AIR MINISTRY
第二次大戦で活躍したボーイングB-17フライングフォートレスは米陸軍航空軍が昼間爆撃に多用したことで有名だが、初の戦闘投入から本日80年目となった。英軍によるデビュー戦は芳しくない戦果に終わった。にもかかわらず、英空軍が得た初期の不具合から機体や戦術が改良されたことで米陸軍での成功につながった。
B-17の初飛行は1935年だったが、1941年12月の真珠湾攻撃まで生産は限定規模となっていた。1940年春に英国はナチドイツとの戦闘能力拡張を迫られ、英空軍にはドイツ本土爆撃が可能な重爆撃機がない状態だった。
その時点でボーイングはB-17Cを生産しており、防御用に機関銃7門を.30口径.50口径取り混ぜて搭載し、機体下には「バスタブ」型機関銃砲塔があった。これに対し決定版となったB-17Gは.50口径機関銃13門を搭載したが、当時のC型はそれでも防御力が整っていると見られていた。C型で自己修復型の燃料タンクや装甲版が採用された。
爆撃機不足の解消のため英国は米政府とB-17C型20機の調達で1940年3月に合意した。代償として英国は同機の戦闘時の詳しい情報を提供することになった。英国はフォートレスMk Iの制式名称を与え、1941年初頭から英国に到着し、イングランド東部のウェストレインハムに第90爆撃飛行隊が生まれた。
B-17の初の戦闘投入は1941年7月9日のことで、それまでに第90爆撃飛行隊はポールブルックに移動していた。初の爆撃目標はドイツ沿岸のウィルヘルムスハーヴェンでドイツ海軍の基地があった。当時の英報道は同機の飛行高度から「成層圏爆撃」と呼称していた。
昼間爆撃に3機が投入され、各機はC、G、Hと呼称された。午後3時に離陸し、ウィルヘルムスハーヴェンを高高度から狙う計画だった。
同飛行隊の公式記録がミッションで何があったかを伝えている。
G機C機は1650時から1700時の間で第一目標を高度28千、30千フィートからそれぞれこぐ駅下。G機は1,100ポンド爆弾4発を投下し、C機は1,100ポンド爆弾2発が切り離せず、投下したの2発だけだった。
爆弾が「切り離せない」とは爆弾倉から投下できず残ったままの状態で基地に帰投したことを意味する。
AIR MINISTRY
RAFのフォートレス Mk I に乗員が乗り込んでいる。同機はノーザンプトンシャアのポールブルックを出撃した。
爆弾破裂が視認されたが、爆弾4発はバウハーフェン港の西250ヤードに命中し、その他は150ヤードの間隔で南東に落下した。電気系統の故障で両機のカメラが使えず写真撮影はできなかった。
だがトラブルはさらに続き、航法用の「アストラドーム」のプレキシグラスが18千フィートを飛ぶG機で凍結した。公式記録では「火器管制」が「不可能」になったとあり、アストロドーム機能の不調がどこまで影響したかは不明だ。
NATIONAL ARCHIVES
第90飛行隊の作戦記録簿にB-17二機の初の戦闘記録が残る。
だが脱出に成功したのは同機に運があったことを意味する。メッサーシュミットBf 109戦闘機と思われる2機がフォートレスの2千フィート下に見つかったためだ。
(敵戦闘機は)上昇しいったん右舷600-800ヤードまで接近したが、一機は制御不能なスピンに入りそのまま600フィート下でスピンを続けた。二機目も攻撃を断念しスピン降下した。発砲はなかった。
MINISTRY OF AIRCRAFT PRODUCTION
フォートレスMk I, AN529, が米国から到着した直後の姿。同機が1941年7月8日出撃の際のC機である。
三番目のH機もトラブルに見舞われた。高度28千フィートで潤滑油がなくなり、第一目標の爆撃を断念、北海の島ノルダーナイに1,100ポンド爆弾4発を4:45 PMに同じ高度から投下した。「街から500ヤードほど離れた砂州上に炸裂の様子が見られた」が、撮影写真上ではなんらの攻撃効果は見られなかった。ただし、H機のトラブルはこれで終わらず、戦闘記録に以下記載がある。
側方フラッターが発生したのは水平安定板で潤滑油が凍結し、厚さ7インチにもなったため、爆弾投下後に発生した。この対応のため高度15千フィートに降下したところ潤滑油が解凍し水平安定板が機能回復した。エアスクリュー(プロペラ)4基を逐次フェザリングしたが振動の解消につながらなかった。
戦闘デビューは不運に終わったが、同飛行隊は再度出撃しており、今度は別の三機がベルリンを7月23日に爆撃した。高高度爆撃を目指したが雲にさえぎられ、雷雲もあったため各機は爆弾投下できず帰投したのだった。
WAR OFFICE
ウィンストン・チャーチル首相がフォートレスMk. Iの飛行ぶりを視察した。
1941年9月までにRAFフォートレスは26回出撃し、延べ51機が動員された。だがうち半数が爆撃を中止し、一発も投下されずに終わった。初回出撃の際の問題以外に搭乗員はスペリー照準器のトラブル、機関銃の凍結にも苦しみ、7機を喪失した。
RAFが経験したフォートレス運用結果は芳しくなかったが、ドイツ首都まで収める航続距離が証明されたのは重要だ。英国はその後B-17は昼間爆撃に不適と判断した。ただし、理由は機体の欠陥というより自軍の戦術の不備によるものが大きい。
英空軍の戦術では爆撃機は個別に飛行する、あるいは小編隊で運用するものとされ、大編隊で相互に防御射撃を行う米陸軍航空軍(USAAF)の戦術と異なっていた。
BUNDESARCHIV
ドイツ空軍の訓練教材はUSAAFのB-17の防御兵器の範囲を示した。
RAFの爆撃飛行では高高度を取ることで生存性を高めようとしtが、結果としてルフトヴァフェ戦闘機の追撃を逃れることはできなかった。また精度が低下したのはスペリー照準器が米軍が使用したノーデン照準器より劣っていたためだ。高高度飛行により機体、搭乗員が過酷な低温にさらされた。
その後英軍はフォートレスを北アフリカで短期間使用したが、結局長距離対潜警戒任務に投入した。それはそれでよい成果をあげたといえる。その他にも当時の用語で無線対抗任務に投入し、航空電子戦のさきがけとしてドイツ防空体制の無線交信を妨害したものの、爆撃機としてはヨーロッパ戦線では使われなくなった。
この一方でボーイングは同機の基本設計を見直し、敵戦闘機の攻撃を受けても生存できるようにした。動力付き砲塔が追加され、.50口径機関銃2門をそれぞれコックピット後方、機首下に装着したほか、機後方にも.50機関銃に問の砲塔をつけた。
この改良型がB-17Eで、フライングフォートレスはUSAAFが運用しヨーロッパ戦線に1942年8月17日から再投入された。その日、12機変態でフランス北方ルーエンの鉄道操車場を襲撃した。機体損失は皆無だった。イングランドのポールブルックから出撃しており、英軍が一年前に使ったのと同じ基地だった。
その後B-17は第八空軍が昼間精密爆撃作戦で多用したことは著名な事実だが、同年中にUSAAFのB-17は300機超がイングランドに展開していた。1944年春に第八空軍のフライングフォートレス部隊は戦闘機援護を伴いベルリンへ爆撃行を展開し、消耗を続けるルフトヴァフェに対し爆撃効果の上昇を見せつけた。
ということでB-17は後期になり戦果を見せつたが、初期機体が実戦で示した不運な戦果を覚えている向きは皆無に近い。■
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The B-17 Bomber's Combat Debut 80 Years Ago Today Was A Fiasco Poor tactics and
Poor tactics and a lack of defensive armament saw the Flying Fortress withdrawn from European bomber operations in 1941.
BY THOMAS NEWDICK JULY 8, 2021
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