ボーイングB-29スーパーフォートレスは爆撃機として名声を得つつ、広島長崎の原爆投下で悪名が付いた。爆弾を大量搭載し、長距離飛行し、高高度を飛ぶ重爆撃機の開発は米国でも第二次大戦中で極度なまで高額につく事業となり、マンハッタン・プロジェクトより高くなった。
ただし、スーパーフォートレスには知名度が低いながら競合機種があった。メーカーのコンソリデーテッドはB-24リベレーター大量生産で知られる会社だった。スーパーフォートレスの性能が期待通り発揮できない場合に備え、B-32ドミネーターが発注された。ただしB-29が想定性能を発揮し太平洋戦線で活躍し始めた1944年にコンソリデーテッドは100機超のB-32を生産しており、同機は1945年中頃に配備された。
大型爆撃機開発は真珠湾攻撃以前に始まっていた。ただし、コンソリデーテッド案はB-24原型の企画でボーイングB-29より相当見劣りがする内容だった。同機の設計は何度も変更を受け、当初の尾翼二枚形状や20ミリ機関砲を各エンジンナセルに搭載し後方発射する奇抜な構想は削除されている。
最終的にB-32の外観上の特徴は10メートルという巨大な尾翼となった。性能面でドミネーターはB-29に匹敵する水準になった。両機種ともエンジンはライトR-3350-23サイクロン4発で共通し、最高速度358マイル毎時は大戦初期のBf-109E戦闘機と同程度で、20千ポンドという爆弾搭載量を誇った。B-32では防御用に有人操作の機関銃10門がついた。
コンソリデーテッドもB-29で採用した与圧式機体と遠隔操作式機関銃の搭載を狙ったが断念した。このためドミネーターは中低高度用爆撃機に区分された。
他方でB-32の航続距離は3,800マイルとB-29より2割長く、巡航速度も290マイルとB-29の230マイルを上回った。ドミネーターには反転ピッチプロペラの他、B-24譲りの分厚いデイヴィス式主翼がつき、低速での抗力を最小限に抑え、着陸時に威力を発揮した。
こうした良い面もあったが、陸軍航空軍はB-29の性能水準に概ね満足しており、B-32はフィリピンでの運用テストを第5空軍の要請で行ったのみの状態だった。最終的に386爆撃飛行隊に編入されたドミネーター各機はフィリピンで日本軍を爆撃した他、台湾でも任務を遂行した。台湾では製糖工場やアルコール工場を爆撃した。当時の米戦略爆撃の対象がいかに広範囲だったかがわかる。
386隊にB-32が揃ったのが7月で、8月に沖縄読谷飛行場へ転進し偵察飛行隊に改組された。8月15日に天皇が陸海軍へ抵抗中止を命じた。9月2日にUSSミズーリ艦上で日本軍が降伏文書に署名しても陸軍航空軍は東京上空で偵察飛行を続け、日本軍が本当に降伏しているか確かめるとともに東京の道路網を調査していた。
だが日本軍の戦闘機パイロットは上空を飛ぶ爆撃機を別の見方で眺めていた。日本のエースパイロット坂井三郎は米爆撃機は東京爆撃に飛来したと思い、攻撃は正当な行為と考えていたと後日述懐している。
別のエースパイロット小町定は米爆撃機が誰にも邪魔されずに首都上空を飛ぶのを見て、米空襲で甚大な破壊を受けた東京を想起していた。
こうして8月17日、日本軍戦闘機編隊が偵察任務のB-32編隊を迎撃し、二時間に渡り攻撃を加え、米機搭乗員は.50口径機関銃で応戦したのだった。双方に大きな損傷はなかった。驚いた爆撃飛行隊は翌18日にも偵察任務で機体を送り、迎撃案件が偶発発生だったのか確かめようとした。同日に千島列島の日本軍部隊もロシア機と空中戦していたのは興味深い事実だ。ロシア機は奇襲上陸作戦の支援にあたっていた。降伏後も停戦まで数日かかったということだ。
話を戻すと18日午前7時に、B-32二機が東京上空に飛来し、各機には20偵察飛行隊から引き抜いた写真偵察要員3名が追加されていた。追加搭乗員は普段F-7(B-24の偵察機型)に搭乗していた。
午後2時、B-32編隊は東京上空の数回横断飛行を終えたが、高度20千フィートから日本戦闘機編隊が接近するのを見つけた。
記録によればA6Mゼロ戦14機、N1K-J紫電3機が横須賀基地から発進し迎撃に向かった。紫電は大戦中で最優秀性能の日本戦闘機で最高時速400マイル超で高速発射可能な20ミリ機関砲4門を備えたものの、高高度性能は芳しくなかった。
とはいえ、各機は大型B-32に群がり、機関銃機関砲を発射してきた。爆撃機には.50口径機関銃10門ずつが搭載されており、すぐ応戦を開始した。爆撃機、戦闘機の搭乗員は大戦で最後の空中戦の模様を回想している。真上から降下した小町機はB-32ホーボークイーンIIのエンジンに銃弾を命中させ、機体上部のプレキシグラス砲塔を粉砕し銃手ジミー・スマートが負傷した。別の日本機がホーボークイーンの胴体を銃撃し、写真偵察員ジョセフ・ラチャライトの両脚に銃弾が命中した。同偵察員は止血剤をふりかけ、同僚の写真偵察員アンソニー・マチオーネ軍曹により寝台に移された。
機関砲弾がホーボークイーンの胴体を貫通し、マチオーネの胸に命中した。他の搭乗員がかけつけ圧迫包帯を付け、血清と酸素を手配した。
B-32二機は急降下に入り、高速と慣性を活かし、日本戦闘機編隊より先に出た。両機が傷ついた姿で帰投したのは同日午後6時のことだ。ホーボークイーンIIはエンジン一基が破損、方向舵損傷、胴体に大きな穴30個がついた。ラチャライトは負傷の全快まで数年を要した。
マチオーネは失血で30分後に死亡。第二次大戦の戦闘で死亡した最後の航空兵となった。死亡通知を受けた家族は声を失った。翌日、日本軍は機体からプロペラを取り外し、事態の再発を防いだ。
陸軍航空軍はB-32生産を取り消し、生産済み116機の用途廃止を急ぎ開始した。B-29には多数の機体が残ったのと対照的だった。最後のドミネーターが1949年にスクラップ処分されると、生死をかけた最後の東京上空ミッションに投入された同機を物語る証拠は皆無になった。■
この記事は以下を再構成したものです。
June 27, 2020 Topic: History Region: Asia Blog Brand: The Reboot Tags: World War IIJapanTokyoB-32BomberAirplaneAir ForceUSAFMilitaryTechnologyHistory
B-32 Dominators Flew The Last Combat Mission Of World War II.
Sébastien Roblin holds a master’s degree in conflict resolution from Georgetown University and served as a university instructor for the Peace Corps in China. He has also worked in education, editing and refugee resettlement in France and the United States. He currently writes on security and military history for War Is Boring. This piece was originally featured in February 2018 and is being republished due to reader's interest
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