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あなたの知らない戦史シリーズ、太平洋戦線で米潜水艦が果たした特殊任務とは



Some of the Top Secret Ways Submarines Helped Win World War II

第二次大戦勝利に米潜水艦が果たした秘密任務とは
Especially in the Pacific.

ニラ湾の夕日は感動的だった。太陽が水平線の下に沈むと空は色を変えていき、ついに暗黒になった。だが1942年1月のUSSシーウルフ乗員には空の変化を楽しむ余裕はない。湾の海底に潜み夜の帳が下りるのを待っており、これで安全に浮上できる。
7:30 pmにフレデリック・ワーダー少佐が下令し潜水艦は静かな海面に現れコレヒドール島に慎重に接近し南ドックに向かった。シーウルフは係留され乗員が貨物を搬送した。対空砲弾36トンで同島の防衛に使う。
真珠湾攻撃から一ヶ月未満で、シーウルフは三回目の戦闘哨戒についていた。同艦が第二次大戦中に米潜水艦隊が実施した300回近くの「特殊任務」の口火を切った。
貨物を下ろすとシーウルフは25名の乗客を乗せジャワ島東部沿岸のスラバヤまで搬送した。ワーダー艦長は自艦がトラック扱いからバスになったと感じただろう。だが乗客はVIPで開戦初頭に航空機移動が不可能になった航空搭乗員を運び新たに戦闘に加わるようにするのが任務だった。
惨憺たる開戦初頭の日々にアジア艦隊所属潜水艦各艦は同様の任務に忙殺されて司令官トーマス・ハート大将がワシントンに文句を伝えたほどだ。「潜水艦が退避や輸送など各種任務に使わされている」とし高官の移動、パイロットの輸送、極秘無線傍受部隊やフィリピンの金銀20トンを搬送した。また弾薬、糧食も詰めるだけ運んでいた。ハート大将は特殊任務のため本来の攻撃任務ができなくなると見ていたがワシントンは気にしていないようだった。
コレヒドールに最後に向かったのは5月3日のUSSスペアフィッシュで27名を収容した。同島は三日後に日本軍に占領された。

巡洋潜水艦と機雷敷設潜水艦
当時の最新鋭「艦隊潜水艦」はディーゼル電気推進式で全長311フィート排水量1,525トンだった。海軍はにはこれを上回る規模の潜水艦が3隻あった。機雷敷設用のアーゴノート、巡洋潜水艦ナーワル、ノーチラスで全長は370フィート以上排水量は4,000トン超で6インチ砲二門を搭載した。1927年から30年にかけての建造で大型で低速の各艦は水中戦に不向きだった。アーゴノートに至っては潜行時間は4分から5分しかなかったといわれる。
戦闘に不適とはいえ3隻は攻撃任務に投入され、艦体の大きさから特殊任務に注目されていた。.
まず1942年夏にノーチラスとアーゴノートが海兵隊員をマキン環礁に次上陸させた。これは、一週間前に全面侵攻が始まったばかりのガタルカナルから敵の注意を逸らす目的があった。海兵隊員252名が両艦の魚雷室に詰め込まれ、魚雷は全部撤去され寝床になった。
8月16日早暁にエバンス・カールソン大佐指揮下の第二強襲大隊はゴム舟艇で沿岸に上陸し日本軍陣地を破壊した。海兵隊員が上陸するとノーチラスは6インチ砲の盲撃ちで砲弾を打ち込み、日本の警備艇1隻と3,500トン輸送艦を沈めた。
ノーチラスと姉妹艦ナーワルは同様の任務に10ヶ月後に投入され、アリューシャン列島強襲作戦で陸軍偵察隊214名をアッツ島に上陸させた。マキン島と同様に大型潜水艦が輸送任務の威力を見せつけた。

フィリピンゲリラ部隊の支援
1943年に特殊作戦は新段階に入った。1月に特殊工作員6名がフィリピン中央部ネグロス島にUSSガジョンにより潜入した。暗号名プラネットパーティとしてイエズス・ビラマー大尉(フィリピンの英雄パイロット)が指揮し、通信傍受体制を確立しダグラス・マッカーサー大将の南西太平洋戦域司令部 (SWPA GHQ)があるオーストラリア・ブリスベーンに情報を伝えるのが任務だった。
ビラマー大尉は現地ゲリラ部隊で武器弾薬が不足する状態を知った。これにGHQが対応し2月にUSSタンバーが装備品70千ポンドと現金1万ドルをミンダナオに搬送した。ブリスベーン司令部ではフィリピン向け定期輸送ルートの創設を検討していた。
ガジョン同様に、タンバーも工作員を搬送し、指揮官はフィリピン通の海軍予備士官チャールズ・パーソンズ少佐で、1921年に現地赴任し、地形に詳しい知識の持ち主で各方面に知己があり広く尊敬を集める人物だった。潜水艦から下船すると少佐は各島の状況を調べ、ゲリラ部隊指揮官と話し、世論を形成した。フィリピン情勢でマッカーサーの耳目となったのだ。
SWPAはその後も人員物資を補給したが、間に合わせの小規模だった。4月にガジョンは4名補給品3トンをパナイ島に搬送した。7月にトラウトが偵察部隊をミンダナオに送り込み、脱走捕虜4名を救出しその四ヶ月後にパーソンズも収容した。
1943年8月20日にパーソンズは長文報告をマッカーサーに送り日本軍占領下のフィリピンの現状を伝え、現地反乱勢力に米国はどう支援すべきかの持論を述べた。そのひとつに潜水艦によるゲリラ部隊への補給支援活動があった。これがGHQで検討され別のフィリピン通コートニー・ホイットニー大佐がマッカーサーの友人として注目し、事態は動き始めた。
スパイロン誕生
それまで海軍はフィリピンゲリラ作戦に潜水艦の常時投入へ及び腰だった。ホイットニーは協力が得られないことに不満を感じ、マッカーサーに本件をフランクリン・D・ローズベルト大統領に直訴するよう勧めた。それでも第7艦隊司令官アーサー・S・カーペンダー中将の説得に6週間かかり、海軍が情報部隊の搬送に携わり沿岸監視体制で日本艦船の動きを把握することになった。情報は哨戒中の潜水艦に貴重な内容となり、カーペンダーは上司のアーネスト・J・キング大将(米艦隊総司令官)にノーチラス級潜水艦をSWPAの隷下に置き二隻を各島への輸送任務に当てるべきとの提言を出し、承認を受けた。
パーソンズ少佐は知見を買われ潜水艦補給のしくみを確立する任務を与えられた。後ろ盾にホイットニーと第7艦隊情報部長アーサー・H・マッコラム大佐がいた。いつの間にか部隊はスパイ戦隊略称スパイロンと呼ばれ、ブリスベーン司令部からパーソンズは現地反抗勢力の伝える物資リストを調整した。物資集積が完了するとオーストラリア北部の港湾都市ダーウィンで潜水艦に搭載された。
ナーワルは同年遅くにスパイロンに合流し整備を受け魚雷発射管を撤去し貨物搭載量を増やしたが、念の為魚雷10本を残した。
1943年10月23日にはUSSナーワルはフランク・D・ラッタ少佐指揮のもとオーストラリアを出港しミンドロ、ミンダナオに向かった。スパイロン初任務で陸軍無線情報チームの二名、貨物92トンさらにパーソンズ少佐を搬送した。補給品は銃火器弾薬手榴弾、無線機、医薬品のほか煙草、潤滑油、軍服、タイプライターリボン、カーボン紙(反抗勢力には立派な行政組織があった)から聖餐用聖餅、宣伝工作資料、チョコレート(包装紙はマッカーサーの’I Shall Return’の文句入り)まで多様だった。
航海は11月10日までは何事もなかった。同日10:35pmに見張員が3隻の艦艇に護衛された日本の油槽船1隻を発見、距離は12千ヤードだった。ラッタ艦長は攻撃を決意し、距離が3,100ヤードまで縮まるのを待ち魚雷四本を発射したが全部外れた。
護衛艦に発見追尾され、1隻が火砲を開いた。ラッタ艦長は全速を命令し、19ノットで(同艦の設計速度は17ノットが最大)でボホール海を通過し距離を広げた。
二日後に同艦はミンドロ島北西沿岸のパルアン湾に到達し貨物半分と陸軍チームを陸揚げした。
ナーワルはミンドロ島北のナシピットへ向かった。狭い港湾での操艦中に座礁してしまう。一時間未満で航行可能となったが日本軍が警戒する水域では乗員には神経が休まらない時間となった。ドックに着くとフィリピン人楽団が「錨を上げて」で歓迎した。
残る貨物の陸揚げには数時間かかったが復路に32名がオーストラリアに戻るため乗艦した。パーソンズはそのままゲリラ部隊に残った。
ナーワルは11月22日にダーウィンへ戻り、三日後にフィリピンに貨物90トン便乗者11名を乗せ出港した。今回は特筆すべき出来事もなく貨物は短時間で陸揚げし、7名の乗客とパーソンス少佐が乗りオーストラリアに12月2日帰港した。今回は退屈な航海とならずラッタ艦長は日本貨物船1隻を襲撃し沈めている。

日本海軍のz作戦指令書類を回収
スパイロンは幸先よい出だしを切った。補給ミッションは4ないし5週間隔で実施された。1944年7月にはノーチラスが加わり輸送力が倍増された。フィリピン大統領マニュエル・L・ケソンからゲリラ支援の強化を求められたローズベルト大統領がノーチラス投入を決めたようだ。8月には小型のシーウルフ、スティングレイもスパイロンに加わった。
スパイロンと別にその他艦も特殊任務でフィリピンに関わった。通常の戦闘哨戒の任務を解かれ緊急脱出任務に投入されることが多かった。1944年3月にはUSSアングラーがパナイに派遣され開戦以来とどまっていた民間人58名を収容したが任務には緊急性があった。日本軍が宣教師と家族17名を虐殺しており、マッカーサーは同島に残る米国民を一刻も早く退避させたかった。
5月にはUSSクレヴェイルがネグロスに派遣され宣教師、民間社員、脱走捕虜40名を収容した。だが同艦の派遣理由は別にあった。一ヶ月前にゲリラ部隊が書類かばんを入手し日本海軍の機密書類多数を見つけた。高官の乗る水上機が墜落していた。反抗部隊がマッカーサーに謎の書類を入手したと無線で伝えた。GHQは潜水艦を急派し回収することとした。クレヴェイルはたまたま一番近い場所にいたのだ。
40名収容は本当のミッションを隠す口実となった。実はナーワルかノーチラスがあと数週間以内に全員を収容予定だった。マッカーサー司令部で書類は翻訳分析された。内容はZ作戦指令で西太平洋防衛の戦闘戦略だった。米軍は情報を利用して6月のサイパン侵攻やフィリピン海海戦を有利に戦った。
スパイロンから救命連盟へ
1945年初頭までにフィリピンの大部分は米軍支配に戻り、スパイロンは解隊され特殊作戦は再び通常の潜水艦作戦の一環として実行された。
中部太平洋での攻勢が1943年末に始まると別の特殊作戦が開始された。日本が占拠する島しょ部への空襲で潜水艦も沖合に配置され墜落機のパイロットを救助した。その後18ヶ月に潜水艦部隊の半数近くが救命連盟と呼ばれた作戦に動員された。中でも一番有名なのがUSSフィンバックが1944年9月にグラマン・アヴェンジャー雷撃機パイロットを救助したことで、ジョージ・H・W・ブッシュ中尉だった。
ヘルキャット
大戦末期の数ヶ月も艦隊潜水艦部隊は特殊作戦に従事した。情報収集チームの上陸は東南アジア各地で展開されたが、1945年4月にティグロンとロックは奇妙なミッションが与えられ、搭載する5インチ砲でルソン海峡にあるバタン島の敵無線交信所の破壊を命じられた。
同じ頃に数隻は新型周波数変調(FM)方式ソナーでの機雷探知実験に投入された。1945年6月にはFM方式装置を導入した潜水艦数隻はヘルキャットと呼ばれ日本海南方を守る機雷原を突破して15日間で28隻を沈めたがUSSボーンフィッシュを喪失した。
潜水艦特殊作戦を最後に実行したのがUSSキャットフィッシュだった。1945年8月15日、同艦はFMソナーで九州沖で機雷を探査していた。一個も見つからなかったが同日の夜遅くに浮上すると無線員が至急電を受信した。「終戦との知らせを受けた」と艦長は日誌に書いた。「通信は全員に伝わった。いまや「いつ帰国できるか」が話題だ」
輝かしい功績
戦後に潜水艦部隊の戦史がまとめられると大きな反響を呼んだ。日本の喪失艦船の55パーセントは潜水艦の功績だった。特殊作戦も大成果だった。哨戒任務の15パーセントが特殊任務関連だった。
パーソンズのスパイロンは貨物1,325トン331名を送り、民間人が大部分の472名を救出した。パーソンズ自身はフィリピンに8回渡っている。1948年にSWPAはスパイロンを総括し「貨物潜水艦による効率の良い輸送の重要性を過小評価気味すべきではない。ゲリラ抵抗活動には『生命線』になった」とした。ナーワルは9回の輸送ののち1945年1月に任務を解かれた。6回輸送したノーチラスは同年4月に本国へ戻った。スパイロンは1隻を喪失した。シーウルフが1944年10月に生存者なく海中に没したが米軍による誤射の可能性が高い。
救命同盟は504名の航空搭乗員の生命を守った。
こうして数百回におよぶ特殊任務で米潜水艦部隊は第二次大戦で各種任務をこなし、乗員は大きな危険にさらされた。だがその努力で太平洋方面の戦闘勝利に大きな役割を果たしたのである。■

Originally Published December 3, 2018.

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