朝鮮戦争へのソ連パイロットの参戦は今でこそ公然と語られていますが、戦争中は絶対にソ連も認めない事実で、撃墜し降下する赤毛のパイロットを捕虜にしようと待ち構える米軍の目の前で僚機が件のパイロットを射殺したとも伝えられています。共産主義プロパガンダの前に犠牲となったわけですね。今回の述懐は呪縛がなくなったためか信憑性が高いと思います。MiGは23ミリ、37ミリ機関砲でB-29を最初から排除する設計思想だったのでソ連パイロットが操縦すれば恐ろしい相手だったでしょう。
朝鮮戦争へのソ連空軍の介入は長年に渡り国家機密とされてきた。米側には創立から日が浅い中国や北朝鮮の空軍部隊が強力な米空軍の機体をやすやすと撃墜できるのはなぜだろうとの疑問が生まれていた。
ロシアで国際戦士の日がおごそかに祝われた。冷戦中に世界各地で犠牲となったソ連兵士に捧げる祝日で、第二次大戦でソ連空軍のエース、セルゲイ・クラマレンコ少将(退役)(97歳)が朝鮮戦争のエースともなった最後の生存者としてジャーナリストに回想した。
年齢に反し、本人の意識ははっきりしており、まず第二次大戦中に得た経験を朝鮮で応用したという。1942年から1945年にかけ、LaGG-3、La-5戦闘機でドイツ空軍の3機を撃墜し、その他13機に損傷を与えた。
「大戦末期には戦闘戦術や操縦技術でドイツを上回っていた。朝鮮動乱に応用し、米軍を安安と撃破できた」
© PHOTO : SERGEI KRAMARENKO'S PERSONAL ARCHIVE.
第二次大戦中のセルゲイ・クラマレンコ
「米軍パイロットはドイツのエース級より御しやすかった。ドイツはもっと戦闘意欲があったが、米軍は戦闘を避ける傾向があった。朝鮮ではこちらの訓練、技量が劣っていない事が証明され、こちらの機体が優勢であることもわかった」
クラマレンコによれば新型MiG-15戦闘機への機種転換は驚くほど容易で、機体の応答性や高速、高高度性能に気づいたという。とくに高高度性能で米F-86を上回り、ソ連軍パイロットはこれを活用し、米機を上空から攻撃した。
1950年11月に中国が参戦すると、クラマレンコはじめ第176防空戦闘航空連隊31名のパイロットがこっそりと移動し、人民解放軍空軍パイロットの訓練に従事した。ことの性質上、仕事の内容は一切明かすことが許されず、故国への郵便でも同様だった。ソ連パイロットはF-86セイバーの断片的な情報をつなぎあわせ、MiG-15より操縦性が優れているが、運用高度限界でMiGが優っていると判断した。
© PHOTO : SERGEI KRAMARENKO'S PERSONAL ARCHIVE.
MiG操縦席に座るセルゲイ・クラマネンコ.
銃火の洗礼を受ける
ソ連空軍が朝鮮戦線に直接介入したのは1951年春のことで、クラマレンコは4月1日に初出撃したと認めている。
「戦闘機援護がついた偵察機一機が侵入してきたので緊急発進した」「上昇し、鴨緑江ぞいに移動した。高度7千メートルで敵機が正面に現れた。前方に双発偵察機、後方に戦闘機8機がついていた。こちらは4機のMiGだった。攻撃を指示した。ウィングマンのイワン・ラズチンが偵察機に下方から接近し攻撃した。すると突然セイバーの一隊がその背後に回った。『右へロールしろ』と叫んだ。ラズチンが急旋回すると敵機がその後を追った。こちらは編隊をはぐれた一機に照準をあわせ背後から射撃した。この機体は海面に墜落した。残る敵機は慌てて上昇した。別のウィングマン、セルゲイ・ロディノフへ別のセイバー編隊が攻撃をしかけてきた。そこで右へ方向転換を命じ、こちらはもう一機を攻撃した。その後、セイバー編隊と偵察機はその場から逃げ去った」
「暗黒の木曜日」
クラマレンコは1951年4月12日、米空軍パイロットが「暗黒の木曜日」と呼んだ空戦に参加していた。MiG-15の30機がB-29爆撃機編隊を遅い、援護するF-80、F-84およそ100機と交戦し、B-29数機を撃墜しながら、ソ連側には一機も損失がなかった。米軍司令部はこの事態に動揺し、朝鮮半島空爆を三ヶ月停止し、昼間爆撃はこれが最後となった。
「空戦ではB-29の48機中25機を撃墜したよ。爆撃は鴨緑江にかかる橋を狙っていた」「いまでも光景をありありと思い出すよ。戦闘態勢で飛ぶ編隊はパレードのようで美しかった。突如、こちらが攻撃をしかけ、爆撃機の一機を狙い射撃を開始した。すぐに白煙が出てきたのは燃料タンクに命中したからだ。すぐに僚機が加わり、実に簡単に米軍機を狩った。こちらの戦闘機は全機帰還した。USAFは一週間にわたり服喪しその地区へは爆撃機を再度送り込む勇気を失っていたね」
米軍エースとの交戦
クラマレンコは米空軍334飛行隊司令で第二次大戦のベテラン、グレン・イーグルソンとの遭遇を回想している。
「イーグルソンは3機編隊で飛んできた。2機がイーグルソンを援護し、本人は上空から攻撃を仕掛けてきた。命中せず、そのまま下方へ降下していった。こちらは左へ急旋回し、ロール、ダイブをした。ダイブがおわるとイーグルソンがこちらへ射撃してきた。ともに「ダンス」しながらしばらくそのまま続けた。ついにこちらが相手の上になったので再び射撃した。セイバーから破片が飛び散り、再び降下し始めた。すると敵のウィングマンが背後に回った。もう一度ロールして急降下し、北朝鮮の対空砲陣地に向かった。後ろを見ると800メートルほどの距離で二機がこちらを追っており、急に対空火砲の弾片が前方に飛び散り始めた。味方の射撃で死ぬほうがマシと思った。そのまま飛んだが幸運にも一発も命中しなかった。セイバー編隊も追跡をあきらめ帰投した。イーグルソンは米軍基地に着陸させた。負傷し、本国へ戻ったきり戦闘には復帰しなかった。
危うく干し草フォークで刺されかける
1952年1月17日にクラマレンコの幸運も尽きたようだった。セイバー2機を相手と思ったら、実は別の米軍機が上空から降下し発砲してきた。MiGに甚大な損傷が生じ、制御を失い、クラマレンコは脱出しパラシュートで命からがら生き延びた。
「パラシュートにつかまっていると米戦闘機がこちらに発砲してきた。なんども射撃をし、こちらの下を飛んでいたので思わず脚を引き上げたほどだ。400から500メートルで旋回し、再度こちらに向かってきた。だが幸運がまだ残っており、雲の中に入ったので、米機はこちらを見失った。更に降下すると森林が見えた。右から雲が晴れてきた。ハーネスを引っ張り、方向を変え樹木の中に降下した。見渡したが出血していない。首を触ると大きく腫れていた。どこかにぶつけたようだ。パラシュートを集め、道路へ出ると西に向かった。台車が目に入った。朝鮮人が薪を集めていた。こちらに気づくと朝鮮人は米軍人だと思い干し草フォークをこちらへ向け敵意を示した。そこで「金日成ホー、スターリン・ホー」と伝えた。ホーは朝鮮語で良いを意味する。そこでやっとわかった現地人は私を台車に載せ、村落へ連れて行ってくれた。食事をもらい、床の上で休んだ。朝になると車両がやってきて飛行場へ連れ戻した。これがソ連帰国前で最後の戦闘体験となった」
クラマレンコによればパラシュートを狙う米空軍パイロットは異例のことではなく、同僚一名が実際に死亡しており、もう一名が降下中に負傷したという。
176防空戦闘連隊から8名のパイロットと12機の喪失が生まれた。同時に爆撃機50機を撃破しており、これ以外に戦闘機の撃墜もあった。クラマレンコは21機を撃墜したが、公認撃墜は13機で残りは海上に墜落したという。ソ連パイロットが技能を発揮したので第三次大戦が回避できたと本人は信じている。
「米軍は原爆300発をソ連に投下する計画だった」とし、「だが朝鮮でB-29では我が国への侵攻は不可能とわかった。交戦一回で48機編隊の25機が損傷を受け、米軍はソ連への原爆投下戦略を放棄せざるをえなくなった」という。
クラマレンコはソ連空軍を1981年退役し、最後は戦闘機連隊や師団の司令を務めたほか、友邦国空軍部隊の顧問もした。1979年2月に第23空軍の副参謀長になった。
最後の操縦は1982年だった。「もう操縦はしない。若い連中が上空を飛ぶのを見ると羨ましく感じる。最新鋭機材は高性能で重武装だ。そんな機体で雲の中へ突入する夢を見ている」
© RIA NOVOSTI . SERGEI PYATAKOV
ソ連時代の第二次大戦、朝鮮戦争のエース、セルゲイ・クラマネンコ
70年近くたっても、朝鮮上空の空戦議論で決着がつかない
朝鮮戦争中のMiG対セイバーの戦いは今日でも議論に決着がついていない。米歴史家の試算ではセイバー喪失224機に対し、MiG-15は566機が撃墜されたとしている。(被撃墜機は大半が中国人、朝鮮人パイロットの操縦)だが、ロシアでは逆に1,106機を撃破し、MiGの被撃墜は335機としている。
朝鮮戦争は航空力重視の第二次大戦後の米軍事思想の黎明期となった。戦争中に連合軍のじゅうたん爆撃で北朝鮮の人口集中地点の四分の三が破壊されたとの試算がある。米軍は635千トンを投下し、うち32千トンはナパーム弾だった。この投下量は第二次大戦時の日本への爆弾投下量を上回る。■
この記事は以下を再構成したものです。
Last Surviving Soviet Ace of Korean War Opens Up on Clandestine Ops Against US Air Force
18:54 GMT 16.02.2020(updated 19:24 GMT 16.02.2020)Get short URL
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