スキップしてメイン コンテンツに移動

ナチドイツが原爆開発できなかった理由


原爆特集です。イデオロギーがからむと科学の進歩には逆効果になる証明でしょうか。一方で戦後に罪に問われないよう自己保身できれいごとを並べる科学者の姿は情けないですね。(731部隊の医官で戦後日本の医学界にのし上がった人たちも同じだったのでしょう)あらためて信念を貫き通すことのむずかしさを感じました。

The Scariest History What-If Ever: Nazi Germany with a Nuclear Weapon 最も恐ろしい架空史、ナチドイツが核兵器を手に入れていたらどうなったか



August 4, 2017

  1. 第二次大戦の架空戦史で最大の悪夢はナチドイツが原子兵器を入手した想定だ。1945年春の段階で米国の核開発が最終段階に入っていたがナチの原子力開発は南部ドイツの洞窟内に作られた実験原子炉がひとつあるだけでしかも運用に携わる科学者に原子兵器製造の知識は不足していた。
  2. 仮にドイツ科学陣に十分な知識があったとしても兵器製造に必要な放射性物質がなかった。第二次大戦の驚くべき事実はナチが原爆開発で道を誤ったことだ。
  3. 原子力エネルギーが秘めた力はアインシュタインの相対性理論E = MC2から導かれた。方程式の意味を簡単に解説するとあらゆる物質はエネルギーであり、物質内のエネルギーを求めるには質量に光速の自乗をかければよい。光速は毎秒186千マイルとわかっており積算の結果は恐ろしく規模になる。
  4. 20世紀初頭の物理学ではいかなる物質(たとえばレンガ)でも内部のの原子力エネルギーを解放すれば最終兵器ができることは理解されていた。幸いにもレンガ含むほとんどの物質内の原子は極めて安定しており、連鎖反応をひきおこしそうになかった。だが1930年代に入ると不安定物質のウラニウムを使った実験で核エネルギーによる恐るべき威力を持った装置の可能性が見えてていた。

「ユダヤ物理学」を排斥したナチドイツ

  1. 理論の世界では1930年代のドイツは原子力研究で世界に抜きんでいた。当時の核物理学研究者のトップは多くがドイツ人やオーストリア人だったからだ。1938年に原子核を初めて分割したのはドイツのオットー・ハーンだった。後年ハーンは功績を自慢するが、当時は自分で何をしたのかわかっていなかった。
  2. ハーンの発見を認めたのはリーズ・マイトナーでオーストリアのユダヤ人科学者だった。マイトナーはウラニウムに中性子をぶつけ、ウラニウムの原子核を分割させたことで巨大なエネルギーが生まれたと理解できた。信じられない話だが、ナチ政策によりハーンはじめ「ドイツ人」科学者はマイトナーをベルリン近郊のカイセル・ウィルヘルム化学研究所から放逐しスウェーデンに亡命させた。マイトナーは聡明な科学者であったが、社会的にも政治的にも疎くハーンをそのまま支えたが、ハーンは彼女をユダヤ人として政府方針と同様に処遇していた。
  3. マイトナーはともかく、ユダヤ系科学者はそこまで運に恵まれなかった。1930年代末になるとドイツ、オーストリアのユダヤ系か物理学者はほとんどが英米等に国外脱出している。中でもアインシュタインが有名だが偉大な科学者は他にも多数いる。
  4. ナチ科学者がその後を引き継いでユダヤ人が去った研究機関でで高位職を貪欲に独占していった。去ったのは他に外国人や反ナチ学者が多数いた。新しく登場した中には二流の教員や科学者もおり、人種思想的に劣等と見ていた者が残した成功例に嫉妬していた。物理法則やアインシュタインの相対性理論を見下す者まであらわれた。
  5. こうした科学者やナチ高官はアインシュタインの相対性理論やその後の成果を「ユダヤ物理学」と呼んでいた。唯一有効な物理学は「ドイツ」の「国民」物理学のみであると主張し、古典的実験物理学の域を出ずアイシンシュタインが解明した現実を無視しがちだった。とはいえドイツ物理学者の全員が「ユダヤ物理学」を軽蔑したわけではなく、ナチ高官の中にも原子力超兵器の可能性を評価する向きもあらわれた。

ドイツ最高の物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルグ

  1. 1930年代のドイツで最も有名な物理学者はヴェルナー・ハイゼンベルグだった。(アインシュタインはニュ―ジャージーに移っていた)ハイゼンベルグは国際的にも量子論や本人名を付けた不確定性原理で知られる優秀な理論物理学者であり、数学者でもあった。ドイツ最年少で正式な教授職に就任した。
  2. ハイゼンベルグは1932年のノーベル物理学賞を不確定性原理で受賞したが先行員会はハイゼンベルグのカリスマ性の前に他の優秀な物理学者を冷遇したのだった。37年にはライプチヒ大の先任教授職に就く。
  3. 本人はナチ信奉者ではなかったが、ドイツ人として愛国精神に富んだ人物だった。当時のドイツ科学者や兵士同様に本人も政治性がなく、政府へ忠実であろうとした。ドイツの原爆開発の中心人物になったのは当然のことだった。
  4. ところが1937年7月にハーンが原子核分割に成功する数か月前にハイゼンベルグはSS機関紙の攻撃を受ける。非難を扇動した著者はヨハネス・スタルク、熱狂的反ユダヤ主義でハイゼンベルグの成功とユダヤ人物理学者とのつながりを不快に思っていた。ハイゼンベルグの研究分野ではユダヤ人学者との交流は当然だった。記事はハイゼンベルグを「白いユダヤ人」と非難し、アインシュタイン相対性理論を広め、真正ドイツ人の活躍の場を奪い、ナチ党を軽視しようとしたと述べた。
  5. このような個人攻撃はナチドイツで日常茶飯事で、強制収容所送り、さらにもっと深刻な結果も生まれた。ハイゼンベルグは親友の助けを求め、ナチ上層部にさえ頼り汚名返上を狙った。ハイゼンベルグの母親がハインリッヒ・ヒムラーの父親の知己で書簡をSS親衛隊長官に手渡した。SSによる徹底的調査を経てヒムラー自らが本人の容疑を晴らした。
  6. ヒムラーは本人の研究の継続を許したが、相対性理論他ユダヤ人科学者の研究成果を用いる際は事前申請するとの条件付きだった。ハイゼンベルグもこの条件を受け入れ、真剣にドイツ原爆開発にとりくんだ。

重水炉という選択

  1. ドイツは国家プロジェクトとして原子力研究を連合国より数年先行して開始したがその活動が気付かれないはずはなかった。ドイツ帝国を逃れた物理学者が多数おり、連合国の各国政府もドイツの意図を急速に理解し始めた。米国での研究を加速したのがアインシュタインでフランクリン・D・ロウズベルト大統領へ書簡を送りドイツが核兵器開発に成功した場合の懸念を伝えた。
  2. 1941年までにドイツは実験原子炉事業を二型式で運用していたが、成功は限定的だった。ハイゼンベルグのチームはドイツ全体の研究を危険にした工学上の選択をしている。
  3. 反応炉はウラニウム238の連鎖反応を誘導して作動する。反応をはじめるため中性子を放射性アイソトープの周りに流すが、黒鉛や重水で減速させる必要がある。ドイツは重水を選択したが、自然界にほとんど存在せず、製造も困難な物質だ。
  4. 1940年にドイツ軍はノルウェーのベルモック重水工場を占拠した。英軍情報部はドイツ反応炉の基本情報をつかんでおり、ノルウェーの重水供給が脆弱な要素だと理解した。1942年なかごろまでにノルウェー工場は年換算10千ポンドの重水を生産しハイゼンベルグのライプチヒ、ベルリン両拠点に供給していた。英軍落下傘部隊による第一回強襲作戦はグライダーが離れた地点で墜落し悲惨な結果に終わった。
  5. 英軍は再度工場攻撃をやや慎重に実施した。ノルウェー人特殊部隊が工場内に侵入し水タンクを吹き飛ばすと、英潜水艦が海上輸送を止めた。重水の喪失でドイツ研究活動は遅れたが取りやめにはならなかった。

U-235濃縮への挑戦

  1. 重水補給路はその後も攻撃対象となったが1941年までにドイツ科学陣は原子爆弾製造方法で米国の研究とほぼ同じ結論を得ていた。(1)濃縮ウラニウム分裂装置、(2)プルトニウム分裂装置、または(3)「反応炉」爆弾のいずれかだ。米国が原子炉製造に成功し、ウラニウム爆弾・プルトニウム爆弾双方を大戦終結までに完成させたのに対し、ドイツ科学陣は作動可能な原子兵器製造に必要な具体的構想を完成できなかった。
  2. 広島上空で炸裂した米製原爆はウラニウム分裂装置だった。この爆弾製造のカギは十分な量の高度濃縮ウラニウム235の確保にあり、自然界に豊富にあるウラニウム238内に微量があるだけだ。U-238からU-235を抽出するには化学製法ではだめとわかり時間がかかり高価なガス拡散工程が必要だ。
  3. ここでナチの人種政策が原爆製造で大きな障害になった。ガス拡散技術ではグルタフ・ヘルツが最先端だったが本人の叔父がユダヤ人だった。そのためグスタフはベルリン工科大物理学部長の地位を追われ、後を引き継いだドイツ人科学者はヘルツの業績に関心を示さず、研究を続ける能力もなかった。このためドイツはウラニウム・アイソトープ分離技術を実用化できなかった。
  4. 両陣営が原爆製造にU-235がどれだけ必要なのかという疑問に直面した。この問題はとくにウラニウム分離の技術的困難さのため重要となった。ハイゼンベルグ率いるドイツ側はU-235分裂装置で決定的かつ深刻な理論的間違いを犯した。実際より多くのU-235がないと実用に耐える兵器はできないと考えてしまった。
  5. この間違いがその後に続く論議を生んだ。ハイゼンベルグはU-235の臨界量をおおまかに計算しようとしていたようだ。臨界量は連鎖反応をひきおこすものだ。本人たちはまちがって臨界量までにはU-235が1トン必要と結論付けてしまう。
  6. 実際には米科学陣が求めたように臨界量はU-235が100ポンド未満で十分だった。ドイツ側は濃縮U-235の1トン生産は事実上不可能とわかっていた。

シュペーアの支持を取り損なう

  1. ドイツがマンハッタンプロジェクトに相当する開発を開始するかはハイゼンベルグやドイツ科学者ではなく帝国の軍需相アルベルト・シュペーアの責任だった。シュペーアは科学陣が終戦までに強力な兵器を開発できるかを知りたかった。ハイゼンベルグは1942年にシュペーアに会見し、原子力の可能性を軍やSS関係者にも説明している。
  2. 会談でシュペーアがハイゼンベルグに何を話したかは不明だが、あきらかにハイゼンベルグはウラニウム原料の原子力兵器実現の短期的可能性さらに実用的反応炉機関を搭載した潜水艦、水上艦の実現可能性をシュペーアに納得させていない。ハイゼンベルグは研究開発予算の大幅増を要望していない。
  3. シュペーアはドイツ原子科学者の戦争への貢献度は皆無と結論付け、かわりに有望なロケットエンジン、ジェット推進を重視すると決めた。ドイツ科学陣はU-235を十分に抽出して爆弾製造できるとは信じておらず、シュペーアにドイツ産業界の全力をもってアイソトープ分離事業にあたらせるよう求めていない。だが米国ではテネシー州に巨大なオークリッジ施設を建築しこの作業を行ったのだ。

プルトニウム爆弾に向かう

  1. ただしハイゼンベルグに全く希望がなくなったわけではなかった。ドイツ科学陣は実用的な核反応炉の実現に向かっていた。ハイゼンベルグは仲間と反応炉自体を「汚い爆弾」として使う構想を練っていた。炉ではU-238を使い、真の意味の原子爆発につながる急速な連鎖反応は無理だが、臨界段階まで作動させて通常爆発物で強力な放射線を生むことを構想ししていた。その結果大量の放射能汚染が発生する。1トンのウラニウムで作る原爆と同様にこの構想も非現実的だった。そもそも炉爆弾をどうやって運搬するのか。
  2. ドイツの最後の望みは反応炉で相当量のプルトニウムを生産し分裂爆弾の材料とすることだった。長崎で投下されたのがプルトニウム爆弾だ。ドイツは高放射性のプルトニウムが炉内でU-238の「燃焼」の副産物として生まれると理解していた。十分な量があればプルトニウムはU-235と同等あるいは以上に原子爆弾の原料となる。ハイゼンベルグたちはシュペーアやその他ナチ高官との会談でこの点を指摘していた。
  3. ハイゼンベルグのシュペーア等との会談で明らかなようにドイツの反応炉研究が学術研究の域を出ていないのは驚くべきことだ。ドイツも実験用炉数点を作ったが、各チームばらばらで成果を共有せずドイツは炉内でウラニウム堆積がどんな形状になるかを理解するのに連合国より長期を要してしまった。ハイゼンベルグ以下研究陣は原子力研究を他の学術研究で空いた時間で進め、占領国へプロパガンダ目的で訪問したり、論文執筆にいそしんでいた。
  4. ドイツ国内の序列構造のため産業界を原爆製造に動員できなかった。ドイツにはロスアラモスのような科学界重鎮を集めた施設はなく、テネシーの巨大分離工場に匹敵する拠点もなかった。ドイツは不確かな重水供給に頼らざるを得ず、英米の空襲で重要な産業拠点、交通施設、研究施設が次々に破壊されていた。
  5. 1945年までにドイツ研究チームはなんとか研究用反応炉をドイツ内政部のスヴァビアン地方の洞窟内に完成させソ連赤軍を避けていたが、この地は偶然とはいえ若きアインシュタインが青春時代を送った場所だった。ハイゼンベルグの努力にもかかわらずドイツは連鎖反応に成功しないまま米軍が到着した。
  6. 米軍と行動を共にした連合国側の科学者がドイツの成果に目を奪われない状況にドイツ科学陣は驚くことになる。ドイツ製反応炉は好奇心をそそるだけの存在だった。米側の懸念はウラニウム残滓、重水だけであとはドイツ物理学者をロシアの手に渡さないことだった。

ナチ原爆開発はどこでつまづいたのか

  1. 終戦でハイゼンベルグたちは自分たちのプロジェクトが失敗したのはハイゼンベルグが意図的に妨害したためとほのめかした。ハイゼンベルグはU-235の臨界量を1942年時点で理解していたが、わざとシュペーアに誤った情報を与え進捗に不満を感じさせたと説明している。ハイゼンベルグは師と仰ぐデンマークのニルス・ボーアとコペンハーゲンで1941年に会見したが大きな関心を呼んだが、ハイゼンベルグがナチ原爆の可能性を知り道義的に悩んだと描く戯曲がある。
  2. ドイツの失敗の理由は実は戦後に科学者たちが告白した道義上の問題と無関係だとわかる。手に入る証拠のほとんどからドイツ物理学者は条件さえあえば原爆を喜んで作っていたことがわかる。実際に製造できなかったのには明白な理由がある。
  3. 一番はドイツが深刻な頭脳流出に苦しんだためで、原因はナチの反ユダヤ主義にある。ドイツやヨーロッパの優秀な科学者が外国に逃げ、多くは英米でナチ打倒に才能を活用した。ハイゼンベルグなど残された科学者も優秀ではあったがマンハッタンプロジェクトに終結した頭脳力の比ではなかった。
  4. 連合国側の組織力もドイツを上回るものだった。ドイツにレズリー・グローブス将軍やロバート・オッペンハイマーに匹敵する人物はいない。ドイツの事業は各省庁のたらいまわしで結局終戦までこのままだった。科学者も調整ないまま無駄な努力を余儀なくされた。
  5. ドイツは米側の進展具合を戦争中一貫して知らずに幸せだった。だがこれはドイツ側の自己満足にすぎない。いかにも傲慢にドイツは自国科学水準がアメリカの後塵を拝するとは信じようとしなかったのだ。連合軍側の情報管制が有効であったことも一因だ。

ナチ科学者の犯した間違い

  1. ヨーロッパから科学者が続々と脱出する中で1943年に加わったボーアがドイツでの進捗状況をかなり詳しく(同時に遅れた状況も)連合軍情報部に供述した。戦後に捕獲されたドイツ科学者たちは日本への原爆攻撃を知らされた後の会話をこっそり盗聴されている。テープでは彼らが驚き、困惑しながら言い訳を言う様子が残っている。
  2. ハイゼンベルグと仲間たちは戦時中に根本的概念で間違いを犯しており、原爆製造は困難かつ非現実的と思いこんでしまった。間違いにはU-235分裂に必要な臨界量算出から反応炉内でU-238を形成する最良の条件の把握、アイソトープの分離まで多々ある。こういった問題をすべて比較的容易に解決したのが連合国側の科学陣であった。
  3. 最後にドイツに文化的偏見があったことは政権にとどまらず、科学者層のほとんど、政府官僚、軍人まで共通でドイツは本格的な開発に入れず、一方で「真正の」ドイツ人科学者はロケットやジェット開発に従事した。その成果のジェット機やロケットは確かに連合国の技術水準を上回っていたが、軍事的に優柔不断な意思決定が見え無駄も多かった。
  4. 反面、もしドイツが終戦までに原子力兵器数発を完成していれば、V-1やV-2数千発を英国に向け発射する代わりに歴史は明らかに変わっていたはずだ。このもう一つの歴史が現実にならなかったことは幸運以外の何物でもない。■
This article by Jonathan F. Keiler originally appeared on Warfare History Network.
Image: Wikimedia Commons

コメント

  1. だから731部隊が凶悪なマッドサイエンティスト集団だったってのは創作だって言ってんじゃん…

    返信削除
  2. 海軍人体実験の件では、陸軍への対抗意識で行ったのだろうとの当時のトラック司令原忠一の証言あり
    近年、アメリカのダグウェイ実験場で人体実験実験によるものと思われる文書が見つかり、これが731部隊によるものだと推測されており

    731部隊での人体実験はアリ、だね

    返信削除
  3. 軍事情報センター2017年8月7日 15:32

    酷暑の候、お変わりなくご活躍のことと、
    お喜び申し上げます。
    軍事情報センターです。
    病気と休養で動画の更新ができませんでしたが、
    これからまた少しずつ更新していこうと思います。
    更に以前の動画の記事引用の表示の作業もしていきます。
    以前のように航空宇宙ビジネス短信・T2:様の記事を
    引用させていただく際は、お断りを入れてから引用し
    訂正箇所がある場合は報告したいと思います。
    メールアドレス「gunjijyuhou001@yahoo.co.jp」は
    使用していなかったため受信BOXが削除されていたのですが
    本日受信BOXも再開させました。
    もしも、記事の使用不可等でありましたら
    お手数ですがgunjijyuhou001@yahoo.co.jpまで御一報ください。
    よろしくお願い致します。 ~軍事情報センター~

    返信削除

コメントを投稿

コメントをどうぞ。

このブログの人気の投稿

フィリピンのFA-50がF-22を「撃墜」した最近の米比演習での真実はこうだ......

  Wikimedia Commons フィリピン空軍のかわいい軽戦闘機FA-50が米空軍の獰猛なF-22を演習で仕留めたとの報道が出ていますが、真相は....The Nationa lnterest記事からのご紹介です。 フ ィリピン空軍(PAF)は、7月に行われた空戦演習で、FA-50軽攻撃機の1機が、アメリカの制空権チャンピオンF-22ラプターを想定外のキルに成功したと発表した。この発表は、FA-50のガンカメラが捉えた画像とともに発表されたもので、パイロットが赤外線誘導(ヒートシーキング)ミサイルでステルス機をロックオンした際、フィリピンの戦闘機の照準にラプターが映っていた。  「この事件は、軍事史に重大な展開をもたらした。フィリピンの主力戦闘機は、ルソン島上空でコープ・サンダー演習の一環として行われた模擬空戦で、第5世代戦闘機に勝利した」とPAFの声明には書かれている。  しかし、この快挙は確かにフィリピン空軍にとって祝福に値するが、画像をよく見ると、3800万ドルの練習機から攻撃機になった航空機が、なぜ3億5000万ドル以上のラプターに勝つことができたのか、多くの価値あるヒントが得られる。  そして、ここでネタバレがある: この種の演習ではよくあることだが、F-22は片翼を後ろ手に縛って飛んでいるように見える。  フィリピンとアメリカの戦闘機の模擬交戦は、7月2日から21日にかけてフィリピンで行われた一連の二国間戦闘機訓練と専門家交流であるコープ・サンダー23-2で行われた。米空軍は、F-16とF-22を中心とする15機の航空機と500人以上の航空兵を派遣し、地上攻撃型のFA-50、A-29、AS-211を運用する同数のフィリピン空軍要員とともに訓練に参加した。  しかし、約3週間にわたって何十機もの航空機が何十回もの出撃をしたにもかかわらず、この訓練で世界の注目を集めたのは、空軍のパイロットが無線で「フォックス2!右旋回でラプターを1機撃墜!」と伝え得てきたときだった。 戦闘訓練はフェアな戦いではない コープサンダー23-2のような戦闘演習は、それを報道するメディアによってしばしば誤解される(誤解は報道機関の偏った姿勢に起因することもある)。たとえば、航空機同士の交戦は、あたかも2機のジェット機が単に空中で無差別級ケージマッチを行ったかのように、脈絡な

主張:台湾の軍事力、防衛体制、情報収集能力にはこれだけの欠陥がある。近代化が遅れている台湾軍が共同運営能力を獲得するまで危険な状態が続く。

iStock illustration 台 湾の防衛力強化は、米国にとり急務だ。台湾軍の訓練教官として台湾に配備した人員を、現状の 30 人から 4 倍の 100 人から 200 人にする計画が伝えられている。 議会は 12 月に 2023 年国防権限法を可決し、台湾の兵器調達のために、 5 年間で 100 億ドルの融資と助成を予算化した。 さらに、下院中国特別委員会の委員長であるマイク・ギャラガー議員(ウィスコンシン州選出)は最近、中国の侵略を抑止するため「台湾を徹底的に武装させる」と宣言している。マクマスター前国家安全保障顧問は、台湾への武器供与の加速を推進している。ワシントンでは、台湾の自衛を支援することが急務であることが明らかである。 台湾軍の近代化は大幅に遅れている こうした約束にもかかわらず、台湾は近代的な戦闘力への転換を図るため必要な軍事改革に難色を示したままである。外部からの支援が効果的であるためには、プロ意識、敗北主義、中国のナショナリズムという 3 つの無形でどこにでもある問題に取り組まなければならない。 サミュエル・ P ・ハンチントンは著書『兵士と国家』で、軍のプロフェッショナリズムの定義として、専門性、責任、企業性という 3 つを挙げている。責任感は、 " 暴力の管理はするが、暴力行為そのものはしない " という「特異な技能」と関連する。 台湾の軍事的プロフェッショナリズムを専門知識と技能で低評価になる。例えば、国防部は武器調達の前にシステム分析と運用要件を要求しているが、そのプロセスは決定後の場当たり的なチェックマークにすぎない。その結果、参謀本部は実務の本質を理解し、技術を習得することができない。 国防部には、政策と訓練カリキュラムの更新が切実に必要だ。蔡英文総統の国防大臣数名が、時代遅れの銃剣突撃訓練の復活を提唱した。この技術は 200 年前のフランスで生まれたもので、スタンドオフ精密弾の時代には、効果はごくわずかでしかないだろう。一方、台湾が新たに入手した武器の多くは武器庫や倉庫に保管されたままで、兵士の訓練用具がほとんどない。 かろうじて徴兵期間を 4 カ月から 1 年に延長することは、適切と思われるが、同省は、兵士に直立歩行訓練を義務付けるというわけのわからない計画を立てている。直立歩行は 18 世紀にプロ