戦闘装備の歴史では数々の役に立たない兵器が生まれましたが、ソ連では特にその数が多いようです。いつか実物を拝見したいものです。では現在のロシアはどうなのでしょう。すっかり元気がなくなっているロシアですがいつまでもこのままではないでしょう。なんといっても基礎研究はしっかりしていたロシアでボーイングその他米企業が安価に基礎研究結果をソ連崩壊後に買いあさっていましたね。今はむしろ中国の動向に配慮すべきでしょうね。数十年たって中国のとんでもない兵器が過去の遺物になればいいのですが。
It’s not surprising that most stayed on the drawing board
by ROBERT FARLEY
- ソ連時代の産軍複合体は西側企業へ70年近くも対抗意識を燃やしていた。中には西側を驚かせる安価かつ革新的で高性能の装備もあったが、空を飛ぶのもやっとという機体や何とか浮かんでいるだけの艦船があったのも事実だ。
- ソ連崩壊を回避できた兵器は一つもなかったが一部は崩壊の様相を変えている。戦闘では技術と「ヒト」的要素の関係は複雑だ。その関係で孤立した装備の配備を決定をすれば国防に大きな影響が出る。
- 兵器開発の中止にはそれなりの理由がある。各種の出来事が関係する中で真の国益と必要性に集中するのが普通で栄光や見栄だけの追求ではない。ソ連の場合では「驚異の兵器」の多くは想像の世界のままだった。ソ連自身にもソ連の敵にとっても。
「ソヴィエッキー・ソユーズ」級戦艦
- 20世紀初頭時点で帝政ロシアは比較的近代化されて強力な海軍力を維持していたが日露戦争がおわるとロシア造船業界は西側諸国よりかなり遅れをとり、さらに革命で産業界のみならず海軍まで活動を停止してしまう。大戦間のソ連は弱体化した艦隊を再活性化しようとと各種の策を試みた。
- 1930年代も終わりに近づくとソ連経済は回復してきたのでスターリンは海軍力整備を真剣に考えるようになった。ソヴィエツキー・ソユーズ級戦艦を先頭に野心的な整備計画を立案し、巡洋戦艦や航空母艦の整備も想定した。
- ソヴィエツキー・ソユーズ級はイタリアのリットリオ級を参考に排水量は6万トン近く、主砲16インチ9門で最高速度28ノットの構想だった。
- 完成していれば西側の最優秀戦艦と同程度の規模だったろうが、ソ連は建艦で経験不足があり手抜き作業で実戦ではいろいろトラブルがあっただろう。
- ソ連は16隻の戦艦建造を1938年から1940年に計画し、うち4隻を起工している。建造場所はレニングラード、ニコライエフ(黒海)、モロトフスク(白海)でうち一隻は1940年に作業が稚拙なため途中で放棄されている。
- 残る三隻も開戦により作業を中断し、うち一隻はレニングラードで大戦後も完成を目指したが、賢明な一派が各艦の建造を中止させ解体している。
- 各艦の建造はソ連に膨大な資源投入を求めた。建造がもう少し早い時期に始まっていたら、ソ連は相当の国力を投入した挙句、黒海やバルト海に封鎖されたままの戦艦を抱え込んでいただろう。あるいは一隻は北極航路で船団護衛に投入されていたはずだ。
- 大戦中のソ連には戦艦に使う予定の資材を投入すべきもっと有益な分野があったのだ。
オレル級、ウリヤノフスク級空母
- ソ連は革命直後から空母建造を検討していたが、戦艦建造で経済が混乱するとソ連産業界が消極的になりさらに第二次大戦で計画は立ち消えとなる。
- 戦後になりスターリンの非現実的な建艦計画からもっと足が地についた空母建造に切り替えた。モスクワ級ヘリコプター空母が1960年代中期に就役し、その後キエフ級VSTOL空母数隻が1970年代から80年代にかけ登場した。
- その次は簡単ではなかった。堅実な進歩を主張する向きがあった一方で、一気にスーパー空母へ移行すべきとする向きも出た。(これがオレルプ級である) だがソ連海軍は段階的な発展策を採用し、キエフ級の改良とクズネツォフ級通常動力型中型スキージャンプ式空母の開発が始まった。
- さらにクズネツォフ級の後継としてウリヤノフスク級を想定した。
- 排水量8万トンで原子力推進のウリヤノフスク級は米スーパー空母に初めて真正面から対抗する艦となるはずだった。スキージャンプ式を採用していたが、カタパルトを装備し戦闘機、早期警戒機を運用できれば米海軍空母とほぼ互角になっていただろう。また完成すれば初めてソ連海軍は長距離攻撃作戦を世界のいかなる地点でも実施する能力を入手していたはずだ。
- だがソ連時代の兵器システムの例にもれず壊滅的な出来事が発生した。冷戦終焉でソ連体制が崩壊し、ウリヤノフスクの建造のはリスクがあまりにも大きくなり、船体は分解された。後になってみれば段階的な戦力整備方法はそれなりの効果を上げ、制海艦や海軍航空隊を生んでいる。
- ただしスーパー空母をそのまま建造する決定をしたソ連海軍の考えは米海軍と全く異なっいたのであり、西側に匹敵する海軍の存在意義を示すより海軍戦略の再活性化にこだわっていた。だが完成していてもソ連には友邦国、敵国に誇示できる内容は多くなかっただろう。
大戦間の重爆撃機
- ソ連空軍は第二次大戦中に戦略爆撃能力を整備できなかったが、大戦間にソ連は長距離四発エンジン爆撃機を重点的に開発しようとしていた。
- 大戦勃発時のソ連は他国を上回る規模の重爆撃機を配備していた。ただし、機種は旧式化したTB-3が大部分であったが。
- 戦闘の激化でソ連はPe-8を主力としている。ほぼアヴロ・ランカスターやボーイングB-17に匹敵する機体だったがPe-8は西側爆撃機に匹敵する成果は上げていない。機体製造と補給問題がその原因だった。
- だたし、ソ連空軍は真に壮大なプロジェクトも実験しており、なかでもK-7重爆撃機はユンカース構想に酷似していたが八回目のテスト飛行で墜落し機内の14名が全員死亡している。
- その中で最も有望な開発事業はTB-3/ANT-20/TB-6ファミリーを軸に進められエンジン六基以上の怪物機となった。重武装のため速度と操縦性は犠牲にされたが編隊飛行中の重爆撃機は迎撃機から防御が必要との考え方が理由だった。
- ANT-20輸送機はエンジン八基で乗客72名を乗せ、試作機はモスクワ近郊に墜落し45名が死亡した。ANT-26は爆撃機に転用したANT-20でエンジン12基で爆弾33千ポンドとB-29を上回る搭載量になるはずだった。
- 結局空を飛んだのは試作型だけでかつ長時間飛行はしていない。ソ連がこの路線を採用していたら、戦術空軍力の整備が相当遅れ、かつ赤軍地上部隊の資源を相当吸い上げていただろう。
- 巨大なANT-26はドイツ戦闘機の格好の標的になっていたはずで、ルフトバッフェの待ち構える空域に飛び込むだけだっただろう。
- ソ連に資源を無駄使いする余裕はなく、戦略爆撃のような高価な作戦は実施できなかった。なんといってもドイツ国防軍を地上で撃破することが必須だった。もしソ連が戦略爆撃を真剣に実施する政策を採用していたら、ドイツ軍の地上侵攻を食い止めることは不可能だったろう。
超大型戦車T-42
- ドイツとソ連の戦車設計が1930年代に類似していたのはカザン戦車学校の知見を共有していたためだ。ワイマール時代のドイツとソ連は1920年代末から航空分野、装甲車両、化学兵器共同作業を開始し成果が上がっていた。t.
- ナチの台頭でこの協力は幕を下ろし、ソ連とドイツはともに革新的な新発想の装甲車両技術を手にしていた。
- 大戦間に「超大型」戦車の生産を試みた国は数多い。標準型戦車の三倍から四倍の重量のある戦車を指す。その中でドイツのエドワード・グロッテは超重量戦車をドイツ、ソ連双方に設計していた。
- ソ連参謀本部へ提出した案で一番関心を集めたのはT-42案で重量100トン、砲塔三つ、時速17マイル、乗員14から15名というものだった。
- T-42は試作さえされなかったが、ソ連軍部が真剣に装備化を検討していたのは事実だ。もう少し現実的な案としてT-35、T-100、SMK、KV-4、KV-5があった。このうち生産に入ったのはT-35だけで、45トン、砲塔は5つあった。配備された61両はほとんどがバルバロッサ作戦の初期段階で喪失している。機構上の不具合と乗員が放棄したためだった。
- 超重量戦車の例にもれずT-42も重量超過、高価格で開発に手間取り本格生産されなかった。赤軍が同戦車を採用していたら、日本、フィンランド、ドイツを相手にいずれの場合も悲惨な結果になっていたはずで、ソ連の装甲車両教導方針そのものが戦術的に意味のない内容にされていた可能性もある。
スホイT-4超音速爆撃機
- 大戦後のソ連爆撃機には米側と類似する機種が多い。Tu-4は捕獲したB-29をそのままコピーした。スホイT-4はB-70ヴァルキリーに相当するソ連の機体だ。大型高速爆撃機として高高度を飛行するT-4はソ連防衛産業の能力を試す課題(能力以上の課題にもなった)だった。
- マッハ3で実用最高高度が70千フィート近くのT-4は外観がB-70に酷似し、性能も同様だった。しかし、ソ連空軍の構造が米国と異なり、T-4は戦術ミッションに投入され偵察や対艦ミサイルの輸送にも使う構想だった。Kh-22対艦ミサイルを抱いて飛行するT-4は恐ろしかっただろう。
- だが要求水準がソ連に高すぎ生産に移されなかった。高速で高高度を飛行する機体に許される公差はソ連航空産業界では実現できなかった。さらにT-4にもB-70同様にSAMが立ちふさがった。
- T-4は可変翼型Tu-160の先駆けとなった。Tu-160は35機しか製造されずT-4の就役開始想定年からほぼ10年後に登場している。
- もしソ連がT-4を配備していたら戦術機部隊で相当部分を断念していただろう。だが、同時に高性能超音速爆撃機部隊は対艦ミサイルを搭載していたはずで、米空母部隊にとっては小型で短距離型のTu-22M以上に防御が困難だったはずだ。
- T-4が量産されていたら米国の調達にも変化が生まれていたはずで、B-1Aがもっと重視され、戦略迎撃戦闘機も脚光を集めていたはずだ。運行維持が極めて高額につくT-4だがソ連崩壊後も一部は残存してロシア空軍に編入されていたかもしれない。
結語
- ソ連には壮大な構想と世界規模の野心があったが国防産業の基盤に深刻な制約があった。
- 制約が傑作装備を生んだこともある。T-34やMiG-21がその例だ。逆に制約で悲惨な結果を生む決断につながったこともあり、大戦間の巨大爆撃機、巨大戦艦や巨大戦車構想が例だ。
- ここから導き出せる教訓としてウェポンシステムの選択が防衛産業に影響を与えることはあっても国家の運命を変えるだけの力はないということだろう。■
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