The pilot who stole a secret Soviet fighter jet
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- By Stephen Dowling 5 September 2016
1976年9月6日、函館近くの雲の中から一機の航空機が出現した。同機は双発ジェット機だが函館空港でお馴染みの短距離旅客機とは全く違っていた。大型で灰色の機体には赤い星、ソ連のマークがついており、西側陣営で実機を見たものは誰もいなかった。
同機は函館空港に着陸したが滑走路が足りなかった。舗装路を外れ土を数百フィート掘り返しながらやっと停止した。
パイロットは操縦席から出るとピストルで威嚇射撃を二発撃った。空港隣接道路から写真を撮影したものがあったのだ。空港関係者が慌ててターミナルビルから駆けつけるまで数分かかったがパイロットは29歳の飛行中尉ヴィクトール・イヴァノヴィッチ・ベレンコでソ連防空軍所属だと名乗り亡命を申請した。
通常の亡命ではなかった。ベレンコは大使館に駆け込んだのでもなく、海外旅行中に脱走したのでもなかった。機体は400マイルほど飛行しており、今や日本の地方空港の滑走路端に鎮座している。機種はミコヤン-グレヴィッチMiG-25だ。ソ連が極秘扱いしてきた機体だ。ベレンコが来るまでは、だったが。
西側はMiG-25の存在を1970年頃に把握していた。スパイ衛星がソ連飛行基地で新型機が極秘テストされているのを探知。外観から高性能戦闘機のようで西側軍部は特に大きな主力に注目した。
大面積の主翼は戦闘機に極めて有益だ。揚力がつき、主翼にかかる機体重量を分散する効果があり、旋回が楽になる。ソ連ジェット戦闘機はこれに大型エンジン二基を組み合わせたようだった。どれだけ早いのか。米空軍機で対抗できるのだろうか。
同機はまず中東で目撃された。1971年3月のことでイスラエルが観測した奇妙な新型機はマッハ3.2まで加速し高度63千フィートまで上昇していた。イスラエルも米側情報機関もこんな機体は見たことがない。二番目の遭遇例ではイスラエル戦闘機が緊急発進したが追いつけなかった。
11月にイスラエルは謎の機体を待ち伏せし、ミサイルを30千フィート下から発射した。無駄に終わった。正体不明の機体は音速の三倍近くの速度でミサイルからゆうゆうと逃げていった。
ペンタゴンはこの事例から冷戦始まって以来の危機と認識し、問題のジェット機は衛星画像の機体と同一だと判明した。ソ連空軍に米空軍の手に余る機体が出現したのだ。
軍事力の解釈を誤った古典例だとスティーブン・トリンブル(米国版Flightglobal編集長)は語る。「外観で性能を過大評価したようだ」とし、「主翼の大きさと巨大な空気取り入れ口が原因だ。超高速も理解し、操縦性も高いと考えていた。前者は正解だったが後者はハズレだったのです」
米衛星とイスラエルレーダーは同一の機体MiG-25を捉えていた。同機は米側の整備しようとしていた1960年代の機体群、F-108戦闘機から、SR-71スパイ機さらに巨大なB-70に備えようとするソ連の回答だった。各機がマッハ3飛行という共通項を持っていた。
1950年代のソ連は航空技術で飛躍的進歩を示していた。爆撃機ではB-52に匹敵する機体を運用し、戦闘機はほとんどがMiG設計局の作で米側各機に迫る性能を示しながら、レーダーや電子製品はかなり劣っていた。だがマッハ2からマッハ3への進展は難易度が高い課題だ。だがソ連技術陣はこの挑戦を避けることが許されず、かつ迅速に実現する必要があった。
その課題に果敢に挑んだのがロスティスラフ・ベリヤコフ設計主任だった。高速新型戦闘機を飛ばすには莫大な推進力を生むエンジンが必要だ。ソ連のエンジン開発の中心人物トゥマンスキーが回答となるエンジンR-15ターボジェットを完成させていた。新型MiG機にはエンジン二基が必要で各11トンの推力を想定した。
MiG-25は第二次大戦時のランカスター爆撃機の全長とほぼ同じ (Credit: US Navy)
これだけ高速となると空気との摩擦熱量が莫大となる。ロッキードはSR-71ブラックバードをチタン製としたため高価かつ製造が困難になった。MiGは鋼鉄を素材とした。しかも多量に。MiG-25は手作業で溶接して機体を製造していた。
ロシアの軍事博物館各所には退役機が陳列してあり、当時の任務が理解できる。MiG-25は巨大な機体だ。全長64フィート(19.5メートル)で第二次大戦時のランカスター爆撃機よりわずか数フィート短いに過ぎない。これだけ大きいのはエンジン二基を搭載し、莫大な燃料を運ぶ必要があった。「MiG-25は燃料3万ポンド(約14トン)を搭載していました」(トリンブル)
重い鋼鉄製の機体としたことが主翼が大きくなった理由だ。米戦闘機とのドッグファイトには役立たないが、ともかく飛行できる。
MiG-25の設計思想は離陸後、マッハ2.5まで加速し地上レーダーがとらえた目標に接近するというものだった。50マイルまで近づくと機内レーダーが引き継ぎ、ミサイルを発射する。このミサイルも機体の大きさに応じて20フィード(6メートル)ほどの大きさだ。
米ブラックバードに対抗すべく作られたMiG-25には偵察機型もあり、非武装でカメラやセンサー多数を搭載した。ミサイルの重量分と目標捕捉レーダーがないため、機体は軽量となり、マッハ3.2まで加速可能だった。この機体をイスラエルは1971年に目撃していた。
だが1970年代初頭の米防衛トップはMiG-25の性能を知らずにコードネームの「フォックスバット」はつけていた。宇宙空間から撮影の不鮮明な写真やレーダー探知の輝点でしか姿を見られずMiG-25は謎の脅威のままだった。だがすべては現状に不満を覚えるソ連戦闘機乗りがコックピットのハッチを開けるまでのことだった。
ヴィクトール・ベレンコは模範的ソ連市民で第二次大戦終結直後にコーカサス山脈の麓で生まれた。軍務に就き戦闘機パイロットとなった。通常のソ連市民には不可能な役得を伴う仕事だ。
ベレンコの軍人証明書はワシントンDCのCIA博物館に展示中 (Credit: CIA Museum)
だがベレンコには不満があった。一児の父となった彼は離婚の危機にあった。ソ連社会の成り立ちそのものに疑問を抱き始める。またアメリカが本当にソ連政府が言うような悪魔的存在なのだろうか。「ソ連プロパガンダでは皆さんの社会を腐敗社会で没落中としていたのですよ」とベレンコはFull Context誌に1996年語っている。「だが疑問が心のなかに残っていました」
ベレンコは訓練中の新型戦闘機が脱出の鍵だと理解していた。配属先はチュグエフカ空軍基地でウラジオストック近郊だった。日本へはわずか400マイルである。新型MiGなら高高度を高速飛行できるが巨大な双発エンジンは飛行距離が短い。とても米空軍基地までは到達できない。9月6日にベレンコは同僚パイロットと訓練飛行に出かける。両機は武装をつけていない。ベレンコはおおまかな飛行経路を検討ずみ、燃料を満載していた。
洋上に出ると編隊を離れ、単独で日本に向けて航路をとった。
ソ連、日本の軍事レーダー探知を逃れるため、ベレンコは超低空飛行をする。海上およし100フィートだ。日本領空に侵入してから高度を一気に20千フィートに引き上げ、日本のレーダー荷姿を見させた。驚いた日本は国籍不明機へ呼びかけるものの、ベレンコは別の周波数へあわせていた。日本機がスクランブルするが、それまでにベレンコは厚い雲の中を飛行していた。日本のレーダーも捕捉を失う。
この時点でベレンコは勘で飛行しており、離陸前に叩き込んだ地図の記憶だけが頼りだった。千歳基地へ向かうつもりだったが、燃料が底をつきつつあり一番近くの空港に着陸するしかなかった。函館である。
日本はMiG-25が着陸して初めて迎撃対象機の正体を知ることになった。日本はいきなり亡命パイロットを迎えることになった。またジェット戦闘機が残った。西側情報機関が正体をつかめなかった機体だ。函館空港は突如として情報機関の活躍場所となり、CIAは幸運を信じられなかった。
「MiG-25機を分解し、部品を一つ一つ何週間もかけて検分しました。性能の実態を理解することができました」(トリンブル)
ソ連はペンタゴンが恐れたような「スーパー戦闘機」を作っていなかった、とスミソニアン協会航空学術員ロジャー・コナーは述べる。特別な任務の用途で製造されたつぶしの利かない機体だった。
「MiG-25は戦闘用機材として有益な存在でなかったのです。高価で取り扱いが大変な機体で、戦闘では大きな効果は挙げなかったでしょう」(コナー)
問題が他にもあった。マッハ3飛行はエンジン負担が並ではなかった。ロッキードSR-71ではこの問題をエンジン前方にコーンを設けることで解決し、エンジン部品の損壊を防いだ。取り入れた空気をエンジン後部から押し出して推力を増やす狙いもあった。
MiG-25のターボジェットエンジンは2,000マイル時(3,200キロ)を超えると不調となった。それだけの空流は燃料ポンプを圧倒し、一層多くの燃料がエンジンに供給される。同時にコンプレッサーが生む力は膨大でエンジン部品を飲み込むほどだ。MiGの機体そのものが損壊する。MiG-25パイロットはマッハ2.8を超えないよう注意されていた。イスラエルが1971年に追跡した機体はマッハ3.2を出して両エンジンを損壊している。
MiG-25の存在が明らかになり米国は新型機開発を始めた。その成果がF-15イーグルで高速飛行を狙いつつ同時に高度の操縦性を狙ったのはMiG-25の推定性能内容を実現したものだ。40年経ったが、F-15は今でも第一線で活躍中だ。
今になってみれば、MiG-25を西側があれだけ恐れたのは「張子の虎」だったのがわかる。搭載する大型レーダーは米国より数年間遅れた技術のあらわれで、半導体の代わりに旧式真空管が使われていた。(ただし真空管は核爆発で生まれる電磁パルスへは強い) 巨大なエンジン二基には多量の燃料が必要なため、MiG-25は短距離しか飛行できない。離陸は確かに早く、直線飛行を高速にこなしてミサイルを発射するか写真撮影するだけだ。ただそれだけなのである。
ソ連が長年世界から隠してきたMiG-25は部分的に再組み立てされ、船舶でソ連に返却された。日本はソ連に輸送費用並びに函館空港の損傷の弁償費用として4万ドルを請求した。
すぐにそれまで恐れられていたMiG-25にはSR-71を迎撃する能力がないことが判明した。
「MiGとSR-71の大きなちがいのひとつにSR-71が単に早いだけでなくマラソン選手のような存在だという点があります。MiGは短距離選手ですね。ボルトのような存在ですが、マラソン選手より遅いボルトです」(コナー)
成約があったがMiG-25は1,200機も生産された。「フォックスバット」はソ連陣営の空軍部隊の最上級機材とされ、世界で二番目に高速な機体を配備するプレミアム感覚とプロパガンダ効果を期待された。アルジェリア、シリアは現在も運用中とされ、インドは偵察機として25年間に渡りうまく活用してきたが2006年に部品不足のため退役している。
MiG-25のもたらす恐怖感が最大の効果だったとトリンブルも言う。「1976年まで米側は同機にはSR-71迎撃能力があると信じており、SR-71はソ連領空侵入を許されていませんでした。ソ連は自国上空の情報収集機飛行に神経質でしたしね」
MiG-31は MiG-25 の改良型といってよい機体だ (Credit: US Department of Defense)
ベレンコは結局ソ連に帰国せず、米国居住を認められ、ジミー・カーター大統領本人から市民権が与えられた。その後、航空工学技術者として米空軍向けコンサルタントとなった。
本人の軍人時代の身分証明書および日本海上空を飛行中に膝の上で殴り書きした紙幣がワシントンDCのCIA博物館に展示されている。
米F-15が出現したこともあり、ソ連技術陣にMiG-25の欠点を克服した新型機設計を急がせた。トリンブルによればここからMiGのライバルのスホイがSu-27シリーズを産んだという。同機は各種機体へ進化した。こちらのほうこそペンタゴンが1970年台早々に心配していた機体であり、最新型は世界最良の戦闘機だという。
MiG-25の物語はここで完結しなかった。大きく改良されMiG-31が生まれた。性能を引き上げたセンサーを搭載した戦闘きで強力なレーダーと改良型エンジンを搭載した。「MiG-31は基本的にはMiG-25で目指した姿を実現した機体です」(トリンブル) MiG-31は冷戦終結直前で実戦化され、数百機が今もロシアの広大な国境線を守っている。西側筋がMiG-31を観察する機会として航空ショーがあるが、内部構造は堅く秘密が守られている。
MiG-31パイロットで国外亡命しようというものは出ていない。■
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