スキップしてメイン コンテンツに移動

歴史に残らなかった機体(13) ベルP-59は初の米ジェット戦闘機。だがその性能は....

歴史に残らなかった機体(13)
P-59は初の米国製ジェット機ですが実戦に耐える性能はなかったため歴史残らなかった、といってもいいのでは。現在のブラック機体につながる考え方がもう1940年代にあったのですね。では現在のプラック事業では一体どんな機体がこれから登場するのでしょうか。楽しみです。




Meet the Bell XP-59A Fighter Jet: America’s First Jet Plane

これが米初のジェット戦闘機ベルXP-59だ

What can it do on the battlefield? 戦場で活躍できたのか

画は秘密裏に行われ製作は極秘施設内で進められた。
その結果生まれたのが第二次大戦に間に合うよう完成した米国初のジェット戦闘機だが、そこから歯車が狂い始めた。
陸軍航空隊(AAF)司令ヘンリー・H・「ハップ」・アーノルド少将はベル航空機(ニューヨーク州バッファロー)に秘密プロジェクトMX 397の実施を命じた。同社社長ラリー・ベル以下社内でもごくわずかのみがこれが米初のジェット戦闘機になることを知らされ、名称はすぐXP-59Aとなった。ドイツ、イタリア、英国が米国に先行してジェット航空機製造に着手しており、米国は通常より早く開発すべく科学ノウハウを活用しつつ秘密裏の作業を開始した。
プロジェクトのほぼ全部に偽名がつけられ、ドイツや日本の諜報員に正体を探られないようにした。エンジン開発にあたったジェネラル・エレクトリックは英国技術者フランク・ホイットルから援助を得て「予備部品」と称した。P-59は陸軍式の「追撃機」名称の軍用機で番号は以前計画のみに終わった機体のものを再利用し関心を集めないよう工作した。
なぜベルだったのかWhy Bell Labs?
技術作業の大半はジェネラル・エレクトリック所有の建屋内で行われたが、特徴のない外観だった為選ばれた。同社はその後ホイットルの許可を得たコピー品だったにもかかわらず同社のエンジンがその後の各種機材に搭載されたエンジンがここから生まれたと自慢した。
だがベルが選定された理由がはっきりしない。同社のP-39、P-63は凡庸だった。ベンジャミン・W・チャイドロー准将はアーノルドの幕僚として英米協力体制で戦闘機用ジェットエンジン開発を統括し、以下書き残している。「ベルには他社とつながりのない施設があり、完全『極秘』扱いで作業開始がすぐ可能だった」
開発環境
ラリー・ベルは航空会社幹部でありながら飛行を嫌っていた。XP-59Aプロジェクト主任に同社主任テストパイロットのロバート・M・スタンレーを選任した。飛ぶのは好きだが経営管理を嫌う人物だった。1942年6月にスタンレーが引き継ぎXP-59Aを聞いたこともない遠隔地へ運搬する準備に入った。
その場所とはミューロック陸軍飛行場でサンバーナディノとシャドウ山脈の間にあり同地に入植したコーラム兄弟の名を反対に綴ったのが地名の所以だ。チャイドロー准将はロサンジェルスから地獄への一里塚とよんだ。遠隔地でありロジャース乾湖の硬い地面があった。1942年中頃に技術陣が同地に赴任したが、カリフォーニアの砂漠へ転勤を命じられた理由は聞かされていなかった。今日ではミューロックはエドワーズ空軍基地と改称され、当時のような遠隔地ではない。
ロバート・スタンレーからXP-59Aの潜在力は大きいと報告が入った。とはいえ初飛行を見てスタンレーはこれで実戦に入れるのか疑問を持った。XP-59Aは実験戦闘機で愛称エアラコメットがついたもののプロペラ戦闘機のノースアメリカンP-51マスタングやヴォートF4Uコルセアより低速かつ操縦性能も劣った。
射撃性能
だがプロペラが機首にないエアラコメットではブラウニングM2.50口径機関銃三門とM-10 37mm機関砲一門を機首に集め進行方向から正面に発射できた。これによりXP-59Aはプロペラ戦闘機より強力な射撃を実現したが初期テストでは射撃安定性が劣ることがわかった。射撃すると機体全体が振動するとスタンレーが報告してきた。
1943年に入るとX-59Aは5機がミューロックとライトフィールド(オハイオ州)でテストを実施した。陸軍航空隊は300機を発注し、9個飛行隊編成に十分な規模だった。XP-59Aでは日独の戦闘機に対抗は無理と判斷されると生産は66機に削減された。内訳はXP-59Aが三機、YP-59A(13機),P-59A(20機)、P-59B(30機)で各型の相違はわずかでジェネラルレクトリック製エンジンも順次改良された。
XP-59Aの写真は一切公開されず、竣工したばかりのペンタゴンからもプロジェクトの詳細の説明はなかった。これはロッキードが当時開発中のP-80でも同様だった。
1940年代の「ブラック事業」
XP-59AとP-80は今日でいうところの「ブラック事業」の一環で、通常予算説明書のどこにも説明がなく、議会でその存在を知らされたのはごく一部だった。存在は1944年末まで公開されなかった。エアラコメットの陸路運送中には偽プロペラをつけ、機首はシートで隠し推進方式の秘密を守った。
1945年6月に陸軍航空隊は412戦闘機群をミューロックに立ち上げた。だが大戦はその後終結し、部隊はカリフォーニア州リバーサイド近くのマーチ飛行場に移動した。その地でエアラコメットが実戦投入出来る戦闘機ではないことが誰の目にも明らかになった。P-80が飛行を開始し遥かに優れた性能を見せつけたからだ。さらに新型戦闘機の設計案が思考中で、その中には不滅の存在ノースアメリカンF-86セイバーもあった。かつてはトップシークレットだったエアラコメット各機も今やジェット機操縦の基礎をパイロットに伝える教材になってしまった。
412群のユージン・A・ウィンク大尉はエアラコメットを初めて操縦したパイロットの一人で、それまでリパブリックP-47サンダーボルトを欧州戦線で飛ばし頑丈な同機を頼もしく思っていた。対照的に「エアラコメットは薄っぺらく壊れやすそうだった」と回想し、「小回りが効きドッグファイトでどんな効果があるだろうかと思った」としている。
空軍は同機の最後の機体を1949年に退役させ、当初こそ高い期待のもと新しい道を開いたが失望に終わった同機は姿を消したのであった。■
Originally Published November 15, 2018.

This article originally appeared on the Warfare History Network.

コメント

このブログの人気の投稿

フィリピンのFA-50がF-22を「撃墜」した最近の米比演習での真実はこうだ......

  Wikimedia Commons フィリピン空軍のかわいい軽戦闘機FA-50が米空軍の獰猛なF-22を演習で仕留めたとの報道が出ていますが、真相は....The Nationa lnterest記事からのご紹介です。 フ ィリピン空軍(PAF)は、7月に行われた空戦演習で、FA-50軽攻撃機の1機が、アメリカの制空権チャンピオンF-22ラプターを想定外のキルに成功したと発表した。この発表は、FA-50のガンカメラが捉えた画像とともに発表されたもので、パイロットが赤外線誘導(ヒートシーキング)ミサイルでステルス機をロックオンした際、フィリピンの戦闘機の照準にラプターが映っていた。  「この事件は、軍事史に重大な展開をもたらした。フィリピンの主力戦闘機は、ルソン島上空でコープ・サンダー演習の一環として行われた模擬空戦で、第5世代戦闘機に勝利した」とPAFの声明には書かれている。  しかし、この快挙は確かにフィリピン空軍にとって祝福に値するが、画像をよく見ると、3800万ドルの練習機から攻撃機になった航空機が、なぜ3億5000万ドル以上のラプターに勝つことができたのか、多くの価値あるヒントが得られる。  そして、ここでネタバレがある: この種の演習ではよくあることだが、F-22は片翼を後ろ手に縛って飛んでいるように見える。  フィリピンとアメリカの戦闘機の模擬交戦は、7月2日から21日にかけてフィリピンで行われた一連の二国間戦闘機訓練と専門家交流であるコープ・サンダー23-2で行われた。米空軍は、F-16とF-22を中心とする15機の航空機と500人以上の航空兵を派遣し、地上攻撃型のFA-50、A-29、AS-211を運用する同数のフィリピン空軍要員とともに訓練に参加した。  しかし、約3週間にわたって何十機もの航空機が何十回もの出撃をしたにもかかわらず、この訓練で世界の注目を集めたのは、空軍のパイロットが無線で「フォックス2!右旋回でラプターを1機撃墜!」と伝え得てきたときだった。 戦闘訓練はフェアな戦いではない コープサンダー23-2のような戦闘演習は、それを報道するメディアによってしばしば誤解される(誤解は報道機関の偏った姿勢に起因することもある)。たとえば、航空機同士の交戦は、あたかも2機のジェット機が単に空中で無差別級ケージマッチを行ったかのように、脈絡な

主張:台湾の軍事力、防衛体制、情報収集能力にはこれだけの欠陥がある。近代化が遅れている台湾軍が共同運営能力を獲得するまで危険な状態が続く。

iStock illustration 台 湾の防衛力強化は、米国にとり急務だ。台湾軍の訓練教官として台湾に配備した人員を、現状の 30 人から 4 倍の 100 人から 200 人にする計画が伝えられている。 議会は 12 月に 2023 年国防権限法を可決し、台湾の兵器調達のために、 5 年間で 100 億ドルの融資と助成を予算化した。 さらに、下院中国特別委員会の委員長であるマイク・ギャラガー議員(ウィスコンシン州選出)は最近、中国の侵略を抑止するため「台湾を徹底的に武装させる」と宣言している。マクマスター前国家安全保障顧問は、台湾への武器供与の加速を推進している。ワシントンでは、台湾の自衛を支援することが急務であることが明らかである。 台湾軍の近代化は大幅に遅れている こうした約束にもかかわらず、台湾は近代的な戦闘力への転換を図るため必要な軍事改革に難色を示したままである。外部からの支援が効果的であるためには、プロ意識、敗北主義、中国のナショナリズムという 3 つの無形でどこにでもある問題に取り組まなければならない。 サミュエル・ P ・ハンチントンは著書『兵士と国家』で、軍のプロフェッショナリズムの定義として、専門性、責任、企業性という 3 つを挙げている。責任感は、 " 暴力の管理はするが、暴力行為そのものはしない " という「特異な技能」と関連する。 台湾の軍事的プロフェッショナリズムを専門知識と技能で低評価になる。例えば、国防部は武器調達の前にシステム分析と運用要件を要求しているが、そのプロセスは決定後の場当たり的なチェックマークにすぎない。その結果、参謀本部は実務の本質を理解し、技術を習得することができない。 国防部には、政策と訓練カリキュラムの更新が切実に必要だ。蔡英文総統の国防大臣数名が、時代遅れの銃剣突撃訓練の復活を提唱した。この技術は 200 年前のフランスで生まれたもので、スタンドオフ精密弾の時代には、効果はごくわずかでしかないだろう。一方、台湾が新たに入手した武器の多くは武器庫や倉庫に保管されたままで、兵士の訓練用具がほとんどない。 かろうじて徴兵期間を 4 カ月から 1 年に延長することは、適切と思われるが、同省は、兵士に直立歩行訓練を義務付けるというわけのわからない計画を立てている。直立歩行は 18 世紀にプロ