歴史のIF(5)----B-52が初飛行したときに生まれている人がこれから減っていきますが当の同機は2050年代まで稼動するとは恐れ入ります。米国としても投資効果が史上最高の機体になりますね。ではそのB-52が生まれなかった世界はどうなっていたでしょうか。
The Air Force Would Have Serious Problems if the B-52 Bomber Never Happened B-52がなければ米空軍は大変な状況だったはず
August 23, 2018 Topic: Security Blog Brand: The Buzz https://nationalinterest.org/blog/buzz/air-force-would-have-serious-problems-if-b-52-bomber-never-happened-29557
ボーイングB-52ストラトフォートレスは1955年以来米国の国防最前線で飛び続けている。当初はソ連への戦略核兵器投下が役目だったが、ソ連崩壊後もミッションを実施している。
これまでミッションの範囲が広がり、ヴィエトナムでは通常爆弾で戦略爆撃を、ソ連海軍には対艦攻撃を、イラク軍には通常弾で阻止消耗攻撃を、その他テロ対策で破格主任務もこなしてきた。現時点ではB-52はB-1BやB-2退役後も供用され、また初飛行時に生まれていない人が大多数となっているが2050年を過ぎて最終的に退役する予定だ。
だがそのBUFFが米空軍とその他軍の間で繰り広げられた調達をめぐる争いに敗れていたらどうなっていただろうか。
米空軍さらに米軍全体としてB-52が生まれなかった場合の穴をどのように埋めていただろうか。
第二次大戦終結してほどない時期に爆撃機構想が多数生まれた。米陸軍航空軍(まもなくUSAFになった)は戦時中はB-29生産に集中するため新型爆撃機の開発を凍結していた。
ジェット推進方式や核兵器の登場で調達そのものに変化が生まれ、ピストンエンジン方式のコンベアB-36ピースメーカーが大陸間戦略爆撃機として唯一の存在だった。だがB-36の開発開始は1940年代初頭でドイツ攻撃を念頭においた機体でジェット時代についていけないのは明白だった。このためUSAFにはピースメーカーを整備しながら並行して新型機開発が必要だった。その後B-52になった機体の原型は1945年末に設計図としてあらわれた。
B-36, Wikipedia
B-52設計案はその後二年間で大幅変更を受け、直線翼のピストンエンジン爆撃機から後退翼ジェットエンジン爆撃機になった。だが1947年12月にキャンセルになるところだったのはコスト超過とともにエンジンで不安が生まれたためだ。その他数社も実用化はともかく代替提案を示し、ストラトフォートレスの生き残りは疑問視された。
B-52がキャンセルされていればUSAFは苦しい立場に追いやられていただろう。
B-36は初号機が工場を出た段階ですでに陳腐化しており、短距離しか飛べない戦闘機を爆弾倉に搭載するなど対策が必要となっていた。ソ連迎撃機はピースメーカーをやすやすと餌食にしたはずで、このためカーティス・ルメイ司令官は朝鮮戦線への同機投入をためらった。
USAFには中距離爆撃機としてボーイングB-47ストラトジェット、B-50(B-29改良型)があった。それぞれ航続距離やペイロードに制約があったが、海外基地の利用や空中給油によりソ連国内の目標への到達は可能だった。コンベアB-58は1960年に供用開始となったが、総合的に及第点しか取れない機体だった。つまりピースメーカー後の中距離爆撃機では戦力不足だったろう。
YB-60 Wikipedia
USAFはB-60に期待したかもしれない。コンベアがB-36をジェット推進式にした機体でB-36と機体に共通点が多々あった。機体の大きさや操縦性の不足などだ。B-60はB-52より爆弾搭載量が大きいものの速力が低かった。史実ではB-60は試作機一機が初飛行したが不採用となった。B-52がそれだけ期待にこたえる存在だったためだ。ただしB-60はB-36と部品多数を共用していたためストラトフォートレスより低価格になるはずだった。
だがB-60ではソ連がSA-2地対空ミサイルを稼動させた後の状況に適合するのが大変だったはずだ。機体の大きさのためB-52でその後実現した低空侵入飛行ミッションは苦手で、電子装備を搭載する余裕が機内にあったことは利点となっただろう。総合すると空軍がB-60を長期稼動させていたとは考えにくい。
空軍はB-70推進に傾いた。国防総省がB-70をキャンセルしたのはソ連の防空技術の進展が理由だったが、B-52が満足できる結果をだしていたためもある。戦略爆撃機で穴が開いていればB-70が実現した可能性は高かっただろうが、SAMや高速迎撃機の存在は大きかった。B-70にはB-52並の柔軟性が欠如していたため、BUFFと同じミッションの実施は容易でなかったろう。
USAFが外国機材調達に傾いた可能性がある。USAFはイングリッシュエレクトリック製キャンベラをマーティンにB-57としてライセンス生産させ1950年代の中型爆撃機不足を補ったが、米企業の設計案不足をそのまま英国機でカバーしたとは思えない。ただしアヴロ・ヴァルカン、ハンドレページ・ヴィクター、ヴィッカース・ヴァリアントにはそれぞれ米国中型爆撃機にはない長所があったし、ペイロードはB-52やB-60に匹敵するものがあった。
さらに空軍は核兵力整備では弾道ミサイル開発に努力を振り向けていた。有人爆撃機に対して弾道ミサイルには大きな利点があり、USAFの組織文化を変えていった。ソ連の統合防空体制が整備されたことでUSAFもミサイル依存を高めていき、当然その他装備の調達に影響が出た。
B-52はその他の爆撃機でできなかった仕事をこなしていった。ミサイル時代でも十分役割を果たしており、長距離低空侵攻戦略爆撃機として、大量通常爆弾の搭載機として、その他長距離軍用機として活躍した。B-52後継機の中で同様の働き振りを示した機材はない。
B-52が存在していなければヴィエトナム戦の余波で生まれた戦闘機出身将官の興隆で戦術機材重視の流れがいっそう強まっていただろう。B-60あるいはB-70(またはその双方)が第二次大戦同様の編隊飛行でハノイをラインバッカーII作戦で爆撃していたら当惑する結果になっていたはずで、爆撃機至上主義者でさえ勘弁してほしいと思う事態だっただろう。1970年代に入りネット評価が実用化されて戦略爆撃機部隊に新しい意義が生まれたとはいえ、爆撃機推進派は依然として強力でB-1Bを実現させている(あるいはその前身のB-1Aも供用されていたかも)が、B-52不在で生まれた穴の多くはミサイルや戦闘機が埋めていただろう。
米国がB-52調達に向かわなかった可能性を考えるのは困難なほどだ。ただしその場合は空軍全体や国防総省に波及効果が生まれいたはずだ。B-52が通常型核運用の双方で使えなかったら空軍の姿も変わっていたはずだ。B-70ヴァルキリーが今も供用中だったかもしれない。B-1Bランサーは生まれていなかったかもしれず、B-60が形を変えながら今も供用されていたかもしれない。■
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