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歴史に残る機体29 今回はロッキードP-38、大戦の最初から最後まで高人気の理由とは、双発大型機の運動エネルギーで戦った傑作機はいかにもアメリカ的。

本日12月6日は私の誕生日なので一番好きな機種の話にさせていただきました。ご了承下さい。双発戦闘機が成功した数少ない事例なのですが、なんといってもパワーを前面に出しながら優雅な機体の美しさにはほれぼれします。今や同じ愛称を付けた機体がIIとして飛んでいますが、両機種の共通点はまったくなく、むしろ現行のライトニングIIを嫌う傾向はこのブログの長年の読者はご存じのはず。National Interestの記事からです。   第 二次大戦中に最も活躍した米戦闘機といえば多くの人が ノースアメリカン P-51を取り上げる。実際はP-51投入は遅い時期で、たしかに大きな功績を上げたものの、連合軍の航空優勢を実現した機材はその前にもあった。マスタングが大幅設計変更を受け欧州の空に登場したのは1944年冬のことで、その時点で連合軍航空部隊は欧州、太平洋双方でドイツ、日本の軍用機を蹴散らしており、制空権の完全確保に近づいていた。その功績は双発双胴の ロッキード P-38ライトニングと単発の リパブリック P-47サンダーボルトがあげたものだ。太平洋戦線ではP-38が一貫して好まれ、終戦まで稼働し、マスタングの人気をしのいだ。   ロッキードがP-38ライトニング開発を開始したのは1937年のことで同社初の軍用機参入として欧州の事態進展に対応し機材近代化を狙う米陸軍への採用を狙った。ロッキードが時速400マイル超の性能をうたい、陸軍は疑ったが、双発戦闘機設計案を1937年中ごろに承認し、1939年1月に試作型が初飛行した。フランクリン・D・ロウズヴェルト大統領が新型戦闘機各型の増産を命じ、陸軍は1939年4月に試験用機材13機を発注した。ロッキードは試作機を予定通り製造できなかったが、それでも1940年8月に607機もの大量発注を受けた。欧州情勢から米国参戦が近づいていると判断されていた。製造現場では技術的な問題で生産が遅れ、1941年12月7日時点で完成機材はわずか69機で米陸軍航空隊に納入されたにすぎなかった。     海外派遣の開始   P-38飛行隊数個を英国に展開する案があったが、機体移動の補給活動が困難だった。第1,14、82の各戦闘機集団がP-38の海外展開の先陣を切り、英国に展開する第八空軍に加わった。このうち第1戦闘機集団はアイスランドからイングランドに移動し、フラ

歴史に残る機体(28) F-4ファントムはいまだに供用するところもあるが誕生から60年が経過している

  歴史に残る機体(28)マクダネル・ダグラスF-4     マ クダネル・ダグラス F-4ファントムIIは伝説の域に入る機体だ。ヴィエトナム戦争を象徴する機体であり、第三世代ジェット戦闘機の典型となった同機は1960年代に供用開始し、5千機超が生産された大型超音速戦闘機だ。今日でも供用中であり、一部空軍では実戦部隊に配属されている。  ファントムにはヴィエトナム戦でエンジン推力にあぐらをかいた不器用な乱暴者で使う兵装も旧式だったとの定評がある。 これは公正ではない。     ファントムの基本欠陥は1970年までに是正され、最近もエイビオニクス、兵装面で現在の水準まで引き上げられている。近代化改修したファントムはトルコ、ギリシアの両空軍で供用中で、F-15と同程度の性能でありながら、はるかに安価に実現している。   実戦で洗礼を浴びる  1958年に登場したF-4は革命的な設計で数々の航空記録を樹立した。  空虚重量が30千ポンドで大型J79エンジン双発により優秀な推力を実現し、これだけの機体でもマッハ2、時速1,473マイルで飛行できた(できる)。   初期のファントムは18千ポンドの爆弾等を搭載でき、これは第二次大戦時のB-17の三倍に相当した。後席の兵装士官が高性能レーダーや兵装運用システムを担当してパイロットは操縦に専念できた。  さらに、F-4には地上運用型、空母運用型双方があり、米空軍、海軍、海兵隊で供用された。三軍共通機材の例はF-35までなかった。  ただし、軽量のMiG-17やMiG-21と北ヴィエトナムで空戦に臨むと、ファントムに被撃墜機が発生した。朝鮮戦争では米空軍は一機撃墜されるても敵機6機ないし10機を撃墜していたが、ヴィエトナム戦では2対1程度に縮小していた。(ファントム以外の米軍機全体での数字) F-4の問題は機体に機関砲が搭載されていないことだった。空対空ミサイルに全面的に頼っていたためで、レーダー誘導方式のAIM-7スパロー、熱追尾式AIM-9サイドワインダー、旧式AIM-4ファルコンを搭載した。  初期のミサイル性能がひどいことに空軍は気づいていなかった。  検証したところ、ヴィエトナム時代のAIM-7では45パーセント、AIM-9では37パーセントしか発射に成功あるいはロックオンできず、退避行動をとると撃墜可能性はそれぞれ8パー

歴史に残る機体(27)ダグラスA-3スカイウォーリアー(ホエール)

歴史に残る機体27 1 972年5月10日、ジェット時代でも最も熾烈な空戦がハノイ、ハイフォン上空で展開した。海軍のF-4Jファントム編隊とヴィエトナムのMiG編隊がミサイル攻撃の応酬を繰り広げる中、空には対空射撃とSA-2地対空ミサイルが猛烈な攻撃を展開した。 24時間で双方の十数機が撃墜された。リック・モーガン著の A-3 Skywarrior Units of the Vietnam War  がファントムパイロットのカート・ドセ大尉が遭遇した状況を次のように伝えている。 「SA-2ミサイルが下方から出現し、ブースターを分離していた。私は機首を押し下げ逆Gでミサイルの標的をチェックしたところSAM二発も方向を下げた。つまりこちらが標的だったのだ。7Gで機首を上げたが遅すぎた。こちらに狙いを定めマッハ2で向かってくる。こちらに命中するだけでなくボールペアリングの弾頭部がコックピットを貫通するだろう。 「ミサイルの小型カナード翼が最終調整するのが見え、死ぬ覚悟を決めたが、不発だった。最初のSA-2はキャノピーの5フィート下を通過し、二発目は機首の20フィート前だった。私は右にロールしSAM二発がまっすぐ飛翔するのを見ていた」 ドセは無事空母に帰還した。事後報告で無事生還できたのはEKA-3Bスカイウォリアー電子戦機のジャミングのおかげと知る。 ハノイ周辺にはファンソンミサイル誘導レーダー多数が配備され、EKA-3Bのシステム操作員はミサイル信管へ爆破信号を伝える周波数にジャミングをかけた。無事帰還できたドセは同機搭乗員に感謝の念を込め自分が残していたウォッカ半ケースを贈ったのだった。 ダグラス A-3スカイウォリアー別名「ホエール」は空母運用機材では最大の大きさを誇った。当初は核兵器による戦略爆撃任務を想定したが、これは長続きしなかった。A-3は各種型式が生まれ、米海軍への貢献を長く続けた。爆撃機として生まれ、給油機にもなったが今回は偵察任務や電子戦機材としての側面に触れる。 スカイウォリアーでは給油機として海軍各機をヴィエトナム上空で支援した貢献のほうが爆撃機任務より大きい。ヴィエトナムの地対空ミサイルに狙われる海軍パイロットに電子戦支援は喉から手が出るほど必要だった。そこで1967年に給油型34