スキップしてメイン コンテンツに移動

朝鮮戦争での航空戦の教訓は今日に特に有効だ。(現状は朝鮮戦争開始前の準備不足の状態に極めて近い)

 

温故知新。現在の米空軍の状況は朝鮮戦争開戦前の状況と似ているとの指摘で、ミッチェル研究所幹部が今、中国との大規模航空戦が戦えるのか検討しています。Air and Space Forces Magazineに転載された論文のご紹介です。

朝鮮戦争でこのC-47のような損傷機は、部品取りに使われた。部品や整備、航空機の不足を理由にした出撃制限は、朝鮮戦争で起こったように、大きなリスクをもたらす。今日戦争が始まれば、人員や機体の不足を補う時間はない USAF




第二次世界大戦後の軍縮で、米空軍は準備が不十分だった。今日との類似点には啓発されるものがある


朝鮮軍は1950年6月25日(日)午前4時に38度線を越え韓国に侵入し、世界の安全保障環境を根本的に変えた戦争が始まった。韓国とアメリカの陸上部隊は不意を突かれたが、航空戦力がパニック状態の後退を効果的な反撃に転換させた。航空戦力は、戦略、作戦、戦術の各レベルで主要手段となり、地上軍だけでは実現できない航空優勢、空対地攻撃、近接航空支援、偵察、指揮統制で機動力を発揮した。最終的には、航空戦力で国連軍は敵対行為を終了させることができた。

 しかし、航空部隊は作戦用機材の不足など、厳しい課題の克服を迫られた。前線投入された航空機の多数は第二次世界大戦時の機材で、メンテナンス問題で稼働できないことが多かった。さらに、朝鮮半島に適切な飛行場がなく、日本からの飛行が必要となり、航続距離が極限まで伸びた。また、ロシアとの戦争になることを懸念し、主要な敵戦力を標的にできないため、司令部の決定は複雑になった。一方、地上部隊の指揮官は、航空戦力をどう活用するのが最善かについて、航空指導者と衝突した。

 空軍は、老朽機の在庫、十分な空軍基地の利用可能性、訓練能力の不足、航空戦力の最適な活用方法に関する共同司令部との意見の相違など、一連の課題に対処しようとしており、これらの経験は今日でも関連性がある。


Download the entire report at http://MitchellAerospacePower.org.

No Bucks, No Air Power

North Korea’s invasion of the South was a surprise to the United States and its allies, who were not ready to fight so soon after World War II. Massive disarmament efforts had slashed the U.S. Air Force active aircraft inventory 82 percent from its peak in WWII to 1950. A mere 2,500 jets of all types populated Air Force ramps, and the rest were predominantly WWII leftovers of dubious technological relevance. Air Force manpower and budgets had been slashed, squeezing training pipelines, spare parts inventories, maintenance depots, and logistics lines. Everything was in short supply. 

The Cold War was now well underway. Air operations over Korea ranked behind Cold War activities as national concerns, and leaders prioritized maintaining sufficient reserves in Europe to deter and, if necessary, fight a war against Soviet forces. The same held true for defending the continental United States. The Air Force was now too small to concurrently meet the nation’s requirements. 

The motley collection of aircraft in theater at the start of the war included 657 airplanes: F-80 jet fighters, F-82 Twin Mustang propeller-driven interceptors, B-29 and B-26 bombers, plus C-54 and C-47 WWII-era transports. USAF’s Far East Air Force (FEAF), the command responsible for air operations over Korea, asked for more aircraft, but too often spares did not exist or were not readily accessible. Airmen were left to improvise with was available. To meet the demand for more F-80s, early models lacking key combat capabilities had to be rapidly upgraded and deployed. 

In March 1951, FEAF commander Gen. George E. Stratemeyer wrote to Gen. Hoyt  S. Vandenberg that he was losing F-80s so quickly that new types, like the F-84, had to be rushed to Korea to sustain operations. One month later, FEAF lost 25 P-51s, 13 F-80s, and 2 F-84s to ground fire. Strategic Air Command, worried that F-84 crews were losing bomber escort proficiency for the nuclear deterrence mission, withdrew their F-84s later that year, further squeezing the force. Backfill fighter aircraft were receiving just a 10 percent attrition reserve, rather than the 50 percent required for a combat unit. 

Shortages affected everyone. In August and September of 1951, B-26 squadrons lost 11 aircraft, but the Air Force had no combat-ready replacements available, and no production line to produce new planes. Desperate to offer combat units a solution, Air Force leaders deployed B-26s without required operational capabilities. 

A pilot shortage contributed to the troubles. The A-26 training pipeline produced only 45 crews per month, too few to overcome FEAF attrition that demanded 58 to 63 crews a month. FEAF air commanders had to limit A-26 sortie rates, matching not what combat requirements demanded, but what crew and aircraft backfills could sustain. 

Parts shortages further degraded sortie rates. Production lines had long since closed for WWII-era aircraft, so there was no ready source of component parts. By January 1952, the F-86 mission capability rate was just 45 percent. Spare parts supplies were programmed at peacetime, not wartime rates, forcing planners to ration flight hours to what they could sustain. 

Rapid technological development ratcheted up the pressure. Air Force pilots challenging communist opponents over MiG Alley along the North Korea-Manchurian border began the war flying propeller-driven and early jet aircraft. But on Nov. 1, 1950, Chinese pilots flying Soviet MiG-15s squared off against U.S. aircraft over the Yalu River. “Almost overnight, communist China has become one of the major air powers of the world,” Vandenberg declared.   Air Force leaders had no choice but to deploy their newest fighter, the F-86 Sabre. 

The first F-86 engagement against MiG-15s followed just weeks later, on Dec. 17, 1950, and for the rest of the war, the U.S. Air Force would struggle to keep enough F-86s in the Korean theater to control the skies. F-86s were often outnumbered by MiG-15s three or four to one, even by accelerating F-86 production with added manufacturing capacity in Canada. 

予算なければ、航空戦力もない

 北朝鮮の南侵は、米国と同盟国を驚かせたが、第二次世界大戦後すぐ戦える状態ではなかった。大軍縮で、アメリカ空軍の航空機保有数は第二次世界大戦のピーク時から1950年までに82%削減された。ジェット機は2,500機しかなく、残りは効果が疑わしい第二次世界大戦の残り物だった。人員と予算は削減され、訓練のパイプライン、予備部品の在庫、整備工場、物流ラインは圧迫された。すべて不足していた。

 冷戦はすでに始まっていた。朝鮮半島の航空作戦は、国家的な関心事として冷戦の下に位置づけられ、指導者たちはソ連軍を抑止し、必要であれば戦争を遂行するためヨーロッパに十分な予備兵力を維持する方を優先させた。米国本土防衛についても同様だった。空軍は、国家の要求を同時に満たすには、小さくなりすぎていた。

 開戦時、戦場にあった航空機は657機だった。F-80ジェット戦闘機、F-82ツインマスタングプロペラ迎撃機、B-29とB-26爆撃機、そしてC-54とC-47第二次世界大戦時代の輸送機である。朝鮮半島での航空作戦を担当する米空軍の極東空軍(FEAF)は、航空機増産を要求したが、スペアが存在しない、あるいは容易に入手できないことがあまりに多かった。予備機がなく、入手しにくいことが多く、航空隊員は手持ち機材で即席対応を迫られた。F-80の増産要求には、戦闘能力を欠いた初期モデルを迅速にアップグレードし、配備する必要があった。

 1951年3月、FEAF司令官ジョージ・E・ストラテマイヤーは、ホイト・S・バンデンバーグ将軍に、F-80があまりにも早く失われたため、F-84含む新型機を韓国へ急行させ、作戦を維持しなければならない、と書き送った。1ヶ月後、FEAFはP-51を25機、F-80を13機、F-84を2機、地上戦で失った。戦略空軍は、F-84搭乗員が核抑止任務の爆撃機の護衛能力を失っていることを懸念し、同年末にF-84を撤退させ、戦力をさらに縮小させた。後方支援戦闘機には、戦闘部隊に必要な50%ではなく、10%の消耗予備費が与えられるだけであった。

 不足はすべてに影響した。1951年8月と9月、B-26飛行隊は11機失ったが、空軍には投入可能な代替機がなく、新しい飛行機を生産するための生産ラインもなかった。空軍指導層は、戦闘部隊に解決策を提供することに必死になり、必要な運用能力がないB-26を配備してしまった。

 パイロット不足も問題を大きくした。A-26訓練課程は月に45人しか排出できず、月に58から63人を必要とするFEAFの消耗を克服するには少なすぎた。FEAFはA-26の出撃率を制限しなければならず、戦闘要求より、乗員と機材補充に合わせなければならなかった。

 部品不足がさらに出撃率を低下させた。第二次世界大戦時の航空機の生産ラインは長く閉鎖されていたため、構成部品をすぐ調達できなかった。1952年1月までに、F-86の作戦遂行率はわずか45%であった。予備部品の供給は戦時中のレートではなく、平時レートで計画されていたため、計画者は飛行時間を維持可能な範囲に割り当てることを余儀なくされた。

 さらに、急速な技術開発がプレッシャーとなった。北朝鮮と満州の国境に沿ったミグ・アレイで共産主義の敵に挑む空軍パイロットは、プロペラ機と初期型ジェット機で戦争を始めた。しかし、1950年11月1日、ソ連のMiG-15に乗る中国パイロットが鴨緑江上空で米軍機と対決した。「一夜にして、共産中国は世界の主要な航空大国の1つになった」とバンデンバーグは宣言した。 空軍のは、最新鋭の戦闘機F-86セイバーを配備するほかなかった。

 F-86がMiG-15と初めて交戦したのは、数週間後の1950年12月17日である。その後、アメリカ空軍は韓国戦線で空を支配するためF-86を十分な規模で維持するのに苦労することになる。F-86は、カナダでの製造能力を加え生産を加速しても、3、4対1でMiG-15に劣勢に立たされた。

 第二次世界大戦後、飛行予算が削減され、新しいパイロットは必要な飛行訓練を受けられなくなった。戦闘能力は低下した。航空機が不足していたため、非戦闘的な任務はほぼ不可能になった。

 航空戦のシステム全体が大きくバランスを崩し、航空兵は命をかけて犠牲になった。しかし、航空優勢を失えば、戦争の全側面に深刻なリスクが生まれる。国連軍地上部隊は無差別空爆を受けることになる。敵の兵站線に対する攻撃任務が維持できなくなる。沖合で活動する海軍部隊は、さらに沖合への退却を余儀なくされる。勝つために飛んで戦うのではなく、生き延びるために航空兵力を管理すれば、危険なリスクを伴う。もしこれらの作戦が同程度の戦力を有する勢力の脅威に対するものであったなら、破滅的な結果になっていたかもしれない。



基地なくして航空戦力なし

 共産主義軍が南部に侵攻開始したとき、地域には10箇所の主要飛行場があったが、ほとんどは修理不十分な第二次世界大戦の遺物だった。水原と金浦の2カ所だけが、コンクリート滑走路だった。他は砂利、土、芝生の飛行場で、ジェット機は対応できない。戦闘技術者も不足していた。FEAFは、士官定員4,315人のうち、半分強の2,322人しか充足できなかった。時代遅れの装備が仕事を難しくしていた。部隊をフル稼働させるのに1年以上かかり、人材の育成にも時間がかかった。

 第二次世界大戦中の原始的な滑走路を穴を開けた鉄板で覆ったのは、改善だった。しかし、F-51、B-26、C-47などピストンエンジン機の基本運用は可能である。1951年春、大邱の桟橋滑走路はノンストップの離着陸でボロボロになり、全面改修のため閉鎖せざるを得なくなった。

 補給線と整備も大変だった。金浦飛行場の第51戦闘機群は、毎日6万ガロンの燃料を消費していた。ハンガーがないため、整備兵は多くの機材を木箱に保管していた。第49戦闘航空団は大邱で活動していたが、F-80を大がかりなオーバーホールのために日本へ送っていた。

 多くの戦闘機が日本から700マイルを飛行していたため、有効な任務遂行時間は事実上、数分に短縮された。日本から韓国への移動だけでF-80の飛行運用の85%を占め、戦闘に使える時間は15分しかなかった。日本から発進したF-84が前線で近接航空支援を行えるのは30分であった。しかし、韓国基地から発進したF-86は、北朝鮮と満州国境に沿うミグ・アレイ上空を25分間飛行するのが限界だった。ミグパイロットはこの制限を知っており、それを利用した。

 北朝鮮戦闘機も米軍基地を攻撃できる範囲にいた。開戦日、C-54が北朝鮮の戦闘機の空爆で破壊され、1950年秋には前線航空基地でP-51が11機破壊された。空襲は戦争が終わるまで続いた。


朝鮮戦争時、韓国の水原基地で戦闘準備をするノースアメリカンF-86セイバー戦闘機。穴のあいたスチールマットに注目。スチールマットのおかげで、一部の航空機は韓国基地の劣化し朽ち果てた滑走路をうまく使えた。 USAF



航空戦中心のリーダーシップ 

 朝鮮戦争では、空軍と地上指揮官の間で、航空兵力をどのように活用するのが最善かで、見解が分かれた。地上軍司令官は、最前線の敵軍に航空兵力を集中させることを好んだ。一方、航空指導者は、戦略・戦術目標に焦点を当て、攻撃対象の敵領土を拡大しながら北方にまで関与しようとした。

 各軍の見解は、部隊司令官に表現された。極東航空部隊、極東海軍部隊(NAVFE)、極東陸軍部隊(AFFE)の各司令官が、各軍の意見を代表していた。しかし、総司令官ダグラス・マッカーサー元帥は、陸軍司令官、国連軍司令官、極東軍司令官(CINCFE)を加えた3つの肩書きを持つという前例を作った。空軍と海軍の指導者は従属的な地位に置かれることになった。マッカーサーは陸軍士官を中心に幕僚を構成した。朝鮮戦争に関する空軍の公式見解は、総司令部(GHQ)を「本質的に陸軍幕僚」と評しているほどである。「航空、海軍、陸軍士官の共同代表を欠いていたため、GHQスタッフは朝鮮における航空戦力の最も効率的かつ適時な運用を達成できなかった」と公式歴史に書かれている。

 陸軍は、戦争の初期段階から大きな影響力を発揮して航空戦力運用を指揮した。航空隊員は、より有利な北方の目標がほとんど守られていないときでさえ、最前線に任務を集中するよう命じられた。開戦から数週間は、敵の兵站線、補給基地、航空基地、その他の重心が米軍の航空攻撃によって脅かされることはなかった。航空隊が38度線以北の目標を攻撃する権限を得たのは、敵対行為が始まって丸1カ月後のことであった。

 空軍、海軍、海兵隊の航空機が同じ領土を飛行し、戦っていたため、正式な調整もなく、当初は自軍中心の指揮であった。実際、朝鮮半島沖を航行する航空母艦が無線封印を主張したため、開戦当初の数週間にわたり、空軍は海軍指導者と話すことさえできなかった。航空戦力の要請を管理するため、CINCFEスタッフは「ターゲットグループ」を組織したが、航空戦力の戦略・戦術のバックグラウンドを持たない陸軍スタッフがほとんどの席を占め、海軍と空軍の各代表を封殺するのが常であった。

 しかし、1952 年にマーク・クラーク大将が国連軍司令部兼 CINCFE に就任して、最初に行ったのは、本部幕僚における各軍代表のバランス調整だった。「陸軍プロジェクトではなく、3軍の共同作戦であるべきだ」と彼は言った。 また、陸軍から共同作戦原則を攻撃されると、共同作戦による解決策を提唱した。陸軍の指導者の中には、クラークのアプローチの背後にあるメリットを理解する者もいた。ウォルトン・ウォーカー将軍は、「海兵隊航空部隊による支援は、よく耳にし、読まれている。しかし、それを主張する人たちが座って、近接航空支援だけに航空部隊を供給するコストを計算したら、我々が持つべき規模の軍隊にその比率で供給したら、彼らは驚くだろう」。 

 このような教訓は第二次世界大戦中に既に得られていたのだが、朝鮮半島で再浮上したのである。


主要な戦闘能力を欠いた初期型F-80は、米空軍の戦闘機ニーズに合わせて急速に改良され、配備された National Museum of the U.S. Air Force


朝鮮戦争の教訓を今日に生かす

 70年後の今日、朝鮮戦争の経験は、太平洋における中国の脅威の文脈で、意味がある。当時も今も、空軍は深刻な資源難に直面している。

 冷戦後、空軍予算は大幅削減された。1989年度から2001年度にかけて、調達費は52%減少し、他軍より20%近く多かった。9.11以降、空軍予算は、統合司令部の航空戦力への要求に追いつけなくなった。アフガニスタンやイラクで急増した情報、監視、偵察などの新しい共同任務に資金が必要であった。

 空軍は、兵力全体を縮小する一方で、遠隔操縦機の大規模部隊を獲得し、運用した。そして、2019年に宇宙軍が創設され、空軍は新しい軍事組織を立ち上げる新たな任務を負ったが、すべて既存の予算枠の中で行われた。

 同時に、空軍省予算が他機関に直接渡されるパススルー支出も増え続けた。現在、年間予算のうち400億ドルが国防総省の他省庁に割り当てられている。これらだけの予算はF-35を約400機購入するのに十分であるが、空軍省はこれら流用予算の使途で何の発言権もない。

 1950年と同様、今日の空軍はの縮小版であり、史上最も古く、最も少ない航空機の在庫を運用している。爆撃機のは現在141機で史上最低、戦闘機は2016年に史上最低を記録し、回復し始めたばかりだ。5,625機という総軍の航空機在庫は、40年前の半分以下の規模。

 機動性、指揮統制(C2)、情報・監視・偵察(ISR)用機材の在庫も同様に脆弱だ。ステルスのような重要機材は不足し、敵のレーダーを回避でき可能なのは戦闘機の20%、爆撃機の13%に過ぎない。部品の入手可能性は任務遂行能力に直結するにもかかわらず、予算削減の対象とされることが多く、スペアパーツ確保も問題である。パイロット不足もまた、空軍を悩ませている。必要条件と現実のギャップを埋めるだけのパイロットを迅速養成するための訓練機材と飛行時間が不足している。また、ベテラン整備士の不足も、70年前の朝鮮戦争直前と同じ状況だ。

 空軍は、太平洋で再び戦闘になった場合に備え、米軍をよりよく準備させるための新しい作戦概念に投資し、実験中だ。アジャイル戦闘配置(ACE)のようなコンセプトは、より大きな作戦基地から分遣隊を前進させ、分散させ、柔軟で予測しにくくするねらいがあるが、新しい要件を満たすため進化が必要な兵站と維持に関する問題の解決に依存する。70年前の朝鮮半島で航空兵が直面した厳しい環境は、今日ACEで航空兵が直面する環境とさほど変わりがないが、現在はより広い地域で、第5世代の感知・攻撃能力で武装した、より高度な敵に相手に活動する予想だ。

 その中で、韓国で起こったような部品や整備、航空機の不足を理由にした出撃制限は、以前より大きなリスクとなる。戦争が始まれば、人員や航空機の不足を補う時間はない。新しいパイロットの訓練や新しい航空機の製造に必要なスケジュールは、数カ月ではなく、数年、数十年で測られる。初日から戦い、勝つための態勢を整えていない指揮官は敗北の危険がある。

 朝鮮戦争時のリーダーシップ問題は、今日見られるパターンと似ている。インド太平洋軍、中央軍、韓国軍の統合司令官を務めた空軍将校は一人もいない。南方軍を指揮した空軍士官も一人だけである。トッド・D・ウォルターズ大将は7月に退任し、欧州軍をクリストファー・G・カボリ陸軍大将に引き継いだが、同軍が創設されてからの70年で空軍出身は4人だけだった。空軍の統合参謀本部議長は、2001年から2005年まで務めたリチャード・B・マイヤーズ大将以降皆無だ。マティス元海兵隊大将、マーク・エスパー元陸軍中佐、ロイド・オースティン元陸軍大将(現国防長官)と、過去3人の国防長官がいずれも陸軍を退官しており、長官職も陸軍中心になっている。これは、1950年の朝鮮半島の状況と類似している。

 統合とは、全員が各任務分野に関与することを意味しない。各領域の重心を開発し、それらがどの領域から発生したかに関係なく、望ましい戦略的効果を最もよく達成できるメニューを組み立てる統合司令官に対して、価値を明確に説明できるようにすることである。

 AFA のミッチェル航空宇宙研究所の所長デビッド・デプテュラ中将(退役)は、次のように説明する。「米国と同盟国は、共同作戦を行うために、別々の部隊を必要とする。米国と同盟国が共同活動するためには、それぞれの領域で活動する利点を最大限に活用できる方法を軍人が理解することが不可欠である。自分の所属部隊の長所や価値を明確にすることが、まさに 『統合』なのです」。空軍のリーダーが主要な統合司令部を率いることがないため、空軍は控えめな地位に追いやられている。このことは、将来の紛争に対する投資や態勢に影響を与え、不注意に戦略を導いてしまうことになる。例えば、長距離攻撃について考えてみよう。陸軍は、統合能力を活用した解決策を開発するより、独自の弾薬、発射機、C2ISR 構 築など、完全に有機的な長距離打撃解決策に投資している。同様に、宇宙軍は、空軍と海軍の宇宙資産をほとんどすべて吸収したが、完全な統合になっておらず、陸軍は重要な有機的宇宙能力を保持している。

 最後に朝鮮半島で航空兵が直面した限定戦争の問題は、特に米国とその同盟国が中国に特化した新たな競争の時代に焦点を当てているため、今日の空軍指導者が検討すべき非常に有益な領域で参考になる。軍の指導者は、関係者を考慮して、望ましい結果を達成する手段を備えているかを慎重に検討しなければならない。

 米国がアフガニスタンとイラクで学んだように、戦略目標と現地住民間に根本的な断絶があれば、優れた軍事力も意味をなさなくなる。朝鮮戦争で米国が不完全ながらも有利な結果を得られたのは、国連、米国、韓国国民が目標を共有したからである。このような連携は、作戦の成功の基礎であるが、アフガニスタンとイラクでは根本的に欠けていた。

 2018年、ヘザー・ウィルソン空軍長官(当時)はこう宣言した。「国家防衛戦略では、大国間競争の時代に戻ったことを明確に認識している。我々は準備しなければならない」。

 この呼びかけは、それ以来、空軍のすべての指導者が繰り返しているが、朝鮮戦争の航空戦力の教訓が意味をもってくる。朝鮮戦争の歴史は、過去1世紀におけるあらゆる軍事作戦の成功に航空戦力が不可欠であったことから、今日でも有益である。21世紀も、20世紀同様に、過去の教訓を未来の課題に適用してこそ、「航空戦力による勝利」は可能となる。  ■ 


Air War Over Korea: Lessons for Today’s Airmen - Air Force Magazine

Aug. 12, 2022



Douglas A. Birkey is the Executive Director for the Mitchell Institute for Aerospace Studies.

           


コメント

このブログの人気の投稿

フィリピンのFA-50がF-22を「撃墜」した最近の米比演習での真実はこうだ......

  Wikimedia Commons フィリピン空軍のかわいい軽戦闘機FA-50が米空軍の獰猛なF-22を演習で仕留めたとの報道が出ていますが、真相は....The Nationa lnterest記事からのご紹介です。 フ ィリピン空軍(PAF)は、7月に行われた空戦演習で、FA-50軽攻撃機の1機が、アメリカの制空権チャンピオンF-22ラプターを想定外のキルに成功したと発表した。この発表は、FA-50のガンカメラが捉えた画像とともに発表されたもので、パイロットが赤外線誘導(ヒートシーキング)ミサイルでステルス機をロックオンした際、フィリピンの戦闘機の照準にラプターが映っていた。  「この事件は、軍事史に重大な展開をもたらした。フィリピンの主力戦闘機は、ルソン島上空でコープ・サンダー演習の一環として行われた模擬空戦で、第5世代戦闘機に勝利した」とPAFの声明には書かれている。  しかし、この快挙は確かにフィリピン空軍にとって祝福に値するが、画像をよく見ると、3800万ドルの練習機から攻撃機になった航空機が、なぜ3億5000万ドル以上のラプターに勝つことができたのか、多くの価値あるヒントが得られる。  そして、ここでネタバレがある: この種の演習ではよくあることだが、F-22は片翼を後ろ手に縛って飛んでいるように見える。  フィリピンとアメリカの戦闘機の模擬交戦は、7月2日から21日にかけてフィリピンで行われた一連の二国間戦闘機訓練と専門家交流であるコープ・サンダー23-2で行われた。米空軍は、F-16とF-22を中心とする15機の航空機と500人以上の航空兵を派遣し、地上攻撃型のFA-50、A-29、AS-211を運用する同数のフィリピン空軍要員とともに訓練に参加した。  しかし、約3週間にわたって何十機もの航空機が何十回もの出撃をしたにもかかわらず、この訓練で世界の注目を集めたのは、空軍のパイロットが無線で「フォックス2!右旋回でラプターを1機撃墜!」と伝え得てきたときだった。 戦闘訓練はフェアな戦いではない コープサンダー23-2のような戦闘演習は、それを報道するメディアによってしばしば誤解される(誤解は報道機関の偏った姿勢に起因することもある)。たとえば、航空機同士の交戦は、あたかも2機のジェット機が単に空中で無差別級ケージマッチを行ったかのように、脈絡な

主張:台湾の軍事力、防衛体制、情報収集能力にはこれだけの欠陥がある。近代化が遅れている台湾軍が共同運営能力を獲得するまで危険な状態が続く。

iStock illustration 台 湾の防衛力強化は、米国にとり急務だ。台湾軍の訓練教官として台湾に配備した人員を、現状の 30 人から 4 倍の 100 人から 200 人にする計画が伝えられている。 議会は 12 月に 2023 年国防権限法を可決し、台湾の兵器調達のために、 5 年間で 100 億ドルの融資と助成を予算化した。 さらに、下院中国特別委員会の委員長であるマイク・ギャラガー議員(ウィスコンシン州選出)は最近、中国の侵略を抑止するため「台湾を徹底的に武装させる」と宣言している。マクマスター前国家安全保障顧問は、台湾への武器供与の加速を推進している。ワシントンでは、台湾の自衛を支援することが急務であることが明らかである。 台湾軍の近代化は大幅に遅れている こうした約束にもかかわらず、台湾は近代的な戦闘力への転換を図るため必要な軍事改革に難色を示したままである。外部からの支援が効果的であるためには、プロ意識、敗北主義、中国のナショナリズムという 3 つの無形でどこにでもある問題に取り組まなければならない。 サミュエル・ P ・ハンチントンは著書『兵士と国家』で、軍のプロフェッショナリズムの定義として、専門性、責任、企業性という 3 つを挙げている。責任感は、 " 暴力の管理はするが、暴力行為そのものはしない " という「特異な技能」と関連する。 台湾の軍事的プロフェッショナリズムを専門知識と技能で低評価になる。例えば、国防部は武器調達の前にシステム分析と運用要件を要求しているが、そのプロセスは決定後の場当たり的なチェックマークにすぎない。その結果、参謀本部は実務の本質を理解し、技術を習得することができない。 国防部には、政策と訓練カリキュラムの更新が切実に必要だ。蔡英文総統の国防大臣数名が、時代遅れの銃剣突撃訓練の復活を提唱した。この技術は 200 年前のフランスで生まれたもので、スタンドオフ精密弾の時代には、効果はごくわずかでしかないだろう。一方、台湾が新たに入手した武器の多くは武器庫や倉庫に保管されたままで、兵士の訓練用具がほとんどない。 かろうじて徴兵期間を 4 カ月から 1 年に延長することは、適切と思われるが、同省は、兵士に直立歩行訓練を義務付けるというわけのわからない計画を立てている。直立歩行は 18 世紀にプロ