本日12月6日は私の誕生日なので一番好きな機種の話にさせていただきました。ご了承下さい。双発戦闘機が成功した数少ない事例なのですが、なんといってもパワーを前面に出しながら優雅な機体の美しさにはほれぼれします。今や同じ愛称を付けた機体がIIとして飛んでいますが、両機種の共通点はまったくなく、むしろ現行のライトニングIIを嫌う傾向はこのブログの長年の読者はご存じのはず。National Interestの記事からです。
第二次大戦中に最も活躍した米戦闘機といえば多くの人がノースアメリカンP-51を取り上げる。実際はP-51投入は遅い時期で、たしかに大きな功績を上げたものの、連合軍の航空優勢を実現した機材はその前にもあった。マスタングが大幅設計変更を受け欧州の空に登場したのは1944年冬のことで、その時点で連合軍航空部隊は欧州、太平洋双方でドイツ、日本の軍用機を蹴散らしており、制空権の完全確保に近づいていた。その功績は双発双胴のロッキードP-38ライトニングと単発のリパブリックP-47サンダーボルトがあげたものだ。太平洋戦線ではP-38が一貫して好まれ、終戦まで稼働し、マスタングの人気をしのいだ。
ロッキードがP-38ライトニング開発を開始したのは1937年のことで同社初の軍用機参入として欧州の事態進展に対応し機材近代化を狙う米陸軍への採用を狙った。ロッキードが時速400マイル超の性能をうたい、陸軍は疑ったが、双発戦闘機設計案を1937年中ごろに承認し、1939年1月に試作型が初飛行した。フランクリン・D・ロウズヴェルト大統領が新型戦闘機各型の増産を命じ、陸軍は1939年4月に試験用機材13機を発注した。ロッキードは試作機を予定通り製造できなかったが、それでも1940年8月に607機もの大量発注を受けた。欧州情勢から米国参戦が近づいていると判断されていた。製造現場では技術的な問題で生産が遅れ、1941年12月7日時点で完成機材はわずか69機で米陸軍航空隊に納入されたにすぎなかった。
海外派遣の開始
P-38飛行隊数個を英国に展開する案があったが、機体移動の補給活動が困難だった。第1,14、82の各戦闘機集団がP-38の海外展開の先陣を切り、英国に展開する第八空軍に加わった。このうち第1戦闘機集団はアイスランドからイングランドに移動し、フランス上空に飛行したがドイツ空軍と遭遇はなかった。
1942年秋には三個戦闘機集団はすべて北アフリカに移動し、新設第12空軍隷下に入るよう命令を受け、トーチ作戦で展開する米軍支援に回った。四番目の第78戦闘機集団は英国に「戦略」予備部隊として残った。三個集団がアフリカに展開したが空中戦に一回も遭遇せず、P-38の性能は実証の機会がなかった。
ただし、11月にP-38が初の戦果を挙げた。ドイツ、イタリアの輸送機数機をチュニジアで撃墜した。P-38は北アフリカで各種任務に投入され、戦闘機任務以外に対地攻撃、敵車両掃射、敵歩兵部隊掃射も行った。長距離性能を生かし、遠隔地まで展開できる戦闘機は同機以外になかった。
1943年に入ると北アフリカのP-38部隊は機材数不足が深刻となり、第12空軍司令ジェイムズ・H・ドゥーリトルは英国におかれたライトニングの派遣を求めた。陸軍航空部隊司令ヘンリー・H・「ハップ」・アーノルド大将はカサブランカに赴き、高レベル会議を行い、状況の深刻さが理解できた。そこでイングランドに残るP-38を北アフリカに送るよう命令し、追加機材は米国から直接船便で北アフリカへ送ることにした。その命令により第78戦闘機集団の機材は第12空軍に加わり、イングランドにはP-47が派遣された。
地中海は英海軍が支配しており、ドイツの北アフリカ補給手段は空輸しかなかったので、1943年早春に連合軍航空部隊はドイツ補給部隊を集中的にたたくことにした。P-38ライトニングが地中海上空を掃討するのが日常になった。
「パームサンデーの虐殺」
4月5日朝のことP-38の26機編隊がドイツのユンカースJu-52輸送機50から70機がメッサーシュミットMe-109やユンカースJu-87急降下爆撃機の援護およそ30機と飛ぶ中を襲った。輸送機11機、援護機の4機を撃墜し、P-38の被撃墜は2機だった。
これと別のP-38編隊が艦船攻撃にあたるノースアメリカンB-25ミッチェル中爆編隊を援護し、ドイツ機を15機撃墜した。翌週にはドイツ船舶数隻と数十機の撃破を果たした。P-38の戦果はカーチスP-40トマホークやスーパーマリン・スピットファイヤーによるドイツ輸送部隊襲撃とならび100隻撃破でドイツアフリカ軍団への補給路を遮断し、北アフリカ戦線の行方を決定した。
P-38を北アフリカに派遣したためイングランドの米戦闘機部隊はきわめて低レベルになり、P-47を運用する第4戦闘機集団が唯一の部隊になっていたのが1943年春の状況だった。トーチ作戦で当初のP-38のかわりにP-47部隊がイングランドに配備されるはずだったが、単発で重戦闘機のP-47に長距離援護任務は不可能だった。新たな戦闘機集団が米本土でP-38で編成され、その後イングランドへ展開し、第8戦闘機司令部で援護任務についた。長距離性能を生かしドイツ本国への爆撃行に援護任務につけるのはP-38のみで、ベルリン上空まで展開した連合軍戦闘機はP-38が初めてだった。
P-38は多様な任務に投入され、低空攻撃を発揮し、ルーマニアのプロセチ油田精製所を襲った36機のP-38は1,000ポンドを搭載した。これを39機のP-38が援護した。ただし23機喪失という惨憺たる結果になったのはプロセチを死守するべくドイツが最大限の対空火砲を展開したためだ。
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P-38は太平洋戦線でも必要とされていたが、1942年末になりやっと太平洋にも機材がまわせるようになった。太平洋の飛行隊にはベルP-39エアラコブラやP-40が装備されていたが日本軍戦闘機に大きく性能が劣っていた。。
P-38第一陣がオーストラリアに到着すると設計面の不備が見つかり、実戦投入は遅れた。だが1942年末までにP-38はP-39に代わり第35戦闘機集団でニューギニア上空に登場し、日本軍にも存在が認知された。第49戦闘機集団にはP-40が配備されていたがその後ライトニングに転換している。
偶然による勝利 太平洋戦線でのP-38
太平洋戦太平洋戦線でのP-38の初勝利は偶然によるもので、それ以前の数週間にわたりP-38パイロットは戦果を挙げられず、日本軍もP-38を意図的に避けている感があった。同年11月にP-38編隊がラエ飛行場上空を哨戒中に日本軍戦闘機一機が離陸してきた。ニューオーリンズ出身の若いパイロット、フェローは高度を下げ日本軍機を攻撃しようとし、今回は爆弾を搭載していることを思い出しあわてて爆弾を投棄した。急いで後方に回り日本軍機が主脚を格納する前に撃墜するつもりだった。爆弾は滑走路端の海面に落下した。不運な日本軍機のパイロットは爆風で飛ばされ湾内に墜落した。ケニー将軍は若いパイロットをからかい、初のP-38での航空勲章は非撃墜のため対象にならないとしたが、その夜部隊を訪問し、パイロットに勲章を与えている。
1942年12月27日がP-38による南西太平洋上空の優勢を決定づける初日となった。ライトニング12機がポートモレスビーのラロキ飛行場にあったが、日本軍大編隊が同基地に向かい接近中との報をきき、トーマス・J・リンチ大尉がP-38編隊を率い離陸し、日本軍の戦闘機急降下爆撃機25機編隊を迎撃した。
戦闘が終わる日本軍機を15機撃墜した(公式陸軍航空軍戦史では戦闘機9機急降下爆撃機2機を撃破したとある)と報告があり、リンチ自身も2機撃墜を主張。ここにボングもおり同様に2機撃墜した。
ボングの戦果は本人の積極性に負うものが大きい。特に射撃にたけていたわけではなく、パイロットとして技量が傑出し極力接近して射撃した事で撃墜している。
最初の交戦でボングは編隊を抜け、自機が日本軍機に包囲されているとわかったが、即座に2機を撃墜し無傷で包囲から抜け出した。ボングはP-38で40機撃墜しているが、大戦末期に新型ジェット戦闘機のテスト飛行で死亡した。
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双発長距離飛行可能なP-38は南太平洋作戦で理想的な戦闘機で、ミラード・ハーモン大将はアーノルド大将に一貫してP-38の支給を求めていた。1942年末の連合軍はガダルカナルのヘンダーソンフィールド飛行場を巡り死闘を展開していた。
このヘンダーソンフィールドを狙い日本軍機が毎日のように襲撃を加え、海兵隊のF4Fワイルドキャット、陸軍のP-39、P-400(P-39の輸出仕様)といった旧式機が防御にあたった。各機は日本軍機より性能が劣っていた。
1942年11月にダグラス・マッカーサー大将が一部P-38をガタルカナルへ移動させる命令を出したのは戦況の行方が見えなくなっていたためだ。第39戦闘機飛行隊のP-38八機が11月13日にニューギニアからヘンダーソンフィールドへ移動した。11月14日に日本海軍への大規模攻撃を開始し、ガタルカナルへの日本軍補給活動を阻止し、結果として同島関連の戦役の方向を決定した。なお、ガダルカナル島の完全制圧は翌年2月のことである。
山本五十六提督機を撃墜したP-38はどちらだったのか。
1943年初頭、陸軍航空軍司令部がP-38を太平洋戦線に投入し、性能の劣るP-39、P-40に交代させはじめた。ガタルカナルを制圧し、南太平洋作戦区域ではソロモン諸島方面へ北に向け移動する作戦を立案した。3月になり第18戦闘機集団がP-40から機種転換途中だったがハワイから南太平洋に進駐した。ヘンダーソンフィールドに到着するや、18集団のパイロットは歴戦の勇士347飛行隊に合流した。
4月はじめに連合軍暗号解読部隊は山本五十六大将が南太平洋の前線部隊視察で現地移動することを知った。米側は山本の正確な移動日程をつかみ、4ブーゲンビルのバラレ飛行場に月18日0945時到着することまでわかった。
太平洋艦隊と真珠湾攻撃の恥辱の記憶が生々しい中でアーネスト・J・キング海軍作戦部長はガタルカナル地区のウィリアム・ハルゼイ米部隊司令官へ「山本をやれ」と下命した。ハルゼイは命令をソロモン地区航空司令となったマーク・ミッチャー提督に伝えた。
同地区で長距離飛行可能なのはP-38だけだったので命令は陸軍に回された。第18戦闘機集団第12戦闘飛行隊からパイロット8名、2名を第70戦闘飛行隊から選抜し、さらに347集団の339飛行隊から8名を確保した。第70飛行隊のトーマス・ランピエ大尉が攻撃役のP-38四機編隊長に、ジョン・ミッチェル少佐が作戦司式となり14機のP-38で援護を務めた。
18機編隊でヘンダーソンフィールドを4月18日0725時に離陸し、海面すれすれに2時間飛行した。ブーゲンビル島沿岸に近づくとP-38編隊は山本提督一行を視認した。三菱G4Mベティ爆撃機2機が提督と幕僚を乗せ、必死に攻撃を逃れようとし、ゼロ戦6機が攻撃部隊を阻もうとした。ランピエ大尉はゼロ戦一機を撃墜しベティ一機に攻撃を加え、同機は炎を上げながらジャングルに墜落した。レックス・バーバー中尉機が残るベティを撃墜した。
ランピエが山本機撃墜を認められたが、バーバーとの間で「山本をやった」のはどちらかで論争がほぼ半世紀にわたり繰り広げられた。実際に撃墜したのがどちらでも山本は幕僚大部分とともに生還できなかった。海軍十字勲章は指揮官ミッチェル少佐に与えられ、攻撃部隊の四名も同様に受勲した。
1943年5月に475戦闘機集団がオーストラリアで発足し南西太平洋地区でP-38のみで編成の最初の航空集団となるはずだった。当時の各集団には機種を混合して運用しており、P-39、P-40、P-47もあった。パイロット等人員はニューギニアでの戦闘を中断し、オーストラリアに送られ、新航空集団の中核人員となった。追加人員も米本土から合流し、新造機材が海上輸送され、7月に入るとP-38の118機がオーストラリアに揃い、機体調整を行い、戦闘に備えた。8月中ごろに戦闘準備が整いドボドゥラへ北進し、P-38とP-40で編成の49戦闘機集団に加わった。
第五空軍、第12空軍では航続距離の限界が戦闘機司令の悩みの種だった。ヨーロッパ戦線と異なり太平洋では戦闘は長距離飛行がつきもので、双発P-38は洋上飛行にうってつけの機材だった。単発機ではエンジン故障で海上不時着となる。双発戦闘機や軽爆撃機は一基が止まっても基地に戻れた。
リンドバーグとP-38
ケニー将軍隷下の戦闘機司令は制約となる問題に対し、想定外の解決方法で航続距離を伸ばしていた。増漕もその一つだったが1944年夏に思わぬ助けがやってきてP-38の戦闘行動半径が大きく伸びた。
1927年春、チャールズ・A・リンドバーグは航空分野の限界を一人で塗り替えた。ライアンの単発機スピリットオブセントルイスでニューヨークからパリまで大西洋横断飛行をやってのけたのである。その後のリンドバーグは戦闘機パイロット養成にあたり、自身も米陸軍予備役として超長距離飛行を時にアン夫人を伴い行っていた。
リンドバーグは陸軍予備役で大佐だったが孤立運動を続けるべく一度退役している。ヨーロッパで数年を過ごし、各国の空軍を視察し、最新鋭機材を自ら操縦士たリンドバーグは米国の参戦に強く反対していた。リンドバーグの孤立主義には米政権内部に憂慮の声があったが、真珠湾攻撃後に現役任務復帰を志願したがロウズヴェルト大統領が却下した。「一匹鷲の翼を折ってやったぞ」と側近に大統領が述べた。
リンドバーグの陸軍復帰は認められなかったが、それでも本人は米国の戦争努力へ多大な貢献をしている。まずフォード自動車のコンサルタントとしてコンソリデーテッドのリベレーター爆撃機の委託生産で問題点をつぶした。その後ユナイテッドエアクラフト社でF4Uコルせア事業に関与した。リンドバーグは南太平洋に民間人技術顧問として飛び、海兵隊のF4Uコルセア担当となったが、すぐP-38とつながることになった。
リンドバーグは米海軍の依頼で太平洋にいたが、単発機と双発戦闘機の性能比較に関心があり、ニューギニアへ飛ぶ命令を手に入れる。現地でホワイトヘッド将軍のもとへ赴き、475戦闘機集団に加わった。ケニー将軍の司令部が本人の到着を知るのは遅れ、その時点で本人は戦闘任務を数回こなしていた。
リンドバーグが到着しており、しかもP-38で戦闘任務に就いていることを知ったケニー将軍は高名な飛行士をブリスベーンに招いた。ケニーはリンドバーグをダグラス・マッカーサー大将に面会させ、「重要任務」を与えた。ニューギニアに戻り若手戦闘機パイロット連に航続距離を伸ばす飛行方法を教えることになった。
リンドバーグの解決法はいたってシンプルだった。陸軍パイロットは海兵隊のF4Uパイロットと本人から教育を受け、エンジン回転数を高め、マニフォールド圧も高いまま飛べばターボチャージ付エンジンの最大出力を引き出せるというのだ。リンドバーグは高マニフォールド圧にしてからプロペラ回転数を下げることで高出力を得ながら燃料消費が抑えられると伝えたが、陸軍ではこのやり方だとエンジンが「焼付く」と教えていたが、リンドバーグはそうならないと説得し、ケニーがその方法でミッションに出る許可を与え、リンドバーグの方法を体得したパイロットは従来は無理だった遠隔地までP-38を飛ばせるようになった。
リンドバーグのP-38への関与は日本軍との空中戦になり、二式水上戦闘機を撃墜したことで終わりとなった。数日後にもリンドバーグはゼロ戦に後部から狙われたが、飛行隊の経験豊かな同僚パイロットに助けられた。
リンドバーグの空中戦の知らせがケニーに届くとリンドバーグは地上待機を命じられたが、海兵隊で数回の戦闘ミッションで出撃してから本国へ戻った。結局戦闘ミッションは50回近く、撃墜一機の記録となった。だが金銭では表せない功績を太平洋地区の戦闘機パイロットに残し、航続距離を伸ばすことが可能となった。7月27日時点でリンドバーグは第8、第475の戦闘機集団におり、P-38編隊の記録を破る1,280マイルのB-24援護ミッションを実施したが、リンドバーグの教示なくしてはこうした実績は不可能だったろう。
リンチ、カービー、ボングのトップエース争いの結末
第五空軍、第十二空軍のP-38パイロットでエースが次々に出現した。リンドバーグのおかげで戦闘行動半径が伸びたことでP-38は日本軍の制空範囲内に侵入することが増えた。P-38集団には技量が高く戦闘意欲の高いパイロットが多く、なかでもトミー・リンチ、トム・マクガイヤ、ディック・ボングがいた。このうちリンチが最高水準の経験を誇り、日本軍相手に性能の劣るベルP-39エアラコブラで挑んでいた。1942年に戦域に加わったボングとは親友となり、ふたりでチームを組んだ。
もう一人トップの戦果を挙げたのがニール・カービー大佐でP-47を飛ばす348戦闘機集団司令だった。1944年3月までにリンチ、カービー、ボングの三名はトップの座をねらい僅差で争っていた。カービーとリンチは数日の差で戦死している。カービーは日本軍戦闘機により、リンチは地上砲火の犠牲となった。残るボングが単独でトップの座を守った。ケニーはボングが第一次大戦時のエース、エディー・リッケンバッカーの26機撃墜記録を破った4月10日まで飛行を許した。が同日に二機目を撃墜し合計27機となり、少佐に昇格させ直ちに本人を米本土に帰国させ射撃学校に入校させた。
10月中旬にボング少佐は極東空軍に復帰したが、不在中にトーマス・マクガイヤ少佐が撃墜数を伸ばし、ボングに8機差まで近づいていた。
ボングはケニー将軍に射撃学校で多くを学んだので実戦で生かしたいと希望を伝えた。皮肉にもボングは射撃の腕は悪く、以前も一回も射撃教程を受講していなかった。ケニーは却下したものの幕僚に加え、各飛行隊を巡回し教官となるよう手配した。
ボングはミッション出撃も許されその後も日本軍機を撃墜しついに合計40機となったが、ケニーは本人を失うのを恐れ本国帰還させた。その時点でマクガイヤはボングの撃墜記録にあと二機まで近づいていたが1945年1月7日に、機体が失速し地上激突しマクガイヤは死亡した。僚機がとくに戦闘意欲の強い日本軍機に狙われており援護しようとする際の自己だった。
P-38は理想的な写真偵察機だった
長距離性能と双発を生かしたP-38は極東空軍部隊で好まれた機体だった。アーノルド将軍がケニーにP-51生産を優先しP-38生産は終了させると告げると、ケニーは即座にP-51はこれ以上必要ではない、欲しいのはP-38だと告げた。ケニーは元ジェネラルモータース社長ウィリアム・ヌードセンにP-38生産の継続を約束させた。終戦までにP-38は日本軍1何機を撃墜していた。
ライトニング戦闘機型は日本、ドイツを相手に奮戦したが、写真偵察型も重要な役を果たした。開戦初期に陸軍補給部隊はP-38をF-4写真偵察機に改装すべく、機銃を機種からはずし、かわりにカメラを装着した。最初から写真偵察機として生産された機材はF-5の制式名称がついた。
写真偵察機となったライトニングはヨーロッパ、太平洋で重要な役割を果たした。太平洋戦線でP-38初の戦闘ミッションは改装偵察機型によるものでオーストラリアへ派遣された機体による1942年早々のことだった。1944年初めには改良型P-51マスタングがヨーロッパ戦線に登場した。燃料タンク追加により航続距離が大幅に伸びたP-51はヨーロッパですぐ人気の戦闘機となった。ただし、太平洋では話が異なり、P-38が一貫して終戦まで一番人気の高い機材だった。■
この記事は以下を再構成したものです。
What Made the Lockheed P-38 Lightning So Special?
November 26, 2020 Topic: Security Region: Americas Blog Brand: The Reboot Tags: MilitaryTechnologyWeaponsWarLockheed Martin
The Lockheed P-38 Lightning was a Mainstay of U.S. Fighter Squadrons in Europe and the South Pacific.
This article was first published by the Warfare History Network.
Image: Reuters
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