中国の新型極超音速兵器は米国の1960年代の宇宙爆撃機構想に通じるものが多い
10月はじめに米情報機関が中国が新型極超音速兵器の実験におおむね成功し、大気圏再突入し、標的から外れたものの直撃に成功したと明らかにした。
中国が高性能極超音速ミサイルを開発したとの見出しが世界にひろがったが、事実は異なる。中国がテストしたのはミサイルではなく、新技術でもなく、実態はソ連が冷戦時に運用したのと類似の兵器システムで、米国が1960年代に運用一歩手前まで進めた極超音速準軌道で移動する宇宙爆撃機に近い。
今回の中国テストはFOB部分軌道爆撃システムと呼ばれるものでロシアの空中発射式キンザルミサイルより米空軍が秘密裏に運用するX-37B無人軌道機と比較すべき存在だ。FOBs の作動原理を説明した図 (WikiMedis Commons)
FOBは低地球周回軌道でスラスターで飛翔軌道を変え、大気圏再突入のタイミングも変えられる。これは米国にとって深刻な脅威となる。米ミサイル防衛ではICBM発射を早期探知してから慎重に軌道計算して初めて迎撃可能となるからだ。中国の新型FOBは軌道を変更しつつ極超音速滑空体を使うため迎撃手段で対抗できなくなり、南極周りの軌道を取れば米防衛網の対応能力ははるかに低くなる。
FOBが実現すれば相当の戦力を有する装備品となる。このため米国も同様の技術を開発しようとしていたがソ連は先にスプートニクを軌道に乗せた。だが、核の相互破壊保証の時代に新規の核兵器運搬手段は必要ないとされた。
現在の地政学環境は変わったが、構想は今でも有効かつ1950年代同様にしっかりしている。
X-20ダイナソアの誕生
第二次大戦中のドイツがニューヨーク爆撃機として開発した技術をもとに生まれたボーイングのX-20ダイナソアは単座機でロケットで打ち上げる構想だった。
第二次大戦中のドイツがニューヨークを爆撃し、そのまま太平洋方面に移動する研究成果から生まれたのがボーイングX-20ダイナソアで、単座でロケットで打ち上げる構想だった。
大気圏ギリギリの高度まで到達し、跳びはねながら移動し、ソ連上空でペイロードを放出する構想だった。当時の世界は冷戦の盛りだった。一部筋は同機が実際に実現したら機能していただろうと話す。
ペーパークリップ作戦、冷戦のはじまり
第二次大戦終結で米ソ両国の関係は気まずいものになっていた。ドイツが大陸各地を席捲した背後にドイツの先端軍事技術があったが米ソは冷戦の幕開けを目の当たりにし、次の大規模戦闘で生き残る策の模索のほうが重要度が高いと認識していた。
ナチ技術でドイツは軍事面で優位性を獲得し、米ソは技術に携わった科学者が戦後の責任追及を逃れようとするとわかっていた。両国とも新技術による戦略優位性の重要性がわかっていたため、ナチに協力した科学者技術者の確保に走ったの。米国はドイツ科学者確保をペーパークリップ作戦と呼び展開した。
ペーパークリップ作戦はドイツ科学者技術者等およそ1,600名を戦後の米国に移動させ、米国での技術開発に参加させた。NASAでサターンVロケット開発にあたったウェルナー・フォン・ブラウンがこの中で最も有名だが、ほかにワルター・ドーンバーガーとクラフト・エーリケもいた。
ナチ関係者からベル技術者へ転身
両名はベル航空機に職をみつけ、垂直発射式の爆撃機ミサイル一体化構想を提案した。ドイツではジルバエルフォーゲル(銀鳥)と呼んでいた。今日でも同構想は極めて理にかなっていると言える。機体はロケットで打ち上げて大気圏外の準地球周回軌道高度まで進み、大気圏に向け滑空し再び「跳ね返され」高度を上げる。これを機体の主翼により実現する。
Diagram of the planned X-20 Dyna-Soar (WikiMedia Commons)
今でこそ再利用可能な宇宙機を準周回軌道に打ち上げるのはごく普通に聞こえるが、ドーンバーガーとエーリケ提案は1952年でソ連が初の人工衛星を打ち上げる5年前のことだ。ペーパークリップ作戦ではドイツ科学者を使い米国の先端軍事装備開発を一気に進展させる狙いがあり、倫理的観点は二の次でとにかく成果を追求していたことが理解できる。
スプートニクの影
1957年10月1日にソ連がスプートニク1号打ち上げに成功し、人類初の人工衛星が誕生した。直径わずか23インチの小型の金属球で無線アンテナ四本でソ連や世界へ信号を送信してきた。これが西側世界で「スプートニクショック」を引き起こした。
第二次大戦が終わり軍事経済両面では米国が事実上のリーダーだったが、スプートニクの成功で米国の優位性に疑問符がついた。ソ連は米核兵器に追いつこうと原爆実験を1949年に行い、水爆実験は1953年に成功していた。今度は米国を追い越し、ソ連がリードをとってしまった。
ウェポンシステム464L
ドーンバーガーとエーリケの構想を米国は三段階で実現しようとしていた。ロケットブースター(RoBo)、長距離偵察機(ブラスベル)、極超音速兵器研究である。スプートニク1打ち上げを受け直ちに米国は事業を一体化させウェポンシステム464L別名ダイナソアにした。
Artist’s rendering of the X-20 Dyna-Soar (NASA)
新たにダイナソアとなった事業では三段階で技術成熟化を狙った。ダイナソア1は研究用機体。ダイナソア2は偵察機能を付与する。ダイナソア3では爆撃機能を実現する。第一段階は1963年までに無動力滑空テストを開始し、翌年に動力飛翔テストを行うとした。その段階でダイナソア2でマッハ18を実現する予定だった。ダイナソア用のミサイルは1968年に供用開始し、宇宙機は1974年の運用開始をもくろんでいた。
(U.S. Air Force image)
ベル、ボーイング両社が提案を出した。ベルが先を進んでいたが、ボーイングが契約交付を受け、X-20ダイナソアとなる装備の開発開始のめどがついた。
ダイナソアの実現
(Boeing photo)
1960年に同機設計はおおむね完了し、デルタ翼に小型ウィングレットをつけ尾翼の代わりととして機体制御する構想だった。大気圏再突入の超高温に耐えるため、熱耐性が高いレネ41超合金を機体に採用し、機体下部にはモルブデン、グラファイト、ジルコニアで熱遮断を図った。
空軍公式歴史家リチャード・ハリオン博士は「ニッケル超合金で高温に耐える構造だった」とし、「主翼前縁部に特殊合金を採用し能動冷却効果をねらった」と解説している。
同年に同機の搭乗員が選出され、その一人は30歳の海軍テストパイロット兼宇宙技術者で名前をニール・アームストロングといい、その後1962年に同事業から去った。
当時の技術でも実現可能だった
同年末に制式名称X-20がつき、ラスベガスで一般公開された。B-52が空中投下式のX-20大気圏内飛翔テストの母機に選ばれ、ロケットブースターによる高高度投下テストも初めて行われ成功した。
同事業は当時としては時代の先を行くものだったが、当時の技術でも十分実現可能だった。1960年代初頭には米国に宇宙爆撃機が生まれると見られていた。
X-20ダイナソアのモックアップが完成し、全長35.5フィート、翼幅20.4フィートになった。着陸には三点式引き込み脚を使った。自機にもA-4あるいはA-9ロケットエンジンを備え、大気圏外軌道に乗る構想だったが、ミッションの大部分は滑空飛行で大気圏まで降下して揚力を稼いでから跳躍で高度を上げ、大気圏をかすめながら移動するとした。最終的に速度が落ちてからパイロットがスペースシャトルのように地表に向かう。
X-20ダイナソアの終焉
(U.S. Air Force)
X-20構想は当時の常識を超えた存在だったが、技術面では実現可能性が十分あり、初期テスト結果からダイナソアは宣伝文句通りに機能するとわかっていた。ただし、事業経費があまりにも高く、新設のNASAはジェミニ計画に中心をおき、政府トップもソ連に対抗し実際の宇宙機の運用を早く希望していたものの、国際的な地位を高める点では貢献度が低い兵器体系の実現は二の次とされた。
ハリオン博士は「U-2同様にブラックワールド事業で進めていれば、実現したかもしれない。事業を止めるような技術的問題はなかった」とする。
大気圏内を滑空するX-20の想像図(WikiMedia Commons)
だが1963年12月10日、X-20事業は終了した。米国は4.1億ドルを開発に投入し、2021年のドル価格では35億ドルに相当する。その時点でダイナソアは宇宙爆撃機への道がまだ道半ばだった。ハリオン博士の記述ではX-20の開発状況は実機完成は2.5年先で追加3.7億ドルの投入が必要だったとある。宇宙爆撃機は世界全体を活動範囲に入れるが、米空軍は1957年にB-52で世界一周飛行を実証しており、高価なロケットを使うまでもなかった。
X-20事業を終了させ、残る予算は有人軌道実験室事業に転用され、ジェミニ宇宙機を使い、地球軌道上に有人軍事プレゼンスを実現するとされた。
ただし、X-20はそのまま飲歴史にみ込まれたわけではない。同事業の一部はNASAのスペースシャトルに応用され、そして宇宙軍の極秘宇宙機X-37BにはX-20を思わせる要素がある。X-37Bは宇宙爆撃機ではないとされ、たしかにそのようだが、再利用可能宇宙機であることに変わりない。米国が運用する最高性能の偵察機材であることは確かだ。■
X-20 Dyna-Soar: America's hypersonic space bomber
Alex Hollings | October 24, 2021
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