小型で使い勝手が良かったのでしょうね。ただし電子装備などの拡張スペースが足りず後年は苦しい対応もあったようですが、費用対効果の高い機体だったようです。
How the A-4 Skyhawk Ruled the Skies
空を制したA-4スカイホークの歴史
August 20, 2017
- 今日のジェット戦闘機では大型化、複雑化の代償で価格が上昇気味だ。一方で合理的な価格ながら歴史に残った機材もある。その例がA-4スカイホークで使い勝手の良い小型機でいながら大量の搭載能力を発揮し米航空機史に残る機材となり、同様にイスラエル、アルゼンチンにも意義深い機材になった。
- 1952年、ダグラス航空機のエド・ハイネマン技師が米海軍のAD1スカイレイダー後継機を検討していた。ピストン戦闘爆撃機として空前の大きさの機材の後継機が逆に最も小型かつ軽量のジェット機として提案された。ハイネマンはあらゆる角度からスカイホークの重量と複雑度を削り、生まれたのは全長12メートル空虚重量僅か5トンの機体だった。主翼はデルタ形状だが小型で翼幅8メートルを切り、空母搭載で折りたたむ必要がない。小型化に加え短距離離着陸性能が実現し、スカイホークは1956年の供用開始からその使い勝手の良さを発揮し、とくに飛行甲板が短い通常型空母で多用された。
- エンジンはJ65ターボジェットで、スカイホークは敏捷性はあるが最大速度も毎時670マイル程度と高速機でなかった。初期型はレーダーがなく、敵戦闘機に熱追尾式サイドワインダーミサイルと20ミリ機関砲二門で対抗した。だがスカイホークの任務は対地攻撃でそのためハードポイント三か所で合計8千から10千ポンドの兵装を吊り下げ、核兵器にも対応していた。
- 安価ながら信頼性に富み、効果が高い機材で海軍、海兵隊が大量発注し、生産は各型式あわせ2,500機に上った。1960年代初めには各空母にスカイホーク攻撃飛行隊が少なくとも二個搭載され、初の原子力空母には四個飛行隊があった。エイビオニクスを改良し、空中給油能力を付与したB型が生まれた。この場合の空中給油は僚機のスカイホークへの給油だ。専用給油機材が登場し、給油機型は前世紀末までに退役しているが、この発想がスーパーホーネットで復活している。レーダー装備したA-4Cがその後登場し、全天候飛行性能と夜間性能が向上した。
ベトナム戦争で最初と最後の投下を実施
- 1964年8月2日、駆逐艦USSマッドクスが北ベトナム魚雷艇部隊とトンキン湾で交戦した。二日後、攻撃の第二波がレーダー探知された。この第二波は技術上のエラーだと判明するのだが、ジョンソン大統領は即座に北ベトナム空爆の開始を命じ、ヴィンの魚雷艇基地や石油貯蔵施設を標的とした。海軍はスカイホーク隊を発進させベトナムに投下した760万トンの爆弾の第一号はスカイホークが投下した。
- 当時の米軍機の攻撃方式は高高度から精密誘導兵器を投下し対空機関銃や小型ミサイルの射程外から安全を確保していた。誘導対空兵器はまだ完成の域に達していなかったのだ。攻撃機は上空から旧式重力落下式爆弾を投下したり、機関砲で地上を掃射した。対空砲の密集地点へ接近する必要があり、米軍も痛い被害にあっていた。
- ヴィンへの初回空襲では対空火砲でA-4二機を喪失し、リチャード・セイザー大尉が戦死、エヴァレット・アルバレスJr中尉は射出脱出し米パイロット捕虜第一号となった。攻撃隊には後の海軍中将ジェイムズ・ストックデール(1992大統領選挙でロス・ペローの副大統領候補として出馬)もおり、1965年に被弾し捕虜生活を送っている。
- ベトナム戦争がエスカレートする中で、スカイホークは働き馬となり、地上攻撃数千ソーティーをこなし、フエ攻防戦やアンロックの戦いでも重要な役割を果たした。新型A-4EとF型が登場しハードポイントの二か所追加で搭載量が増え、エンジンはJ52に変わり、航法用ドップラーレーダーを採用し、攻撃目標データ処理のコンピュータも加わった。F型では「ハンプ」と呼ぶコックピット後方のエイビオニクス用スペースが特徴だ。誘導兵器の運用も広がり、AGM-12ブルパップミサイル、AGM-45シュライク対レーダーミサイルでハノイの対空ミサイル陣地を攻撃した。
- そのころにはA-7コルセアが大型空母でA-4に代わり導入されていたがスカイホークの短距離離着艦性能を小型空母や海兵隊航空隊が重宝した。海兵隊はA-4で前方進出航空基地から出動した。
- ベトナム戦初期にA-4は北ベトナムのMiG-17と対戦している。ミグは操縦性が高く、機関砲を搭載し最大速度はスカイホークよりわずかに早い程度だ。だがセオドア・スワーツ少佐はMiG-17を対地攻撃用非誘導式ズーニロケット弾で撃墜している。
- 同じロケット弾が空母運用史で最悪の事故の原因となった。1967年7月29日にUSSフォレスタル艦上のF-4ファントムの搭載ズーニ一発で過電流が発生し艦上で発射されてしまった。ロケット弾は前にいたスカイホークの燃料タンクに命中し、ジェット燃料が散布され、着火し破片が甲板に散乱した。一分後にスカイホークの千ポンド兵装に引火し、鎮火に駆け付けた経験豊かな消防隊の命を奪った。結局、乗員134名が死亡し、スカイホーク一個飛行隊分が全損となった。
- 幸運にもその場を退避できたのが若き日のジョン・マケインで現在アリゾナ州選出上院議員だ。マケインの乗機A-4Eは発火した機材と同列にあった。発火したと見るやマケインは機外に飛び出した。四か月後の1967年10月26日にマケインはハノイ発電所を爆撃中にSA-2対空ミサイルが主翼を引き裂いた。マケインは機外脱出しハノイ北方トルクバック湖に着地し捕虜となり、6年間収容された。
- ベトナム戦末期でも海軍海兵隊のスカイホークはあいかわらず多数の出動をし、結局195機を喪失した。海兵隊所属のスカイホークによる1973年の空襲が米軍機によるベトナム戦最後の攻撃となった。
- その後もスカイホークは米軍装備として残った。海兵隊は信頼度高い対地支援機として手放すのがつらかったらしく、高性能のA-4Mを調達したほどだ。高性能エンジンに換装し、機関銃弾を追加し、初期のマーヴェリックミサイルやレーザー誘導爆弾の運用が可能となった。この型はハリヤーが登場した1980年代まで供用された。高速だが鈍重なファントムを飛ばしていたブルーエンジェルス曲技チームは1974年から1986年まで同機を使った。
- スカイホークは「アグレッサー」機として海軍の訓練飛行で引っ張りだこだった。皮肉にもMiG-17と飛行速度と操縦特性が似ているせいだった。トップガン学校でも多用され、ファントムやトムキャットのパイロットに低速ながら操縦性能が優れる敵機への対応方法を教えた。高信頼性、簡潔な機体構成、運用経費が低い(F-15が毎時42千ドルに対し3千ドル)ことが組み合わさり、スカイホークは1990年代になっても練習に多用された。現在も民間企業が軍用練習機として使用中。
中東の鷲として
- ベトナム戦争たけなわのころ、中東でもアラブ・イスラエルの紛争が熱くなっていた。スカイホークはここでも最前線で奮闘した。A-4の90機がヘブライ語でアイート(鷲)と命名され、イスラエル空軍に1967年で供用開始された。機体はA-4H型に改装され、テイルパイプ延長が特徴で熱特徴を下げようとしたのだ。A-4HではJ52エンジンに換装され機関砲も強力な30mmアデン砲に代わった。イスラエル軍は地上掃射機能を重視した。1973年にはさらに強力なA-4Mを調達し、イスラエル制式名をA-4Nとした。
- スカイホークはイスラエル空軍の主要攻撃機材となり、エジプトとの大消耗戦の初期から活躍した。5機がエジプトのMiG-21の餌食となったが、1970年5月にはイスラエルのスカイホークガMiG-17を非凡な方法で返り討ちにしている。以下はエズラ・ドータン大佐の回想だ。
- MiGの高度まで下降し、うち一機の尾部についた。両方のポッドから50メートルで発射したところ、ロケット弾はゆっくりとMiGの下を通過し、パイロットは気づいていないようだった。そこで二回目の斉射をしたところMiGは大爆発して視野から消えた。
- ドータン大佐は残るMiG-17の四機編隊を追い、低高度でその一機を追い詰めた。
- その機は乾河に逃げ込むつもりで鋭くバンクした。こちらは570ノットは出ており、追い抜かないように注意した。減速にあらゆる手段を使った。操縦かんを引いたのは接近しすぎたためで敵機は距離を広げたが二機の追いかけっこだった。敵機が右バンクするとこちらも同じ操作をした。今度は急角度で左バンクした。こちらも追随した。その後敵機に機関砲を斉射した。左主翼が引き裂かれMiGは右にロールし地上に激突した。
- ただしスカイホークは1973年のヨムキパー戦争で多大な損害にあう。進軍するエジプト機甲部隊攻撃に向かったが、MiG-21が上空援護にあたっていたうえ、長距離性能のあるSA-6地対空ミサイル部隊がスエズ運河に展開していた。イスラエル地上部隊が侵攻部隊を叩くまでSAMが恐るべき威力を発揮した。イスラエルの喪失は53機に上り、当時供用中のスカイホークが200機だったので大損害だ。
- 手荒い扱いをうけたがイスラエル空軍で重要な役割をその後も続け、レバノン戦でもMiG-17を一機撃墜している。イスラエル最後の機材が訓練用途から退役したのは2015年だった。
英海軍の悩みの種
- 1982年、アルゼンチン軍がフォークランド諸島を占拠した。英国はこれに対し揚陸任務部隊を派遣し、奪還を図った。アルゼンチンに対抗できる海軍力がなく、陸上基地から発進の戦闘機で英海軍艦船に対抗させた。
- アルゼンチンのエタンダール戦闘機がエクゾセ対艦ミサイル(射程43マイル)で艦船二隻を沈めたことはよく知られている。だが当時のアルゼンチンに空中発射式エグゾセは4発しかなく、対艦攻撃は古めかしい方法で実施せざるを得なかった。スカイホークB型C型あわせ48機が動員され、海軍もA-4Qを飛ばした。米国の武器禁輸措置で射出脱出できない機材もあり、防御装備もほとんどなく、戦闘空域に到達するため途中KC-130ハーキュリーズの給油に頼らざるを得なかった。
- 到着すると各機は英海軍の高高度対応シーダートミサイル防衛の中を突っ切り、シーハリヤーの哨戒空域を避け、接近すれば短距離シーウルフ、シーキャットの個艦防御手段をかいくぐり通常爆弾を艦の真上から投下するのだった。艦船には4.5インチ複用砲があり、空中炸裂弾を撃って来る。アルゼンチン側に不運だったのは信管故障の多発で、直撃したのに不発におわることもあった。
- 英軍がフォークランド上陸を開始するとアルゼンチン航空部隊は5月21日からのサンカルロス戦に全力投入し、5日間にわたる激烈な海空戦でスカイホーク部隊のほぼ半数22機を喪失した。このうちシーハリヤーが8機を、対空砲火が2機、ミサイルと事故で残りを撃墜している。
- 一方でA-4により駆逐艦コベントリー、フリゲート艦アンテロープおよびアーデント、上陸支援艦ガラハドが喪失させられ、駆逐艦フリゲート艦多数が損傷している。
- スカイホークには別の武勇伝がある。クウェート空軍が29機を運用していたが、サダム・フセインの軍が同国を侵攻した1990年8月2日、A-4KUがイラク特殊部隊を満載したヘリコプター3機を撃墜し、メディナ装甲師団の戦車部隊に掃射攻撃を加えた。二日目に入るとクウェート空軍は砂漠地帯の道路から発進した。航空基地がイラク空爆で使用できなくなったためだ。クウェートが屈服するとA-4全機はサウジアラビアに退去した。米国主導の連合軍が砂漠の嵐作戦で1991年にクウェートが解放されると、クウェート空軍スカイホーク部隊は戦闘ミッション数千回をこなし、一機をレーダー誘導ミサイルで喪失している。あるクウェート空軍パイロットは自分が使っていた基地内事務棟を500ポンド爆弾で自ら粉砕する珍しい体験もしている。
- その他にもインドネシアがA-4で東チモールの反乱勢力を鎮圧している。マレーシア、シンガポール、オーストラリア、ニュージーランドの各国空軍もスカイホークを運用し後者3カ国はそれぞれA-4S、G、Kと呼称していた。
- アルゼンチン、ブラジルはともにスカイホークを供用中だ。ブラジル機はクウェート空軍から購入したもので、大幅改修された。長年にわたり、南米唯一の艦載戦闘機だったが、空母サンパウロ(旧フォッシュ)が2017年2月に退役した。しかしブラジルのスカイホークAF-1は退役しておらずアルゼンチン空軍には改修型A-4Rファイティングホークが残っている。
今も残るスカイホークの偉業
- A-4は簡素な設計、費用効果が高い特徴という近年の戦闘用航空機でともすれば軽視されがちな特徴を実現した機材だ。軽量かつ取扱いが容易で相当の打撃力を発揮しつつ不必要な装備は省いている。
- だがスカイホークの物語にも別の面がある。米、イスラエル、アルゼンチンの各国パイロットは敵防空網の中に飛び込む急降下攻撃で相当の被害にあった。
- スカイホークの機体価格は750千ドルで現在の6ないし7百万ドルに相当する。今日のペンタゴンはF-35ステルス戦闘機でこの13倍の価格を支払っている計算になる。
- それだけの負担で得られる効果を相殺できるか考える必要があるが、改めてスカイホークを操縦したパイロットの勇気には敬意を感じる。危険なミッションに投入されがスカイホークは今日では受入られない大損害を経験しているのだから。■
Sébastien Roblin holds a master’s degree in conflict resolution from Georgetown University and served as a university instructor for the Peace Corps in China. He has also worked in education, editing and refugee resettlement in France and the United States. He currently writes on security and military history for War Is Boring.
Image: U.S. Navy
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