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★傑作機P-51はこうして生まれた 米陸軍将官の偏屈な思考はどう影響したのか



信じ込むと人間は自らの誤りに気づくのが困難になります。マスタングの成功よりも無駄死にした数千名の爆撃機搭乗員を救うことができなかった上層部の思考の誤りを論じるべきです。しかしどうやって自らの誤りを修正したら良かったのでしょうか。今度戦争が発生すればこんな長期戦は考えにくいので、戦訓から思考を修正する余裕はないはずですが。我々はどんな教訓をこの事例から学ぶことができるでしょうか。

War Is BoringWe go to war so you don’t have to
第二次大戦中のB-17編隊. Air Force photo

Arrogant U.S. Generals Made the P-51 Mustang a Necessity

With better leadership, the iconic fighter plane might’ve been unnecessary

by JAMES PERRY STEVENSON and PIERRE SPREY
第2次大戦でP-51マスタングがドイツ上空で示した功績はよく知られている。当時を象徴する戦闘機となり、高速で高高度を長距離飛行できたため米陸軍航空隊のお気に入りのP-47やP-38よりソーティあたり撃墜機数が多かった。
  1. しかしP-51マスタング誕生の真実はちがう。新型機として困難な初期期間に直面し、燃料増槽が必要なのに却下されて苦悩にさいなまれている。さらに陸軍特有の「外部案件」への敵意をむき出死にする関係者にも悩まされ、発足直後の米空軍の公式記録の内容も真実とは似ても似つかぬものだった。
  2. 第一次第二次大戦間に爆撃機の性能は向上し、複葉戦闘機は時代遅れになた。米陸軍航空隊の爆撃機部隊将官は将来の敵戦闘機が爆撃機を邪魔する事態を頭から認めようとしなかった。
  3. そういった将官は爆撃機が無敵だとの主張を実証しようとした。ヘンリー・「ハップ」・アーノルド中佐は爆撃機論の先鋒でその後空軍参謀総長に就任している。
  4. 「1931年演習が高速爆撃機は高性能を示すとの主張を裏付けたようだった」と歴史家タミ・デイヴィス・ビッドルが著書Rhetoric and Reality in Air Warfare で書いている。「アーノルドの結論は演習の審判官と同様で『戦闘機は爆撃機を迎撃できず航空軍は戦闘機開発に尽力する必要なし』というものだった」
P-51Bの初期型. Air Force photo
  1. 偏狭なこの見方が陸軍の航空戦力整備戦略に組み込まれ、予算論争と終わりのない空軍力をめぐる宣伝戦が始まった。数年のうちに戦闘機を投入した演習や海外での実戦実績から陸軍航空隊将官連中が下した結論の間違いが証明されている。
  2. 「1933年の演習では戦闘機隊は昼間編隊飛行中の爆撃機を55パーセントしか迎撃できず、26パーセントは手付かずのままで...夜間飛行は迎撃率は67%だった」とビッドルはまとめている。「だが防衛側が勝利したとは判定できなかった。戦略爆撃論者は迎撃で機数が損耗する予測を受け入れようとしなかった」
  3. 「結果解析から爆撃機論者は演習ルールを勝手に作り、見たいと思うことしか目に入れなかった。爆撃機による空爆の有効性のみだ。演習ルールは爆撃機に有利となり、審判官は不都合な想定外結果はすべて排除した」(ビッドル)
  4. だが真っ向から異る戦闘実績が入ってくる。1936年7月のことでスペイン内戦が戦闘機の威力がどこまで爆撃に対してあるかを示す好機となり、爆撃機の機関銃に効果がないことが如実に示された。爆撃機が一方的に不利に撃墜される事例がスペインで発生し、次の戦争での米爆撃機の運命が明らかになった。
  5. 「爆撃機編隊の援護機には爆撃機数の二倍以上が必要だ」との主張が陸軍内部から起こったとビッドルは記している。
  6. 米陸軍大佐クレア・シェノートは航空隊戦術教程の主任戦闘機教官として爆撃機にも「古来からの原則としてすべての武器に対抗手段が登場する原則」が適用せざるを得ないと主張。これに対し同じ教育訓練部門の爆撃機論将官はシェンノートを将官昇進から外し、本人は1937年に退官している。
  7. 皮肉にもこのことでシェノートは中国でフライングタイガー隊の訓練と指揮が自由にできるようになった。戦闘機隊が日本爆撃機編隊に素晴らしい戦闘実績をあげたことがシェノートの戦術論の有効性を示している
  8. だが陸軍航空隊の主流はシェンノート構想を無視し、スペイン内戦の結果を客観的に見ようとしなかった。スペイン事例は爆撃機の損失を防ぐには戦闘機援護が必須だと示していた。
米陸軍航空隊が喧伝した「精密爆撃」 Air Force photo
  1. 陸軍航空隊は爆撃機予算を援護戦闘機に回したくなかった。戦闘機の航続距離が短いと爆撃機の運用を制限するとの反対論が出た。
  2. まさしく身から出た錆だといえよう。P-47やP-38は英国に展開してドイツへ向かう爆撃機の援護につこうとした。だがアーノルドは各戦闘機の増槽装着を禁じてこれを不可能にしてしまった。
  3. 増槽はアーノルドが一番大切にする爆弾搭載量を減らす。「1939年2月にアーノルドは52ガロン容量外部投下式増槽のP-36向け開発を中止させている。理由は『安全対策』だった」とトレント・テレンコは述べている。「燃料増槽をつける代わりに300ポンド爆弾が搭載できた」
  4. アーノルドは戦術上の理由付けを試み、1940年4月には自ら設置した陸軍航空隊の将来の優先順位検討会の提言を検討している。
  5. 提言では長距離重戦闘機を優先順位の筆頭に上げていた。四番目が1,500マイル程度の援護戦闘機だった。
  6. アーノルドの信用のために言っておくと本人はこの一番と四番を入れ替え、長距離援護戦闘機を最重要とした。真珠湾攻撃とフィリピン侵攻は戦闘機の航続距離問題をあらためて浮上させている。
  7. 1942年2月20日の会合では「アーノルドは補助燃料タンクの全面的開発を命じた」と米空軍のロバート・エスリンガー少佐が空軍大学校の論文で記している。この決定は日本軍のゼロ戦が軽量落下式増槽をつけて爆撃機を援護し、フィリピンに配備していたB-17爆撃機隊を駆逐して二ヶ月半後のことである。
  8. 残念ながら予算要求の中心は四発爆撃機で、爆撃機中心思想の同将軍は安上がりな増槽への予算手当をしなかったのである。
  9. 八ヶ月後の1942年10月に「...第八空軍からP-47用に投下可能な燃料タンクができないか問い合わせが入った」とウィリアム・エマーソンが述べている。「結局何も回答がなかった」
  10. 「1943年2月に再度要求が来た」とエマーソンは指摘している。「記録ではどんな回答があったのか不明だが1943年6月29日に陸軍資材軍団がやっとP-47用の増槽の最終設計検討会を開催している」
  11. 「1943年8月8日に試作品が数種類完成したものの第一線の使用に耐えるものはひとつもないと同軍団は認めざるを得なかった」
増槽をつけた P-47. Air Force photo
  1. 我慢できなくなった第八戦闘機部隊はイングランドで英国人職工を雇いクラフト紙で増槽を自作した。太平洋地区の第五空軍のジョージ・ケニー大将もスパム缶詰から独自に増槽を作っていた。米陸軍航空隊の制式採用品よりも作りがよかったとのことである。
  2. このことを知ったアーノルドは「ケニー大将が一体どうして自分で増槽を作る必要あるのか理解できない」と記しているとエマーソンは述べている。「同将軍が二ヶ月で開発したのならここ本国では一ヶ月で作れるはずだ」
  3. アーノルドの落ち度は米国製増槽を第一線で戦うパイロットに支給せず20ヶ月を空費したことである。陸軍本省には野戦運用から出る構想を毛嫌いする傾向があり、とくに解決策が安上がりでも驚くほど効果があるとなれば、事態は悲観的だ。
P-47で増槽の有無による作戦半径の違い Air Force art
  1. 第2次大戦を通じ陸軍航空隊は米国一般社会にノーデン照準器による正確な爆撃効果で四発爆撃機がドイツを屈服させたと繰り返し喧伝していた。一般大衆も政治指導者も宣伝を鵜呑みにし、敵戦闘機や対空砲火も効果なしと信じ込んでしまった。
  2. 開戦前から米陸軍は地上軍を送らずに空のみで完全な勝利を実現する方法を検討していた。その中で爆撃機至上主義の将軍連はB-17は無敵で、完全防御可能な空飛ぶ要塞だとし、ドイツ爆撃を一刻も早く実施したいとし、増槽つきの護衛戦闘機が揃うまで待とうとしなかった。
  3. 第八空軍のドイツ本土初空爆は1943年1月27日で、戦前構想と現実の不整合を残酷なとほど思い知らされた。ウィルヘルムスハーフェンではB-17、B-24を90機喪失している。目標を見つけられたのはわずか58機、60%にすぎない。護衛戦闘機はなく、爆撃機搭乗員はドイツ戦闘機を22機撃墜したと主張した。
  4. ドイツの空襲後集計では喪失は7機のみで、戦場での戦果報告が3倍に過剰に報告される歴史上の原則の実証となった。ナチは目標地まで到達した機体のうち3機を撃墜している。これは5%の損失に相当した。
  5. 一見低い撃墜率だが、戦闘損耗率としては看過出来ない実績だった。5パーセントは撃墜喪失であり、帰還できた機体でも損傷があり、11回出撃を続けると機体乗員の半数を失うことになる。
  6. 更に悪いことが重なった。
激しい対空砲火で機首を喪失して帰還した B-17 Air Force photo
  1. イングランド駐在の第八空軍司令アイラ・イーガー大将がドイツ国内奥深くへの爆撃機出撃を護衛戦闘機なしで実施させたのだ。1943年春には毎月80機の爆撃機を喪失し、4月から6月は110機に増加している。
  2. イーカーは動じることなく自らの方針を貫いた。1943年秋になるとシュワインフルトの航空機・ベアリング製造工場へ大規模攻撃を命じ、シュツットガルト自動車工場も標的としたが大損失になった。
  3. 第八空軍は毎回17から19パーセントの爆撃機を喪失しており、搭乗員の損失は1,200名に及んだ。爆撃でドイツ工場の製造は三分の一減ったが効果は数週間しかなかった。
  4. 1943年10月には一週間に渡り集中爆撃を実施、その頂点が暗黒の木曜日と言われた10月14日でシュワインフルトの再来となった。
  5. 今回は米搭乗員の損失はにもっと大きく、作戦が終わると第八空軍は在籍爆撃機の26パーセントを除籍せざるを得なかった。
  6. イーカー配下の爆撃機損耗は高く、三ヶ月で機材が全部交替するほどで明らかにまずかった。三ヶ月で搭乗員全員が生命を失っていたのだ。
  1. 上のグラフでは垂直方向の赤い柱は第八空軍で投入可能な爆撃機数を示し、緑と赤線は爆撃機喪失の累積を示している。ウィリアムソン・マレイのStrategy for Defeat: The Luftwaffe 1933–1945,資料から1943年9月移行は損失分の爆撃機の代替が難しくなっているのがわかる。
  2. 暗黒の10月に戦死した搭乗員は2,030名となり、爆撃機が援護戦闘機なくても任務を完遂できるとの神話が幕を引く形となった。
  3. そこでウィルヘルムスハーフェン初回空襲から暗黒の10月まで数千名が意味のない戦死をしたが、英国内の各基地には戦闘機が多数あり、ドイツ空襲の途中までは護衛にあたっていた。アーノルドの判断で増槽ができなかったことがこれだけの戦死に繋がったといえる。
  4. 暗黒の10月で爆撃機・乗員の喪失は交替能力を超える規模になったのが明らかになると、爆撃機至上主義派の爆撃機防御能力過信の限界が顕になり、イーカーも援護戦闘機なしでの爆撃の実施は諦めざるを得なくなった。
  5. 「シュワインフルト空襲作戦で重爆撃機の単独行動が不可能と認識された」と米空軍史は1955年にまとめている。「1930年代初頭から続いた論争は完全に終わった」「ドイツ国内の目標地に行く爆撃機編隊は再集結を数回して攻撃精神を叩き込んだ」とし、「ただ精神だけではドイツのMe-109やFw-190戦闘機に対抗できなかった
  6. 「第八空軍爆撃軍団の作戦研究部はこう述べていた。『敵戦闘機が我が方損失5件のうち2件を引き起こしている。最終的には10機中7機の損失原因になっている』」
  7. 陸軍は護衛戦闘機なしの空爆を1944年まで中止した。命令はフレッド・アンダーソン大将(第八爆撃軍団司令官)名で1943年10月22日に発布されたと米陸軍少佐グレッグ・グラボウが指揮統制総合幕僚学校の論文でまとめている。
P-38 とP-51の作戦半径の違い. Air Force art
  1. その後二ヶ月に神話劇の万能解決策のようにマーリンエンジンを搭載したP-51Bマスタングが瓢箪から駒の形で12月に登場する。爆撃機の最大行動半径に等しい距離が飛行可能となり、もう一つ重要なことはイーカーの公認にジミー・ドゥーリトル大将が着任している。戦闘機援護の必要を強く信じる将官だった。
  2. 1943年12月11日にP-51B編隊が初の護衛任務に投入され、爆撃機隊をエムデンまで援護した。二日後にマスタング編隊はドイツ海軍基地キールまで480マイルを飛行援護した。P-51Bの護衛が始まると爆撃機損失は直ちに低下した。
  3. ペンタゴンでは「成功すると父がたくさん出てくるが、失敗は孤児を生むだけ」との言い方があるがアーノルドにもあてはまる。
  4. アーノルドは自叙伝を戦後執筆し、P-51を航空隊に採用する決定は自分の功績だと主張している。
1940年にノースアメリカンの「ダッチ」:キンドルバーガーにP-40を英国向けに生産する要請が来た。「ダッチ」はP-40の生産方法が思いつかず、部下の技術陣に同機資料を研究させて、P-40の代替機材を作らせた。資材軍団は特に感銘を受けなかったが、もしノースアメリカが同機を英国向けに製造すれば、米陸軍に無償で二機を提供するよう求めた。
1号機は1940年後半に完成した。生産は1941年中頃まで始まらなかった。(ジェーン航空機年鑑では1941年12月としている)。小官が1941年春に外地に出向くとトミー・ヒッチコックとウィナントの両名からP-51の件を話しかけてきたが、その時点では同機のことは知らなかった。スパーツと小官はノースアメリカ工場へ行き、1月だったか2月だったかともかく1942年早々のことだったが、初めて実機を目にし、この機体は米陸軍に必要と直感したのだが、資材軍団は却下していた
  1. 事実としてマスタング誕生と第二次大戦への投入にアーノルドも米陸軍も洞察力を発揮していない。上記アーノルド自叙伝の文章では重要な点でP-51の出自とのくいちがいがある。ネルソン・オルドリッチのAmerican Hero レイ・ワグナーのMustang Designer ジェフ・エセルのMustang: A Documentary History of the P-51 リン・オルソンの Citizens of London である。
  2. 各研究者の成果からP-51マスタングの進化の様相が細かく判明している。
アリソンエンジンを搭載した初期型のマスタング試作機 North American Aviation photo
  1. マスタングは正しく備えているものに偶然が作用した好例だ。1940年初頭に英政府関係者は英国直接調達委員会を立ち上げ、米レンドアンドリース資金で米産業界から英国が緊急に必要とする兵器類を導入することとした。迅速に調達する必要に迫られていた。
  2. 近接航空支援用戦闘機(英国流では「直協機」)として英空軍用に同委員会は生産中のP-40ウォーホーク導入を決める。だが同機は対地攻撃性能が貧弱とわかった。
  3. だが米陸軍航空隊はP-40はカーティス工場生産分は全機米軍用に必要だと同委員会に告げ、かわりにノースアメリカン航空機のジェイムズ・「ダッチ」・キンドルバーガーに接触し、同社でP-40ライセンス生産できるか調べたらよいと提案した。
  4. キンドルバーガーは配下の主任技師エド・シュムードに検討させる。シュムードはドイツ生まれの帰化市民で、もっと良い設計案を三ヶ月で仕上げてみせると即答。後年、シュムードに戦闘機設計の経験があったのか聞いた研究者があった。「なかったが、チャンスがあればどんな設計にしたいかいつも頭の中で考えていた」と答えている。「これがP-51になった」
  5. 英側はノースアメリカン航空機案を受け入れ、新型機の設計、製造を次の2つの条件で認めた。ひとつ、ノースアメリカンは機材を1941年1月までに納入すること、ふたつP-40と同じアリソンエンジンを搭載すること。
  6. 英委員会は1940年4月10日に契約を承認し、試作機は102日後に完成した。ただしアリソンからエンジン納入が遅れ、初飛行は1940年1月26日になった。
  7. 英空軍向け生産は1941年早々に始まり、英軍はマスタング I の名称をつけた。1942年8月にはRAFマスタング部隊がフランスのディエップへ初出撃し、英仏海峡で敵艦を攻撃している。
  8. 1943年になると米陸軍航空隊がA-36アパッチとしてイタリア戦線に投入したが軽度の対空砲火にも液冷アリソンエンジンの弱点をさらけ出してしまった。
  9. RAFでは試用投入と英仏海峡での空戦結果からマスタング Iには低空域なら空対空戦での可能性があると判断。アリソンエンジンは高高度での爆撃機援護は全く不向きだと露呈した。
  10. それでも初期型の欠点から新型P-51が生まれ、アーノルド、スパーツ両将軍の爆撃任務を助けることになった。ただし両将軍も陸軍内部の調達部門の官僚主義も改良型の同機をアメリカにもたらした功績があるとは言えない。
後期型のP-51マスタング. Air Force photo
  1. 実際の主役は有名な国際ポロ選手のトミー・ヒッチコックだった。社交界政界のコネをつかいP-51をその気のない将軍連や露骨に敵視する陸軍内の官僚組織にたくみに売り込んだのである。
  2. ヒッチコックは裕福なニューヨーク家系の生まれで第一次大戦ではパイロットに志願し敵機を二機撃墜し、捕虜となったものの脱走に成功し、大戦間は優秀なポロ選手として名を馳せ、メロン財閥と縁戚関係になり、スコット・フィッツジェラルド小説のモデルとなった人物で、大戦勃発で再度操縦桿を握りたくてしかたがなかった。
  3. その時点で41歳だったので希望は実現しなかったがロンドンの米大使館で航空武官補となり参戦した。1942年5月1日、真珠湾攻撃からほぼ5ヶ月後にヒッチコックは陸軍少佐として赴任した。
  4. ヒッチコックは第八空軍と英軍、英航空産業界のつなぎ役となった。英国に良い考えがあるとは受け入れられない米国人は多かった。そこでヒッチコックは出所をあきらかにせず英国発の革新的な成果を紹介することとした。ロールズロイスのテストパイロット、ロニー・ハーカーからアリソン、マーリン両エンジンのサイズがほぼ同じだと聞く。
  5. ハーカーはかねてからロールズロイス社にスピットファイヤー戦闘機用のマーリンをマスタング用に使う提言をしていた。ハーカーとヒッチコックはアリソンエンジン搭載のマスタングを操縦して低高度での取り回し性能の高さは認めていた。
  6. ハーカーは同程度の馬力ならマスタングがスピットファイヤより時速で30マイル早いと気づく。航続距離の延長も可能だと気づいた。アリソンエンジンは高高度で馬力不足を露呈したがマーリンは違い、大きな戦術効果が期待できた。
  7. ロールズロイスはマーリン換装マスタングのテストを知らせてきた。ヒッチコックも同じ構想をノースアメリカン航空機に伝えていた可能性はある。
  8. 同時にパッカード自動車がロールズロイスと米国でのマーリンエンジンのライセンス生産の交渉に入っていた。1942年7月25日にノースアメリカンは英国向けマスタングのマーリンエンジン換装を許可した。
  9. アメリカ側はこの機体をXP-78と呼称してすぐXP-51Bに変更している。英国ではロールズロイスエンジン換装は1942年8月12日に了承された。
  10. 同年10月13日に初の換装型マスタングが飛行し最高速度は390マイルから433マイルになり、毎分3,440フィートの上昇性能と外部増槽付きで行動半径2,000マイル超を得た。
  11. 1942年11月30日に今後はノースアメリカンがパッカードのライセンス生産マーリンエンジン搭載機を飛行させ、さらに好成績をあげた。XP-51Bは高度29.800フィートで441マイルと、アリソンエンジン搭載型より時速で100マイル早くなった。
  12. アーノルド自叙伝ではトミー・ヒッチコック大使館付武官にロンドンで1941年春にあったとある。これは不可能だ。ヒッチコックのロンドン赴任は1942年5月だったからだ。
  13. アーノルドの日記でも確認できる。「1942年5月26日火曜日 クラリッジホテルへウィナント大使と出向き、ウィナーと、チェイニーおよび武官を朝食」
  14. 日記では武官とだけあるが、ヒッチコックは1942年5月1日にロンドン入りしており、日記ではアーノルドはヒッチコックの名前をちゃんと記述している。「チェイニー、ウィナントと米戦闘機とくにP-39について話し合い。チェイニーはP-38、P-39でともに性能に疑問、両機種を使う我軍の選択は誤りと断言」
  15. ヒッチコックがマーリンエンジンの件を伝えたのか、ウィンストン・チャーチル英首相がこの件を別の機会に知ったようだ。1942年10月22日にチャーチルはアーノルドに会い、幕僚作成の論点リストを提示し、連合軍航空作戦の改善方向を論じている。そのひとつがマーリン換装P-51だった。
  16. チャーチルは「P-51マスタング戦闘機に適正なエンジン搭載する開発を推奨してきた」とアーノルドは記している。
  17. マーリン搭載P-51の予想性能データをもってヒッチコックは1942年11月にワシントンDCへ戻り、アーノルドを訪ね朗報を伝えている。説明を聞いたアーノルドはP-51には気のない返事しかせず、データは「推定」に過ぎないと退けた。
  18. ヒッチコックは陸軍大将に屈することなく、かつ軍歴の出世を求めていなかったのでアーノルドの上司にあたるロバート・ロヴェット陸軍次官補(航空)に会いに行く。ロヴェットは真剣に耳を傾けたようだ。ふたりとも第一次大戦で航空隊におり、ニューヨークの社交界有力者として息が会い、ポロ仲間でもあった。
  19. 「ロヴェットの強い求めもあり、アーノルドもいやいやながら折れて、P-51Bを2,000機発注した」とオルソンの研究書にある。「だが最優先案件のはずだったが生産に遅れが発生してもアーノルドは対策を命じていない」
  20. 「ロヴェットはアーノルドはあくまでも空の要塞があればよいと考え、戦闘機はあとまわしだったと観察している。だがロヴェットはメッサーシュミットにはこんな制約はないことを指摘している」
  21. 「長距離性能のあるP-51は欧州戦線で一刻も早く必要だった。配備が遅れたのは空軍に責任がある」とアーノルドは自叙伝で述べている。だがこの記述はこう書かないと正確でない。「配備が遅れたのは小官に責任がある」
  22. 陸軍上層部が正しく優先順位付けをしていれば長距離型P-51Bはドイツ上空で控えめに言っても1942年10月の初飛行から9ヶ月後に作戦投入可能だっただろう。
  23. 機材があれば第八空軍は壊滅的損傷を爆撃機、乗員双方で1943年夏秋に避けられていたはずだ。アーノルドもこんな風に回想できていただろう。「P-47が増槽をつけずドイツ奥深くへ侵入した爆撃機に随行するのが大幅に遅れたのは小官に責任がある」
  24. アーノルドの思考のため増槽開発が1939年に止まり、1943年に数千名の爆撃機搭乗員が援護戦闘機無しで生命を落とした。必要のない虐殺であり、遅きに失したが1944年に増槽が利用可能となり、長距離P-51Bが登場し解決されたのである。■
James Perry Stevenson is the former editor of the Topgun Journal and the author of The $5 Billion Misunderstanding and The Pentagon Paradox.
Pierre M. Sprey is a co-designer of the F-16 fighter jet, was technical director of the U.S. Air Force’s A-10 concept design team, served as weapons analyst for the Office of the Secretary of Defense for 15 years and has been an active member of the military reform underground for the last 35 years.


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★★真偽は?日本もUCAVを開発していた

日本にもブラック事業がある(あった)のでしょうか。映像公開したのは機密解除になったのか、事業がもっと先に進んでいるからでしょうか。各務原での目撃がないことから別の場所で秘密裏に開発されたのでしょうか。川崎重工関係者は口がさけても語れないと思いますが、事実なら日本もUAV-UCAVを開発していることがわかりますね。判断は読者の皆さんにおまかせします。This is the combat drone Japan has been building in secretこれが秘密裏に開発していた日本の戦闘無人機だ 川崎重工ブースのビデオでUCAV試作機の飛行状況を写していた (Photo by Harold Hutchison) By Harold HutchisonOct. 06, 05:10 AM http://www.wearethemighty.com/news/this-is-the-combat-drone-japan-has-been-building-in-secret
無人戦闘航空機、つまりUCAVはこれからの軍事航空のカギを握ると言われる。米国、ロシア、フランスが開発中と判明している。 だが本誌We Are The Mighty (以下WATM)はこのたび日本も秘密裏にUCAV開発を進めていたことを知った。 ワシントンで先ごろ開催された空軍関係のイベントでWATMは川崎重工業のブースでビデオ画像を見た。それは同社によるUCAV研究開発の様子で、画像内のUCAVはボーイングX-45やノースロップ・グラマンX-47に似ているようだった。 会場で詳しく聞こうとしたが、同社係員が日本政府の意向だとしてやんわりと断ってきた。翌日も別の係員はこの件は存じていないと答えてきた。 結局三番目に会った川崎重工の小林タクミ氏が「試験機で10年近く前のもの」とし、「防衛省予算による実験事業だった」と説明してくれた。同氏はさらにメールで「2008年ごろのプロジェクト」と述べている。 WATMが当時空軍の筆頭参謀次長として情報監視偵察分野を担当し現在は航空宇宙研究にあたるミッチェル研究所の所長をしているデイブ・デプチュラ退役空軍中将に日本がUCAV開発をしていた事実を知っているか聞いたところ、即座に「知らない」との答えが返ってきた。 このことから日本のUCAVは秘密のベールに隠されていたことがわか…