ロシア巡洋艦モスクヴァがシリア近くの地中海に展開していた, December 17, 2015. Russian Defense Ministry Press Service via AP
ロシア海軍は数で劣るウクライナから被害を被った
敗北は、破滅的ではないものの、ロシアの威信が傷ついた
今回の敗北は、地球の裏側で起きた別のロシア海軍の大敗から117年後となった
ロシアが 2 月末にウクライナ攻撃を開始して以来、数で圧倒的に劣る敵がロシア海軍に目立つ大損失を与えている。
ロシアはラプター級巡視船5隻、タピール級揚陸艦1隻、セルナ級揚陸艦1隻を失い、特に黒海艦隊の旗艦だったスラバ級誘導弾巡洋艦モスクヴァを失った。
ロシア海軍の威信が傷つつき、ロシア海軍旗艦が最後に沈没した対馬沖海戦から1世紀余り経った今、ロシアに再度の歴史的大失敗となった。
1905年5月27日、28日に朝鮮半島と日本の間の海域で日露両帝国が戦闘を行った。この海戦の結果、日本は欧米列強と肩を並べる存在となったが、両帝国に多大な影響を与えた。
両帝国の競合
日露戦争(1904-05年)で旅順港を砲撃する日本海軍艦艇を描いた図Ann Ronan Pictures/Print Collector/Getty Images
1895年の日清戦争で日本が圧倒的な勝利を収めたことで、日本帝国とロシア帝国の緊張が高まった。
組織化され近代的な軍隊を備えた日本は、朝鮮と中国で野心を追求し、特に満州と朝鮮でのロシアの利権へ危険なほど接近した。
ロシアにとって特に重要だったのは旅順港(現在の中国・大連)で、ここはロシア帝国唯一の太平洋不凍結港であり、租借地だった。旅順港はロシア太平洋艦隊の司令部となり、シベリア鉄道でロシアと結ぶ計画があった。
同地域の将来をめぐる日露交渉は難航し、1904年2月8日、日本海軍は旅順港内のロシア太平洋艦隊主力部隊を攻撃し、数時間後に正式に宣戦布告した。
日本は比較的早く海軍の優位性を獲得した。ロシア太平洋艦隊の旅順封鎖解除の試みを撃退し、ロシアのウラジオストクを拠点とする戦隊をケムルポ湾と蔚山でほぼ撃破した。
敗戦を認められず、日本軍の旅順包囲を開始したロシア皇帝ニコライ2世は、バルチック艦隊の艦船で構成される第二太平洋艦隊の創設を命じた。
ジノヴィ・ロジェストヴェンスキー副将を司令官とする第2太平洋艦隊は、前弩級戦艦11隻、巡洋艦9隻、駆逐艦9隻を含む約40隻で構成された。
1904年10月にバルト海を出港した彼らは、旅順港にいる太平洋艦隊を救援し、遭遇した日本船を破壊し、日本とアジア本土の間の補給線を断つことになっていた。
日露戦争で、旅順港を日本が艇を沈め閉鎖し、ロシア艦パラダ(左)、ポビダ(右)が砲撃を受けた。Hulton Archive/Getty Images
日本は比較的早く海軍の優位性を獲得した。ロシア太平洋艦隊の旅順封鎖解除の試みを撃退し、ロシアのウラジオストクを拠点とする戦隊をケムルポ湾と蔚山でほぼ撃破したのである。
敗戦を認めない間に、日本軍の旅順包囲開始を知ったロシア皇帝ニコライ2世は、バルチック艦隊艦艇で第二太平洋艦隊の創設を命じた。
ジノヴィ・ロジェストヴェンスキー中将を司令官とする第2太平洋艦隊は、前弩級戦艦11隻、巡洋艦9隻、駆逐艦9隻含む約40隻で構成された。
1904年10月にバルト海を出港した艦隊は、旅順港に残る太平洋艦隊を救援し、遭遇する日本艦艇を破壊し、日本とアジア本土の間の補給線を断つ任務を受けた。
1904年8月、サンクトペテルブルク近郊のクロンシュタットにて、対馬海戦でロシア旗艦となった帝国戦艦クニャズ・スヴォーロフ。公式写真 Official photograph
1904年8月、サンクトペテルブルク近郊のクロンシュタットでの帝政ロシア戦艦ボロディノ。Official photograph
呪われたロシア艦隊
ロシア海軍では1800年代後半から近代化が進んだが、第2太平洋艦隊は書類上では強そうに見えても、部隊としては二流だった。戦艦には新造艦もあるが、多くは旧式で老朽化の一途だった。また、砲を搭載した補助艦艇に過ぎないものさえあった。
また、ロシア海軍指導層の質も低かった。将校の多くは、裕福でコネのある家系の出身で、昇進を金で買っていただけである。水兵も未熟な徴募兵が多く、プロ意識は希薄だった。
これらの問題は、7カ月間、1万8千マイルに及ぶ太平洋への旅で、存分に発揮された。
イギリス近海の北海で、艦隊はイギリスの漁船トロール船を、なぜか日本水雷艇と勘違いし砲撃した。その結果、漁民2人が死亡、1人が負傷、1隻が沈没し、4隻が損傷した。この混乱で、ロシア艦艇には互いに発砲し合い、死傷者を出したり、損害を与えたものがあらわれた。
外交工作により、イギリスが日本側で参戦することは何とか阻止できたが、ロシア艦隊の苦難はまだ始まったばかりだった。
ロシア艦隊のほとんどはスエズ運河を通らずアフリカを回った。気候の違いや長時間の航海を経験していない乗組員にとって、航海は大きな負担となった。艦にも大きな負担がかかる。巡洋艦が曳航する模擬標的を使う砲撃訓練で、命中させたのは巡洋艦だけだった。
同盟国がないロシアは、友好的な港に停泊できないため、洋上で石炭を多く積まなければならなかった。船内の状況は悪化し、病気や呼吸器系の問題で多くの水兵が死亡した。
1月にマダガスカルに到着した時点で、旅順は陥落していた。ウラジオストクでロシア太平洋艦隊の残党と合流し、日本軍との決戦に臨む計画に変更された。
1905年5月27日未明、対馬でロシア軍迎撃に出航した日本艦隊。戦艦「朝日」から見た。 via Wikimedia Commons
Shigetada Seki via Wikimedia Commons
1905年6月27日、マニラ湾にて、対馬沖海戦の被害を示すロシアの防護巡洋艦オレグ。Collection of P.H. Proctor via Wikimedia Commons
対馬の惨劇
1905年5月26日夜、ロシア艦隊が対馬島海峡に到着した時、ロジェストヴェンスキーは気づかれずに通過しようとした。不幸にも、日本艦に発見された。
もっと不幸だったのは、発見されたロシア船が日本艦をロシア艦と誤解して、もっと多くのロシア艦船が付近にいると信号を送ったことだ。
敵の位置を確認した東郷平八郎大将の連合艦隊は4隻の近代戦艦、20隻余りの巡洋艦、21隻の駆逐艦、そして43隻の水雷艇でロシア艦隊迎撃に出動した。
5月27日朝、両艦隊は接触した。東郷は砲撃開始前に信号旗を掲げ、あらかじめ決められたメッセージを艦隊に伝えた。「帝国の運命はこの1戦にかかる、各人最大限の奮闘をせよ」。
続く戦闘は大虐殺となった。訓練、規律、経験に加え、日本軍は徹甲弾を装備していたので、ロシア艦を引き裂くことができた。
同日の終わりまでに、日本軍はロシア戦艦4隻を撃沈した。アレクサンドル帝王3世Imperator Aleksandr IIIは700人以上の乗組員全員と一緒に沈み、ボロディノBorodinoは800人以上の乗組員のうち一人を除いて全員と沈んだ。
旗艦クニャース・スヴォーロフは20人の将校を除き全員が艦と運命をともにし、オスルヤの乗組員の約半数が艦とともに沈んだ。日本軍は巡洋艦と駆逐艦多数も撃沈した。
夜になると、残存艦は暗闇にまぎれウラジオストクに向かおうとした。東郷の駆逐艦はこれを追い詰め、さらに戦艦2隻他の軍艦を撃沈した。翌日の午後には、生存者のほとんどが降伏した。
失われた威信
1905年10月22日、東京に戻った東郷平八郎元帥を歓迎する日本国民ullstein bild/ullstein bild via Getty Images
ロシア海軍の損失は甚大で、21隻が沈没または自沈し、7隻が拿捕された。3隻のみがウラジオストクに到着したが、他の6隻は中国、フィリピン、マダガスカルの中立港に到着できた。
日本軍は4千人余りのロシア水兵を殺し、6千人余りを捕虜にした。日本軍は3隻の魚雷艇を失っただけで、死者117人、負傷者約500人で、真珠湾攻撃の首謀者若い山本五十六は、戦闘で指を2本失った。
ロシア海軍の威信は対馬海戦の後、回復することはなかった。第一次世界大戦では、大規模な再建ができず、主要な戦闘は皆無だった。ソ連海軍は第二次世界大戦でも限られた戦いしかせず、冷戦時代にも実力を発揮することはなかったが、ソ連潜水艦はNATOの海軍にとって常に懸念材料であった。
現在、ロシア海軍は小規模ながら近代的な艦隊を誇り、外洋での作戦よりも近海水域での作戦に重点を置いているが、ウクライナ戦での驚くべき敗北は、100年前に失った優位性をまだ取り戻せていないことを物語るものだ。■
Surprising Russian Navy Losses Against Ukraine Century After Tsushima
The Russian navy's surprising losses against Ukraine are reminders of another humiliating defeat 117 years ago
Benjamin Brimelow
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