したのは130名だけだが開発の目的がジェット機だと知っていたのは少数のみだった。
XP-80試作機は速度500マイルを出し、当時のピストンエンジン機をすべて追い抜いた。デハヴィランド製ゴブリンエンジンはその後さらに強力なアリソンJ33に換装されキャノピー下左右に空気取り入れ口が付いた。
ただしシューティングスターはは直線主翼で尾翼は第二次大戦時のピストンエンジン機同様のため音速近くで足を引っ張った。燃料ポンプが原因でXP-80はロッキードの首席テストパイロットのリチャード・ボング(大戦時のエース)が死亡した。
ナチのジェット機は強敵ではあったが燃料不足と産業基盤崩壊で大きな脅威にならなかった。英国もメテオジェット機で対抗したが、大戦中にジェット機同士の空中戦は発生していない。
量産前のYP-80A四機が第二次大戦終結前にヨーロッパに送られ、二機は英国に残り、うち一機が翌年に墜落した。残り二機はイタリアへ送られ終戦まで数回ミッションを実施した。
それでもロッキードはシューティングスター1,700機を大戦後に生産し、設計改良しF-80とした。新型F-80Bで射出座席が導入された。F-80Cはエンジンをさらに強力なJ33-A-35にし時速600マイルを達成し、左右翼端の260ガロンタンクが特徴で、飛行半径が1,200マイルに伸びた。一部が海軍、海兵隊に移管され拘束フックを付け空母運用型になった。RF-80写真偵察機は透明機首にカメラを搭載し広く使われた。
アメリカ初の実用ジェット戦闘機は記録更新もした。1946年にジェット機による初の大陸横断飛行をロングビーチ(カリフォーニア)からニューヨークまで実施。同年に大西洋横断も達成した。特殊改造P-80Rが時速623マイルの記録も出した。


朝鮮戦争に投入されてどうだったのか
 シューティングスターは北朝鮮人民空軍が朝鮮戦争緒戦で運用したYak-9戦闘機やIl-10ステゥモーヴィク強襲機へは優勢だったがMiG-15となると話は別だった。
はるかに先端設計のソ連のMiG-15は後退角付き主翼とロールスロイス・ニーンからリバースエンジニアで実現したVK-1ターボジェットを搭載。英政府がソ連にエンジン技術を供与したのは驚くべきことだった。最高時速670マイルとシューティングスターを楽々追い抜くだけでなく、武装も23mm機関砲二門に加え大型37mm砲も備えていた
MiGは中国内戦末期に初めて実戦に登場していたが、朝鮮戦争では1950年11月1日に初めて中国から飛来し米軍F-51編隊を強襲しうち一機を撃墜した。ソ連教官が北朝鮮パイロットを養成していたがロシアの大戦時経験者が朝鮮上空の戦闘のほとんどをこなしていた。
11月8日のP-80との遭遇ではソ連戦闘機二機が迎撃コースに入っていた。スティーブンスとブラウンは鋭く左旋回し接近する敵機を射程に収めようとした。ブラウン機のM3機関銃門の銃弾が詰まり、数発しか射撃できなかった。MiGはロールしながら降下しブラウンが追跡し時速は600マイルに近づいた。その後敵機が炎に包まれるまで射撃を続け機首を上げた。
初のジェット機同士の空中戦でブラウンは一機撃墜を主張した。
ただし同日のソ連記録では違う話になっている。MiGのパイロット、ウラジミール・ハリトノフ中尉は米軍機から攻撃を受けたと報告しているが降下で攻撃を回避し、途中で外部タンクを放棄したと報告している。ロシアの戦史記録では初のジェット機同士の空中戦は11月1日となっておりセミヨン・ホミニッチ中尉操縦のMiGがF-80(フランク・ヴァン・シックル中尉)を撃墜したとある。ただし米軍記録ではヴァン・シックルは地上に墜落炎上している。ブラウンの空中戦の翌日に米海軍F9Fパンサージェットがミハイル・グラチェフ操縦のMiG-15を撃墜しており、これは両国の記録で一致している。
そこでジェット機同士の初空中戦での撃墜について意見が食い違うが、MiG-15がF-80を速度、操縦性能いずれも上回っていたのは事実だ。米側記録ではシューティングスター合計17機が空中戦で喪失とあり、MiG-15の撃墜数は7機、プロペラ機11機も撃墜とある。B-29爆撃機編隊を100機のF-80とF-84で援護中にMiGの30機編隊が襲ったのが1951年4月12日でB-29の三機が撃墜され、攻撃側には損失はゼロだった。
米空軍は当時最新鋭の戦闘機F-86セイバー派遣を急がざるを得なくなった。MiG-15と互角に戦える戦闘機としてだ。これで戦況が有利となり中国国境付近の「MiG横丁」で空中戦が頻繁に発生し撃墜被撃墜比率が好転した。F-80には対地攻撃任務が与えられたが想定していない任務で5インチロケット弾8発あるいは千ポンド爆弾二発を主翼下に積み出撃した。
終戦までにシューティングスター113機が対空砲火で墜落した。1952年11月22日にはチャールズ・ローリング少佐機が中国の対空砲火を浴びた。少佐は国連軍を釘付けにしていた火砲陣地を狙っていた。ウィングマンから攻撃中止の勧めを聞かず、少佐は損傷を受けた機体を銃座に体当たりさせ、戦死後に名誉勲章を受けた。
朝鮮にはF-80飛行隊10個が展開したがすべてF-86セイバーあるいはF-84対地攻撃機に1953年までに機種転換を完了した。ただし一個飛行隊のみ旧式マスタング戦闘機に変更している。シューティングスターは随時退けられ、南アメリカ各国に供与されブラジルでは1960年代70年代前活躍した。


その後の展開
シューティングスターは朝鮮上空では旧型化していたがその後派生型二つを生んだ。一つが知名度が低いF-94スターファイヤーで複座レーダー装備夜間戦闘機で朝鮮で六機撃墜したとされ、MiG-15とも初の夜間交戦をした。
もうひとつが伝説のT-33複座練習ジェット機だ。6,500機が製造され、カナダでもライセンス生産で650機が生まれ40か国の空軍で供用された。キューバのT-33はCIA支援による反カストロ軍迎撃に出撃し、B-26三機と数隻を撃破している。
20世紀後半の世界各国の戦闘機パイロット数千名がT-33でジェット機訓練を受けた。2017年にボリヴィアがT-33を退役させ、同機の長い運用に幕が下りた。
1940年代にナチドイツ新鋭機への対抗手段として急ぎ設計された米国初の実用戦闘機には当初予想もしなかった長きにわたる活躍が展開した。■
Sébastien Roblin holds a Master’s Degree in Conflict Resolution from Georgetown University and served as a university instructor for the Peace Corps in China. He has also worked in education, editing, and refugee resettlement in France and the United States. He currently writes on security and military history for War Is Boring.
Image: Wikimedia Commons

こうやってみるとP-80が駄作だったのではなく、初期ジェット機の性能進化が早すぎて短期で陳腐化した構図ですね。たたかれてもただでは起きないのがロッキードでP-3も売れなかったエレクトラ旅客機が原型でしたね。たくましい会社です。

2017年5月10日水曜日

★★中国の将来を完全に変えた炒飯調理とナパーム空爆



今日の中国が一歩間違えば北朝鮮同様になっていた可能性があるということですね。しかし朝鮮民族は悲運に苦しめられており、二国がちがう道筋についたことが歴史の大きなわかれめであったことがわかります。しかし歴史を都合の良い形に平気で塗り替える、信じ込む傾向は両国で似ていますね。
Egg Fried Rice and an Air Strike Altered China’s History

Egg Fried Rice and an Air Strike Altered China’s History玉子炒飯と空爆が中国の歴史を永久に変えた

A U.S. bombing run wiped out Mao Zedong's dynasty when his son was cooking breakfast 米軍爆撃が毛沢東の世襲の夢を奪った。息子は朝食を作っていた


May 7, 2017 Sebastien Roblin


  1. 前途有望な若者が戦争で馬鹿げた形で生命を奪われる例は多い。これは北朝鮮も高く称賛する人物の死で中国の将来が変わってしまったという話だ。
  2. 彭徳懐Peng Dehuai将軍の新任書記に妙な点があると杨迪Yang Di 将軍が気付いた。若い将校はロシア語通訳官のくせに幕僚会議の途中で口をさしはさむだけでなく梁興初Liang Xingchu第38軍団司令官に戦術の指導までしていた。そこまでやっても彭徳懐(人民解放軍朝鮮志願部隊総司令官)は何ら叱責しない。彭徳懐が中国将棋で一度打った手を取り消す悪癖を示すと通訳官がいら立ちを隠さない態度を見せた。
  3. 楊は直属の上司Ding Ganru将軍に若者の行いに不満を伝えたところ、つまらないことは言うなと止められた。後になって、楊も事実を知った。書記官は毛岸英Mao Anying、毛主席の実子で中国のトップを約束された人物だった。

ソ連へ

  1. 毛岸英の出自で母親の楊開慧Yang Kaihuiは避けて通れない。楊開慧の父は毛沢東を同じ湖南出身者として助けた。毛沢東は楊開慧の美貌と政治思想にひかれ、ふたりは1920年に結婚し長沙で所帯を持つ。実は楊は毛沢東の四人の妻のうち二番目で最初の妻は本人の意思とは関係なく結婚させられたがすぐ死んでいる。
  2. 楊は子宝三人に恵まれた。岸英、岸青、岸竜の男の子ばかりだ。毛沢東は遠隔地で楊がいながら遊撃隊の狙撃名手の賀子珍He Zizhenと結婚してしまう。
  3. 1930年、共産勢力が長沙で敗れると国民党の軍閥何鍵 He Jian が楊開慧を逮捕する。毛沢東の情報開示を拒み、楊開慧は息子たちの目前で銃殺された。息子たちは上海で不良となり、岸竜は赤痢で短い生涯を閉じ、岸青は警察に拷問を受け生涯を通じ精神を病んだ。
  4. 共産勢力は残った毛沢東の子息をソ連に1936年に送った。各国共産主義者の子弟と寄宿舎で学んだ岸英はロシア名セルゲイ・ユン・フを名乗り、流ちょうなロシア語を話すようになる。継母の賀子珍もロシアで合流し戦闘の傷手当を受ける間に毛沢東は四番目で最後の妻江青 Qing Jiangと結婚した。
  5. モスクワのフルンゼ軍事大学で学んだ毛岸英はスターリンに第二次大戦中の赤軍で戦いたいと懇請し第一白ロシア戦線で砲兵隊に従軍し、ポーランド、チェコへの進軍に加わった。
  6. 1946年1月に父から延安へ戻るよう命じられたのはこれ以上ロシアに残せば中国人というよりロシア人になると恐れたためだ。毛岸英は聞く耳を持たず父へのカルト的人気さえ批判する人物だった。父により地方の肥料工場へ送られた。比較的単純な作業に従事しながら1949年に劉松林Liu Songlinと結婚する。劉の両親も国民党との内戦で死亡していた。
ソ連軍制服を着た毛岸英
Mao Anying in a Soviet uniform. Photo via Wikimedia

朝食時の戦死

  1. 毛沢東は中国の支配を1949年に掌握し、その関心は分断された南北朝鮮に向けられた。米国は国民党を支援しており、毛沢東は南朝鮮が米軍の反攻の足場となるのを阻止しようとした。
  2. 毛沢東は1950年の北朝鮮による韓国侵攻を手助けしたものの計画はすぐに裏目に出る。国連軍の反抗攻勢で北朝鮮が消滅寸前になり、さらに鴨緑江を超え中国内部にまで侵攻する勢いだった。
  3. 米大統領ハリー・トルーマンにはその意図はなかったが、在韓米軍総司令官ダグラス・マッカーサー元帥は実現を願っていた。
  4. そのため毛沢東は大規模な「志願軍」を彭徳懐将軍の指揮のもと組織し事態改善を図った。中国軍は北朝鮮国境を1950年10月に越えて冬攻勢で国連軍を撃退するつもりだった。戦闘は人海戦術のため多大な人的損害が生まれた。
  5. 岸英は志願軍入りを求め、歩兵隊従軍を願っていた。だが彭徳懐は毛沢東の息子が戦死するのは見たくないとして、岸英をロシア語通訳官として劉書記の仮名で司令部付きにした。司令部は中国北東部をはさんだ東倉郡にあり米軍空襲を避けて金鉱の中にあった。この時点で米航空戦力は戦線のいたるところで活発で共産軍兵士や車両が安全に移動できるのは夜間に限られていた。
  6. ただし双発の RF-61Cレポーター(P-61ブラックウィドー夜間戦闘機の写真偵察型)が11月24日夜に司令部の所在を数時間にわたり探っていた。彭徳懐は所在がばれることを恐れ全幕僚に地下に隠れるよう命じ、調理も夜間限定とし煙の目視を避けた。
  7. 司令部幕僚は午前4時に勤務開始だったが、岸英は眠り込んでいた。午前9時に起床し朝食が欲しくなり幕僚仲間に彭徳懐の居室にあるストーブで卵入り炒飯を作るよう命じた。居室は地上の建物にある。戦場では卵は貴重品で北朝鮮側から彭徳懐への贈答品として届いていた。
  8. 楊将軍の回想録では建物から煙が出ているのに気づき、岸英に敵の注意を引く前に火を消せと注意したとある。岸英の一行は楊に調理が終わればすぐ火を消すから心配するな、あっちへ行けと言ってきた。
  9. 午前10時、米空軍B-26インヴェーダー4機編隊が軍団本部の爆撃を開始した。岸英の友人Cheng Puだけが窓から飛び出たが、岸英は取り巻きとベッドやテーブルの下に隠れた。その建物から煙が出ているので屋内にとどまるのは賢明とはいいかねる行動だった。
  10. ナパーム弾をヴェトナム戦で使われて知ったという人が多いが、実は第二次大戦中から投下されており、朝鮮戦争で多用されていた。
  11. 一発が司令部を直撃し、炎が建物を包んだ。楊は大火を恐れず建物に入り、岸英の焼け焦げた遺体を見つける。識別できたのはソ連製腕時計が溶けて見つかったためだ。遺体は他の犠牲者とともに北朝鮮内の解放軍墓地に埋葬された。
  12. 彭徳懐は毛沢東の息子の死を二か月にわたり報告せず、1951年1月にやっと電報を一通送った。毛沢東は知らせを聞きその日は終日沈みこみ喫煙を続け、家系が「終わった」とため息をついたと述べる筋もある。
  13. 彭徳懐は毛沢東の面前で謝罪したが、毛の返答はかたくなで「正規兵が一名戦死したに過ぎない。息子だからと言って特別扱いはふさわしくない」と述べた。 のちに岸英の死に触れ「犠牲なくして勝利は得られない」と述べている。
B-26Bインヴェーダーがナパーム爆弾を北朝鮮に投下している。 1951年5月。.U.S. Air Force photo

諸説あふれる

  1. 楊将軍の回想録で卵入り炒飯の話があるが、Ding将軍への1985年インタビューやその他中国軍将校の回想では相違点がある。
  2. 南アフリカ空軍第18戦闘爆撃隊のP-51マスタングが岸英を殺したとの説がある。ただし、南アフリカ空軍は確かに朝鮮でナパーム弾を多用していたが、単発のP-51と大型で双発のB-26を見間違うのはあり得ない話だ。
  3. 卵入り炒飯の話は中国国内でよく知られているが、快く思わない向きもある。間一髪で助かったCheng Puは話は虚偽で戦場では卵など手に入らなかったと述べている。もう一人作家のCheng Xiは中国テレビで毛岸英はリンゴの皮を炒めていたと述べる。歴史家Yuan Jiangは揚げパンと粥を温めていたと主張する。
  4. 岸英の戦死はあまりにも尋常でなく、馬鹿げている余り、政府としても英雄的な物語にできなかったのか理由が見えてこないほどだ。岸英の生涯を描いた劇が北京で2013年に上演されたが演出家は自身の調査で岸英は司令部で文書を取りに行く途中で戦死したとした。別の脚色では岸英を毎日夜遅くまで仕事に取り組む人物としており、楊将軍が描いたあまやかされた王子で防衛体制を無視した人物とあまりにもかけ離れている。
  5. さらに噂が流れており、岸英の朝鮮での戦死は中国内部でお膳立てされたもので毛沢東四番目の妻江青が命じたとする説がある。たしかに岸英の未亡人劉松林も岸英の死で江青が「しごく満足した」と述べている。ただし江青は岸英の朝鮮志願軍入りに反対しており、岸英暗殺説の証拠はない。

実現しなかった道

  1. 岸英の死で毛の家系による中国支配の芽は摘まれた。兄弟の岸青は精神病のため対象外だった。岸青は結局結婚し2007年に死亡した。岸青の息子毛新宇Mao Xinyuは人民解放軍少将だが目立つことのない人物だ。
  2. 毛沢東の娘二名の婿も政治面で高位についていない。賀子珍とは娘2名と息子3名が別にいるが戦時中に死亡あるいは不明になっている。
  3. 毛沢東に岸英を後継者にする願望があれば成功していたのではないか。中国共産党は世襲を原則として認めていないが、毛沢東のカルト的人気は絶大であり、本人は1960年代に生まれた党改革を快く思っていなかった。そこで文化大革命を単独で始めたのだ。
  4. 革命指導者であり政治のまとめ役としての成功を背にしながら毛沢東は国の統治では悲惨な成果しかあげていない。五か年計画の旗の下で農業生産は大失敗に終わり、1950年代に数千万人が餓死した。
  5. 1960年代の文化大革命により大学教育は機能しなくなり、10年間ほどこのままで、共産党内の派閥間で血の闘争が生まれた。要職の解任、公の場での罵倒、政治家・専門職数万名の拷問、後者は国の運営方法を知っているだけに大きな損失になった。
  6. 毛沢東最後の妻江青が夫の権力の後押しを四人組とともにすすめ、政治ライバルのみならず個人的に気に入らない人物に暴力をふるった。毛沢東の政策の危険性をあえて口にした政治指導部は権力の座を奪われ、遠隔地の農場に送られたりした。
  7. その被害者のひとりが彭徳懐で長年の責め苦にも耐えられず後年になり名誉回復された。一部には毛沢東は岸英の戦死で高名の将軍を許せなかったのだという声があるが、廬山会議(1959年)で毛沢東を名指しで批判したことが遠因とされている。
紅衛兵に捕まった彭徳懐Peng Dehuai in the hands of Mao’s Red Guards. Photo via Wikimedia

  1. 北朝鮮は隣国の虐殺対象が政治エリート層に及んだことを注視していた。毛沢東支配下の中国は二十年間にわたりカリスマ指導者が独裁権力を行使した場合の専制国家の最悪面を示し、行政を司る官僚や政治エリートはいつも毛沢東の気まぐれや急進的な政策に振り回されていた。
  2. 毛岸英が生存していたらどんな指導者になっていたかは知りようがないし、どんな価値観を示していたかもわかりようがないが、父の政治思想を継承したら、事実上の毛王朝が生まれ中国はどうしようもない状態で血の内部抗争の陰謀がはびこり、ちょうど現在の北朝鮮の金一族支配下の様相を呈していたのではないか。現在の北朝鮮は孤立し圧政に国民が苦しんでいる。
  3. 毛沢東が1976年に死去し一か月がたち、クーデターで江青と四人組が放逐された。江青は服役後の1991年に自殺した。新しく権力の座についた指導層は毛沢東を「7割正しく3割誤っていた」とし、改革開放政策により中国を大国の座に導いた。
  4. 今日の中国も一党支配の専制国家であることに変わりないが共産党は内部で権力を争う集団に分断されている。しかし現在の最高指導者は中国共産党中央委員会総書記の肩書で全国人民代表会議で5年任期で選出される。複雑で不透明な仕組みにより特定の有力人物が主席の座に一生しがみつくのを防いでいる。
  5. 北朝鮮では今日でも毛岸英は英雄扱いだ。戦場で命を犠牲にしたとの賛辞もある一方で、権力承継が実現しなかったことに感謝する中国人もいる。■