歴史に残る機体(32)ボーイング・バードオブプレイ
1990年代を通じ、マクダネル・ダグラスのファントムワークスがユニークなステルス戦闘機をエリア51で秘密理にに開発・テストしていた。この機体はBird of Prey猛禽として知られる。同機は「YF-118G」の名称で開発されたものの、元から運用を想定したものでなかったが、同機で得た設計面製造面の知見は今も政府の機密事業に活用されている。
中でも最も貢献度が高い要素がコストだ。ステルス機は押しなべて高額なことで知られるが、同機は今日のF-35一機分の予算で設計から製造まで実現している。
ステルス機の革命
1983年10月にロッキードF-117ナイトホークが秘密裡に米空軍で供用開始し、世界初の実用ステルス機が登場した。同機には戦闘機の「F」の記号がつき、ステルス戦闘機と呼ばれるが、実は戦闘機ではなかった。レーダーも機銃も搭載せず、ペイロードも2千ポンド爆弾二発に限定されたF-117は戦闘機のふりをした攻撃機であった。ただ誤解を避けると、当時のいかなる機体とも異なる存在であった。
敵防空網突破のため高速で高高度飛行性能を追求する時代が続いたが、ナイトホークは航空技術および航空戦の考え方の転換点となった。同機はF-15やF-16より低速で取扱いも面倒な機体だったが、レーダー断面積が82平方フィートと米軍機で最小となり、敵レーダーで姿が見えない存在となった。
それから10年たらずでロッキードのYF-22とノースロップYF-23が空軍の高度戦術戦闘機への採用を巡り競合し、世界初の真のステルス戦闘機が生まれようとしていた。マクダネル・ダグラスもファントムワークスに独自のステルス戦闘機構想があり、実現のため人材を配置していた。
ステルス航空機の秘密の開拓者
Boeing Bird of Prey in flight (Boeing)
ロッキード、ノースロップの高性能ステルス戦闘機に国費が投入されたがマクダネル・ダグラスは自社資金で新型機開発を進めた。資金の有効活用を図るべく、同社はアラン・ウィークマンAlan Wiechmanをプロジェクトのトップに据えた。
ウィークマンはロッキードのスカンクワークスでHave Blue開発に従事し、後継機となったF-117ナイトホークの実現にも貢献し、シーシャドウつまりステルス海軍艦艇の開発にもあたった。マクダネル・ダグラスの高度戦術戦闘機提案が選定から漏れると、同社が招き入れその知見をファントムワークスで生かすことになった。
航空史でウィークマンの名前は伝説的技術者のクラレンス・「ケリー」・ジョンソンほど目立たない。Aviation Week はウィークマンのことを「もっとも存在感のない」技術者で「ステルス航空機の秘密開拓者」に位置付けているほどだ。だが認知度と実績は必ずしも一致しない。ウィークマンのステルス技術への貢献は多様で、国防産業協会(NDIA)が表彰したことが機密解除されている。
「ウィークマンの業績により米国は15年分の優位性を確保し、本人の設計作業・完成品の効果は戦闘場面で実証ずみ」と表彰文に記述がある。
1992年に無難に聞こえるYF-118Gとして作業は開始され、ファントムワークスのウィークマンチームは予算に配慮しつつ独自のステルス機設計に取り掛かった。当時としては画期的な迅速試作技法を投入した。ファントムワークスではコンピューターで設計、性能を再現し、当時の演算性能として最高水準を駆使した。試作機用の部品を完成機に近い形で実現し、従来の方法では実現できない水準へ引き上げた。
YF-118Gチームは機体製造にも創造性を発揮した。当時最先端の単品生産複合剤構造を採用し、ボディパネル接合を不要にしステルス性能を犠牲にしなかった。完成機体には継ぎ目がなく、ボディパネルの空隙もなくなりステルス機製造で最大の課題を克服した。一部では今日でもロシアがこの課題に苦しんでいるという。
だがウィークマンのチームはすべてを一から設計したわけではなく、既成品を多用してコストを下げながら設計業務を短時間で達成した。搭載したプラット&ホイットニーJT15D-5Cターボファンエンジンは推力わずか3,190ポンドでセスナのビジネスジェットに使われていた。射出座席はAV-8Bハリヤーから流用し、操縦桿・スロットルはF/A-18ホーネットのものを使った。操縦ペダルはA-4スカイホークから借用した。
空軍テストパイロットのダグ・ベンジャミン大佐は「時計はウォルマート売り場から、空調制御はヘアドライヤーのものだった」とジョークをとばしていたほどだ。
ボーイング・バードオブプレイに搭乗したダグ・ベンジャミン大佐
開始後4年たった1996年に飛行可能な試作機が完成した。単発単座の技術実証機は全長47フィートでF-16よりわずかに長く、角度をつけたガル状主翼は他機と全く異なる様相で23フィートと、F-16より10フィートも短かった。だがなんといっても目立つのは従来の戦闘機の形状を脱却した主翼一体型の機体で尾翼がない姿だった。
設計にはステルスを全方位で考慮し、レーダー・赤外線・視認上の探知性に加え音紋も排するべく機体形状、隙間を徹底的埋める設計とし、エンジンを機体内部に埋め、曲線を付けた空気取り入れ口、赤外線・音響上の探知性を混乱させる排出口を採用した。
完成した同機の異様な形状と攻撃的な構えからスタートレックの好戦的種族クリンゴンを連想させ、劇中に登場するクリンゴン宇宙船のBird of Preyの名称がついた。
バードオブプレイの飛行ぶり
1996年9月11日、同機はグルームレイク(別名エリア51)で初飛行し、空軍大佐ダグ・ベンジャミンが操縦した。スタートレックのBird of Preyには不可視化装置がついていたが、ボーイング事業となった同機は高性能とはいえないもののステルス性能を駆使した。
Boeing
その後三年でチームは一機しかないバードオブプレイ試作機を37回飛行させた。操縦にはベンジャミンの他、ボーイングのテストパイロット、ルディ・ハウグとジョセフ・W・フェロックIIIがあたった。
無尾翼でガル翼設計の同機の最終飛行は1999年だった。
巡航速度はわずか300マイルの同機はC-130ハーキュリーズより低速で、上昇限度は20千フィートと第二次大戦時のP-51マスタングの半分程度だったが、F-117ナイトホークと同様にウィークマンは同機で当時の戦闘機を超える性能をねらわず、別の目標があった。
Boeing Bird of Prey in flight (Boeing)
ファントムワークスもステルス戦闘機製造が可能と実証した以外に、事業経費を67百万ドル未満に抑えた。インフレを考慮するとウィークマンのファントムワークスは設計、製造、飛行を一から始めて111百万ドルで実現したことになり、今日のF-35B一機分より低い。
「技術実証の早期投資となったバードオブプレイによりボーイングは業界が変身する中で地位を確立した」と2002年にボーイング統合防衛システムズの社長兼CEOだったジム・アルボーが評した。「当社は設計製造の姿を変えてしまった」
バードオブプレイの遺産
1999年に同機は飛行終了したが、物語はまだ続いた。同機から得られた知見から別の機体が生まれ、バードオブプレイの存在が公表された直前に初飛行にこぎつけた。これがX-45A無人戦闘航空機体である。
X-45Aもファントムワークスが手掛けたが、自律飛行の設計だった。X-45A設計にはバードオブプレイの影響が多くみられる。レーダー探知を逃れる角ばった形状や機体上部につけた空気取り入れ口などだ。ボーイングは同時にX-32にもBird of Preyの特徴を活用したものの、ロッキード・マーティンのX-35に敗れ共用打撃戦闘機の受注を逃した。
Bird of Prey in flight (Boeing)
今日ではアラン・ウィークマンが手掛けたバードオブプレイの系譜を引きつぐ機体はなく、冷戦末期からの米ステルス機開発レースで話題に上ることも少ない。だが1990年代にファントムワークスは予算を無尽蔵に使うことなく、二十年の遅延も発生させることなくステルス戦闘機の実現が可能だと実証していたのであり、これこそ米国が長年かけても実現できていない命題だ。
バードオブプレイ実機はライト‐パターソン空軍基地の米空軍博物館の近代飛行ギャラリーでF-22展示機の上に陳列されている。■
Bird of Prey: Boeing's lost budget-busting stealth fighter
Alex Hollings | November 10, 2021
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