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22年目の9.11:「決して忘れない」から「決して学ばない」へ

  9/11 Image: Creative Commons. 米国指導層の無知と傲慢は、9.11に至るまでの数年間で、危険なほど誤った国家安全保障意識へと凝り固まっていた 今 日は2001年9月11日の同時多発テロから22年目にあたる。この日、アルカイダで活動する一握りのイスラム主義テロリストの凶悪な行動によって、約3000人が殺害された。  その直後、米国は「世界対テロ戦争」(GWOT)というお粗末な戦争に突入することになる。アフガニスタンに侵攻し、アフリカの角や南アジアでイスラム主義者を追い詰め、最終的にはイラクに侵攻した。 すべては9月のある美しい日の数時間のために。  長年の調査から今わかっていることは、9.11の背後にはもちろんもっと多くの物語があるということだ。  たとえば、コーランを直訳主義的に解釈するサウジアラビア人、エジプト人、ヨルダン人、その他のアラブ人たちのほとんどは、高学歴で中流階級以上の人々である。 ビン・ラディンの大戦略 大きな戦略が働いていた。具体的には、オサマ・ビン・ラディンの戦略だ。世界中のあらゆる資金と資源にもかかわらず、アメリカの巨大な諜報機関と国防機関は見逃していた--ビン・ラディンがその意図を明らかにした後でさえも。  アフガニスタンでソ連の敗北に貢献した直後、サウジアラビア生まれのビン・ラディンは、サウジアラビアの大富豪一家の後継者として、アルカイダ(「基地」)として知られるようになった聖戦主義運動に資金を提供し続けた。  ビン・ラディンはアフガニスタンの麓で労働に励むかたわら、残された唯一の超大国であるアメリカに対する怒りを矛先に向けて陰謀を企てた。  一方、アメリカ人は「歴史の終わり」を生きていた。ソビエトは打ち破られ、ベルリンの壁は崩壊し、冷戦は終わった。アメリカのグローバル資本主義の拡大と全面的な軍事支配に対する真の脅威は存在しなかった。  ビン・ラディンには別の計画があった。彼は海外のアメリカの資産や同盟国を攻撃し始め、1993年には世界貿易センターを攻撃することに成功した。それでも、アメリカ人はアルカイダやビン・ラディンを真剣に受け止めなかった。(CIAでは、ビン・ラディンは単に "金融屋 "と誤って呼ばれていた)。 ビン・ラディンの固執 1996年に彼はABCニュースに、無防備で傲慢なア

★★回想の9/11 体当たり攻撃をしてでも旅客機を食い止める覚悟だった米空軍搭乗員

9/11では当時から空軍戦闘機が迎撃に向かったとの話は流布していました。今回は当時のパイロットからの回想が紹介されていますが、セレブの話題など中心のメディアでこんな記事が出るところがアメリカの懐の深さでしょうね。 Inside a Hero Fighter Pilot's Decision to Give His Life in Kamikaze Mission on 9/11: 'We Were Going to Do the Unthinkable' BY NICOLE WEISENSEE EGAN UPDATED 09/11/2016 AT 09:00 AM EDT • ORIGINALLY PUBLISHED 09/09/2016 AT 04:50 PM EDT http://www.people.com/article/marc-sasseville-911-f16-pilot-kamikaze-mission 米空軍中佐マーク・サセヴィルが世界貿易センターに飛行機が衝突したとの一報を聞いた2001年9月11日、中佐も他の数百万名同様に単なる事故だと思っていた。 .だが二機目がタワーに衝突したと聞き、中佐は第121戦闘機飛行隊の隊員とアンドリュース空軍基地(メリーランド)で直ちに行動に移った。 三機目がペンタゴンに突っ込むと93便がワシントンDCへ向かっているとの一報が入った。 「93便の行き先は誰も知らなかった」と中佐は本誌に語ってくれた。「そのためわれわれはとりあえず 滞空待機を命じられた」 「旅客機が本来の目的地以外の場所へ突っ込んでいることはわかった」「ホワイトハウス、議会議事堂などに激突すれば大惨事になる。ペンタゴンは軍事目標として受け入れられても、その他は想定外だ」 中佐と同僚パイロット、ヘザー・「ラッキー」・ペニーがそれぞれ自機F-16に向かった。 「たったひとつの問題は機体が武装していなかったことだ。通常は武器を搭載して飛ぶことはない」と現在は少将に昇進しペンタゴンに勤務するサセヴィルは語る。 両機の唯一の武器は機体そのもので、サセヴィルとペニーは神風ミッションに出撃したのだった。 「機に向かう途中、ラッキーと短く言葉をかわし、これからする仕事のこと

9/11から15年。アメリカ的思考はその教訓をこうまとめる

うーん、どうなんでしょう。いかにもアメリカ的というか。これが3.11の15周年エッセイならこんなトーンの回想録が日本人に書けるでしょうか。思考の方向性が全く違う気がします。日本メディアが日本人の思考でまとめた記事とも全く違っているでしょう。ご参考までに。 9/11 Anniversary: 10 Lessons Learned From the 15-Year ‘Long War’ Steven P. Bucci September 8, 2016 http://nationalinterest.org/blog/the-buzz/9-11-anniversary-10-lessons-learned-the-15-year-%E2%80%98long-war%E2%80%99-17634 9/11当日に筆者は軍務にいたが、この15年で生活も国の動きも大きく変わってたとはとても思えない。 渦中にいたものには時間は早く流れた感が強いがその他国民にとっては過去の歴史の一部だろう。現在ヘリテージ財団でインターンをする若者は4歳5歳だった。この長期戦で得られた教訓は何なのか。 1.  どの国も脆弱、民主体制も同様。 アメリカの自由と開放さが攻撃を招いた。9/11のテロリストはアメリカを世界に紹介する制度を利用して入国している。これまでは2つの大洋が直接攻撃を防いできた。すべてのグローバル化がその仮定を変えてしまった。アメリカも他の国同様に外部から攻撃されることを示した。 2. アメリカの回復力は高い。 9/11攻撃が他国で起こっていれば衝撃の脅威で服従させられただろう。だがアメリカは違う。たしかに動揺し、混乱させられたが直後数時間のことで、国家指導層は対応が早かった。米経済は崩壊せず、政府機構は機能不全にならず、世界各地からの軍撤退を求める声は殆ど出ずか細いものだった。困難にめげず頑張る姿勢がアメリカにあり、大混乱のあとも仕組みが機能しつづけていた。 3. 国家勢力相手の戦いより対テロリズム戦は長期戦になる。 アメリカでは外交政策は期限付きで考えることが多い。特に軍事作戦が絡むとこの傾向が強い。第二次大戦は数年間でお終わり、ヴィエトナムは長かったが最終では終結した。テロとの戦いではまだ終結の兆しが見えない。オバマ大統領も「永久に