ナチのジェット戦闘機への対抗手段として開発されながら、朝鮮戦争で初投入されたF-80はどこまで戦力になったのだろうか。
1950年11月8日、直線翼のジェット機4機編隊が北朝鮮新義州の飛行場を急襲した。F-80シューティングスター各機は機首搭載の50口径機関銃で飛行場を掃射すると対空火砲が周りで炸裂した。
シューティングスター各機は数ヶ月前に現地到着したばかりだった。北 朝鮮軍は圧倒的戦力で南を侵攻し、その後国連軍が事態を一転させた。第51航空団所属のF-80は米軍占領下の平壌から中国国境付近に飛び、残存する北朝鮮軍に攻撃を加えていた。
3回目の通過飛行を終えたエヴァンス・スティーブンス少佐、ウィングマンのラッセル・ブラウン中尉は高度20千フィートへ上昇し、残る僚機の援護にあたった。すると、ブラウンが約10機の戦闘機が高高度からこちらへ突進してくるのに気づいた。
歴史初のジェット戦闘機の空中戦で、米側は速力が劣る機材を使っていた。
ナチのジェット戦闘機への米側対抗手段として
米国初のジェット機はベルP-59エアラコメットで1942年10月初飛行したが一回も作戦投入されていない。エンジンの信頼性が低く、速力も410マイルがやっとで、P-51マスタングに及ばなかった。1943年に連合軍情報部はナチのMe-262は速力540マイルで作戦投入寸前とつかんだ。英国製ターボジェットでジェット戦闘機製造の要請がロッキードに下った。わずか6ヶ月で。
伝説の航空技術者クラレンス・「ケリー」・ジョンソンがアールデコを思わせる優雅な機体を設計した。完全な秘密体制で試作機はわずか143日で完成し、作業に130名が投入されたが、ジェット機製作とはだれも知らなかった。
試作機XP-80は時速500マイル超で、当時のピストンエンジン戦闘機の水準を超えた。当初のデハヴィランド製ゴブリンエンジンは強力なアリソンJ33ターボジェットエンジンに換装された。
ただし、主翼は直線翼で尾翼は当時のピストンエンジン戦闘機の形状のままと、音速付近で不利な設計だった。XP-80は燃料ポンプの不良でロッキードの主任テストパイロットのみならず当時のエース、リチャード・ボングの命を奪った。
Me-262は手強い相手になるはずだったが、ドイツは燃料不足や産業基盤の悪化で戦局を覆せなかった。
試作型YP-80A4機が1945年にヨーロッパに派遣され第二次大戦が終結した。二機は英国に残り、一機は事故で喪失した。残る二機はイタリアで戦線に投入されたところで大戦が終結し、敵機との遭遇もなかった。
戦後にロッキードはシューティングスターを1,700機生産し、制式名はF-80に変わった。F-80B型が続き、射出座席を採用し、次のF-80Cではエンジンをさらに強力なJ33-A-35に取り替え時速600マイルとし、翼端燃料タンク(260ガロン)で航続距離が1,200マイルになった。
米国初の実用ジェット戦闘機は次々に記録更新していった。1946年には米大陸横断飛行をジェット機で初めて実施し、同年に大西洋横断にも成功。特別改装のP-80Rで短期間ながら623マイルの最高速度記録を樹立した。
朝鮮での空戦
北朝鮮のYak-9戦闘機やIl-10強襲機が相手ならシューティングスターは十分に有利でもMiG-15は別だった。
F-80より先進設計のMiG-15は後退翼で、ロールスロイス・ニーンをリバースエンジニアリングしたVK-1ターボジェットを搭載した。英国政府が同エンジンのソ連売却を1946年に承認したのは驚くべきことだ。MiG-15の速力は670マイルでシューティングスターを上回り、23ミリ機関砲2門、37ミリも1門と重武装だった。
MiGは中国内戦の最終局面で登場したが、朝鮮で存在が確認されたのは1950年11月1日のことで、中国から飛び立ちF-51マスタング編隊を待ち伏せ攻撃し、一機を撃墜している。大戦時のソ連ベテランパイロットが空中戦で活躍していた。
冒頭の11月8日に話を戻すと、スティーブンスとブラウンは左へ急転回し、接近する敵機を射撃する態勢に入った。ブラウン機のM3機関銃4門が弾づまりしたが、敵機に数発を命中させた。このMiGは反転降下し、ブラウンが追尾し時速600マイルで地表に向かった。ブラウンがさらに数発命中させると相手は爆発炎上した。ブラウンはぎりぎりで機体を引き起こした。
米側はジェット戦闘機で初の空中戦で撃墜に成功したと主張。
だが、ソ連側戦史では11月8日の記録は全く違う。MiGパイロットのウラジミール・ハリトノフ中尉は米戦闘機一機の待ち伏せを受けたが降下で逃げ切ったと報告している。ロシア記録ではジェット戦闘機同士の初の空戦は11月1日で、MiGのパイロット、セミヨン・ホミニッチ中尉がF-80(フランク・ヴァンシックル中尉操縦)を撃墜したとある。米側記録ではヴァンシックルは地上砲に撃墜された。いずれにせよ、ブラウンの交戦後に海軍のF9Fパンサーがミハイル・グラチェフ大尉操縦のMiG-15を撃墜し、これは双方の記録が一致している。
ジェット空戦で初の撃墜で主張が食い違うが、MiG-15が速力、操縦性、武装のいずれもF-80をうわまわっていたことで意見の相違はない。米記録ではシューティングスターは17機を空中戦で喪失し、撃墜したMiG-15は6機、その他プロペラ機11機だった。B-29大編隊をF-80、F-84混成100機で護衛したが、MiG30機の待ち伏せを受け、B-29が3機撃墜されたのが1951年4月12日のことだった。
空軍は急いで最新鋭機F-86セイバーを派遣し、これでMiG-15と互角に戦えるようになった。中国国境近くの「MiG横丁」上空で空中戦が続き、撃墜実績が米側に好転した。F-80は対地攻撃任務に回され5インチロケット弾8本あるいは千ポンド爆弾2発を主翼下に搭載した。
朝鮮で対空砲火によるシューティングスター喪失は113機に及んだ。例として1952年11月22日、チャールズ・ローリング少佐は国連軍を釘付けしていた砲兵陣地の攻撃中に対空砲の命中弾を受けた。少佐は傷ついた機体を陣地に突入させ、死後に名誉勲章を受けた。
朝鮮にF-80飛行隊10個が展開したが、1953年までにすべてF-86セイバーあるいはF-84対地攻撃機に転換した。うち、一個飛行隊はマスタング供用に戻った。米軍でのシューティングスター供用が減ると、余剰機は南アメリカ各国の空軍部隊に払い下げられ、60年代70年代まで使用された。
朝鮮戦線でシューティングスターはすでに旧式化していたが、2形式の機体の原型となった。知名度が低いのはF-94スターファイヤー複座レーダー夜間戦闘機で朝鮮で6機を撃墜し、MiG-15も初の夜間ジェット空戦で撃墜している。
もう一方が伝説の機体T-33複座ジェット練習機だ。6,500機が生産され、40カ国の空軍部隊で供用された。CIAが進めた1961年のキューバ侵攻ではB-26爆撃機を三機撃墜し、艦船数隻を沈めている。
20世紀後半に世界各地のパイロット数千名がT-33で訓練を受けた。ボリビアが2017年にT-33供用を終了し、同機の運用に幕が下りた。
1940年代に急ぎ開発された米国初の実用ジェット戦闘機は予想外の長い供用実績のもととなった。■
この記事は以下を再構成したものです。
Meet the F-80: America's First Fighter Jet
It wasn't great but it was a start.
April 9, 2020 Topic: History Region: Americas Blog Brand: The Buzz Tags: HistoryNorth KoreaMilitaryTechnologyWorldF-80
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