2023年1月20日金曜日

ドイツは国防相交代でウクライナ支援への姿勢を大きく変えられるか。1月20日の有志国会議で結果が明らかに。第二次大戦後のねじれた軍事力への心情が今も作用しているのか。

 


リスティーン・ランブレヒトChristine Lambrecht防衛相の後任としてニーダーザクセン州の元内相ボリス・ピストリウスBoris Pistoriusが就任したことで、ドイツは転換期を迎えている。



ショルツ首相は2022年2月、連邦議会で劇的な演説を行い、「ツァイテンヴェンデ Zeitenwende」(新時代)を宣言したが、その約束は果たされていない。1月20日に米軍ラムシュタイン基地で開催されるウクライナに関するNATO国防相会議が、今、彼に2度目のチャンスを与える。

 ロシアの新たな脅威に立ち向かうドイツは、かつて第二次世界大戦後に軍備を整えようとしたときと同じような問題意識と心情に直面している。その鍵を握っていたのが、キリスト教民主主義派のコンラート・アデナウアーKonrad Adenauer首相である。アデナウアーは、地政学的な優位のために東と西の間を行き来していたドイツの古き悪しき過去と決別しようと決心し、頑強な大西洋主義者としてボンを西側に根付かせようとした。そのため、ドイツ国防軍の元将軍で、後にドイツ初のNATO司令官となったハンス・シュパイデル Hans Speidelの協力を得て、ドイツの安全保障は西ヨーロッパの不可欠な一部であると主張する一連の論文を執筆した。

 デニス・L・バークとデヴィッド・R・グレス共著の歴史書『From Shadow to Substance』で、1949年にシュパイデルがアデナウアーに「アメリカの武器を装備したドイツ軍15師団を一度に創設する」ことを推奨する覚書を作成したことを指摘している。ドイツ国民の大多数は軍創設に反対していた。ナチスから社会民主党の議員に至るまで、前者は西側への売国行為とみなし、後者は東側との関係を危うくすると考えていたからである。しかし、冷戦初期に、アメリカ、フランス、イギリスは、西ドイツ自身が貢献しなければ、スターリンのソ連からヨーロッパを守れないことを悟った。朝鮮戦争が勃発し、再軍備は当然となったが、連邦軍の正式発足は1955年11月であった。社会民主党にあった平和主義的な感情やロシアへの同情は、1970年代の譲歩的なオストポリティーク(対立よりも経済的、政治的、文化的関与に基づく新しい政策)に現れ、ソ連に対する強硬姿勢が骨抜きにされたと見なされたことへの直接的な反動であった。

 ドイツ陸軍はドイツ社会では望まれない継子であり、自由の防波堤というよりは、むしろ残念な必需品だった。しかし、冷戦終結後、事態はさらに悪化した。戦争の脅威は完全に過去のものとなり、ドイツ連邦軍は荒廃し、ドイツのメディアはこれを嘲笑の対象とした。かつての激情型ドイツ軍に代わって、茫然型ドイツ軍が登場したのである。

 ランブレヒト前国防相は、陸軍の近代化のために1000億ユーロの追加支出を政府が承認したにもかかわらず、ドイツ陸軍の近代化に着手できなかった。彼女は、ドイツがウクライナに5000個の軍用ヘルメットを援助すると宣言し、ベルリンで彼女の周りで花火が爆発しても、ウクライナでの個人的な出会いを賞賛する明るい年越しビデオを投稿し、さらに侮辱を加えた。

 ピストリウスはその日を救えるのか?火曜日にハノーバーで行われた最初の発言で、ピストリウスは言葉を濁すことはなかった。彼は、「連邦軍は、ロシアのウクライナ侵略戦争によって生じた新しい状況に適応しなければならない。私たちに立ちはだかる時代に向けて連邦軍を強化したい」と述べた。ピストリウスは、ポーランドとフィンランドからウクライナへのレオパード2戦車の出荷を今すぐ許可するようドイツに主張しなければならない。

 しかし、クリストフ・フォン・マルシャルが鋭く指摘するように、問題は、ショルツがモスクワとの敵対を恐れた過去の失策を認めるか、軌道修正を避けるかである。まず、ウクライナへのレオパード2戦車の輸送を承認することから始めることができる。

 これまで、ショルツの連立パートナーである自由民主党と緑の党は、ウクライナを支援しクレムリンを非難することについて、ショルツよりもはるかに率直であった。社民党の多くは、モスクワとベルリンの間にかつて存在した居心地の良い関係の未来に戻る考えに固執している。しかし、ロシアのプーチン大統領がウクライナで犯した戦争犯罪は、これが危険な幻影であることを意味している。ドイツは再び西側へ向かうべき時が来たのだ。■


Germany’s new defense minister appears set to take a harder line against Russia. Will Chancellor Olaf Scholz let him?

by Jacob Heilbrunn 

January 17, 2023  Topic: Russia-Ukraine War  Region: Europe  Tags: GermanyRussia-Ukraine WarNATOLeopard 2Military AidGerman Military


Jacob Heilbrunn is editor of The National Interest.


2023年1月19日木曜日

北京にとって都合の悪い事実 中国の人口減少は史上最大規模となり、焦る習近平が周辺国を驚かす行動に出るリスクは高まる。台湾以外にインドにプレッシャーとなる。日本もうかうかしていられない。

 

REUTERS/Florence Lo/Illustration


曜日、中国は1961年以来はじめて人口減少を発表した。国家統計局は、昨年956万人が生まれ、1041万人が死亡したと報告した。



2022年の中国の総人口は14億1200万人で、前年より85万人減少すると当局が発表した。

 同国の長い人口減少が始まった。今世紀末に、中国の人口は現在の3分の1程度になるという。この予測は歴史上最も急激な減少だ。

 中国当局が人口を大幅に誇張しているとの指摘もある。ウィスコンシン大学マディソン校の李福賢が昨年半ばに書いた記事によると、実は12億8千万人であり、公式の14億1千万人ではないとある。中国で人口減少が始まったのは、2018年だと李は書いている。北京の人口統計数字は、公式・非公式問わず、その他データと整合性がとれていないと指摘した。

 いずれにせよ、中国は急降下している。

 例えば、国連経済社会局の予測は、驚くべきもので、『世界人口展望2022』では、北京の公式数字をほぼ基に、2100年の人口を高バリエーションで11億5300万人と推定している。中央値は7億6,667万人である。低推計値は4,879億3,000万人で、いずれも最も誤差が少ない。国連発表の低位推計値は下がっており、2019年発表の推計では6億8405万人だった。

 2022年の低変量でさえ、高すぎるように見える。西安交通大学の人口統計学者は2021年末、中国の人口が45年以内に半減すると推定した。

 一方、中国の昨年の合計特殊出生率Total Fertility Rateは1.18で、世界の人口上位10カ国で最低だ。2020年には0.9まで下がっているかもしれない。そうだとすると、昨年のTFRはさらに低くなっていることになる。

  しかし、現在のTFRがいくらであろうと、今後数年で低下することに間違いない。共産主義青年団が昨年行った調査によると、18歳から26歳までの中国都市部の女性の44%が結婚する意志がなかった。未婚女性は出産に必要な許可証を得ることができないため、これは重要なことだ。

 中国の人口問題は、女性が夫を見つけなければならないという文化的要請を拒否していることにとどまらない。悲観論が蔓延し、経済が衰退していることも、子供を産もうというカップルの意欲に影響を与えている。

 中国がまだ危機的状況にあると思っていない人もいる。シンガポールの元統計主任、ポール・チャンはBBCに、「彼らはすぐに破滅のシナリオに入るわけではありません」と語った。チャンによれば、中国には 「豊富なマンパワー」と「多くのリードタイム 」があるという。

 人口動態の変化は何十年もかけて起こるもので、これはすべて正しいが、北京の人口変化を逆転させる計画は、ほとんどの政府と同様に、明らかに失敗している。Gavekal Dragonomics社のChristopher BeddorはBloomberg Newsに、「出生率を上げる対策はあまりにも小さく、遅すぎ、ゼロコロナが出生率に与えた影響に完全に圧倒されてしまった」と述べている。「核心的な問題は、出生率低下は深い構造的要因で引き起こされるため、政策で達成できることは限られているということです」。

 北京は2016年初めに悪名高い一人っ子政策を捨て、二人っ子政策に切り替えた。その後、2021年に「三人っ子政策」を採用した。しかし、出生数は一向に増えていない。それどころか、昨年は中華人民共和国の歴史上、最も低い出生率になった。

 いずれにせよ、2020年12月に官報「中国日報」が述べたように、「トレンドは不可逆的である」。もし、国民多数が信じているように、「中国台頭の真の力は強力な生殖力」ならば、壮大な中国国家は容赦なく逆方向に向かっていることになる。

 昨年5月に中国で流行し、検閲されたハッシュタグに「ごめんね、私たちは最後の世代なの、ありがとう!」があった。

 では、なぜ中国人は中国の人口動態に関心を持つのか?

 Brahma Chellaneyが答えを知っている。「人口危機、経済成長の停滞、不利な世界環境に直面する前に、中国には自国に有利な世界秩序を修正する戦略的チャンスがあると信じ、習近平は大きなリスクを取っている」と火曜日にツイートしている。

 「東洋が台頭し、西洋が衰退する」という習近平と演説したが、中国が不可逆的に衰退する社会だと人々が考え始めてしまえば、その考えの維持は至難の業だ。そうなると、習近平は 「中国の夢 」の実現を急ぐ必要に迫られる。

 それは同時に、習近平がリスクに対する閾値を低くし、他国を驚かす可能性が高まることを意味する。

 例えばインドだ。先月、中国はアルナチャル・プラデーシュ州で大規模な地上侵攻を行い、新たな戦線を張った。中国の思想家には、手遅れになる前にインドを解体しなければならないと主張する人もいる。

 ちなみに、インドの人口は中国を追い越したばかりだとの見方が多い。ウィスコンシン大学マディソン校のYiは、2014年にインドが中国を追い抜いたと考えている。

 習近平は、今世紀半ばにインドの人口が横ばいになる頃には、インドの人口が中国より10億人近く多くなることを確実に知っている。

 嫉妬深い中国は、インドを、あるいは他の国々を、放っておくわけにはいかないだろう。■



China Will Lose a Billion People By 2100 - 19FortyFive

ByGordon Chang



A 19FortyFive Contributing Editor, Gordon G. Chang is the author of The Coming Collapse of China and The Great U.S.-China Tech War. Follow him on Twitter @GordonGChang

In this article:China, China Population, Chinese Economy, Demographics, featured, India


2023年1月17日火曜日

新編成となる米海兵隊沿岸連隊の意義についてホームズ教授が解説。琉球諸島は海の万里の長城になる

 

沖縄県

 

週、読売新聞は、米海兵隊が、琉球列島に沿い島々を移動できる海兵隊沿岸連隊を設立すると報じた。九州の最南端から、中間の沖縄まで、台湾北部まで弧を描く範囲を動く連隊だ。センサーやミサイルを搭載した小分隊で新連隊を構成し、敵対する海・空戦力を偵察し、接近してきた場合に撃退する。

 

 海兵隊沿岸連隊は、デビッド・バーガー海兵隊司令官が提唱する「フォースデザイン2030」の一環で、海兵隊をアクセス拒否型部隊に再編成する構想だ。構想では、海兵隊は米海・空軍や自衛隊と連携し南西諸島に展開する。連隊編成の遠征部隊は、中国の対アクセス兵器に対抗するため「立ち入る」ことをめざす。

 そして、地理的空間をデフォルトで中国に譲り渡す。海兵隊と同盟国は譲歩を拒否する。

 連隊は、中国人民解放軍の南西諸島へのアクセスを拒否し、日本の主権を守り、中国海軍と商船が島々の間の海域を通過する能力を拒否する、2つの目標を掲げる。島々を守り、海峡を封鎖すれば、島々は日米の歩哨が守る万里の長城になる。

 その結果、中国海軍と空軍を中国海域に閉じ込め、水上作戦に不可欠な作戦空間を奪う。

 軍事戦略は、スポーツ同様に、ホームチームが訪問チームより優位に立つ定説がある。本拠地が近く、戦場となりそうな場所に部隊がいる。地形を、訪問者より知っている。などなど。中国は、米軍や同盟軍に対しホームフィールドの優位性を活用し、沿岸地帯に巡航ミサイル、弾道ミサイル、極超音速ミサイル、ミサイル搭載航空機をばらまいている。中国海軍の潜水艦や水上哨戒機と連携し、海岸に設置されたこれらのシーパワーは、強力な敵チームでも手こずりそうだ。

 しかし、ホームチーム同士の対決となればどうか。日本と中国の軍隊は同じフィールドでプレーしており、同じような利点を享受する。アジアの強豪両国は7世紀以来、一進一退の攻防を繰り返してきた。1890年代の日清戦争から日本の独壇場となり、中国が覇権を取り戻そうとしている。中国がホームグラウンド・アドバンテージを駆使しているとすれば、米国と日本は遅ればせながら、戦略的地理、同盟外交、海洋権力を駆使して、倍返しをしようとしているのである。

 要するに、同盟国は自国の優位性を利用する。海上の万里の長城が、中国がそれを破ろうとするのを阻止するほど禁断的なものであるよう願うばかりだ。でなければ、ホームチーム同士が戦場で出会って、どちらが勝つのか知ることはないだろう。

 知らないままでよいのだ。

 さて、米海兵隊と仲間たちが琉球での戦略と作戦を描く際は、カール・フォン・クラウゼヴィッツの「紐育戦法」という賢者の助言に耳を傾けるべきだ。海上の長城とは、島々という不動の監視塔を持つ、拡張された防衛境界線にほかならない。クラウゼヴィッツは、防衛線を信用しない。「防衛線が攻撃者に与える障害は、それを支える強力な火力なしには価値がない」と彼は主張する。

 クラウゼヴィッツは、19世紀ヨーロッパの陸上戦において、拡大した戦線の守備隊を主に考えていた。しかし、彼の警告は21世紀のアジアでも有効だ。境界線防衛を代数学的に考えてみよう。定義上、どんな線も無限に続く点の集まりであり、優れた兵力を集結できる競合相手が戦闘に勝利する傾向がある。防御側は無限の点で敵より強くなることはできないので、攻撃側に有利だ。攻撃側は、戦線のある地点に戦闘力を結集し、防御側を圧倒し、打ち勝てる。

 クラウゼヴィッツは、防衛線を短くし、特定の場所と時間における地上兵力の不一致を火砲で補う解決策をとった。海兵隊と日本は、琉球列島の防衛線を短くできないが、同時に島は動かない。これはかなり大きなアドバンテージだ。中国の商船や中国海軍艦艇が島を突っ切ることはできない。結局、島しょ防衛の課題は、PLA水陸両用軍を琉球沿いに上陸させないことと、海峡を封鎖することに尽きる。これは頑丈な防衛線になる。

 海峡とは本来、狭い海である。そのため、琉球の防衛線は、海岸、海上、上空から発射されるミサイルの影になる短い紐の連なりだと考えればよい。それが作戦として成立する。プロイセンの巨匠は、紐育戦法に難色を示したものの、「フォースデザイン2030」の実戦結果を見て、ニヤリと笑うかもしれない。

 そうあってほしい。■

 

The U.S. Marine Corps: Now An Access-Denial Force to Fight China? - 19FortyFive

By James Holmes

 

 

A 19FortyFive Contributing Editor, Dr. James Holmes is J. C. Wylie Chair of Maritime Strategy at the Naval War College and a Nonresident Fellow at the Brute Krulak Center for Innovation and Future Warfare, Marine Corps University. The views voiced here are his alone.

In this article:A2/AD, Access-Denial, China, featured, Force Design 2030, Marines, U.S. Marines


2023年1月16日月曜日

朝鮮戦争での航空戦の教訓は今日に特に有効だ。(現状は朝鮮戦争開始前の準備不足の状態に極めて近い)

 

温故知新。現在の米空軍の状況は朝鮮戦争開戦前の状況と似ているとの指摘で、ミッチェル研究所幹部が今、中国との大規模航空戦が戦えるのか検討しています。Air and Space Forces Magazineに転載された論文のご紹介です。

朝鮮戦争でこのC-47のような損傷機は、部品取りに使われた。部品や整備、航空機の不足を理由にした出撃制限は、朝鮮戦争で起こったように、大きなリスクをもたらす。今日戦争が始まれば、人員や機体の不足を補う時間はない USAF




第二次世界大戦後の軍縮で、米空軍は準備が不十分だった。今日との類似点には啓発されるものがある


朝鮮軍は1950年6月25日(日)午前4時に38度線を越え韓国に侵入し、世界の安全保障環境を根本的に変えた戦争が始まった。韓国とアメリカの陸上部隊は不意を突かれたが、航空戦力がパニック状態の後退を効果的な反撃に転換させた。航空戦力は、戦略、作戦、戦術の各レベルで主要手段となり、地上軍だけでは実現できない航空優勢、空対地攻撃、近接航空支援、偵察、指揮統制で機動力を発揮した。最終的には、航空戦力で国連軍は敵対行為を終了させることができた。

 しかし、航空部隊は作戦用機材の不足など、厳しい課題の克服を迫られた。前線投入された航空機の多数は第二次世界大戦時の機材で、メンテナンス問題で稼働できないことが多かった。さらに、朝鮮半島に適切な飛行場がなく、日本からの飛行が必要となり、航続距離が極限まで伸びた。また、ロシアとの戦争になることを懸念し、主要な敵戦力を標的にできないため、司令部の決定は複雑になった。一方、地上部隊の指揮官は、航空戦力をどう活用するのが最善かについて、航空指導者と衝突した。

 空軍は、老朽機の在庫、十分な空軍基地の利用可能性、訓練能力の不足、航空戦力の最適な活用方法に関する共同司令部との意見の相違など、一連の課題に対処しようとしており、これらの経験は今日でも関連性がある。


Download the entire report at http://MitchellAerospacePower.org.

No Bucks, No Air Power

North Korea’s invasion of the South was a surprise to the United States and its allies, who were not ready to fight so soon after World War II. Massive disarmament efforts had slashed the U.S. Air Force active aircraft inventory 82 percent from its peak in WWII to 1950. A mere 2,500 jets of all types populated Air Force ramps, and the rest were predominantly WWII leftovers of dubious technological relevance. Air Force manpower and budgets had been slashed, squeezing training pipelines, spare parts inventories, maintenance depots, and logistics lines. Everything was in short supply. 

The Cold War was now well underway. Air operations over Korea ranked behind Cold War activities as national concerns, and leaders prioritized maintaining sufficient reserves in Europe to deter and, if necessary, fight a war against Soviet forces. The same held true for defending the continental United States. The Air Force was now too small to concurrently meet the nation’s requirements. 

The motley collection of aircraft in theater at the start of the war included 657 airplanes: F-80 jet fighters, F-82 Twin Mustang propeller-driven interceptors, B-29 and B-26 bombers, plus C-54 and C-47 WWII-era transports. USAF’s Far East Air Force (FEAF), the command responsible for air operations over Korea, asked for more aircraft, but too often spares did not exist or were not readily accessible. Airmen were left to improvise with was available. To meet the demand for more F-80s, early models lacking key combat capabilities had to be rapidly upgraded and deployed. 

In March 1951, FEAF commander Gen. George E. Stratemeyer wrote to Gen. Hoyt  S. Vandenberg that he was losing F-80s so quickly that new types, like the F-84, had to be rushed to Korea to sustain operations. One month later, FEAF lost 25 P-51s, 13 F-80s, and 2 F-84s to ground fire. Strategic Air Command, worried that F-84 crews were losing bomber escort proficiency for the nuclear deterrence mission, withdrew their F-84s later that year, further squeezing the force. Backfill fighter aircraft were receiving just a 10 percent attrition reserve, rather than the 50 percent required for a combat unit. 

Shortages affected everyone. In August and September of 1951, B-26 squadrons lost 11 aircraft, but the Air Force had no combat-ready replacements available, and no production line to produce new planes. Desperate to offer combat units a solution, Air Force leaders deployed B-26s without required operational capabilities. 

A pilot shortage contributed to the troubles. The A-26 training pipeline produced only 45 crews per month, too few to overcome FEAF attrition that demanded 58 to 63 crews a month. FEAF air commanders had to limit A-26 sortie rates, matching not what combat requirements demanded, but what crew and aircraft backfills could sustain. 

Parts shortages further degraded sortie rates. Production lines had long since closed for WWII-era aircraft, so there was no ready source of component parts. By January 1952, the F-86 mission capability rate was just 45 percent. Spare parts supplies were programmed at peacetime, not wartime rates, forcing planners to ration flight hours to what they could sustain. 

Rapid technological development ratcheted up the pressure. Air Force pilots challenging communist opponents over MiG Alley along the North Korea-Manchurian border began the war flying propeller-driven and early jet aircraft. But on Nov. 1, 1950, Chinese pilots flying Soviet MiG-15s squared off against U.S. aircraft over the Yalu River. “Almost overnight, communist China has become one of the major air powers of the world,” Vandenberg declared.   Air Force leaders had no choice but to deploy their newest fighter, the F-86 Sabre. 

The first F-86 engagement against MiG-15s followed just weeks later, on Dec. 17, 1950, and for the rest of the war, the U.S. Air Force would struggle to keep enough F-86s in the Korean theater to control the skies. F-86s were often outnumbered by MiG-15s three or four to one, even by accelerating F-86 production with added manufacturing capacity in Canada. 

予算なければ、航空戦力もない

 北朝鮮の南侵は、米国と同盟国を驚かせたが、第二次世界大戦後すぐ戦える状態ではなかった。大軍縮で、アメリカ空軍の航空機保有数は第二次世界大戦のピーク時から1950年までに82%削減された。ジェット機は2,500機しかなく、残りは効果が疑わしい第二次世界大戦の残り物だった。人員と予算は削減され、訓練のパイプライン、予備部品の在庫、整備工場、物流ラインは圧迫された。すべて不足していた。

 冷戦はすでに始まっていた。朝鮮半島の航空作戦は、国家的な関心事として冷戦の下に位置づけられ、指導者たちはソ連軍を抑止し、必要であれば戦争を遂行するためヨーロッパに十分な予備兵力を維持する方を優先させた。米国本土防衛についても同様だった。空軍は、国家の要求を同時に満たすには、小さくなりすぎていた。

 開戦時、戦場にあった航空機は657機だった。F-80ジェット戦闘機、F-82ツインマスタングプロペラ迎撃機、B-29とB-26爆撃機、そしてC-54とC-47第二次世界大戦時代の輸送機である。朝鮮半島での航空作戦を担当する米空軍の極東空軍(FEAF)は、航空機増産を要求したが、スペアが存在しない、あるいは容易に入手できないことがあまりに多かった。予備機がなく、入手しにくいことが多く、航空隊員は手持ち機材で即席対応を迫られた。F-80の増産要求には、戦闘能力を欠いた初期モデルを迅速にアップグレードし、配備する必要があった。

 1951年3月、FEAF司令官ジョージ・E・ストラテマイヤーは、ホイト・S・バンデンバーグ将軍に、F-80があまりにも早く失われたため、F-84含む新型機を韓国へ急行させ、作戦を維持しなければならない、と書き送った。1ヶ月後、FEAFはP-51を25機、F-80を13機、F-84を2機、地上戦で失った。戦略空軍は、F-84搭乗員が核抑止任務の爆撃機の護衛能力を失っていることを懸念し、同年末にF-84を撤退させ、戦力をさらに縮小させた。後方支援戦闘機には、戦闘部隊に必要な50%ではなく、10%の消耗予備費が与えられるだけであった。

 不足はすべてに影響した。1951年8月と9月、B-26飛行隊は11機失ったが、空軍には投入可能な代替機がなく、新しい飛行機を生産するための生産ラインもなかった。空軍指導層は、戦闘部隊に解決策を提供することに必死になり、必要な運用能力がないB-26を配備してしまった。

 パイロット不足も問題を大きくした。A-26訓練課程は月に45人しか排出できず、月に58から63人を必要とするFEAFの消耗を克服するには少なすぎた。FEAFはA-26の出撃率を制限しなければならず、戦闘要求より、乗員と機材補充に合わせなければならなかった。

 部品不足がさらに出撃率を低下させた。第二次世界大戦時の航空機の生産ラインは長く閉鎖されていたため、構成部品をすぐ調達できなかった。1952年1月までに、F-86の作戦遂行率はわずか45%であった。予備部品の供給は戦時中のレートではなく、平時レートで計画されていたため、計画者は飛行時間を維持可能な範囲に割り当てることを余儀なくされた。

 さらに、急速な技術開発がプレッシャーとなった。北朝鮮と満州の国境に沿ったミグ・アレイで共産主義の敵に挑む空軍パイロットは、プロペラ機と初期型ジェット機で戦争を始めた。しかし、1950年11月1日、ソ連のMiG-15に乗る中国パイロットが鴨緑江上空で米軍機と対決した。「一夜にして、共産中国は世界の主要な航空大国の1つになった」とバンデンバーグは宣言した。 空軍のは、最新鋭の戦闘機F-86セイバーを配備するほかなかった。

 F-86がMiG-15と初めて交戦したのは、数週間後の1950年12月17日である。その後、アメリカ空軍は韓国戦線で空を支配するためF-86を十分な規模で維持するのに苦労することになる。F-86は、カナダでの製造能力を加え生産を加速しても、3、4対1でMiG-15に劣勢に立たされた。

 第二次世界大戦後、飛行予算が削減され、新しいパイロットは必要な飛行訓練を受けられなくなった。戦闘能力は低下した。航空機が不足していたため、非戦闘的な任務はほぼ不可能になった。

 航空戦のシステム全体が大きくバランスを崩し、航空兵は命をかけて犠牲になった。しかし、航空優勢を失えば、戦争の全側面に深刻なリスクが生まれる。国連軍地上部隊は無差別空爆を受けることになる。敵の兵站線に対する攻撃任務が維持できなくなる。沖合で活動する海軍部隊は、さらに沖合への退却を余儀なくされる。勝つために飛んで戦うのではなく、生き延びるために航空兵力を管理すれば、危険なリスクを伴う。もしこれらの作戦が同程度の戦力を有する勢力の脅威に対するものであったなら、破滅的な結果になっていたかもしれない。



基地なくして航空戦力なし

 共産主義軍が南部に侵攻開始したとき、地域には10箇所の主要飛行場があったが、ほとんどは修理不十分な第二次世界大戦の遺物だった。水原と金浦の2カ所だけが、コンクリート滑走路だった。他は砂利、土、芝生の飛行場で、ジェット機は対応できない。戦闘技術者も不足していた。FEAFは、士官定員4,315人のうち、半分強の2,322人しか充足できなかった。時代遅れの装備が仕事を難しくしていた。部隊をフル稼働させるのに1年以上かかり、人材の育成にも時間がかかった。

 第二次世界大戦中の原始的な滑走路を穴を開けた鉄板で覆ったのは、改善だった。しかし、F-51、B-26、C-47などピストンエンジン機の基本運用は可能である。1951年春、大邱の桟橋滑走路はノンストップの離着陸でボロボロになり、全面改修のため閉鎖せざるを得なくなった。

 補給線と整備も大変だった。金浦飛行場の第51戦闘機群は、毎日6万ガロンの燃料を消費していた。ハンガーがないため、整備兵は多くの機材を木箱に保管していた。第49戦闘航空団は大邱で活動していたが、F-80を大がかりなオーバーホールのために日本へ送っていた。

 多くの戦闘機が日本から700マイルを飛行していたため、有効な任務遂行時間は事実上、数分に短縮された。日本から韓国への移動だけでF-80の飛行運用の85%を占め、戦闘に使える時間は15分しかなかった。日本から発進したF-84が前線で近接航空支援を行えるのは30分であった。しかし、韓国基地から発進したF-86は、北朝鮮と満州国境に沿うミグ・アレイ上空を25分間飛行するのが限界だった。ミグパイロットはこの制限を知っており、それを利用した。

 北朝鮮戦闘機も米軍基地を攻撃できる範囲にいた。開戦日、C-54が北朝鮮の戦闘機の空爆で破壊され、1950年秋には前線航空基地でP-51が11機破壊された。空襲は戦争が終わるまで続いた。


朝鮮戦争時、韓国の水原基地で戦闘準備をするノースアメリカンF-86セイバー戦闘機。穴のあいたスチールマットに注目。スチールマットのおかげで、一部の航空機は韓国基地の劣化し朽ち果てた滑走路をうまく使えた。 USAF



航空戦中心のリーダーシップ 

 朝鮮戦争では、空軍と地上指揮官の間で、航空兵力をどのように活用するのが最善かで、見解が分かれた。地上軍司令官は、最前線の敵軍に航空兵力を集中させることを好んだ。一方、航空指導者は、戦略・戦術目標に焦点を当て、攻撃対象の敵領土を拡大しながら北方にまで関与しようとした。

 各軍の見解は、部隊司令官に表現された。極東航空部隊、極東海軍部隊(NAVFE)、極東陸軍部隊(AFFE)の各司令官が、各軍の意見を代表していた。しかし、総司令官ダグラス・マッカーサー元帥は、陸軍司令官、国連軍司令官、極東軍司令官(CINCFE)を加えた3つの肩書きを持つという前例を作った。空軍と海軍の指導者は従属的な地位に置かれることになった。マッカーサーは陸軍士官を中心に幕僚を構成した。朝鮮戦争に関する空軍の公式見解は、総司令部(GHQ)を「本質的に陸軍幕僚」と評しているほどである。「航空、海軍、陸軍士官の共同代表を欠いていたため、GHQスタッフは朝鮮における航空戦力の最も効率的かつ適時な運用を達成できなかった」と公式歴史に書かれている。

 陸軍は、戦争の初期段階から大きな影響力を発揮して航空戦力運用を指揮した。航空隊員は、より有利な北方の目標がほとんど守られていないときでさえ、最前線に任務を集中するよう命じられた。開戦から数週間は、敵の兵站線、補給基地、航空基地、その他の重心が米軍の航空攻撃によって脅かされることはなかった。航空隊が38度線以北の目標を攻撃する権限を得たのは、敵対行為が始まって丸1カ月後のことであった。

 空軍、海軍、海兵隊の航空機が同じ領土を飛行し、戦っていたため、正式な調整もなく、当初は自軍中心の指揮であった。実際、朝鮮半島沖を航行する航空母艦が無線封印を主張したため、開戦当初の数週間にわたり、空軍は海軍指導者と話すことさえできなかった。航空戦力の要請を管理するため、CINCFEスタッフは「ターゲットグループ」を組織したが、航空戦力の戦略・戦術のバックグラウンドを持たない陸軍スタッフがほとんどの席を占め、海軍と空軍の各代表を封殺するのが常であった。

 しかし、1952 年にマーク・クラーク大将が国連軍司令部兼 CINCFE に就任して、最初に行ったのは、本部幕僚における各軍代表のバランス調整だった。「陸軍プロジェクトではなく、3軍の共同作戦であるべきだ」と彼は言った。 また、陸軍から共同作戦原則を攻撃されると、共同作戦による解決策を提唱した。陸軍の指導者の中には、クラークのアプローチの背後にあるメリットを理解する者もいた。ウォルトン・ウォーカー将軍は、「海兵隊航空部隊による支援は、よく耳にし、読まれている。しかし、それを主張する人たちが座って、近接航空支援だけに航空部隊を供給するコストを計算したら、我々が持つべき規模の軍隊にその比率で供給したら、彼らは驚くだろう」。 

 このような教訓は第二次世界大戦中に既に得られていたのだが、朝鮮半島で再浮上したのである。


主要な戦闘能力を欠いた初期型F-80は、米空軍の戦闘機ニーズに合わせて急速に改良され、配備された National Museum of the U.S. Air Force


朝鮮戦争の教訓を今日に生かす

 70年後の今日、朝鮮戦争の経験は、太平洋における中国の脅威の文脈で、意味がある。当時も今も、空軍は深刻な資源難に直面している。

 冷戦後、空軍予算は大幅削減された。1989年度から2001年度にかけて、調達費は52%減少し、他軍より20%近く多かった。9.11以降、空軍予算は、統合司令部の航空戦力への要求に追いつけなくなった。アフガニスタンやイラクで急増した情報、監視、偵察などの新しい共同任務に資金が必要であった。

 空軍は、兵力全体を縮小する一方で、遠隔操縦機の大規模部隊を獲得し、運用した。そして、2019年に宇宙軍が創設され、空軍は新しい軍事組織を立ち上げる新たな任務を負ったが、すべて既存の予算枠の中で行われた。

 同時に、空軍省予算が他機関に直接渡されるパススルー支出も増え続けた。現在、年間予算のうち400億ドルが国防総省の他省庁に割り当てられている。これらだけの予算はF-35を約400機購入するのに十分であるが、空軍省はこれら流用予算の使途で何の発言権もない。

 1950年と同様、今日の空軍はの縮小版であり、史上最も古く、最も少ない航空機の在庫を運用している。爆撃機のは現在141機で史上最低、戦闘機は2016年に史上最低を記録し、回復し始めたばかりだ。5,625機という総軍の航空機在庫は、40年前の半分以下の規模。

 機動性、指揮統制(C2)、情報・監視・偵察(ISR)用機材の在庫も同様に脆弱だ。ステルスのような重要機材は不足し、敵のレーダーを回避でき可能なのは戦闘機の20%、爆撃機の13%に過ぎない。部品の入手可能性は任務遂行能力に直結するにもかかわらず、予算削減の対象とされることが多く、スペアパーツ確保も問題である。パイロット不足もまた、空軍を悩ませている。必要条件と現実のギャップを埋めるだけのパイロットを迅速養成するための訓練機材と飛行時間が不足している。また、ベテラン整備士の不足も、70年前の朝鮮戦争直前と同じ状況だ。

 空軍は、太平洋で再び戦闘になった場合に備え、米軍をよりよく準備させるための新しい作戦概念に投資し、実験中だ。アジャイル戦闘配置(ACE)のようなコンセプトは、より大きな作戦基地から分遣隊を前進させ、分散させ、柔軟で予測しにくくするねらいがあるが、新しい要件を満たすため進化が必要な兵站と維持に関する問題の解決に依存する。70年前の朝鮮半島で航空兵が直面した厳しい環境は、今日ACEで航空兵が直面する環境とさほど変わりがないが、現在はより広い地域で、第5世代の感知・攻撃能力で武装した、より高度な敵に相手に活動する予想だ。

 その中で、韓国で起こったような部品や整備、航空機の不足を理由にした出撃制限は、以前より大きなリスクとなる。戦争が始まれば、人員や航空機の不足を補う時間はない。新しいパイロットの訓練や新しい航空機の製造に必要なスケジュールは、数カ月ではなく、数年、数十年で測られる。初日から戦い、勝つための態勢を整えていない指揮官は敗北の危険がある。

 朝鮮戦争時のリーダーシップ問題は、今日見られるパターンと似ている。インド太平洋軍、中央軍、韓国軍の統合司令官を務めた空軍将校は一人もいない。南方軍を指揮した空軍士官も一人だけである。トッド・D・ウォルターズ大将は7月に退任し、欧州軍をクリストファー・G・カボリ陸軍大将に引き継いだが、同軍が創設されてからの70年で空軍出身は4人だけだった。空軍の統合参謀本部議長は、2001年から2005年まで務めたリチャード・B・マイヤーズ大将以降皆無だ。マティス元海兵隊大将、マーク・エスパー元陸軍中佐、ロイド・オースティン元陸軍大将(現国防長官)と、過去3人の国防長官がいずれも陸軍を退官しており、長官職も陸軍中心になっている。これは、1950年の朝鮮半島の状況と類似している。

 統合とは、全員が各任務分野に関与することを意味しない。各領域の重心を開発し、それらがどの領域から発生したかに関係なく、望ましい戦略的効果を最もよく達成できるメニューを組み立てる統合司令官に対して、価値を明確に説明できるようにすることである。

 AFA のミッチェル航空宇宙研究所の所長デビッド・デプテュラ中将(退役)は、次のように説明する。「米国と同盟国は、共同作戦を行うために、別々の部隊を必要とする。米国と同盟国が共同活動するためには、それぞれの領域で活動する利点を最大限に活用できる方法を軍人が理解することが不可欠である。自分の所属部隊の長所や価値を明確にすることが、まさに 『統合』なのです」。空軍のリーダーが主要な統合司令部を率いることがないため、空軍は控えめな地位に追いやられている。このことは、将来の紛争に対する投資や態勢に影響を与え、不注意に戦略を導いてしまうことになる。例えば、長距離攻撃について考えてみよう。陸軍は、統合能力を活用した解決策を開発するより、独自の弾薬、発射機、C2ISR 構 築など、完全に有機的な長距離打撃解決策に投資している。同様に、宇宙軍は、空軍と海軍の宇宙資産をほとんどすべて吸収したが、完全な統合になっておらず、陸軍は重要な有機的宇宙能力を保持している。

 最後に朝鮮半島で航空兵が直面した限定戦争の問題は、特に米国とその同盟国が中国に特化した新たな競争の時代に焦点を当てているため、今日の空軍指導者が検討すべき非常に有益な領域で参考になる。軍の指導者は、関係者を考慮して、望ましい結果を達成する手段を備えているかを慎重に検討しなければならない。

 米国がアフガニスタンとイラクで学んだように、戦略目標と現地住民間に根本的な断絶があれば、優れた軍事力も意味をなさなくなる。朝鮮戦争で米国が不完全ながらも有利な結果を得られたのは、国連、米国、韓国国民が目標を共有したからである。このような連携は、作戦の成功の基礎であるが、アフガニスタンとイラクでは根本的に欠けていた。

 2018年、ヘザー・ウィルソン空軍長官(当時)はこう宣言した。「国家防衛戦略では、大国間競争の時代に戻ったことを明確に認識している。我々は準備しなければならない」。

 この呼びかけは、それ以来、空軍のすべての指導者が繰り返しているが、朝鮮戦争の航空戦力の教訓が意味をもってくる。朝鮮戦争の歴史は、過去1世紀におけるあらゆる軍事作戦の成功に航空戦力が不可欠であったことから、今日でも有益である。21世紀も、20世紀同様に、過去の教訓を未来の課題に適用してこそ、「航空戦力による勝利」は可能となる。  ■ 


Air War Over Korea: Lessons for Today’s Airmen - Air Force Magazine

Aug. 12, 2022



Douglas A. Birkey is the Executive Director for the Mitchell Institute for Aerospace Studies.

           


Su-75チェックメイトは文字通りチェックメイトとなり、前途を絶たれる運命なのか。ねらいどおり買い手が見つかる前に開発が間に合わない?

 F-35を意識しているようなSu-75ですが、ここ数十年で決定的になったロシア航空宇宙産業の技術力低下を示す機体になったようです。外貨稼ぎの狙いもどこまで実現するだろうか、という観測が1945記事から見えてきます。マントゥーロフ大臣はプーチンから軍需生産の遅れを叱責されていましたね。

 

ロシアのステルス戦闘機「Su-75チェックメイト」。Russia's Su-75 Checkmate Stealth Fighter. Image Credit: Creative Commons.

 

 

シアは注目の第5世代戦闘機、スホイSu-75「チェックメイト」の初飛行は、少なくとも2024年まで行われないと2022年夏発表していた。更新スケジュールは、ロシアの産業・商業大臣が確認した。

 

 

「設計が変更され、初飛行時期が修正された。しかし同時に、モジュール化と最新のデジタル技術により、最短時間での変更が可能になりました。早ければ2024年に飛行試験を開始する予定」とマントゥーロフManturov大臣は述べた。

 セグウェイ・ケンタウルスからApple iTVに至る悪名高い消費者向け製品と同じく、Su-75も蒸発し、二度と姿を現すことはなさそうだ。

 

Su-75の概要 現在わかっていること

Su-75は、モスクワで開催されたMAKS 2021航空ショーで、ロシアの国営コングロマリットRostecが披露した。ロシアが開発した第5世代戦闘機としてスホイSu-57に続く2機目だった。

 Su-57(NATO報告名「フェロン」)の連続生産がなかなか進まないクレムリンにとって、Su-75はロシアがすでに成し遂げたことの上に成り立つ利点があると考えられていた。しかし実際には、1機種でも十分に難しいのに、2機も作ろうというのは無理がある。

 しかし、Su-75はもともと輸出用航空機であり、最終的にロシア航空宇宙軍で使用される航空機の生産資金として、海外販売で財源を確保する戦略だったのかもしれない。

 「MAKS 2021でプロジェクトを発表してから時間が経過する間に、潜在的な顧客からフィードバックがあった」とマントゥーロフ大臣は説明した。「また、コストを最適化し、個々の技術的ソリューションを分析する作業も実施され、国産単発エンジンの製造における競争力、商業的魅力を大幅に高め、技術的リスクを低減することが可能となった」と述べた。

 海外の顧客は、現時点でSu-75に唯一のチャンスのように見える。買い手が見つけなければ、チェックメイトの「チェックメイト」になるからである。チャンスはまだ大いにある。

 

中東の顧客?

アラブ湾岸諸国研究所(AGSIW)が今月発表したロシアとイランの関係強化に関する報告書が指摘したように、湾岸諸国の一部(特にサウジアラビアとアラブ首長国連邦)は近年、軍を強化に多額の投資を行い、ロシア含む多様な武器購入戦略を使っている。UAEは、ロッキード・マーチンF-35ライトニングIIを購入できなかったため、代わりにSu-75に投資する可能性がある。

 AGSIWレポートは触れていないが、モスクワとテヘランの緊密な関係を考えると、特に宿敵であるイスラエルがF-35I「アディール」を運用しているので、イランがチェックメイトに関心を持つ可能性は排除できない。

 テヘランは、Su-75を最善の策と見なすことができる。

 もちろん、外部から投資を受けても、ロシアがチェックメイトを実際に飛行させることができることが前提だ。同機が連続生産段階に到達するのは最短で2027年だが、これは最も楽観的な条件のもとでの話である。その頃には、アメリカ、ヨーロッパ、日本で

日米欧の第6世代機が就航しているかもしれないのだ。チェックメイト!か。■

 

Russia's Su-75 Checkmate Stealth Fighter Is A Failure - 19FortyFive

ByPeter Suciu

 

Author Experience and Expertise: A Senior Editor for 19FortyFive, Peter Suciu is a Michigan-based writer. He has contributed to more than four dozen magazines, newspapers, and websites with over 3,200 published pieces over a twenty-year career in journalism. He regularly writes about military hardware, firearms history, cybersecurity, politics, and international affairs. Peter is also a Contributing Writer for Forbes and Clearance Jobs