今日の中国が一歩間違えば北朝鮮同様になっていた可能性があるということですね。しかし朝鮮民族は悲運に苦しめられており、二国がちがう道筋についたことが歴史の大きなわかれめであったことがわかります。しかし歴史を都合の良い形に平気で塗り替える、信じ込む傾向は両国で似ていますね。
Egg Fried Rice and an Air Strike Altered China’s History玉子炒飯と空爆が中国の歴史を永久に変えた
A U.S. bombing run wiped out Mao Zedong's dynasty when his son was cooking breakfast 米軍爆撃が毛沢東の世襲の夢を奪った。息子は朝食を作っていた
- 前途有望な若者が戦争で馬鹿げた形で生命を奪われる例は多い。これは北朝鮮も高く称賛する人物の死で中国の将来が変わってしまったという話だ。
- 彭徳懐Peng Dehuai将軍の新任書記に妙な点があると杨迪Yang Di 将軍が気付いた。若い将校はロシア語通訳官のくせに幕僚会議の途中で口をさしはさむだけでなく梁興初Liang Xingchu第38軍団司令官に戦術の指導までしていた。そこまでやっても彭徳懐(人民解放軍朝鮮志願部隊総司令官)は何ら叱責しない。彭徳懐が中国将棋で一度打った手を取り消す悪癖を示すと通訳官がいら立ちを隠さない態度を見せた。
- 楊は直属の上司Ding Ganru将軍に若者の行いに不満を伝えたところ、つまらないことは言うなと止められた。後になって、楊も事実を知った。書記官は毛岸英Mao Anying、毛主席の実子で中国のトップを約束された人物だった。
ソ連へ
- 毛岸英の出自で母親の楊開慧Yang Kaihuiは避けて通れない。楊開慧の父は毛沢東を同じ湖南出身者として助けた。毛沢東は楊開慧の美貌と政治思想にひかれ、ふたりは1920年に結婚し長沙で所帯を持つ。実は楊は毛沢東の四人の妻のうち二番目で最初の妻は本人の意思とは関係なく結婚させられたがすぐ死んでいる。
- 楊は子宝三人に恵まれた。岸英、岸青、岸竜の男の子ばかりだ。毛沢東は遠隔地で楊がいながら遊撃隊の狙撃名手の賀子珍He Zizhenと結婚してしまう。
- 1930年、共産勢力が長沙で敗れると国民党の軍閥何鍵 He Jian が楊開慧を逮捕する。毛沢東の情報開示を拒み、楊開慧は息子たちの目前で銃殺された。息子たちは上海で不良となり、岸竜は赤痢で短い生涯を閉じ、岸青は警察に拷問を受け生涯を通じ精神を病んだ。
- 共産勢力は残った毛沢東の子息をソ連に1936年に送った。各国共産主義者の子弟と寄宿舎で学んだ岸英はロシア名セルゲイ・ユン・フを名乗り、流ちょうなロシア語を話すようになる。継母の賀子珍もロシアで合流し戦闘の傷手当を受ける間に毛沢東は四番目で最後の妻江青 Qing Jiangと結婚した。
- モスクワのフルンゼ軍事大学で学んだ毛岸英はスターリンに第二次大戦中の赤軍で戦いたいと懇請し第一白ロシア戦線で砲兵隊に従軍し、ポーランド、チェコへの進軍に加わった。
- 1946年1月に父から延安へ戻るよう命じられたのはこれ以上ロシアに残せば中国人というよりロシア人になると恐れたためだ。毛岸英は聞く耳を持たず父へのカルト的人気さえ批判する人物だった。父により地方の肥料工場へ送られた。比較的単純な作業に従事しながら1949年に劉松林Liu Songlinと結婚する。劉の両親も国民党との内戦で死亡していた。
ソ連軍制服を着た毛岸英
Mao Anying in a Soviet uniform. Photo via Wikimedia
朝食時の戦死
- 毛沢東は中国の支配を1949年に掌握し、その関心は分断された南北朝鮮に向けられた。米国は国民党を支援しており、毛沢東は南朝鮮が米軍の反攻の足場となるのを阻止しようとした。
- 毛沢東は1950年の北朝鮮による韓国侵攻を手助けしたものの計画はすぐに裏目に出る。国連軍の反抗攻勢で北朝鮮が消滅寸前になり、さらに鴨緑江を超え中国内部にまで侵攻する勢いだった。
- 米大統領ハリー・トルーマンにはその意図はなかったが、在韓米軍総司令官ダグラス・マッカーサー元帥は実現を願っていた。
- そのため毛沢東は大規模な「志願軍」を彭徳懐将軍の指揮のもと組織し事態改善を図った。中国軍は北朝鮮国境を1950年10月に越えて冬攻勢で国連軍を撃退するつもりだった。戦闘は人海戦術のため多大な人的損害が生まれた。
- 岸英は志願軍入りを求め、歩兵隊従軍を願っていた。だが彭徳懐は毛沢東の息子が戦死するのは見たくないとして、岸英をロシア語通訳官として劉書記の仮名で司令部付きにした。司令部は中国北東部をはさんだ東倉郡にあり米軍空襲を避けて金鉱の中にあった。この時点で米航空戦力は戦線のいたるところで活発で共産軍兵士や車両が安全に移動できるのは夜間に限られていた。
- ただし双発の RF-61Cレポーター(P-61ブラックウィドー夜間戦闘機の写真偵察型)が11月24日夜に司令部の所在を数時間にわたり探っていた。彭徳懐は所在がばれることを恐れ全幕僚に地下に隠れるよう命じ、調理も夜間限定とし煙の目視を避けた。
- 司令部幕僚は午前4時に勤務開始だったが、岸英は眠り込んでいた。午前9時に起床し朝食が欲しくなり幕僚仲間に彭徳懐の居室にあるストーブで卵入り炒飯を作るよう命じた。居室は地上の建物にある。戦場では卵は貴重品で北朝鮮側から彭徳懐への贈答品として届いていた。
- 楊将軍の回想録では建物から煙が出ているのに気づき、岸英に敵の注意を引く前に火を消せと注意したとある。岸英の一行は楊に調理が終わればすぐ火を消すから心配するな、あっちへ行けと言ってきた。
- 午前10時、米空軍B-26インヴェーダー4機編隊が軍団本部の爆撃を開始した。岸英の友人Cheng Puだけが窓から飛び出たが、岸英は取り巻きとベッドやテーブルの下に隠れた。その建物から煙が出ているので屋内にとどまるのは賢明とはいいかねる行動だった。
- ナパーム弾をヴェトナム戦で使われて知ったという人が多いが、実は第二次大戦中から投下されており、朝鮮戦争で多用されていた。
- 一発が司令部を直撃し、炎が建物を包んだ。楊は大火を恐れず建物に入り、岸英の焼け焦げた遺体を見つける。識別できたのはソ連製腕時計が溶けて見つかったためだ。遺体は他の犠牲者とともに北朝鮮内の解放軍墓地に埋葬された。
- 彭徳懐は毛沢東の息子の死を二か月にわたり報告せず、1951年1月にやっと電報を一通送った。毛沢東は知らせを聞きその日は終日沈みこみ喫煙を続け、家系が「終わった」とため息をついたと述べる筋もある。
- 彭徳懐は毛沢東の面前で謝罪したが、毛の返答はかたくなで「正規兵が一名戦死したに過ぎない。息子だからと言って特別扱いはふさわしくない」と述べた。 のちに岸英の死に触れ「犠牲なくして勝利は得られない」と述べている。
B-26Bインヴェーダーがナパーム爆弾を北朝鮮に投下している。 1951年5月。.U.S. Air Force photo
諸説あふれる
- 楊将軍の回想録で卵入り炒飯の話があるが、Ding将軍への1985年インタビューやその他中国軍将校の回想では相違点がある。
- 南アフリカ空軍第18戦闘爆撃隊のP-51マスタングが岸英を殺したとの説がある。ただし、南アフリカ空軍は確かに朝鮮でナパーム弾を多用していたが、単発のP-51と大型で双発のB-26を見間違うのはあり得ない話だ。
- 卵入り炒飯の話は中国国内でよく知られているが、快く思わない向きもある。間一髪で助かったCheng Puは話は虚偽で戦場では卵など手に入らなかったと述べている。もう一人作家のCheng Xiは中国テレビで毛岸英はリンゴの皮を炒めていたと述べる。歴史家Yuan Jiangは揚げパンと粥を温めていたと主張する。
- 岸英の戦死はあまりにも尋常でなく、馬鹿げている余り、政府としても英雄的な物語にできなかったのか理由が見えてこないほどだ。岸英の生涯を描いた劇が北京で2013年に上演されたが演出家は自身の調査で岸英は司令部で文書を取りに行く途中で戦死したとした。別の脚色では岸英を毎日夜遅くまで仕事に取り組む人物としており、楊将軍が描いたあまやかされた王子で防衛体制を無視した人物とあまりにもかけ離れている。
- さらに噂が流れており、岸英の朝鮮での戦死は中国内部でお膳立てされたもので毛沢東四番目の妻江青が命じたとする説がある。たしかに岸英の未亡人劉松林も岸英の死で江青が「しごく満足した」と述べている。ただし江青は岸英の朝鮮志願軍入りに反対しており、岸英暗殺説の証拠はない。
実現しなかった道
- 岸英の死で毛の家系による中国支配の芽は摘まれた。兄弟の岸青は精神病のため対象外だった。岸青は結局結婚し2007年に死亡した。岸青の息子毛新宇Mao Xinyuは人民解放軍少将だが目立つことのない人物だ。
- 毛沢東の娘二名の婿も政治面で高位についていない。賀子珍とは娘2名と息子3名が別にいるが戦時中に死亡あるいは不明になっている。
- 毛沢東に岸英を後継者にする願望があれば成功していたのではないか。中国共産党は世襲を原則として認めていないが、毛沢東のカルト的人気は絶大であり、本人は1960年代に生まれた党改革を快く思っていなかった。そこで文化大革命を単独で始めたのだ。
- 革命指導者であり政治のまとめ役としての成功を背にしながら毛沢東は国の統治では悲惨な成果しかあげていない。五か年計画の旗の下で農業生産は大失敗に終わり、1950年代に数千万人が餓死した。
- 1960年代の文化大革命により大学教育は機能しなくなり、10年間ほどこのままで、共産党内の派閥間で血の闘争が生まれた。要職の解任、公の場での罵倒、政治家・専門職数万名の拷問、後者は国の運営方法を知っているだけに大きな損失になった。
- 毛沢東最後の妻江青が夫の権力の後押しを四人組とともにすすめ、政治ライバルのみならず個人的に気に入らない人物に暴力をふるった。毛沢東の政策の危険性をあえて口にした政治指導部は権力の座を奪われ、遠隔地の農場に送られたりした。
- その被害者のひとりが彭徳懐で長年の責め苦にも耐えられず後年になり名誉回復された。一部には毛沢東は岸英の戦死で高名の将軍を許せなかったのだという声があるが、廬山会議(1959年)で毛沢東を名指しで批判したことが遠因とされている。
紅衛兵に捕まった彭徳懐Peng Dehuai in the hands of Mao’s Red Guards. Photo via Wikimedia
- 北朝鮮は隣国の虐殺対象が政治エリート層に及んだことを注視していた。毛沢東支配下の中国は二十年間にわたりカリスマ指導者が独裁権力を行使した場合の専制国家の最悪面を示し、行政を司る官僚や政治エリートはいつも毛沢東の気まぐれや急進的な政策に振り回されていた。
- 毛岸英が生存していたらどんな指導者になっていたかは知りようがないし、どんな価値観を示していたかもわかりようがないが、父の政治思想を継承したら、事実上の毛王朝が生まれ中国はどうしようもない状態で血の内部抗争の陰謀がはびこり、ちょうど現在の北朝鮮の金一族支配下の様相を呈していたのではないか。現在の北朝鮮は孤立し圧政に国民が苦しんでいる。
- 毛沢東が1976年に死去し一か月がたち、クーデターで江青と四人組が放逐された。江青は服役後の1991年に自殺した。新しく権力の座についた指導層は毛沢東を「7割正しく3割誤っていた」とし、改革開放政策により中国を大国の座に導いた。
- 今日の中国も一党支配の専制国家であることに変わりないが共産党は内部で権力を争う集団に分断されている。しかし現在の最高指導者は中国共産党中央委員会総書記の肩書で全国人民代表会議で5年任期で選出される。複雑で不透明な仕組みにより特定の有力人物が主席の座に一生しがみつくのを防いでいる。
- 北朝鮮では今日でも毛岸英は英雄扱いだ。戦場で命を犠牲にしたとの賛辞もある一方で、権力承継が実現しなかったことに感謝する中国人もいる。■
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