2020年12月7日月曜日

2021年の米海兵隊 大規模構造改革の一歩を踏み出す。西太平洋作戦を重視し中国に照準を合わせる。

 

シンクタンクCSISのシリーズものをご紹介。今回は海兵隊編で、筆者も元海兵隊大佐であり、内部情報をかなり反映しているようです。気になるのは沖縄関連で辺野古移転は実現困難と悲観的評価なのは海兵隊内部の意見を反映しているのでしょうか。戦車全廃や高性能火砲の話題は前からお伝えしておりましたが、海兵隊廃止の議論もある中で、組織存続をかけ、新しい海兵隊像の実現に懸命な姿がうかがえますね。

 

要約)米海兵隊が大規模構造改革を開始する。これは大国同士の対決に備え、これまで二十年にわたった対戦闘員対策からの決別を意味する。部隊や人員の削減で浮いた予算を新規装備品調達にまわす。ただし、外部には構造改革では海兵隊の想定があまりにも狭すぎると懸念を示す向きもある。

  • バーガー大将の新指針は海兵隊を二十年にわたる地上戦から再び海軍につながるルーツに戻し、太平洋での超大国間戦を想定した装備を整備し、不要な装備部隊を整理することにある。
  • そのため海兵隊現役部隊は総勢172千名とイラク、アフガニスタン作戦以前の水準に戻す.
  • ひきつづき高ペース展開されている中、装備近代化も課題だ.
  • 歩兵三個大隊、戦車全数、一部対テロ作戦能力を廃止し、火砲部隊も大部分をミサイル部隊に転換する
  • UAVは増勢となるが、海兵隊のUAV整備は空軍にはるかに及ばず、苦しい状況にある。
  • 揚陸部隊には小型揚陸艦(LAWs)を多数導入し、分散戦力とするが、海兵隊は敵防衛陣の内部に残り作戦展開する「スタンドイン」をめざす。LAWsの規模ではグローバル展開は期待できず、揚陸能力は劣化していく。
  • 再整備には西太平洋に重点を置きすぎ、他地域の紛争を無視している、未実証の作戦構想を重視しすぎとの批判が出ている。

2021年度予算は海兵隊にとって大規模構造改革に向かう途中経過に過ぎない。改革で対テロ活動や陸上作戦の長期支援などは切り捨てて海兵隊全体で新たな戦力整備を進める。構造改革は2021年度から全面実施となり、2022年度さらに5か年整備計画に進む。

 

2021年度の海兵隊兵力は現役部隊で2,100名の削減となる。海兵隊が進める構造改革の中でまず出現する大きな変化だ。

 

海兵隊予備役は38,500名でここ数年変化がない。ただ、隊員の採用、再任務は容易ではない。他方で予備役を大規模に維持するねらいがあり、縮小の話は出ていない。バーガー大将は将来にわたり変化がありうると示している。「予備役部隊を正規部隊に統合する可能性を模索しており、他にも選択肢がある」というが、答えは出ていない。

海兵隊内の文官は微増となる。国防総省(DoD)でも同じ傾向で、即応体制の向上をめざし、支援部門で文官を代わりに登用していることがあり、第一線部隊が縮小となっても文官規模は減らない。

そんなに前ではないが海兵隊で現役部隊を194千名まで増勢する話が出たことがあるが、予算環境のため実現しなかった。

 

2021年度予算の動向をみると2020年度より微減となっている。ただし、バーガー大将は昨年に「部隊構成の変化を犠牲にしても装備近代化予算がもう少し手に入るのであれば躊躇なく選択する」と述べていた。同大将の改革案では現役部隊を「12千名程度」削減して、想定する新装備品を調達することとしていた。つまり海兵現役部隊を172千名にする案が2022年度予算に盛り込まれそうだ。

 

ただし、そのレベルでもイラク、アフガニスタン戦へ投入された当時の172,600名体制と大差はない。

 

2013年のマッケンジーグループ(座長のケネス・F・マッケンジー中将にちなむ。なお、マッケンジー大将は現在CENTCOM司令官)は海兵隊の主要任務は前方配備により危機対応にあたることとし、現地配備が長引き各面でストレスが生まれていると指摘。この背景に10年にわたり高頻度で部隊が展開しているOPTEMPOが念頭にあった。

 

いずれにせよ議論は終わっている。バーガー大将はOPTEMPOの高さも個人レベルのストレスについても言及していない。2016年以前では司令官各自が配備の連続でストレスが高まっていると発言していた。

 

新戦力構造

 

バーガー大将が海兵隊総監に就任するや、方針ガイドとして以下の四点を発表した。①海兵隊の海軍とのルーツを再認識し、イラク、アフガニスタンの地上展開と一線を画すこと。②超大国間戦闘とくに太平洋での作戦に適した部隊構成、装備品の整備に向かうこと。③新構想にふさわしくない旧式装備を整理すること。④各自の戦闘能力を高く維持すること。各内容は国家防衛戦略(NDS)に合致しており、海兵隊が以前公表した遠征前線基地作戦構想や敵優勢環境での沿海域作戦Littoral Operations in a Contested Environmentにも通じる。こうした海兵隊構想では分散作戦形態への移行ならびに海兵隊による制海任務を沿岸配備の航空機や火力で実現するとあり、単なる沿岸部兵力投射と一線を画している。

 

20203月に海兵隊は2030年を想定した変革内容を公表した。以下そこから将来の姿を見てみよう。

 

海軍にも構造改革の提言があるが、海兵隊では、「追加投資は必要ない」とバーガー大将は発言している。つまり構造改革で現有部隊の多くを廃止し浮いた予算で新装備品を調達する考え方だ。実施は10年間かかると想定し、戦車部隊の全廃など即実施に移す内容もなる。公表された構想やバーガー大将の発言から改革は時間をかけて継続実施し試行しつつ演習で効果を試すとある。

 

改革案では現役部隊による海兵遠征部隊(MEFs)三個体制は維持するとある。二個部隊は米本国(カリフォーニア、ノースカロライナ)にあり、第三部隊はハワイ、沖縄、日本本土に展開している。MEF各部隊はほぼ同じ編制になっているが、第三部隊はやや規模が小さく海外配備であることが理由だ。ただし、2030年構想では各MEFは特色を持たせ、均等な兵力ではなくなるとある。

 

構造改革案では予備役による師団補助チームを維持するとあり、ニューオーリンズに司令部をおき、米本土各地に分散させる。海兵隊予備役は陸軍の州軍部隊に近く現役部隊をモデルとしている。

 

バーガー大将の指針や改革案ではサイバーや特殊作戦の言及はごくわずかで海兵隊の新体制でどう扱うのかとの疑問が出ている。ただし、サイバーや特殊作戦を充実させれば本来の海兵隊の戦力が犠牲になる。

 

構造改革すべてを実施すれば海兵隊の風土そのものに影響が生まれる。これまでは歩兵部隊こそ海兵隊の中心だった。しかし構造改革で海兵隊は長距離火力を砲兵隊、航空部隊の展開で勝利を収める構想だ。歩兵隊の役割は防御が主となり、長距離攻撃手段の防衛が任務となる。

 

地上部隊

 

海兵隊地上部隊の変化について海兵隊は実証がまだ終わっていないと強調する。補給部隊や予備役も巻き込んだ改革案はまとまっていない。

 

歩兵部隊:三個大隊の削減が大きい。報道資料では残る各大隊は「機動性」を充実させ「機動隊に近くなる」と表現している。つまり迫撃砲や対戦車ミサイルといった重装備を廃止する。他方で2030年の海兵隊像で「将来の作戦環境を適切に評価しているとは言い難い。とくにわが方の歩兵大隊の構成についてこれがあてはまる」とバーガー大将は述べており、さらに試行を続け歩兵大隊の構成そのものは今後変わる可能性がある。

 

歩兵大隊の削減で支援装備も廃止でき、航空部門、補給支援部門、火力支援部門で予算を浮かせ、これで新装備品を調達する考え方だ。

 

歩兵部隊は長く海兵隊の中心であり、このまま実行されれば兵力構成の大変化になる。現役三個師団に合計27個の歩兵大隊が完全装備で配属されている。ただし歩兵大隊の規模は縮小されており、1980年代中ごろまで1,050名体制だったが、今後は725名程度になる。このため海兵隊地上戦力は1980年代の28,350名が15,200名となり、47パーセント縮小となる。

 

火力支援:砲兵部門は改革後も規模で大きな変化はないが内容は劇的に変わる。一部部隊にはHIMARSが導入され、長距離誘導、非誘導ミサイルを発射可能となる。また戦術トマホーク対艦ミサイル運用が可能となる部隊も現れる。誘導兵器を扱うため砲兵部隊は地上目標あるいは艦船を遠距離から攻撃可能となる。ただし、歩兵部隊の火力支援は行わない。地上で接近戦は想定しないということではなく、長距離海上攻撃を主眼に置くことを意味する。

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戦車部隊:これが最大の変化だ。戦車は海兵隊にとって第二次大戦時から一貫して装備の一部だったが、砲兵隊の変化と並び海兵隊にとって一大転換点となる。将来の海兵隊部隊はこれまでと異なり地上戦に参加しない。

 

架橋中隊:三個中隊あるが、島しょ部の戦闘では役目がなくなる。

 

法執行大隊:対テロ作戦には三個部隊を活用できるが、太平洋の海上作戦では出番がない。海兵隊がこの機能を放棄することは西太平洋シナリオに集中し、今後は対テロ作戦には加わらないことを意味する。

 

航空部隊の姿と課題

 

ティルトローター機:改革案では三個飛行隊を廃止する。歩兵部隊支援が任務のため、歩兵部隊縮小に呼応する。残る部隊にはストレスが生まれそうだ。MV-22が多用されているためだ。海兵隊はMV-22360機導入済みだが削減対象の機材の次の用途は不明だ。おそらく、訓練基地に配備される、あるいは損耗用に保管されるのではないか。

 

回転翼機(軽攻撃):海兵隊の軽攻撃ヘリコプターはAH-1Zで敵の装甲部隊、歩兵部隊に大きな威力を発揮する。ヘリコプターも制海任務に投入可能だが、長距離スタンドオフ兵器の運用ができず、敵に接近する必要がある。海兵隊では上記機種の導入を完了しており、当面は保管され将来の使用に備えるのだろう。攻撃ヘリ部隊の縮小により米陸軍が進める将来型攻撃偵察航空機事業に海兵隊が参加するか疑問となる。

 

回転翼機(大型):削減理由として歩兵部隊削減で重量物運搬の機会も減ることがあり、大型ヘリコプターの出番が減る。ただし、バーガー大将は大型ヘリコプターの運用維持費用の高さも考慮しているはずで、CH-53K調達で生産がはじまったばかりだが規模は三分の一削減となる。

 

固定翼戦闘攻撃機材 F-3545機程度削減となり、構造改革報告書ではパイロット不足を理由に挙げている。ただし、総監指針では高価な有人固定翼機をUAVに置き換えてもよいとあるが、まだ方針にはなっていない。「F-35の性能要求が将来どうなるか見えていない」とし、F-35削減は議会内に強力な推進派があるため物議を呼ぶだろう。実際に同機の調達は毎年予算で追加手当がされている。

 

C-130輸送機:同機の増備は各地に同機の分散運用への必要を裏付けているといえる。C-130は不整地飛行場にも着陸可能なので前線展開中の部隊への補給にも投入できる。増備は貨物輸送ミッションを視野に入れており、海兵隊所属機が減る中で給油ミッションは想定していない。

 

UAV各種:海兵隊は空軍、陸軍のUAV配備から大きく後れをとっており、有人機のF-35等の導入に注力してきた結果といえる。詳しくは以下を参照されたい。

海兵隊の航空機各種はここ数年で増加している。回転翼機部門はMV-22UH/AH-1の調達が中心で結果として機材は新型機が多くなっている。機材整備はCH-53K事業で完結する。固定翼機部門ではF-35導入が中心のため、調達費用の負担が大きくなっているが、海兵隊航空部門は極めて良好な状態にあり、空軍と対照的だ。

 

海兵隊2030年構想の航空部門への影響はまだ不明だ。回転翼、ティルトローター、固定翼戦闘攻撃機が削減されるものの、UAVC-130は増やす。支援対象の部隊が縮小されるため、機材数も同様に縮小されるはずだ。

 

UAVs導入の遅れ

 

UAV導入が遅れている

海兵隊は1980年代にはUAV導入の先陣を切っていたが、今やその他軍に大きく後れをとっている。バーガー大将はこれを打破し、「海兵隊はこれまでより幅広い無人装備の開発に進む」と述べている。

 

海兵隊はMQ-9リーパーをつなぎ装備として導入する検討をしていた。2020年度に二機、2021年度に3機導入する予定だったが今は中止している。かわって海兵隊独自に開発する大型UAV(名称MUX)の完成を待っている。これは艦載運用を想定したものであるが、事業は要求内容が多岐すぎてとん挫し、再構築中である。海兵隊は2023年度にファミリー構成の装備品として配備開始を期待するが、まだ解決策は出ていない。

 

完ぺきな製品(MUX)をめざすあまり、良品(MQ-9)を無視していいのかだろうか。

海兵隊のRQ-21ブラックジャックの今後は不明だ。四個飛行隊に配備完了しており、開発期間中は困難な課題に直面したが運用機材数を21機にまで減らす予定だ。連隊あるいはMEU単位に配備し、陸上あるいはL級艦船での運用を狙う。偵察監視任務に投入し、攻撃機能はない。

 

ただし2030年構想ではMQ-21の今後が明確でないことがわかる。「現有のUAS機材に艦船での運用能力、陸上での運用を可能とし、情報収集とともに攻撃能力も付与する必要がある」とのくだりがある。

 

海兵隊では小型UAV各種(RQ-11-12-20)を戦術偵察用に供用しており、目標照準用にも使っているが、各種能力を小規模部隊の作戦にも提供する実証を熱心に進めている。ただし、いずれも攻撃機能は有していない。

 

海兵隊も海軍同様に有人機に注力し、陸軍、空軍のUAV供用からはるかに遅れている。バーガー大将はこれまでの方向を変えたいと考えているが、MUX事業は悲惨な状況にあり、有人機中心の組織内価値観の長年の積み重ねに直面している格好だ。

 

海兵隊2030年構想への対応

 

今回提案の構造改革案には支持疑念双方の反応が出ている。支持派は中国を主要な脅威ととらえる向きで国防の中心を中国への対応に向けるべきと考えている。新技術や新しい作戦構想を支持する層でもある。

 

これに対し疑念を感じる向きは次の五点に集約できる。

  • 中国を主眼にとらえるあまり、その他地域での武力衝突の可能性を軽視している。第二次大戦終結後の米国は地域内衝突に多数対応してきたが大国相手の戦闘は皆無だ。そのためジェイムズ・ウェブ前上院議員で前海軍長官にして元海兵隊隊員は中国への焦点の当て方が狭すぎると批判する。「戦闘の歴史から学ぶものがあるとすれば想定したような戦闘は実際とは大きく異なることがある、ということだろう。構造改革では世界規模での即応体制が永久に失われてしまう。これまで一世紀にわたり海兵隊の存続意義がそこにあったのだ」と述べている。
  • 新戦術は実証が住んでおらず、改革案では中国との戦闘を想定し、海兵隊部隊が中国の防衛バブル内に展開する想定なのだろう。その構想通りには進展しないだろう。兵站機能もたえず移動することになるし、敵火力が孤立した海兵隊拠点を次々に粉砕するのではないか。
  • 作戦構想を一種類想定すると実際には別の構想の成功につながる。そのため海兵隊が中国相手に西太平洋で島しょ戦を想定すれば、他の場所での体制が犠牲になる。これは朝鮮半島や中東を想定する。米陸軍が1960年代にソ連とドイツ平野で対決を想定したが、そのため東南アジアのジャングルでゲリラとの戦いに支障をきたした。
  • 中国やロシアを相手の武力衝突はグレイゾーンでの戦いになる公算が高く、真っ向勝負の可能性は低い。新規戦力構想はこの場合に対応できる内容ではない。対ゲリラ戦対応を縮小し、ハイエンド戦想定の訓練に切り替えるためだ。
  • 実戦に近接火力支援が欠かせない。構造改革案では長距離精密火砲に重点を置いているが、近接火力支援として戦車や火砲が不要になるわけではない。

海兵隊航空地上任務部隊

 

海兵隊は任務部隊を臨機応変に編成することを自ら誇りとしてきた。既存部隊を臨時編成で目的に応じ投入することだ。海兵隊には任務部隊の編制テンプレートがあり、これを海兵航空地上任務部隊Marine Air-Ground Task Forces (MAGTFs)と呼んでいる。標準編成には四つの要素がある。指揮命令機能、地上戦闘機能、航空機能、補給機能だ。このうち最大の規模が海兵遠征部隊(46-90千名規模)は海兵師団、航空団をもとに編成する。中規模が海兵遠征旅団(4-16千名規模)で歩兵連隊と航空集団が核となる。最少が海兵遠征部隊(MEU2,200名)で歩兵大隊と混成飛行隊で編成している。

 

今回は二つの任務部隊が注目を集めている。特殊用途MAGTFs(SP-MAGTFs)と沿海部戦闘連隊だ。

 

SP-MAGTFs:新規構想ではないがSP-MAGTF部隊は海兵隊内で別の機能を有している。これまで海兵隊で最小の展開規模がMEUだったが、迅速対応かつ常時展開をAFRICOMCENTCOMで、SOUTHCOMでは定期的な展開を行っている。海兵隊はこうした陸上配備得任務部隊を編成し、MEUを下回る規模としている。それにより機敏な対応とともに展開が容易となる。

 

海兵隊はSP-MAGTF各部隊の任務内容と人員配置を再検討しているようで、展開中のMEUなど通常編成の部隊に特定の任務を果たせないか検討している。これが可能なら新たな特設部隊を編成する負担が軽減される。

 

Marine Littoral Regiment (MLR): これは新種の部隊で対地、対艦攻撃を展開しながら敵(例中国)の防衛圏内で残存可能とする。構想では第二次大戦時の海兵防衛大隊を参考にしている。これは前方基地の防衛を任務とした部隊で海上あるいは航空攻撃に対応していた。海兵隊ではハワイ駐留部隊で構想を試行している。MLRは当面戦闘チーム、防空大隊、補給部隊で構成するとあるが、正確な構成や人員数は不明だ。

 

もう一つ不明なのはMLRが常設部隊なのか、任務に特化した部隊なのかで、MLRはむしろ特化したMEUに見える。ただし、MLRMEUでは特徴が異なるのだが。

 

グアム、太平洋での部隊展開

 

オーストラリアは朗報だが、沖縄/グアム/日本ではよくないニュースだ。

沖縄/グアム/日本海兵隊は沖縄の地元負担を軽減すべく引き続き努力している。グアムへの部隊移転に加え日本本土やハワイも移転先となる。現行案では2027年までに沖縄駐留開閉部隊は半減され11,500名体制になる。

 

日本政府はグアムの施設構築の大部分を負担しており、建設工事は順調に進んでいるが、日程は数度にわたり先送りされている。9月に新設基地はキャンプ・ブラズと現地出身の海兵将官の名前にちなんで命名された。グアムへ恒久移動する海兵隊員は1.300名のみで、3700名は順番でグアムに移動する。当初は全員がグアムに恒久的に駐屯する構想であった。

 

普天間基地の代替施設建設事業では住民の少ない沖縄北部のキャンプシュワブ近郊が選ばれ、建設工事が続いているものの、困難に遭遇しており、完工時期が先送りされ、建設費は上昇し続けている。完工は期待できない感がある。

 

こうした基地移転構想の動向に注意が必要だ。戦略的な意味もあるが、実施を強行すると現地の政局に問題が発生し、域内緊張が高まり、大規模な建設工事が次々に必要となるのは不可避だ。

 

オーストラリア: 沖縄、グアムで予定が遅れ問題が深刻になっているが、対照的にオーストラリアのダーウィンへの巡回派遣は10年目に入り、問題なく半年の期間で1.200名が毎年派遣されている。巡回配備はオーストラリア米国ともに政権交代があったが影響を受けず続けられており、定着の観がある。ただし、欠点は今後何らかの紛争が発生した場合に、現場へかけつけようとしても遠距離であることで、オーストラリアから南シナ海までは2.500マイル移動する必要がある。

 

揚陸艦艇、代替手段、グローバル展開

揚陸艦艇:海軍に関する解説で揚陸艦艇部門でハイエンド艦が減少し、ヘリコプター空母(LHAs/LHDs)が最大6隻「軽空母」に改装され「スーパー空母」(CVNs)を補完する存在になると述べた。「海軍はLPDのフライトI、フライトIIを削減する。かわりに揚陸部隊には軽揚陸艦(LAWs)28隻ないし30隻追加する。LAW一隻で海兵隊員75名を運搬するが、こうした艦は現行装備より相当小さいため、今後の海兵隊の揚陸作戦の訓練や編成で変化が生まれる。また従来の揚陸艦艇と異なり航行距離が短く、A地点からB地点への移動が主眼となり、長期間配備は想定していない。

 

グローバル展開:グローバル規模の展開回数は増えるが、対応可能な艦艇数が逆に減る。新規揚陸部隊の規模では現行MEU7個体制(日本x1、米本土西海岸x3、東海岸x3)への対応は不可能となり、長期前方配備へも対応できなくなる。■

 

この記事は以下を再構成したものです。

 

US Military Forces in FY 2021: Marine Corps

November 16, 2020

 

Mark Cancian (Colonel, USMCR, ret.) is a senior adviser with the International Security Program at the Center for Strategic and International Studies in Washington, D.C.

This report is made possible by general support to CSIS. No direct sponsorship contributed to this report.

This report is produced by the Center for Strategic and International Studies (CSIS), a private, tax-exempt institution focusing on international public policy issues. Its research is nonpartisan and nonproprietary. CSIS does not take specific policy positions. Accordingly, all views, positions, and conclusions expressed in this publication should be understood to be solely those of the author(s).

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2020年12月6日日曜日

歴史に残る機体29 今回はロッキードP-38、大戦の最初から最後まで高人気の理由とは、双発大型機の運動エネルギーで戦った傑作機はいかにもアメリカ的。

本日12月6日は私の誕生日なので一番好きな機種の話にさせていただきました。ご了承下さい。双発戦闘機が成功した数少ない事例なのですが、なんといってもパワーを前面に出しながら優雅な機体の美しさにはほれぼれします。今や同じ愛称を付けた機体がIIとして飛んでいますが、両機種の共通点はまったくなく、むしろ現行のライトニングIIを嫌う傾向はこのブログの長年の読者はご存じのはず。National Interestの記事からです。

 

二次大戦中に最も活躍した米戦闘機といえば多くの人がノースアメリカンP-51を取り上げる。実際はP-51投入は遅い時期で、たしかに大きな功績を上げたものの、連合軍の航空優勢を実現した機材はその前にもあった。マスタングが大幅設計変更を受け欧州の空に登場したのは1944年冬のことで、その時点で連合軍航空部隊は欧州、太平洋双方でドイツ、日本の軍用機を蹴散らしており、制空権の完全確保に近づいていた。その功績は双発双胴のロッキードP-38ライトニングと単発のリパブリックP-47サンダーボルトがあげたものだ。太平洋戦線ではP-38が一貫して好まれ、終戦まで稼働し、マスタングの人気をしのいだ。

 

ロッキードがP-38ライトニング開発を開始したのは1937年のことで同社初の軍用機参入として欧州の事態進展に対応し機材近代化を狙う米陸軍への採用を狙った。ロッキードが時速400マイル超の性能をうたい、陸軍は疑ったが、双発戦闘機設計案を1937年中ごろに承認し、1939年1月に試作型が初飛行した。フランクリン・D・ロウズヴェルト大統領が新型戦闘機各型の増産を命じ、陸軍は1939年4月に試験用機材13機を発注した。ロッキードは試作機を予定通り製造できなかったが、それでも1940年8月に607機もの大量発注を受けた。欧州情勢から米国参戦が近づいていると判断されていた。製造現場では技術的な問題で生産が遅れ、1941年12月7日時点で完成機材はわずか69機で米陸軍航空隊に納入されたにすぎなかった。

 

 

海外派遣の開始

 

P-38飛行隊数個を英国に展開する案があったが、機体移動の補給活動が困難だった。第1,14、82の各戦闘機集団がP-38の海外展開の先陣を切り、英国に展開する第八空軍に加わった。このうち第1戦闘機集団はアイスランドからイングランドに移動し、フランス上空に飛行したがドイツ空軍と遭遇はなかった。

 

1942年秋には三個戦闘機集団はすべて北アフリカに移動し、新設第12空軍隷下に入るよう命令を受け、トーチ作戦で展開する米軍支援に回った。四番目の第78戦闘機集団は英国に「戦略」予備部隊として残った。三個集団がアフリカに展開したが空中戦に一回も遭遇せず、P-38の性能は実証の機会がなかった。

 

ただし、11月にP-38が初の戦果を挙げた。ドイツ、イタリアの輸送機数機をチュニジアで撃墜した。P-38は北アフリカで各種任務に投入され、戦闘機任務以外に対地攻撃、敵車両掃射、敵歩兵部隊掃射も行った。長距離性能を生かし、遠隔地まで展開できる戦闘機は同機以外になかった。

 

1943年に入ると北アフリカのP-38部隊は機材数不足が深刻となり、第12空軍司令ジェイムズ・H・ドゥーリトルは英国におかれたライトニングの派遣を求めた。陸軍航空部隊司令ヘンリー・H・「ハップ」・アーノルド大将はカサブランカに赴き、高レベル会議を行い、状況の深刻さが理解できた。そこでイングランドに残るP-38を北アフリカに送るよう命令し、追加機材は米国から直接船便で北アフリカへ送ることにした。その命令により第78戦闘機集団の機材は第12空軍に加わり、イングランドにはP-47が派遣された。

 

地中海は英海軍が支配しており、ドイツの北アフリカ補給手段は空輸しかなかったので、1943年早春に連合軍航空部隊はドイツ補給部隊を集中的にたたくことにした。P-38ライトニングが地中海上空を掃討するのが日常になった。

 

「パームサンデーの虐殺」

4月5日朝のことP-38の26機編隊がドイツのユンカースJu-52輸送機50から70機がメッサーシュミットMe-109やユンカースJu-87急降下爆撃機の援護およそ30機と飛ぶ中を襲った。輸送機11機、援護機の4機を撃墜し、P-38の被撃墜は2機だった。

 

これと別のP-38編隊が艦船攻撃にあたるノースアメリカンB-25ミッチェル中爆編隊を援護し、ドイツ機を15機撃墜した。翌週にはドイツ船舶数隻と数十機の撃破を果たした。P-38の戦果はカーチスP-40トマホークやスーパーマリン・スピットファイヤーによるドイツ輸送部隊襲撃とならび100隻撃破でドイツアフリカ軍団への補給路を遮断し、北アフリカ戦線の行方を決定した。

 

P-38を北アフリカに派遣したためイングランドの米戦闘機部隊はきわめて低レベルになり、P-47を運用する第4戦闘機集団が唯一の部隊になっていたのが1943年春の状況だった。トーチ作戦で当初のP-38のかわりにP-47部隊がイングランドに配備されるはずだったが、単発で重戦闘機のP-47に長距離援護任務は不可能だった。新たな戦闘機集団が米本土でP-38で編成され、その後イングランドへ展開し、第8戦闘機司令部で援護任務についた。長距離性能を生かしドイツ本国への爆撃行に援護任務につけるのはP-38のみで、ベルリン上空まで展開した連合軍戦闘機はP-38が初めてだった。

 

P-38は多様な任務に投入され、低空攻撃を発揮し、ルーマニアのプロセチ油田精製所を襲った36機のP-38は1,000ポンドを搭載した。これを39機のP-38が援護した。ただし23機喪失という惨憺たる結果になったのはプロセチを死守するべくドイツが最大限の対空火砲を展開したためだ。

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P-38は太平洋戦線でも必要とされていたが、1942年末になりやっと太平洋にも機材がまわせるようになった。太平洋の飛行隊にはベルP-39エアラコブラやP-40が装備されていたが日本軍戦闘機に大きく性能が劣っていた。

 

P-38第一陣がオーストラリアに到着すると設計面の不備が見つかり、実戦投入は遅れた。だが1942年末までにP-38はP-39に代わり第35戦闘機集団でニューギニア上空に登場し、日本軍にも存在が認知された。第49戦闘機集団にはP-40が配備されていたがその後ライトニングに転換している。

 

偶然による勝利 太平洋戦線でのP-38

 

太平洋戦太平洋戦線でのP-38の初勝利は偶然によるもので、それ以前の数週間にわたりP-38パイロットは戦果を挙げられず、日本軍もP-38を意図的に避けている感があった。同年11月にP-38編隊がラエ飛行場上空を哨戒中に日本軍戦闘機一機が離陸してきた。ニューオーリンズ出身の若いパイロット、フェローは高度を下げ日本軍機を攻撃しようとし、今回は爆弾を搭載していることを思い出しあわてて爆弾を投棄した。急いで後方に回り日本軍機が主脚を格納する前に撃墜するつもりだった。爆弾は滑走路端の海面に落下した。不運な日本軍機のパイロットは爆風で飛ばされ湾内に墜落した。ケニー将軍は若いパイロットをからかい、初のP-38での航空勲章は非撃墜のため対象にならないとしたが、その夜部隊を訪問し、パイロットに勲章を与えている。

 

1942年12月27日がP-38による南西太平洋上空の優勢を決定づける初日となった。ライトニング12機がポートモレスビーのラロキ飛行場にあったが、日本軍大編隊が同基地に向かい接近中との報をきき、トーマス・J・リンチ大尉がP-38編隊を率い離陸し、日本軍の戦闘機急降下爆撃機25機編隊を迎撃した。

 

戦闘が終わる日本軍機を15機撃墜した(公式陸軍航空軍戦史では戦闘機9機急降下爆撃機2機を撃破したとある)と報告があり、リンチ自身も2機撃墜を主張。ここにボングもおり同様に2機撃墜した。

 

ボングの戦果は本人の積極性に負うものが大きい。特に射撃にたけていたわけではなく、パイロットとして技量が傑出し極力接近して射撃した事で撃墜している。

 

最初の交戦でボングは編隊を抜け、自機が日本軍機に包囲されているとわかったが、即座に2機を撃墜し無傷で包囲から抜け出した。ボングはP-38で40機撃墜しているが、大戦末期に新型ジェット戦闘機のテスト飛行で死亡した。

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双発長距離飛行可能なP-38は南太平洋作戦で理想的な戦闘機で、ミラード・ハーモン大将はアーノルド大将に一貫してP-38の支給を求めていた。1942年末の連合軍はガダルカナルのヘンダーソンフィールド飛行場を巡り死闘を展開していた。

 

このヘンダーソンフィールドを狙い日本軍機が毎日のように襲撃を加え、海兵隊のF4Fワイルドキャット、陸軍のP-39、P-400(P-39の輸出仕様)といった旧式機が防御にあたった。各機は日本軍機より性能が劣っていた。

 

1942年11月にダグラス・マッカーサー大将が一部P-38をガタルカナルへ移動させる命令を出したのは戦況の行方が見えなくなっていたためだ。第39戦闘機飛行隊のP-38八機が11月13日にニューギニアからヘンダーソンフィールドへ移動した。11月14日に日本海軍への大規模攻撃を開始し、ガタルカナルへの日本軍補給活動を阻止し、結果として同島関連の戦役の方向を決定した。なお、ガダルカナル島の完全制圧は翌年2月のことである。

 

山本五十六提督機を撃墜したP-38はどちらだったのか。

 

1943年初頭、陸軍航空軍司令部がP-38を太平洋戦線に投入し、性能の劣るP-39、P-40に交代させはじめた。ガタルカナルを制圧し、南太平洋作戦区域ではソロモン諸島方面へ北に向け移動する作戦を立案した。3月になり第18戦闘機集団がP-40から機種転換途中だったがハワイから南太平洋に進駐した。ヘンダーソンフィールドに到着するや、18集団のパイロットは歴戦の勇士347飛行隊に合流した。

 

4月はじめに連合軍暗号解読部隊は山本五十六大将が南太平洋の前線部隊視察で現地移動することを知った。米側は山本の正確な移動日程をつかみ、4ブーゲンビルのバラレ飛行場に月18日0945時到着することまでわかった。

 

太平洋艦隊と真珠湾攻撃の恥辱の記憶が生々しい中でアーネスト・J・キング海軍作戦部長はガタルカナル地区のウィリアム・ハルゼイ米部隊司令官へ「山本をやれ」と下命した。ハルゼイは命令をソロモン地区航空司令となったマーク・ミッチャー提督に伝えた。

 

同地区で長距離飛行可能なのはP-38だけだったので命令は陸軍に回された。第18戦闘機集団第12戦闘飛行隊からパイロット8名、2名を第70戦闘飛行隊から選抜し、さらに347集団の339飛行隊から8名を確保した。第70飛行隊のトーマス・ランピエ大尉が攻撃役のP-38四機編隊長に、ジョン・ミッチェル少佐が作戦司式となり14機のP-38で援護を務めた。

 

18機編隊でヘンダーソンフィールドを4月18日0725時に離陸し、海面すれすれに2時間飛行した。ブーゲンビル島沿岸に近づくとP-38編隊は山本提督一行を視認した。三菱G4Mベティ爆撃機2機が提督と幕僚を乗せ、必死に攻撃を逃れようとし、ゼロ戦6機が攻撃部隊を阻もうとした。ランピエ大尉はゼロ戦一機を撃墜しベティ一機に攻撃を加え、同機は炎を上げながらジャングルに墜落した。レックス・バーバー中尉機が残るベティを撃墜した。

 

ランピエが山本機撃墜を認められたが、バーバーとの間で「山本をやった」のはどちらかで論争がほぼ半世紀にわたり繰り広げられた。実際に撃墜したのがどちらでも山本は幕僚大部分とともに生還できなかった。海軍十字勲章は指揮官ミッチェル少佐に与えられ、攻撃部隊の四名も同様に受勲した。

 

1943年5月に475戦闘機集団がオーストラリアで発足し南西太平洋地区でP-38のみで編成の最初の航空集団となるはずだった。当時の各集団には機種を混合して運用しており、P-39、P-40、P-47もあった。パイロット等人員はニューギニアでの戦闘を中断し、オーストラリアに送られ、新航空集団の中核人員となった。追加人員も米本土から合流し、新造機材が海上輸送され、7月に入るとP-38の118機がオーストラリアに揃い、機体調整を行い、戦闘に備えた。8月中ごろに戦闘準備が整いドボドゥラへ北進し、P-38とP-40で編成の49戦闘機集団に加わった。

 

第五空軍、第12空軍では航続距離の限界が戦闘機司令の悩みの種だった。ヨーロッパ戦線と異なり太平洋では戦闘は長距離飛行がつきもので、双発P-38は洋上飛行にうってつけの機材だった。単発機ではエンジン故障で海上不時着となる。双発戦闘機や軽爆撃機は一基が止まっても基地に戻れた。

 

リンドバーグとP-38

 

ケニー将軍隷下の戦闘機司令は制約となる問題に対し、想定外の解決方法で航続距離を伸ばしていた。増漕もその一つだったが1944年夏に思わぬ助けがやってきてP-38の戦闘行動半径が大きく伸びた。

 

1927年春、チャールズ・A・リンドバーグは航空分野の限界を一人で塗り替えた。ライアンの単発機スピリットオブセントルイスでニューヨークからパリまで大西洋横断飛行をやってのけたのである。その後のリンドバーグは戦闘機パイロット養成にあたり、自身も米陸軍予備役として超長距離飛行を時にアン夫人を伴い行っていた。

 

リンドバーグは陸軍予備役で大佐だったが孤立運動を続けるべく一度退役している。ヨーロッパで数年を過ごし、各国の空軍を視察し、最新鋭機材を自ら操縦士たリンドバーグは米国の参戦に強く反対していた。リンドバーグの孤立主義には米政権内部に憂慮の声があったが、真珠湾攻撃後に現役任務復帰を志願したがロウズヴェルト大統領が却下した。「一匹鷲の翼を折ってやったぞ」と側近に大統領が述べた。


 

リンドバーグの陸軍復帰は認められなかったが、それでも本人は米国の戦争努力へ多大な貢献をしている。まずフォード自動車のコンサルタントとしてコンソリデーテッドのリベレーター爆撃機の委託生産で問題点をつぶした。その後ユナイテッドエアクラフト社でF4Uコルせア事業に関与した。リンドバーグは南太平洋に民間人技術顧問として飛び、海兵隊のF4Uコルセア担当となったが、すぐP-38とつながることになった。

 

リンドバーグは米海軍の依頼で太平洋にいたが、単発機と双発戦闘機の性能比較に関心があり、ニューギニアへ飛ぶ命令を手に入れる。現地でホワイトヘッド将軍のもとへ赴き、475戦闘機集団に加わった。ケニー将軍の司令部が本人の到着を知るのは遅れ、その時点で本人は戦闘任務を数回こなしていた。

 

リンドバーグが到着しており、しかもP-38で戦闘任務に就いていることを知ったケニー将軍は高名な飛行士をブリスベーンに招いた。ケニーはリンドバーグをダグラス・マッカーサー大将に面会させ、「重要任務」を与えた。ニューギニアに戻り若手戦闘機パイロット連に航続距離を伸ばす飛行方法を教えることになった。

 

リンドバーグの解決法はいたってシンプルだった。陸軍パイロットは海兵隊のF4Uパイロットと本人から教育を受け、エンジン回転数を高め、マニフォールド圧も高いまま飛べばターボチャージ付エンジンの最大出力を引き出せるというのだ。リンドバーグは高マニフォールド圧にしてからプロペラ回転数を下げることで高出力を得ながら燃料消費が抑えられると伝えたが、陸軍ではこのやり方だとエンジンが「焼付く」と教えていたが、リンドバーグはそうならないと説得し、ケニーがその方法でミッションに出る許可を与え、リンドバーグの方法を体得したパイロットは従来は無理だった遠隔地までP-38を飛ばせるようになった。

 

リンドバーグのP-38への関与は日本軍との空中戦になり、二式水上戦闘機を撃墜したことで終わりとなった。数日後にもリンドバーグはゼロ戦に後部から狙われたが、飛行隊の経験豊かな同僚パイロットに助けられた。

 

リンドバーグの空中戦の知らせがケニーに届くとリンドバーグは地上待機を命じられたが、海兵隊で数回の戦闘ミッションで出撃してから本国へ戻った。結局戦闘ミッションは50回近く、撃墜一機の記録となった。だが金銭では表せない功績を太平洋地区の戦闘機パイロットに残し、航続距離を伸ばすことが可能となった。7月27日時点でリンドバーグは第8、第475の戦闘機集団におり、P-38編隊の記録を破る1,280マイルのB-24援護ミッションを実施したが、リンドバーグの教示なくしてはこうした実績は不可能だったろう。

 

 

リンチ、カービー、ボングのトップエース争いの結末

 

第五空軍、第十二空軍のP-38パイロットでエースが次々に出現した。リンドバーグのおかげで戦闘行動半径が伸びたことでP-38は日本軍の制空範囲内に侵入することが増えた。P-38集団には技量が高く戦闘意欲の高いパイロットが多く、なかでもトミー・リンチ、トム・マクガイヤ、ディック・ボングがいた。このうちリンチが最高水準の経験を誇り、日本軍相手に性能の劣るベルP-39エアラコブラで挑んでいた。1942年に戦域に加わったボングとは親友となり、ふたりでチームを組んだ。

 

もう一人トップの戦果を挙げたのがニール・カービー大佐でP-47を飛ばす348戦闘機集団司令だった。1944年3月までにリンチ、カービー、ボングの三名はトップの座をねらい僅差で争っていた。カービーとリンチは数日の差で戦死している。カービーは日本軍戦闘機により、リンチは地上砲火の犠牲となった。残るボングが単独でトップの座を守った。ケニーはボングが第一次大戦時のエース、エディー・リッケンバッカーの26機撃墜記録を破った4月10日まで飛行を許した。が同日に二機目を撃墜し合計27機となり、少佐に昇格させ直ちに本人を米本土に帰国させ射撃学校に入校させた。

 

10月中旬にボング少佐は極東空軍に復帰したが、不在中にトーマス・マクガイヤ少佐が撃墜数を伸ばし、ボングに8機差まで近づいていた。


 

ボングはケニー将軍に射撃学校で多くを学んだので実戦で生かしたいと希望を伝えた。皮肉にもボングは射撃の腕は悪く、以前も一回も射撃教程を受講していなかった。ケニーは却下したものの幕僚に加え、各飛行隊を巡回し教官となるよう手配した。

 

ボングはミッション出撃も許されその後も日本軍機を撃墜しついに合計40機となったが、ケニーは本人を失うのを恐れ本国帰還させた。その時点でマクガイヤはボングの撃墜記録にあと二機まで近づいていたが1945年1月7日に、機体が失速し地上激突しマクガイヤは死亡した。僚機がとくに戦闘意欲の強い日本軍機に狙われており援護しようとする際の自己だった。

 

P-38は理想的な写真偵察機だった

 

長距離性能と双発を生かしたP-38は極東空軍部隊で好まれた機体だった。アーノルド将軍がケニーにP-51生産を優先しP-38生産は終了させると告げると、ケニーは即座にP-51はこれ以上必要ではない、欲しいのはP-38だと告げた。ケニーは元ジェネラルモータース社長ウィリアム・ヌードセンにP-38生産の継続を約束させた。終戦までにP-38は日本軍1何機を撃墜していた。

 

ライトニング戦闘機型は日本、ドイツを相手に奮戦したが、写真偵察型も重要な役を果たした。開戦初期に陸軍補給部隊はP-38をF-4写真偵察機に改装すべく、機銃を機種からはずし、かわりにカメラを装着した。最初から写真偵察機として生産された機材はF-5の制式名称がついた。

 

写真偵察機となったライトニングはヨーロッパ、太平洋で重要な役割を果たした。太平洋戦線でP-38初の戦闘ミッションは改装偵察機型によるものでオーストラリアへ派遣された機体による1942年早々のことだった。1944年初めには改良型P-51マスタングがヨーロッパ戦線に登場した。燃料タンク追加により航続距離が大幅に伸びたP-51はヨーロッパですぐ人気の戦闘機となった。ただし、太平洋では話が異なり、P-38が一貫して終戦まで一番人気の高い機材だった。■

 

この記事は以下を再構成したものです。

 

What Made the Lockheed P-38 Lightning So Special?


November 26, 2020  Topic: Security  Region: Americas  Blog Brand: The Reboot  Tags: MilitaryTechnologyWeaponsWarLockheed Martin

The Lockheed P-38 Lightning was a Mainstay of U.S. Fighter Squadrons in Europe and the South Pacific.

by Warfare History Network

 

This article was first published by the Warfare History Network.

Image: Reuters


 

2020年12月5日土曜日

米軍支援機材をスタンドオフ攻撃する狙いのJ-20はその役目を果たせない。米軍の対抗戦術が明らかに。

 


 

国の第五世代ステルス戦闘機J-20は米軍の重要機材たる給油機、偵察機、空中指揮統制機を駆逐できるのか。

 

この興味深い疑問を雑誌Forbesで問いかけたのがロンドン在住のアナリストで可能性はあると断定した。この記事では米国および同盟国の機材はステルス性の劣るE-2Dのような偵察機材、トライトンのような無人偵察機、KC-46のような給油機に大きく依存していると指摘。

 

「有事になれば人民解放軍空軍がJ-20で中国沿岸を飛行させ、西側空軍部隊に一撃を与えようとするはず」とフォーブス記事にある。しかし、庫のような事態が本当に実現するだろうか。その可能性は低いとみる。

 

 

記事のアナリスト、ジャスティン・ブロンクは英国シンクタンクRoyal United Service Instituteの所属でJ-20は米F-22の前に優位性はないとする。ブロンクはJ-20は「重く、敏捷性にかけた機材で製造、運用に多額の費用が掛かる。F-22の卓越した性能や敏捷さには対抗できない」

確かにブロンクの指摘には一理ある。J-20はライバルのF-22と同様の性能はないと見られるからだ。だがF-22の機数が少なければどうなるか。米空軍にはF-22が180機近くあるが、同機生産ラインは完全閉鎖されており、この機数では対中国戦には十分とは言えない。

 

ただし、米海軍、空軍の作戦立案部ではF-22を使い、空母含む炊事王艦艇の防衛に充てる構想を検討中で、ブロンクの指摘には海軍が配備計画中のMQ-25スティングレイ無人給油機の必要性を裏付けるものがある。脆弱性がついてまわるKC-46への依存度を減らすだけでなく、作戦半径を大幅に伸ばし、F-22の監視体制を広大な太平洋で継続できる。太平洋では地理的なひろがりがネックで、F-35C、F-22ともにも空中給油の必要性が外せない。

 

F-22やF-35が攻撃あるいは防御行動に入るとき、空母発進型の給油機がそばにいれば大きく効果があがる。J-20はブロンクが想定するような戦い方はできないだろう。

 

また、ペンタゴンでは高性能ステルス無人機を運用開始しており、さらにステルス性能を高めた機材も将来登場するので、前方監視活動を敵防衛体制の中で実施する可能性が高まる。そこでJ-20が必死に偵察機を捕捉攻撃しようとしてくるはずだ。■

 

この記事は以下を再構成したものです。J-20の作戦思想がいまいちわかりませんが、先制攻撃でスタンドオフ攻撃する以外に効果があるのか疑問です。それよりF-22を空母打撃群を空から守る役目に投入する構想のほうに興味をおぼえませんか。


Could China's J-20s Take Out U.S. Tankers, Surveillance Planes, or Airborne Command Posts?


November 30, 2020  Topic: Security  Region: Asia  Blog Brand: The Reboot  Tags: ChinaJ-20Stealth FighterMilitaryF-22F-35

by Kris Osborn

 

Kris Osborn is the new Defense Editor for the National Interest. Osborn previously served at the Pentagon as a Highly Qualified Expert with the Office of the Assistant Secretary of the Army—Acquisition, Logistics & Technology. Osborn has also worked as an anchor and on-air military specialist at national TV networks. He has appeared as a guest military expert on Fox News, MSNBC, The Military Channel, and The History Channel. He also has a Masters Degree in Comparative Literature from Columbia University.

Image: Reuters



歴史のIF ジェット戦闘機橘花が実用化されていれば戦局はどうなっていた?

 コメント投稿が(また)できなくなったとのご報告をいただきましたが、こちらは設定をいじっておらず、Google側の話ではないでしょうか。お分かりになる方いらっしゃればご教示ください。コメント希望の方はしばらくお待ちくださいますようお願いします。

 

二次大戦中にジェット戦闘機を開発したのはドイツだけではない。ドイツが最先端だったのは確かだが大戦中に主要国がジェット機開発を進めており、日本もそのひとつであった。

その中で知名度が高い桜花はロケット推進式有人神風攻撃機であった。だが日本には終戦までに実際に飛行までこぎつけ終戦していなければ実戦投入されていたジェット機があった。中島飛行機の橘花である。

日本の科学技術陣は1930年代からジェットエンジン研究を始めていたが、政府支援がわずかでも、ターボジェット試作型は1943年に完成していた。日本政府はドイツのMe-262ジェット戦闘機の試験状況を1942年時点で知っていたものの、1944年にB-29が本土空襲を開始し、ついに海軍が皇国二号兵器の実現を求めこれが橘花になった。

橘花はMe-262のコピーだったのか

橘花とMe-262の外観が似たのは偶然ではない。だが単純な模倣でもない。日本のジェット機開発にはドイツの研究成果から得たものが多いが、ドイツの援助はそのまま実現したわけではない。1944年7月、ドイツ空軍トップのヘルマン・ゲーリングが日本にMe-262、ユンカースのユモ004、BMW003の両ターボジェットエンジン設計図、さらにMe-262実機の提供を命じた。だが輸送にあたった海軍潜水艦はシンガポール付近で米軍により沈められ、救援部隊はBMWエンジンの断面図一枚のみを回収しただけだった。

橘花には二つの面で注目すべき点があった。まず外観でMe-262を小型化した観があったが、ドイツ版と異なり橘花の主翼は直線翼だったことが性能面で不利だった。もう一つが最初から特攻兵器として開発されたことだ。航空史が専門のエドウィン・ダイヤーは「特攻任務を想定し、当初の設計では着陸装置はなく、カタパルト発進でRATOロケット補助離陸を想定していた」「計算上の航続距離がわずか204キロになったのはネ12エンジンの燃料消費率のせいだった。海面上の推定速度は639km/hで、機体に固定した爆弾が唯一の兵装だった。もう一つの特徴は折り畳み翼により機体を洞窟やトンネルに隠し敵襲を逃れることだった」と記している。

1945年3月になると橘花の任務内容は戦術爆撃や迎撃に変更され、30mm機関砲を使うことになった。エンジンもネ12からネ20に変更となったが、金属材料枯渇のため性能は劣化していた。実際には航空機生産現場は米軍の空襲を連日浴びていたが、8月7日に初飛行を実施している。ただし、二回目の飛行を試みた8月11日に離陸に失敗し橘花試作型は修理不能になった。

橘花が実戦投入されていれば戦局はどうなっていたか

構想では1945年末までに橘花を500機生産するとあったが、8月15日の日本降伏で無に帰した。その時点で完成機材は一機しかなかった。

では戦闘がそのまま続いていれば橘花はMe-262のような戦果を挙げていただろうか。Me-262A1Aの最高速度は540マイルだったが、連合軍のP-51Dは437マイルで大きく凌駕していた。橘花迎撃戦闘機型は443マイル想定でマスタングと同等となったが、初期ジェット機では機体制御、エンジン信頼性ともに未知数が多かったのも事実だ。

中でも興味をひかれるのは日本軍ジェット機が実用化されていれば太平洋の戦いの結果が変わっていたかだ。その答えはドイツにある。ドイツはMe-262を1,400機生産し、一部が1944年11月から終戦まで投入された。連合軍には脅威となったものの同機でドイツ第三帝国を救うことはできなかった。なんといっても連合軍の機材数が圧倒的に多く、英米両国がドイツ支配下の飛行場上空を監視し、Me-262を見つけるや脆弱な離着陸時を狙い攻撃したし、連合軍戦車部隊が地上を制圧した。

日本の燃料、原材料事情はドイツより劣悪で、ドイツ以上の戦果を挙げるのは不可能だったはずだ。橘花は米軍機に飽和され、実戦投入が早くとも一部の戦果を変更した程度だろう。1944年の米軍フィリピン侵攻がその例になっていたかもしれないが、その際も橘花の航続距離不足があだとなり、太平洋戦線で必要な長距離作戦の実施ができなかったはずだ。橘花は本土防衛任務に特化し、B-29の昼間爆撃を阻止したはずだが、米軍が夜間空襲に切り替えれば、レーダー装備の無い橘花では対応不能になっていたはずだ。■

この記事は以下を再構成したものです。

Could Japan's Kamikaze Jet Fighter Have Changed the Course of World War II?

 

December 2, 2020  Topic: Security  Region: Asia  Blog Brand: The Reboot  Tags: JapanWorld War IIMilitaryTechnologyWorld

The best answer is to look at what happened to Germany.

by Michael Peck

 

Like its big brother the Me-262, the Kikka was too little, too late.

Suggested Reading: Japanese Secret Projects 1: Experimental Aircraft of the IJA & IJN 1939-1945, by Edwin Dyer.

Michael Peck is a contributing writer for the National Interest. He can be found on Twitter and Facebook.

This article first appeared in 2018.

Image: Wikimedia Commons


2020年12月2日水曜日

おかげさまでPVが7百万の大台を突破しました。(2020年12月1日)

 

これからもよろしくお願いします。

民間航空が対象のターミナル1もぜひご愛顧ください。