2020年12月6日日曜日

歴史に残る機体29 今回はロッキードP-38、大戦の最初から最後まで高人気の理由とは、双発大型機の運動エネルギーで戦った傑作機はいかにもアメリカ的。

本日12月6日は私の誕生日なので一番好きな機種の話にさせていただきました。ご了承下さい。双発戦闘機が成功した数少ない事例なのですが、なんといってもパワーを前面に出しながら優雅な機体の美しさにはほれぼれします。今や同じ愛称を付けた機体がIIとして飛んでいますが、両機種の共通点はまったくなく、むしろ現行のライトニングIIを嫌う傾向はこのブログの長年の読者はご存じのはず。National Interestの記事からです。

 

二次大戦中に最も活躍した米戦闘機といえば多くの人がノースアメリカンP-51を取り上げる。実際はP-51投入は遅い時期で、たしかに大きな功績を上げたものの、連合軍の航空優勢を実現した機材はその前にもあった。マスタングが大幅設計変更を受け欧州の空に登場したのは1944年冬のことで、その時点で連合軍航空部隊は欧州、太平洋双方でドイツ、日本の軍用機を蹴散らしており、制空権の完全確保に近づいていた。その功績は双発双胴のロッキードP-38ライトニングと単発のリパブリックP-47サンダーボルトがあげたものだ。太平洋戦線ではP-38が一貫して好まれ、終戦まで稼働し、マスタングの人気をしのいだ。

 

ロッキードがP-38ライトニング開発を開始したのは1937年のことで同社初の軍用機参入として欧州の事態進展に対応し機材近代化を狙う米陸軍への採用を狙った。ロッキードが時速400マイル超の性能をうたい、陸軍は疑ったが、双発戦闘機設計案を1937年中ごろに承認し、1939年1月に試作型が初飛行した。フランクリン・D・ロウズヴェルト大統領が新型戦闘機各型の増産を命じ、陸軍は1939年4月に試験用機材13機を発注した。ロッキードは試作機を予定通り製造できなかったが、それでも1940年8月に607機もの大量発注を受けた。欧州情勢から米国参戦が近づいていると判断されていた。製造現場では技術的な問題で生産が遅れ、1941年12月7日時点で完成機材はわずか69機で米陸軍航空隊に納入されたにすぎなかった。

 

 

海外派遣の開始

 

P-38飛行隊数個を英国に展開する案があったが、機体移動の補給活動が困難だった。第1,14、82の各戦闘機集団がP-38の海外展開の先陣を切り、英国に展開する第八空軍に加わった。このうち第1戦闘機集団はアイスランドからイングランドに移動し、フランス上空に飛行したがドイツ空軍と遭遇はなかった。

 

1942年秋には三個戦闘機集団はすべて北アフリカに移動し、新設第12空軍隷下に入るよう命令を受け、トーチ作戦で展開する米軍支援に回った。四番目の第78戦闘機集団は英国に「戦略」予備部隊として残った。三個集団がアフリカに展開したが空中戦に一回も遭遇せず、P-38の性能は実証の機会がなかった。

 

ただし、11月にP-38が初の戦果を挙げた。ドイツ、イタリアの輸送機数機をチュニジアで撃墜した。P-38は北アフリカで各種任務に投入され、戦闘機任務以外に対地攻撃、敵車両掃射、敵歩兵部隊掃射も行った。長距離性能を生かし、遠隔地まで展開できる戦闘機は同機以外になかった。

 

1943年に入ると北アフリカのP-38部隊は機材数不足が深刻となり、第12空軍司令ジェイムズ・H・ドゥーリトルは英国におかれたライトニングの派遣を求めた。陸軍航空部隊司令ヘンリー・H・「ハップ」・アーノルド大将はカサブランカに赴き、高レベル会議を行い、状況の深刻さが理解できた。そこでイングランドに残るP-38を北アフリカに送るよう命令し、追加機材は米国から直接船便で北アフリカへ送ることにした。その命令により第78戦闘機集団の機材は第12空軍に加わり、イングランドにはP-47が派遣された。

 

地中海は英海軍が支配しており、ドイツの北アフリカ補給手段は空輸しかなかったので、1943年早春に連合軍航空部隊はドイツ補給部隊を集中的にたたくことにした。P-38ライトニングが地中海上空を掃討するのが日常になった。

 

「パームサンデーの虐殺」

4月5日朝のことP-38の26機編隊がドイツのユンカースJu-52輸送機50から70機がメッサーシュミットMe-109やユンカースJu-87急降下爆撃機の援護およそ30機と飛ぶ中を襲った。輸送機11機、援護機の4機を撃墜し、P-38の被撃墜は2機だった。

 

これと別のP-38編隊が艦船攻撃にあたるノースアメリカンB-25ミッチェル中爆編隊を援護し、ドイツ機を15機撃墜した。翌週にはドイツ船舶数隻と数十機の撃破を果たした。P-38の戦果はカーチスP-40トマホークやスーパーマリン・スピットファイヤーによるドイツ輸送部隊襲撃とならび100隻撃破でドイツアフリカ軍団への補給路を遮断し、北アフリカ戦線の行方を決定した。

 

P-38を北アフリカに派遣したためイングランドの米戦闘機部隊はきわめて低レベルになり、P-47を運用する第4戦闘機集団が唯一の部隊になっていたのが1943年春の状況だった。トーチ作戦で当初のP-38のかわりにP-47部隊がイングランドに配備されるはずだったが、単発で重戦闘機のP-47に長距離援護任務は不可能だった。新たな戦闘機集団が米本土でP-38で編成され、その後イングランドへ展開し、第8戦闘機司令部で援護任務についた。長距離性能を生かしドイツ本国への爆撃行に援護任務につけるのはP-38のみで、ベルリン上空まで展開した連合軍戦闘機はP-38が初めてだった。

 

P-38は多様な任務に投入され、低空攻撃を発揮し、ルーマニアのプロセチ油田精製所を襲った36機のP-38は1,000ポンドを搭載した。これを39機のP-38が援護した。ただし23機喪失という惨憺たる結果になったのはプロセチを死守するべくドイツが最大限の対空火砲を展開したためだ。

.

P-38は太平洋戦線でも必要とされていたが、1942年末になりやっと太平洋にも機材がまわせるようになった。太平洋の飛行隊にはベルP-39エアラコブラやP-40が装備されていたが日本軍戦闘機に大きく性能が劣っていた。

 

P-38第一陣がオーストラリアに到着すると設計面の不備が見つかり、実戦投入は遅れた。だが1942年末までにP-38はP-39に代わり第35戦闘機集団でニューギニア上空に登場し、日本軍にも存在が認知された。第49戦闘機集団にはP-40が配備されていたがその後ライトニングに転換している。

 

偶然による勝利 太平洋戦線でのP-38

 

太平洋戦太平洋戦線でのP-38の初勝利は偶然によるもので、それ以前の数週間にわたりP-38パイロットは戦果を挙げられず、日本軍もP-38を意図的に避けている感があった。同年11月にP-38編隊がラエ飛行場上空を哨戒中に日本軍戦闘機一機が離陸してきた。ニューオーリンズ出身の若いパイロット、フェローは高度を下げ日本軍機を攻撃しようとし、今回は爆弾を搭載していることを思い出しあわてて爆弾を投棄した。急いで後方に回り日本軍機が主脚を格納する前に撃墜するつもりだった。爆弾は滑走路端の海面に落下した。不運な日本軍機のパイロットは爆風で飛ばされ湾内に墜落した。ケニー将軍は若いパイロットをからかい、初のP-38での航空勲章は非撃墜のため対象にならないとしたが、その夜部隊を訪問し、パイロットに勲章を与えている。

 

1942年12月27日がP-38による南西太平洋上空の優勢を決定づける初日となった。ライトニング12機がポートモレスビーのラロキ飛行場にあったが、日本軍大編隊が同基地に向かい接近中との報をきき、トーマス・J・リンチ大尉がP-38編隊を率い離陸し、日本軍の戦闘機急降下爆撃機25機編隊を迎撃した。

 

戦闘が終わる日本軍機を15機撃墜した(公式陸軍航空軍戦史では戦闘機9機急降下爆撃機2機を撃破したとある)と報告があり、リンチ自身も2機撃墜を主張。ここにボングもおり同様に2機撃墜した。

 

ボングの戦果は本人の積極性に負うものが大きい。特に射撃にたけていたわけではなく、パイロットとして技量が傑出し極力接近して射撃した事で撃墜している。

 

最初の交戦でボングは編隊を抜け、自機が日本軍機に包囲されているとわかったが、即座に2機を撃墜し無傷で包囲から抜け出した。ボングはP-38で40機撃墜しているが、大戦末期に新型ジェット戦闘機のテスト飛行で死亡した。

1

双発長距離飛行可能なP-38は南太平洋作戦で理想的な戦闘機で、ミラード・ハーモン大将はアーノルド大将に一貫してP-38の支給を求めていた。1942年末の連合軍はガダルカナルのヘンダーソンフィールド飛行場を巡り死闘を展開していた。

 

このヘンダーソンフィールドを狙い日本軍機が毎日のように襲撃を加え、海兵隊のF4Fワイルドキャット、陸軍のP-39、P-400(P-39の輸出仕様)といった旧式機が防御にあたった。各機は日本軍機より性能が劣っていた。

 

1942年11月にダグラス・マッカーサー大将が一部P-38をガタルカナルへ移動させる命令を出したのは戦況の行方が見えなくなっていたためだ。第39戦闘機飛行隊のP-38八機が11月13日にニューギニアからヘンダーソンフィールドへ移動した。11月14日に日本海軍への大規模攻撃を開始し、ガタルカナルへの日本軍補給活動を阻止し、結果として同島関連の戦役の方向を決定した。なお、ガダルカナル島の完全制圧は翌年2月のことである。

 

山本五十六提督機を撃墜したP-38はどちらだったのか。

 

1943年初頭、陸軍航空軍司令部がP-38を太平洋戦線に投入し、性能の劣るP-39、P-40に交代させはじめた。ガタルカナルを制圧し、南太平洋作戦区域ではソロモン諸島方面へ北に向け移動する作戦を立案した。3月になり第18戦闘機集団がP-40から機種転換途中だったがハワイから南太平洋に進駐した。ヘンダーソンフィールドに到着するや、18集団のパイロットは歴戦の勇士347飛行隊に合流した。

 

4月はじめに連合軍暗号解読部隊は山本五十六大将が南太平洋の前線部隊視察で現地移動することを知った。米側は山本の正確な移動日程をつかみ、4ブーゲンビルのバラレ飛行場に月18日0945時到着することまでわかった。

 

太平洋艦隊と真珠湾攻撃の恥辱の記憶が生々しい中でアーネスト・J・キング海軍作戦部長はガタルカナル地区のウィリアム・ハルゼイ米部隊司令官へ「山本をやれ」と下命した。ハルゼイは命令をソロモン地区航空司令となったマーク・ミッチャー提督に伝えた。

 

同地区で長距離飛行可能なのはP-38だけだったので命令は陸軍に回された。第18戦闘機集団第12戦闘飛行隊からパイロット8名、2名を第70戦闘飛行隊から選抜し、さらに347集団の339飛行隊から8名を確保した。第70飛行隊のトーマス・ランピエ大尉が攻撃役のP-38四機編隊長に、ジョン・ミッチェル少佐が作戦司式となり14機のP-38で援護を務めた。

 

18機編隊でヘンダーソンフィールドを4月18日0725時に離陸し、海面すれすれに2時間飛行した。ブーゲンビル島沿岸に近づくとP-38編隊は山本提督一行を視認した。三菱G4Mベティ爆撃機2機が提督と幕僚を乗せ、必死に攻撃を逃れようとし、ゼロ戦6機が攻撃部隊を阻もうとした。ランピエ大尉はゼロ戦一機を撃墜しベティ一機に攻撃を加え、同機は炎を上げながらジャングルに墜落した。レックス・バーバー中尉機が残るベティを撃墜した。

 

ランピエが山本機撃墜を認められたが、バーバーとの間で「山本をやった」のはどちらかで論争がほぼ半世紀にわたり繰り広げられた。実際に撃墜したのがどちらでも山本は幕僚大部分とともに生還できなかった。海軍十字勲章は指揮官ミッチェル少佐に与えられ、攻撃部隊の四名も同様に受勲した。

 

1943年5月に475戦闘機集団がオーストラリアで発足し南西太平洋地区でP-38のみで編成の最初の航空集団となるはずだった。当時の各集団には機種を混合して運用しており、P-39、P-40、P-47もあった。パイロット等人員はニューギニアでの戦闘を中断し、オーストラリアに送られ、新航空集団の中核人員となった。追加人員も米本土から合流し、新造機材が海上輸送され、7月に入るとP-38の118機がオーストラリアに揃い、機体調整を行い、戦闘に備えた。8月中ごろに戦闘準備が整いドボドゥラへ北進し、P-38とP-40で編成の49戦闘機集団に加わった。

 

第五空軍、第12空軍では航続距離の限界が戦闘機司令の悩みの種だった。ヨーロッパ戦線と異なり太平洋では戦闘は長距離飛行がつきもので、双発P-38は洋上飛行にうってつけの機材だった。単発機ではエンジン故障で海上不時着となる。双発戦闘機や軽爆撃機は一基が止まっても基地に戻れた。

 

リンドバーグとP-38

 

ケニー将軍隷下の戦闘機司令は制約となる問題に対し、想定外の解決方法で航続距離を伸ばしていた。増漕もその一つだったが1944年夏に思わぬ助けがやってきてP-38の戦闘行動半径が大きく伸びた。

 

1927年春、チャールズ・A・リンドバーグは航空分野の限界を一人で塗り替えた。ライアンの単発機スピリットオブセントルイスでニューヨークからパリまで大西洋横断飛行をやってのけたのである。その後のリンドバーグは戦闘機パイロット養成にあたり、自身も米陸軍予備役として超長距離飛行を時にアン夫人を伴い行っていた。

 

リンドバーグは陸軍予備役で大佐だったが孤立運動を続けるべく一度退役している。ヨーロッパで数年を過ごし、各国の空軍を視察し、最新鋭機材を自ら操縦士たリンドバーグは米国の参戦に強く反対していた。リンドバーグの孤立主義には米政権内部に憂慮の声があったが、真珠湾攻撃後に現役任務復帰を志願したがロウズヴェルト大統領が却下した。「一匹鷲の翼を折ってやったぞ」と側近に大統領が述べた。


 

リンドバーグの陸軍復帰は認められなかったが、それでも本人は米国の戦争努力へ多大な貢献をしている。まずフォード自動車のコンサルタントとしてコンソリデーテッドのリベレーター爆撃機の委託生産で問題点をつぶした。その後ユナイテッドエアクラフト社でF4Uコルせア事業に関与した。リンドバーグは南太平洋に民間人技術顧問として飛び、海兵隊のF4Uコルセア担当となったが、すぐP-38とつながることになった。

 

リンドバーグは米海軍の依頼で太平洋にいたが、単発機と双発戦闘機の性能比較に関心があり、ニューギニアへ飛ぶ命令を手に入れる。現地でホワイトヘッド将軍のもとへ赴き、475戦闘機集団に加わった。ケニー将軍の司令部が本人の到着を知るのは遅れ、その時点で本人は戦闘任務を数回こなしていた。

 

リンドバーグが到着しており、しかもP-38で戦闘任務に就いていることを知ったケニー将軍は高名な飛行士をブリスベーンに招いた。ケニーはリンドバーグをダグラス・マッカーサー大将に面会させ、「重要任務」を与えた。ニューギニアに戻り若手戦闘機パイロット連に航続距離を伸ばす飛行方法を教えることになった。

 

リンドバーグの解決法はいたってシンプルだった。陸軍パイロットは海兵隊のF4Uパイロットと本人から教育を受け、エンジン回転数を高め、マニフォールド圧も高いまま飛べばターボチャージ付エンジンの最大出力を引き出せるというのだ。リンドバーグは高マニフォールド圧にしてからプロペラ回転数を下げることで高出力を得ながら燃料消費が抑えられると伝えたが、陸軍ではこのやり方だとエンジンが「焼付く」と教えていたが、リンドバーグはそうならないと説得し、ケニーがその方法でミッションに出る許可を与え、リンドバーグの方法を体得したパイロットは従来は無理だった遠隔地までP-38を飛ばせるようになった。

 

リンドバーグのP-38への関与は日本軍との空中戦になり、二式水上戦闘機を撃墜したことで終わりとなった。数日後にもリンドバーグはゼロ戦に後部から狙われたが、飛行隊の経験豊かな同僚パイロットに助けられた。

 

リンドバーグの空中戦の知らせがケニーに届くとリンドバーグは地上待機を命じられたが、海兵隊で数回の戦闘ミッションで出撃してから本国へ戻った。結局戦闘ミッションは50回近く、撃墜一機の記録となった。だが金銭では表せない功績を太平洋地区の戦闘機パイロットに残し、航続距離を伸ばすことが可能となった。7月27日時点でリンドバーグは第8、第475の戦闘機集団におり、P-38編隊の記録を破る1,280マイルのB-24援護ミッションを実施したが、リンドバーグの教示なくしてはこうした実績は不可能だったろう。

 

 

リンチ、カービー、ボングのトップエース争いの結末

 

第五空軍、第十二空軍のP-38パイロットでエースが次々に出現した。リンドバーグのおかげで戦闘行動半径が伸びたことでP-38は日本軍の制空範囲内に侵入することが増えた。P-38集団には技量が高く戦闘意欲の高いパイロットが多く、なかでもトミー・リンチ、トム・マクガイヤ、ディック・ボングがいた。このうちリンチが最高水準の経験を誇り、日本軍相手に性能の劣るベルP-39エアラコブラで挑んでいた。1942年に戦域に加わったボングとは親友となり、ふたりでチームを組んだ。

 

もう一人トップの戦果を挙げたのがニール・カービー大佐でP-47を飛ばす348戦闘機集団司令だった。1944年3月までにリンチ、カービー、ボングの三名はトップの座をねらい僅差で争っていた。カービーとリンチは数日の差で戦死している。カービーは日本軍戦闘機により、リンチは地上砲火の犠牲となった。残るボングが単独でトップの座を守った。ケニーはボングが第一次大戦時のエース、エディー・リッケンバッカーの26機撃墜記録を破った4月10日まで飛行を許した。が同日に二機目を撃墜し合計27機となり、少佐に昇格させ直ちに本人を米本土に帰国させ射撃学校に入校させた。

 

10月中旬にボング少佐は極東空軍に復帰したが、不在中にトーマス・マクガイヤ少佐が撃墜数を伸ばし、ボングに8機差まで近づいていた。


 

ボングはケニー将軍に射撃学校で多くを学んだので実戦で生かしたいと希望を伝えた。皮肉にもボングは射撃の腕は悪く、以前も一回も射撃教程を受講していなかった。ケニーは却下したものの幕僚に加え、各飛行隊を巡回し教官となるよう手配した。

 

ボングはミッション出撃も許されその後も日本軍機を撃墜しついに合計40機となったが、ケニーは本人を失うのを恐れ本国帰還させた。その時点でマクガイヤはボングの撃墜記録にあと二機まで近づいていたが1945年1月7日に、機体が失速し地上激突しマクガイヤは死亡した。僚機がとくに戦闘意欲の強い日本軍機に狙われており援護しようとする際の自己だった。

 

P-38は理想的な写真偵察機だった

 

長距離性能と双発を生かしたP-38は極東空軍部隊で好まれた機体だった。アーノルド将軍がケニーにP-51生産を優先しP-38生産は終了させると告げると、ケニーは即座にP-51はこれ以上必要ではない、欲しいのはP-38だと告げた。ケニーは元ジェネラルモータース社長ウィリアム・ヌードセンにP-38生産の継続を約束させた。終戦までにP-38は日本軍1何機を撃墜していた。

 

ライトニング戦闘機型は日本、ドイツを相手に奮戦したが、写真偵察型も重要な役を果たした。開戦初期に陸軍補給部隊はP-38をF-4写真偵察機に改装すべく、機銃を機種からはずし、かわりにカメラを装着した。最初から写真偵察機として生産された機材はF-5の制式名称がついた。

 

写真偵察機となったライトニングはヨーロッパ、太平洋で重要な役割を果たした。太平洋戦線でP-38初の戦闘ミッションは改装偵察機型によるものでオーストラリアへ派遣された機体による1942年早々のことだった。1944年初めには改良型P-51マスタングがヨーロッパ戦線に登場した。燃料タンク追加により航続距離が大幅に伸びたP-51はヨーロッパですぐ人気の戦闘機となった。ただし、太平洋では話が異なり、P-38が一貫して終戦まで一番人気の高い機材だった。■

 

この記事は以下を再構成したものです。

 

What Made the Lockheed P-38 Lightning So Special?


November 26, 2020  Topic: Security  Region: Americas  Blog Brand: The Reboot  Tags: MilitaryTechnologyWeaponsWarLockheed Martin

The Lockheed P-38 Lightning was a Mainstay of U.S. Fighter Squadrons in Europe and the South Pacific.

by Warfare History Network

 

This article was first published by the Warfare History Network.

Image: Reuters


 

2020年12月5日土曜日

米軍支援機材をスタンドオフ攻撃する狙いのJ-20はその役目を果たせない。米軍の対抗戦術が明らかに。

 


 

国の第五世代ステルス戦闘機J-20は米軍の重要機材たる給油機、偵察機、空中指揮統制機を駆逐できるのか。

 

この興味深い疑問を雑誌Forbesで問いかけたのがロンドン在住のアナリストで可能性はあると断定した。この記事では米国および同盟国の機材はステルス性の劣るE-2Dのような偵察機材、トライトンのような無人偵察機、KC-46のような給油機に大きく依存していると指摘。

 

「有事になれば人民解放軍空軍がJ-20で中国沿岸を飛行させ、西側空軍部隊に一撃を与えようとするはず」とフォーブス記事にある。しかし、庫のような事態が本当に実現するだろうか。その可能性は低いとみる。

 

 

記事のアナリスト、ジャスティン・ブロンクは英国シンクタンクRoyal United Service Instituteの所属でJ-20は米F-22の前に優位性はないとする。ブロンクはJ-20は「重く、敏捷性にかけた機材で製造、運用に多額の費用が掛かる。F-22の卓越した性能や敏捷さには対抗できない」

確かにブロンクの指摘には一理ある。J-20はライバルのF-22と同様の性能はないと見られるからだ。だがF-22の機数が少なければどうなるか。米空軍にはF-22が180機近くあるが、同機生産ラインは完全閉鎖されており、この機数では対中国戦には十分とは言えない。

 

ただし、米海軍、空軍の作戦立案部ではF-22を使い、空母含む炊事王艦艇の防衛に充てる構想を検討中で、ブロンクの指摘には海軍が配備計画中のMQ-25スティングレイ無人給油機の必要性を裏付けるものがある。脆弱性がついてまわるKC-46への依存度を減らすだけでなく、作戦半径を大幅に伸ばし、F-22の監視体制を広大な太平洋で継続できる。太平洋では地理的なひろがりがネックで、F-35C、F-22ともにも空中給油の必要性が外せない。

 

F-22やF-35が攻撃あるいは防御行動に入るとき、空母発進型の給油機がそばにいれば大きく効果があがる。J-20はブロンクが想定するような戦い方はできないだろう。

 

また、ペンタゴンでは高性能ステルス無人機を運用開始しており、さらにステルス性能を高めた機材も将来登場するので、前方監視活動を敵防衛体制の中で実施する可能性が高まる。そこでJ-20が必死に偵察機を捕捉攻撃しようとしてくるはずだ。■

 

この記事は以下を再構成したものです。J-20の作戦思想がいまいちわかりませんが、先制攻撃でスタンドオフ攻撃する以外に効果があるのか疑問です。それよりF-22を空母打撃群を空から守る役目に投入する構想のほうに興味をおぼえませんか。


Could China's J-20s Take Out U.S. Tankers, Surveillance Planes, or Airborne Command Posts?


November 30, 2020  Topic: Security  Region: Asia  Blog Brand: The Reboot  Tags: ChinaJ-20Stealth FighterMilitaryF-22F-35

by Kris Osborn

 

Kris Osborn is the new Defense Editor for the National Interest. Osborn previously served at the Pentagon as a Highly Qualified Expert with the Office of the Assistant Secretary of the Army—Acquisition, Logistics & Technology. Osborn has also worked as an anchor and on-air military specialist at national TV networks. He has appeared as a guest military expert on Fox News, MSNBC, The Military Channel, and The History Channel. He also has a Masters Degree in Comparative Literature from Columbia University.

Image: Reuters



歴史のIF ジェット戦闘機橘花が実用化されていれば戦局はどうなっていた?

 コメント投稿が(また)できなくなったとのご報告をいただきましたが、こちらは設定をいじっておらず、Google側の話ではないでしょうか。お分かりになる方いらっしゃればご教示ください。コメント希望の方はしばらくお待ちくださいますようお願いします。

 

二次大戦中にジェット戦闘機を開発したのはドイツだけではない。ドイツが最先端だったのは確かだが大戦中に主要国がジェット機開発を進めており、日本もそのひとつであった。

その中で知名度が高い桜花はロケット推進式有人神風攻撃機であった。だが日本には終戦までに実際に飛行までこぎつけ終戦していなければ実戦投入されていたジェット機があった。中島飛行機の橘花である。

日本の科学技術陣は1930年代からジェットエンジン研究を始めていたが、政府支援がわずかでも、ターボジェット試作型は1943年に完成していた。日本政府はドイツのMe-262ジェット戦闘機の試験状況を1942年時点で知っていたものの、1944年にB-29が本土空襲を開始し、ついに海軍が皇国二号兵器の実現を求めこれが橘花になった。

橘花はMe-262のコピーだったのか

橘花とMe-262の外観が似たのは偶然ではない。だが単純な模倣でもない。日本のジェット機開発にはドイツの研究成果から得たものが多いが、ドイツの援助はそのまま実現したわけではない。1944年7月、ドイツ空軍トップのヘルマン・ゲーリングが日本にMe-262、ユンカースのユモ004、BMW003の両ターボジェットエンジン設計図、さらにMe-262実機の提供を命じた。だが輸送にあたった海軍潜水艦はシンガポール付近で米軍により沈められ、救援部隊はBMWエンジンの断面図一枚のみを回収しただけだった。

橘花には二つの面で注目すべき点があった。まず外観でMe-262を小型化した観があったが、ドイツ版と異なり橘花の主翼は直線翼だったことが性能面で不利だった。もう一つが最初から特攻兵器として開発されたことだ。航空史が専門のエドウィン・ダイヤーは「特攻任務を想定し、当初の設計では着陸装置はなく、カタパルト発進でRATOロケット補助離陸を想定していた」「計算上の航続距離がわずか204キロになったのはネ12エンジンの燃料消費率のせいだった。海面上の推定速度は639km/hで、機体に固定した爆弾が唯一の兵装だった。もう一つの特徴は折り畳み翼により機体を洞窟やトンネルに隠し敵襲を逃れることだった」と記している。

1945年3月になると橘花の任務内容は戦術爆撃や迎撃に変更され、30mm機関砲を使うことになった。エンジンもネ12からネ20に変更となったが、金属材料枯渇のため性能は劣化していた。実際には航空機生産現場は米軍の空襲を連日浴びていたが、8月7日に初飛行を実施している。ただし、二回目の飛行を試みた8月11日に離陸に失敗し橘花試作型は修理不能になった。

橘花が実戦投入されていれば戦局はどうなっていたか

構想では1945年末までに橘花を500機生産するとあったが、8月15日の日本降伏で無に帰した。その時点で完成機材は一機しかなかった。

では戦闘がそのまま続いていれば橘花はMe-262のような戦果を挙げていただろうか。Me-262A1Aの最高速度は540マイルだったが、連合軍のP-51Dは437マイルで大きく凌駕していた。橘花迎撃戦闘機型は443マイル想定でマスタングと同等となったが、初期ジェット機では機体制御、エンジン信頼性ともに未知数が多かったのも事実だ。

中でも興味をひかれるのは日本軍ジェット機が実用化されていれば太平洋の戦いの結果が変わっていたかだ。その答えはドイツにある。ドイツはMe-262を1,400機生産し、一部が1944年11月から終戦まで投入された。連合軍には脅威となったものの同機でドイツ第三帝国を救うことはできなかった。なんといっても連合軍の機材数が圧倒的に多く、英米両国がドイツ支配下の飛行場上空を監視し、Me-262を見つけるや脆弱な離着陸時を狙い攻撃したし、連合軍戦車部隊が地上を制圧した。

日本の燃料、原材料事情はドイツより劣悪で、ドイツ以上の戦果を挙げるのは不可能だったはずだ。橘花は米軍機に飽和され、実戦投入が早くとも一部の戦果を変更した程度だろう。1944年の米軍フィリピン侵攻がその例になっていたかもしれないが、その際も橘花の航続距離不足があだとなり、太平洋戦線で必要な長距離作戦の実施ができなかったはずだ。橘花は本土防衛任務に特化し、B-29の昼間爆撃を阻止したはずだが、米軍が夜間空襲に切り替えれば、レーダー装備の無い橘花では対応不能になっていたはずだ。■

この記事は以下を再構成したものです。

Could Japan's Kamikaze Jet Fighter Have Changed the Course of World War II?

 

December 2, 2020  Topic: Security  Region: Asia  Blog Brand: The Reboot  Tags: JapanWorld War IIMilitaryTechnologyWorld

The best answer is to look at what happened to Germany.

by Michael Peck

 

Like its big brother the Me-262, the Kikka was too little, too late.

Suggested Reading: Japanese Secret Projects 1: Experimental Aircraft of the IJA & IJN 1939-1945, by Edwin Dyer.

Michael Peck is a contributing writer for the National Interest. He can be found on Twitter and Facebook.

This article first appeared in 2018.

Image: Wikimedia Commons


2020年12月2日水曜日

2020年11月29日日曜日

台湾がついに潜水艦国産建造に乗り出した。8隻建造し、2025年に一番艦を就役させる。日本は傍観しているだけでいいのでしょうか。

 

KYODO VIA AP

 

ポイント 台湾は新型潜水艦を8隻国産建造し、老朽化著しい潜水艦部隊を一新し、中国の脅威増大への対応を目指す。

湾が初の国産潜水艦建造に一歩近づいた。専用建造所が完成し、中華民国海軍の近代化が実現する。蔡英文総統が開所式に出席し「台湾の主権を守り通す強い意志を世界に示す」と宣言した。

新設の潜水艦建造を専門とする施設は台湾南部の高雄に2020年11月24日完工し、新型ディーゼル電気推進方式潜水艦8隻の建造を開始する。設計は国家中山科学研究院が米国の支援のもと完成させた。初号艦は2025年に就役予定で、台湾国際造船が建造を担当する。

 

蔡英文総統は「潜水艦は台湾の目指す非対称海軍戦力整備で重要な装備で、台湾に接近を試みる敵に対する抑止効果を実現する」と祝辞で述べた。北京に対し自国防衛の強い意志を示し、潜水艦建造事業は台湾防衛の自己遂行能力を引き上げることにもつながる。

 

 

MINISTRY OF NATIONAL DEFENSE, ROC

蔡英文総統が高雄の新設潜水艦建造施設の完成式に出席した。

 

 

人民解放軍海軍(PLAN)が潜水艦多数を運用中でしかも近代化と性能向上が著しく、台湾海峡で活動も増えている中で、中華民国海軍(ROCN)は一方的に不利な状況だ。台湾の潜水艦部隊は海龍 Hai Lung級2隻、海獅Hai Shih 級2隻のみで高雄の左營區 Tsoying 基地に配備されている。

 

このうち海獅級はオランダで1980年代建造された艦で、オランダ海軍ズヴァールトフィス級を原型とし、最高速力は20ノット魚雷28本搭載といわれる。海獅級の性能改修が2016年に始まり、15年程度の供用期間延長をめざす。なおオランダ海軍はズヴァールトフィス級を1990年代に退役させている。

 

 

AP/CHIANG YING-YING

台湾海軍の海龍級潜水艦海虎はROCNに1988年就役した。

 

海龍級より古いのが海獅級で海獅は米海軍テンチ級、海豹はバラオ級と第二次大戦時の艦で台湾に余剰艦として1973年-74年に譲渡された。海獅は潜航速度が15ノットしか出せず、現代戦に適合しているとはいいがたく、訓練用途で使われているようだ。両艦ともに潜航深度に328フィート制限がついており、圧力艦体にゆがみがつき金属疲労もあるといわれる。ここ数年、両艦を退役させる話が出ているが博物館ものの両艦を見れば当然だろう。


 

CPJ2028/WIKIMEDIA COMMONS

海獅は元USSカットラスでテンチ級潜水艦として1944年進水だが、今もROCNは供用中。

 

 

新造船施設の開所式で台湾国際造船会長Cheng Wen Lungは台湾の国産潜水艦建造は多大な困難を克服してきたと語った。「開発を進めさせたくない外部勢力があった」とし、中国の反対を恐れ、海外国の潜水艦技術移転が進まなかったことを指している。中国は今も台湾を反乱地方と見ており、再統一は必須とする。

 

1990年代のクリントン政権は潜水艦売却を拒んだ。1979年の台湾関係法の想定外としたのだ。台湾はアルゼンチン、ノルウェーいずれかからの原型をもとに建造を目指したが、いずれも失敗した。

 

2001年にジョージ・W・ブッシュ大統領が台湾向け装備品の大規模売却を認め、ディーゼル電気推進式潜水艦8隻もその一部としたが、その後中国の顔色を見て方針を転換した。だが米海軍の通常型推進潜水艦は終了して相当の年数が経っており、8隻は米国では設計できず、ライセンス生産するしかなかった。ドイツ、オランダの原設計が有望と見られていた。

 

だが両国は台湾への潜水艦技術提供を拒んだ。オランダ政府は武器輸出は台湾、中国本土のいずれにも行わないと述べ、ドイツは「一つの中国」方針を堅持するというものだった。

 

米国内でディーゼル電気推進方式潜水艦建造ができないため、台湾には余剰艦を供与する方針に変わった。2004年に米国は新型ディーゼル電気推進方式潜水艦をミシシッピ州のインガルス造船所で行う案を提示し、海外設計で建造する可能性が多大だったが、これも実現しなかった。ROCNは手持ちの4隻を稼働させるしか手段がなかった。

 

一方で新型潜水艦建造は台湾で政治課題となり、国産建造か完成艦輸入かで意見がわかれた。2005年に工業開発局長Chen Chao Yiは「潜水艦建造は台湾で可能」と述べたものの「潜水艦青写真と兵装システム」で米国の協力が必要と認めていた。

 

ついに台湾は国産潜水艦建造事業の開始を2014年に決定し、2017年に蔡英文総統が潜水艦建造の覚書に署名した。

 

「重層抑止力構想にもとづき、水中戦力は台湾防衛で最大の効果を発揮する」とその際に同総統は「だれでも理解できるがこれまで実現できなかった」と述べた。

 

台湾構想の実現で突破口となったのが2018年の米国務省による方針決定で関連技術の台湾向けライセンスが認められたことで、戦闘統制システムやその他技術提供に道が開いたが、米企業がどこまで関与できるのか詳細は非公表だ。

 

台湾の国産建造ではオランダ建造の海龍級建造で得た知見も参考となり、ROCNはこれまで詳細に研究しているが、その他国のノウハウも必要になるはずだ。すでに耐圧船殻製造で台湾が支援を求めているとの記事が出ている。

 

新型国産潜水艦にはオランダ製の海龍級の影響が現れているが、新型艦の詳細はほぼ不明のままで大気非依存型推進(AIP)が搭載されるかは不明だ。

 

新型潜水艦8隻と海龍級改修艦があってもROCNの潜水艦部隊はPLAN潜水艦部隊に大きく劣勢となる。だが、通常型でも新規建造艦は多国間演習で大きな効果を実証しており、乗員の練度が高ければ予想外の効果を発揮し台湾海峡に防衛緩衝地帯が生まれる。

 

潜水艦戦力の増強で台湾はPLAN艦船・揚陸部隊への防衛力を適正化し、ハープーン対艦ミサイル、ステルス機雷敷設双胴艦と組み合わせた防衛力を発揮する日がやってくる。

 

潜水艦部隊の存在そのものがPLANへの抑止力になる。PLANは対潜能力で大きく後れを取っている。世界の潜水艦部隊の中でここまで近代化が切迫したニーズになっているのは台湾以外になく、潜水艦建造施設を完成させたことはROCNが長年切望していた新造潜水艦の実現への道で大きな一歩となる。■

 

この記事は以下を再構成したものです。

 

Taiwan Is Finally Set To Build The New Diesel-Electric Submarines It Desperately Needs

BY THOMAS NEWDICKNOVEMBER 25, 2020