F-5やMiG-21は当時から途上国向けの機体と言われてきましたが、実際の空戦が1970年代に発生していました。機材の性能よりも訓練含む支援体制の質が空の上で大きな結果を生むという事例ですね。日本にも参考となるのではないでしょうか。
Which is Better, the F-5E Tiger II or the MiG-21?
A forgotten African war answered the question
ノースロップF-5EタイガーII、ミコヤン・グレビッチMiG-21のどちらが優秀かとの問かけは数多くあり、答えも多様にあったはずだ。軽量かつ安価で取り扱い容易な両機種は合計で15千機も生産され、最盛期には60カ国以上の空軍が供用し、今でも両機種が稼働している国がある。
- 実は両機種の対戦事例があり、しかも一回だけでなかった。忘却の彼方に過ぎ去ったる戦いの帰趨を決定したのが両機種による初の空中戦だった。
- 1970年代中頃のエチオピアは政治的混迷を深め軍事クーデターで米国寄りのハイレ・セラシ皇帝が排除された。1974年のことで血なまぐさい内戦が三年間続いた。
- エチオピア連邦のエリトリア、オガデン、ティグレイの三州では小規模内乱が全面戦争になり、エチオピアは崩壊一歩手前で軍と治安維持部隊は混乱し、主権維持もおぼつかない状態になった。
- そこでソマリア政府はかねてから狙っていた政治目標「不当に占領されたソマリア領土」の回復で絶好の機会ととらえた。特にソマリア系住民の多いオガデンを第一目標とした。
米空軍の訓練を受けたエチオピア空軍第五飛行隊のパイロットたち。 Photo via S.N.
- ソマリアの戦闘構想は比較的単純でソ連軍事顧問の助けも借りた情報評価に基づきエチオピア軍は簡単に崩壊すると見ていた。
- そこでソマリアは全軍の準備態勢を整え、1977年7月13日に国境を超え侵攻を開始し、地上部隊支援に25機ほどのMiG-17とMiG-21が29機を投入した。パイロット全員がソ連で訓練を受けていた。
- 緒戦成果から情勢評価が正しいことが裏付けられた。二週間をかけずソマリア陸軍機甲部隊はエチオピア陣地を突破し、エチオピア空軍のF-5E一機がSA-7グレイル携帯ミサイルで撃墜され、ハラール飛行場を爆撃しエチオピア航空所属のダグラスDC-3が一機破壊された。またMiG-17二機編隊がエチオピア空軍のダグラスC-47輸送機を撃墜した。
- エチオピアはソマリアと外交関係を1977年初頭に断絶しており、混乱したアディスアババのエチオピア政府はオガデン状況を把握できずにいた。
- 軍は総動員令を発表したが体制整備に数週間が必要でオガデンの陸軍部隊は気が付くと敵に包囲され前線から遠く離れていた。上記C-47はこのためソマリアのMiGに撃墜されたのだ。
- ただしエチオピア空軍は無力化に至っていなかった。1940年代50年代を通じ英国とスウェーデンの助力で誕生した空軍は1960年代には米国から大量支援を受けた。小規模だがエリート部隊で選り抜きの人員がそろい、国内外で訓練を十分受けていた。
オガデンの戦いで始めてMiG-21撃墜を上げたべザビ・ぺトロスはF-5EタイガーIIとソ連MiG-21初の空戦で勝利をおさめたこととなった。 Photo via S.N.
- 中心装備は十数機のノースアメリカンF-86セイバーとノースロップF-5Aフリーダムファイター戦闘機隊だった。1974年までのエチオピアは米国と関係が良好でマクダネルダグラスF-4ファントムを要望したが米政府は代わりにノースロップF-5EタイガーIIを供与した。AIM-9サイドワインダー空対空ミサイルとウェスティングハウスAN/TPS-43Dレーダー二基を搭載していた。
- ところが国内混乱と人権遵守状況を理由にエチオピアへ手渡されたタイガーは1976年の8機にとどまる。しかしソマリアとソ連の戦前予想と異なり、エチオピア空軍パイロットはソマリア侵攻前の数か月を座して待っていたわけではなかった。
- ソマリアが国境付近で軍備増強に走っているとの情報報告を受けて、エチオピア空軍は空戦演習を強化しF-5Eは戦闘哨戒飛行を開始する。こうしてエチオピアのF-5EとソマリアのMiG-21の対戦は不可避となった。
- 最初の対戦は1977年7月24日でタイガー2機編隊が同じく2機のMiG-21を迎撃し、地上誘導でエチオピア編隊二番手のベザビ・ペトロスが初の確認撃墜成果を上げた。F-5EがMiG-21の初の対戦となった。
ラジェス・テフェラは確定4機撃墜でエチオピアF-5Eパイロットでトップとなったが、不幸にもソマリア防空網により1978年9月1日撃墜され、10年間をソマリア刑務所で過ごしたPhoto via S.N.
- 翌日にラジェス・テフェラがオガデンを巡る戦いで最大規模の空戦で大きな成果を上げた。F-5E三機編隊を率いて、MiG-21四機編隊がMiG-17四機編隊を援護するところを迎撃した。
- エチオピア所属のタイガー編隊が現れるとソマリアMiG-21の二機が空中衝突した。うち一機はハルゲイサ航空基地司令が操縦していた。ラジェスは機関砲で三機目を撃墜し、ウイングマンのバハ・フンデとアフェウォク・キダヌが四機目を仕留めた。ラジェスはMiG-17編隊も狙い、二機をAIM-9ミサイルで撃墜した。
- 7月26日にラジェス・テフェラとべザビ・ぺトロスはエチオピアの前線航空基地ヂィレダワに向かうMiG-21二機を迎撃した。今度はべザビがサイドワインダーでMiG一機を破損させ、ラジェスが20ミリ機関砲でとどめをさした。
- 三日後にはバハ・フンデによる初めての撃墜が確認された。この成功でエチオピア空軍隊員は敵の補給部隊を数回撃破し、ディレダワの戦いの勝利に大きく貢献した。この敗北でソマリア軍はオガデン侵攻を1977年8月に停止した。
- この中でアフェウォク・キダヌがMiG-21を一機撃墜したがアシェナフィ・ツァディクが撃墜された。アシェナフィとラジェスはオガデンを巡る戦いで最後となったMiG-21の2機を1977年9月1日に撃墜した。
- これでソマリア空軍は戦力を失った。その後もオガデンで作戦を展開したが、これだけの損害は補充できなかった。エチオピアは空の優勢を確立し、空軍は系統的な攻撃をソマリア軍の補給線に加えた。
- それから一か月もせずにエチオピア国内に突入していたソマリア陸軍は補給を絶たれ、糧食、弾薬、燃料、さらに戦闘車両も不足し、前進できなくなる。エチオピアのF-5Eはこうして決定的な勝利をオガデンで勝ち取り、エチオピア政府指導部がキューバとソ連から支援を得る時間を稼ぎ、エチオピア軍は反攻攻勢をかけソマリア軍をオガデンから1978年4月に駆逐している。
- 戦闘終結後の解析は明白だった。F-5EはMiG-21に優位性を示し、速度だけでなく操縦性が低中高度で優れ、航続距離や搭載兵装も優位だった。
- 米顧問団によるエチオピア向け訓練も質面での優位性を後押しし、訓練内容が現実を反映していたことはソ連教官から訓練を受けたソマリア軍より明らかだった。■
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