歴史に残る機体26
ノースアメリカンB-25ミッチェルは米軍に多大な貢献を残した。頑丈な構造で第二次大戦で米国を勝利に導いた。
B-25は1940年に設計が完了し、米陸軍航空軍で中型爆撃機として活躍が期待された。B-25には目立つ特徴がない。双発で胴体は鉛筆型で爆弾搭載量もさして多くない。それでも欠点がないことが特徴だった。▶第二次大戦中のB-25生産数は1万機という驚くべき規模になった。設計に柔軟度が十分あり、改修型多数が各種任務に投入され、米国以外でも供用された。レンド-リース戦時物資共有合意でB-25は英国、ソ連に送られ、戦後もカナダ、オランダ、オーストラリア等に引き渡された。▶同機の設計自体は完璧と程遠かったが、搭乗員から頑丈かつ高信頼性の評価を勝ち取り、銃弾多数を浴びエンジンが片方止まっても飛行を続けられた。供用期間を通じ多数の損傷を修理しながら飛行を続けた機体は多い。
搭乗員が指摘した同機の数少ない欠点にエンジン騒音があった。エンジン取り付け位置が胴体に近く、エンジン排気管の配置がコックピットに向いていた。B-25パイロットや搭乗員多数が戦後に難聴に苦しんだ。
米国は各戦域でB-25を投入したが、最も活躍したのが太平洋方面だった。戦闘の拡大につれ、B-25の機首に大型機関銃が追加された。爆撃能力は中程度だったことがジャングル内に潜む敵攻撃に有益となった。B-25の低高度爆撃と機関銃掃射が強力だったためだ。低高度機関銃掃射を対艦攻撃に応用したB-25もあらわれ、大きな戦果を上げた。
ガンシップへ改装
B-25の設計はガンシップとして最適と評価された。ガンシップに改装された機体は大火力で敵を攻撃した。ガンシップ試作型は.50口径重機関銃4門を機首に搭載し、75ミリ砲も別に搭載した。さらに側部に.50機関銃4門をポッドに入れて搭載し、コックピット後方旋回砲塔に2門があった。胴体両側に一門ずつ、さらに後部銃手が2門を扱い、合計14門にのぼった。
エンパイヤステートビルに激突(1945年)
B-25はニューヨークのエンパイヤステートビルに激突する事故も起こした。事故当時は深い霧で、ニューアーク空港(ニュージャージー)から移動途中の機体はビル北側側面に激突し、機内の4名、ビルの11名が死亡した。
ドーリットル空襲
第二次大戦中のB-25で最も記憶に残るのがドーリットル攻撃隊だろう。真珠湾攻撃から4ヶ月後にジミー・ドーリットル中佐以下16機が日本本土を空襲した。攻撃は成功したものの物理的な損害はごくわずかで、米国民の戦意高揚の効果が高かった。本土は爆撃をうけることはないとたかを括っていた日本側にも心理的に大きな一撃となった。ドーリットル空襲後に日本は艦船や兵力を日本本土近辺に再配備し、米空襲から本土を守る体制を強めた。
アメリカのアイコン
目立つ特徴はないものの、B-25は大戦中に大活躍し、飛び続けた。堅牢な機体設計が世界各地で米国を勝利に導き、特に太平洋方面での活躍が特筆される。米軍事力の象徴に脱帽である。■
この記事は以下を再構成したものです。
by Caleb Larson
Caleb Larson is a Defense Writer with The National Interest. He holds a Master of Public Policy and covers U.S. and Russian security, European defense issues, and German politics and culture.
Image: Wikimedia Commons.
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