南ベトナム空軍パイロットのブアン・リー少佐と、危険な逃避行の末、空母に着艦し安全を確保した家族の一部。(画像提供:アメリカ海軍)
南ベトナムが共産勢力の猛攻で崩壊する中、1人の南ベトナム人パイロットが小型機で勇敢かつ大胆な脱出を試み、奇跡的に海上に着陸場所を見つけ、自分自身と家族の命を救った
1975年4月、米軍戦闘部隊がベトナムから撤退し、残ったのは米国大使館の職員と大使館の警護を担当する海兵隊の一部隊だけとなった。南ベトナムの指導者チュウ大統領は辞任し、敵の勝利が相次ぐ中、南ベトナムのほとんどが赤く染まったことで士気は失墜し、パニックが蔓延していた。
大使館からの避難は4月中旬に始まった。4月28日までに南ベトナムの首都サイゴンは共産主義軍に包囲され29日にはサイゴンへの砲撃が始まった。
寄せ集めの南ベトナム共和国軍(ARVN)部隊約6万人は結束力を失い、兵士がパニックに陥り散り散りになっていた。米国は、米軍のC-130輸送機を含む航空機が砲撃により破壊されたものの、4月29日閉鎖されたタンソンニャット空軍基地から固定翼機での避難を積極的に行っていた。米国大使館には、安全と脱出の手段を求めて、難民や外国人が押し寄せてきた。共産軍の急速な進撃にアメリカ側は驚きを隠せなかった。「オペレーション・フリークエント・ウィンド」として知られる避難計画は、混乱した状況で実施された。
米軍ヘリコプターは、人々を海上に運び、南シナ海洋上の空母に着陸した。やがて甲板は、難民とヘリコプターで混雑してきた。数時間でアメリカ人1,373名、アメリカ人以外6,422名、そして数名のアメリカ海兵隊員を米艦艇に輸送した。大使館では暴徒が低層階を占拠し、大使館を守っていた最後の海兵隊員11名は、4月30日にアメリカ国旗を手に屋上からヘリコプターで撤収した。南ベトナム大統領、ドゥオン・ヴァン・ミン将軍は就任2日目で降伏を呼びかけた。まもなく北ベトナム軍のT-54戦車(番号844)が大統領官邸の門を突破した。サイゴンは陥落し、長く血みどろの闘争に終止符が打たれた。
空母ミッドウェイ
4月19日、空母USSミッドウェイ(CVA-41)はフィリピンのスービック湾からサイゴン近郊の南シナ海へ急行する命令を受け、米空軍のシコースキーHH-53ヘリコプター10機を着艦させることになっていた。空軍パイロットのほとんどにとって、これは初めての空母着艦となるため、HH-53ヘリコプターの搭載は疑わしい作戦であった。ミッドウェーは、ヘリコプターを搭載するため、スービック湾で艦載機を降ろしていた。
南シナ海で米空軍のHH-53ヘリコプターを受け入れたミッドウェー(画像出典:ウィキメディア・コモンズ)
4月29日、ミッドウェーの飛行甲板にグエン・カオ・キ南ベトナム副大統領が到着し、「オペレーション・フリークエント・ウィンド」が開始された。米軍ラジオ局が「ホワイトクリスマス」の曲を流し、避難民が予め決められていた脱出地点に向かう合図となった。その後は、ヘリコプターが絶え間なく人々を乗せて海上の米艦隊まで飛んで行き、降ろしてはまた同じことを繰り返すという、混沌とした光景が続いた。
ミッドウェイは、到着するヘリコプターの多くと無線連絡が取れず、空軍のHH-53ヘリコプターとは通信が機能していたものの、ベルUH-1「ヒューイ」ヘリコプターが次々と到着していた。乗組員は、信号旗や信号灯や手信号で着陸させるしかなかった。甲板は航空機と避難民で混雑し、多くのヘリコプターとの通信も途絶えたため、危険な場所となった。燃料切れや衝突の危険が常にあった。ある時点で、26機のヘリコプターが空母周辺を旋回していた。ヘリコプターは1機ずつ着艦し、脇に寄せられ、互いに密着して並べられた。甲板はすぐいっぱいになった。しかし、混乱の中で、命を落とした者は一人もいなかった。
海上に出たバード・ドッグ
4月29日、南ベトナム空軍の若い将校とその家族は、共産主義者の猛攻から逃れていた。できる限り多くの持ち物を携え、5人の幼い子供たちと妻とともに、ブアン・リー(ブン・リー)少佐はコンソン島の飛行場で小型機を見つけた。機体は、セスナO-1バードドッグで2人乗り機体の限られた貨物エリアに、所有物、妻、5人の子供たちを詰め込み、少佐はなんとか航空機のエンジンを始動させ、過積載の航空機をかろうじて離陸させることができた。少佐には脱出だけが目的で、どこへ行くのか、何をすべきなのかは考えていなかった。小型機を海の方角に向け、最善を祈った
約30分間飛行し、ヘリコプターの群れが見えてきた。少佐は、米艦隊が同海域で活動していることを知っていたため、着陸場所があるはずと考え、ヘリコプターの群れを追った。O-1は軽量観測機で、陸上での砲撃地点の特定や空爆のマーキングに使用されていた。この航空機は満タンで500マイル以上の航続距離があったが、少佐が徴用した機の燃料は満タンではなかった。この機は固定式着陸装置と限られた航法装置を備えており、海上作戦用の浮きはなかった。さらに悪いことに、無線機にヘッドセットがなく、使用できなかった。飛行を続けると、大型艦が視界に入ってきた。
ミッドウェイ甲板にはヘリコプターと避難民がひしめき合っていた。乗組員たちは、難民に食事を与え、医療処置を施すために休むことなく働いていた。航空機や兵器の扱いに慣れた男たちが、子供たちの相手をし、持ち物の運搬を手伝ったりしていた。突然、空母の監視員が小型機の接近に気づいた。双眼鏡で調べたところ、機体は南ベトナムのマーキングを施したセスナ O-1 であることが判明した。機体は空母上空に到達し、翼を揺らしながら旋回し始めた。パイロットが空母への緊急着艦を切望していることは明らかだった。
海軍大佐ローレンス・チェンバースは、1月にミッドウェイ艦長に就任して数週間しか経っていなかった。部隊の提督は、小型機を海に不時着水させ、乗客をヘリコプターで救助するよう艦長に指示した。チェンバースは、固定脚のため、航空機が水に触れた瞬間に転覆するだろうと気づき、乗客の生存の可能性はほぼゼロだった。
O-1が旋回を続ける中、ブアン=リー少佐はメモを書き、ミッドウェー甲板に落とした。しかし、誰かが拾う前に、風が甲板の外に飛ばしてしまった。彼は同じことを数回試みたが、同じ結果に終わるだけだった。最終的に、メモを拳銃ホルスターに入れ、甲板に落とした。今度はメモを拾うことができた。急いでチャートに書き留めたメモには次のように書かれていた。「ヘリコプターを反対側に移動できますか?そうすれば、着艦できます。あと1時間飛べます。移動する時間は十分にあります。どうか助けてください。ブアン少佐の妻と5人の子供たちより」
ブアン・リー少佐が空母ミッドウェイへの着陸を試みた際に甲板上に落とした手書きメモ。このメモはローレンス・チェンバースが保管し、現在はミッドウェイ博物館に展示されている。(画像提供:海軍歴史財団)
メッセージはすぐにチェンバース艦長に伝えられ、彼は航空部隊のボスであるヴァーン・ジャンパー中佐に、すぐに甲板を用意するよう命じた。乗組員とその他人員が、小型セスナ機のため甲板を片付け始めた。チェンバースは、甲板から海にヘリコプターを押し出しスペースを確保するよう命じることで軍法会議にかけられる可能性に直面した。同時に、チェンバースは25ノットで航行するよう命じた。1945年から就役している老朽化した同空母は、艦長が風上に向かうよう命じたため、速度が増すにつれ、軋みと悲鳴を上げた。消防隊員たちは最悪の事態に備え、また、バード・ドッグに尾翼フックがなかったため、着陸ケーブルは甲板から取り外された。ブアン・リー少佐は、航空母艦に着艦したことはおろか、航空母艦を見たこともなかった。
当日、ヘリコプターが何機海に放棄されたのかはっきりとは分かっていないが、UH-1 ヒューイが3~4機、CH-47 チヌークが少なくとも1機犠牲となったようだ。乗組員によって引きずり降ろされ、これらのヘリコプターを移動させたことで生まれたスペースに、さらに5機の待機中のヒューイが着陸し、人員を降ろした。チェンバースは、それらのヘリコプターも甲板から押し出すよう命じた。チャンバーズは、軍法会議で証言する際に数字を言わされることを避けるため、故意に何機のヘリコプターを海に突き落としたかを記録しなかったと主張している。合計何機であろうと、その日旋回していた小型航空機の乗員7名の命を救うため、彼は軍用機少なくとも10機分数百万ドルを損害を命じた。
南ベトナムのマーキングが施されたUH-1 ヒューイが、ミッドウェイ空母の飛行甲板上のスペースを確保するために甲板から無理やり降ろされる。(画像出典:ウィキメディア・コモンズ)
航空部隊のジャンパー中佐はO-1に着陸許可を与え、少佐は艦上を何度か旋回してアプローチの感覚をつかんでからフラップを下げ時速69マイルで降下を開始した。艦は風上に向かっており、時速46マイルの向かい風が着陸エリアを「広げる」ことになり、南ベトナムのパイロットにとって安全着陸できる最大限の利点となった。小型セスナ機は着陸し、跳ねてから滑走路中央で停止した。機体が勢い余って海に落ちないよう、水兵が機体をしっかりとつかんだ。ブアン少佐と妻が赤ちゃんを抱いてコックピットから降りてくると、水兵たちは機体をしっかりとつかんだ。さらに4人の幼い子供たちがコックピットの後部から救出され、見物人の喝采を浴びながら、ブアン少佐はブリッジにエスコートされ、チェンバースと対面した。乗組員は、米国での新しい生活を始めるために一家を支援する基金を設立した。
ブアン・リー少佐が操縦するO-1バードドッグが、ミッドウェーの甲板に初めて接触した瞬間。ヘリコプター多数が甲板に並んでいることに注目。(画像提供:アメリカ海軍)
バードドッグの現在
ブアン・リー少佐と家族がその日脱出したバード・ドッグは、ローレンス・チェンバースと、後にO-1を荷揚げしたグアムの海軍補給基地の指揮官であったジョー・チェサピアー大佐の尽力で保存された。1951年にカンザス州ウィチタでセスナL-19A-CEとして製造された機体は、1962年にO-1Aに再指定された。1966年にはウィチタのセスナ社がO-1G型に改造した。この機体は1970年12月までベトナムの米軍で使用され、その後は南ベトナム空軍(RVNAF)に引き渡された。この機体は現在、フロリダ州ペンサコーラの国立海軍航空博物館に展示されており、史上最大の脱出劇のひとつで機体が被ったマーキングが今も残っている。
ブアン・リー少佐は、このセスナ O-1 バードドッグを1975年4月で空母ミッドウェイに着艦し、現在はフロリダ州ペンサコーラの国立海軍航空博物館に展示されている。(画像提供:アメリカ海軍)
Major Buang-Ly’s Great Escape
Published on: March 14, 2025 at 6:45 PM Darrick Leiker
https://theaviationist.com/2025/03/14/major-buang-lys-great-escape/
Darrick Leiker
Darrick Leiker はカンザス州グッドランドが拠点の、TheAviationist の寄稿者。米空軍での軍務および法執行機関での勤務経験があり、ノースウエストカンザス・テクニカルカレッジで電子工学技術を専攻して卒業しました。アマチュア天文家であり、熱心なスケールモデラーで、クラシックカーの収集家でもあります。Darrick は暗号通貨の世界、サイバーセキュリティの研究/情報収集の分野での経験があり、また自身のビジネスを立ち上げ、経営した経験もあります。熱心な読書家であり歴史愛好家でもあるダリックの情熱は、過去の人々や現在活躍している人々が忘れ去られないようにすることです。ダリックは、ワイン・蒸留酒業界で働きながら、スケールモデル、遺物、記念品の小さな個人博物館のキュレーターも務めています。
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