スキップしてメイン コンテンツに移動

特別記事 ウクライナの地上で何が起こっているのか 現地のなまなましい様子を御覧ください。

 「短信」と言いつつ、今回は最長の記事となりました。航空関係の装備についてもなにも登場しませんが、ウクライナ国民が非常時にそれまでの生活を捨てて、懸命に対応している姿を知っていただきたく掲載するものです。残虐な表現もありますが、ロシアはフェイクだと否定するでしょうね。文節には1から172まで番号をつけていますので、お好きなペースで御覧ください。

The Hospitallers a battalion of volunteer medics aided civilians who were fleeing the intensifying combat in Irpin a...

ホスピタラーズ大隊とはボランティア衛生兵で、ここではキーウ近郊のイルピンで避難民の治療にあたっている。Photographs by James Nachtwey for The New Yorker

  1. キーウの歴史的中心部にある聖ミカエル修道院は、1100年頃、キリスト教徒の王子が戦勝後に、兵士の守護神としての大天使に捧げたのが起源とされる。1240年にモンゴル軍に略奪され、数世紀後に修復された。1937年、共産主義当局が取り壊した。ソ連邦崩壊後、キーウ市議会が再建した。3月1日、筆者は友人のアナスタシア・フォミッチョーワと聖ミカエル教会にいた。カラシニコフを持つ制服の男たちが、周囲をパトロールしていた。アナスタシアはフェンスに近づき、聖堂を見た。頭を下げ、泣いていた。何を祈ったのか聞いてみた。「国、街、そして家族です」。

  1. アナスタシアとは、パリで数年前に、妻を通じて知り合った。二人とも欧州研究会議が主催する学術コンソーシアムに所属している。政治学の大学院生アナスタシアは、人生の大半をフランスで過ごしていたが、キーウ生まれで定期的に帰国していた。2月24日、ロシア軍がウクライナに同時攻撃を開始したとき、アナスタシアに電話をかけ、本人の家族の安否を尋ねた。攻撃は首都にも及び、ミサイルが着弾していた。アナスタシアはキーウに行く準備中で、一緒に行かないかと誘ってくれた。

  2. 2日後、パリのイタリー広場近くのメトロ駅に着くと、バスに食料など箱を積み込む人たちがいた。リュックを背負い、タバコを吸うアナスタシアを見つけた。バスはウクライナ人の運営で、毎週日曜日に出発する。30時間以上かかるが、運賃は80ユーロ。いつもは友人や家族を訪ねる人たちが乗客だが、今回は戦場に戻る若い男女が多い。

  3. ロシアの侵攻を受け、ウクライナ大統領ヴォロディミル・ゼレンスキーは戒厳令を発令し、18歳から60歳までの男性の国外退去を禁止し、総動員令を出した。海外在住ウクライナ人はそのままでいられる。しかし、バスの座席はすべて埋まっていた。通路を挟んで私とアナスタシアの向かいのペトロという男は、フランスに8年住む33歳の建設作業員だった。ロシアのミサイルで空港が攻撃を受けた故郷のイワノフランクフスクへ向かう。両親と一夜を過ごし、翌日から軍務につく予定だという。

  4. ルクセンブルグ、ドイツと走り、4、5時間ごとにガソリンスタンドに寄りトイレを使ったり、食料を買ったが、ペトロは寝食を忘れ、ウクライナに近づくにつれ不安が増してきたようだ。銃を撃った経験がない。「どうなるんだろう」。目に涙をためて恥ずかしそうに、「みんながみんな、準備ができているわけではないんだ」と説明してくれた。

  5. 数でも火力でも勝るロシア軍が勝つと大方が予想していた。ウクライナ人数十万人が国外へ脱出していた。バスの乗客は、「このままでは、レジスタンスに参加するのは無理だ」と思い、暗い雰囲気に包まれていた。

  6. アナスタシアはペトロに、自分も参戦するつもりだと言った。28歳。小柄で、金髪、丸顔、笑顔の彼女は、若さゆえの明るさとひたむきさを醸し出していた。彼女が「私も怖いけど、戦わなくちゃ」と言うと、ペトロは安心し、「これでよかったんだ」と確信した。

  7. 翌日の午後、ポーランドとウクライナの国境に着いた。女、子供、年寄りの群れが、持てるだけの荷物を抱えて、反対方向への横断を待っていた。運転手はキーウまで行けず、西に350マイルほど離れたリヴィウで私たちを降ろした。アナスタシアと私は、ペトロに別れを告げ、駅に向かった。外では、ネオンカラーの安全ベストを着た若いボランティアが温かいスープやお茶を提供するスタンドやテントに、何百人が集まっていた。駅ターミナルには、さらに多くのウクライナ人が詰めかけ、重いコートに身を包み、ベンチや冷たいタイルの床で寝ていた。スーツケースやベビーカーが通路を塞いでいた。ほとんどの人が西か南へ移動していた。アナスタシアは、父と継母のため食料品を買いに行った。キーウでは、ロシア軍に長く包囲される予想の住民が、スーパーマーケットに殺到したという噂があった。タバコを買いに店に入ると、アナスタシアはビールとウォッカを飲みながら、2人の老人と話していた。2人は、アゾフ海に面した南部の港町マリウポリから妻や娘を連れリビウにやってきて、入隊するため戻ってきたところだった。元気で威勢がいい。

  8. 今後数週間で、ロシア軍はマリウポルを壊滅させるだろう。無差別爆撃で街の大部分を破壊し、数千人の市民を殺すだろう。残った住民は餓死する。死体は川を汚染し、野良犬は路上に放置されたウクライナ人の死体を餌にする。「スラバ・ウクライナ!」と老人の1人が、少し酔ったように叫んだ。2人とはそこで別れたが、名前を聞くのを忘れた。その後の存否はわからない。

  9. 翌朝、列車でキーウに到着した。私たちはタクシーで、アナスタシアが3月の間だけ借りていたアパートに向かった。ドニエプル川に近い、カフェやバー、画廊が立ち並ぶ急な石畳の道、アンドレイエフスキー坂のアパートだった。いつもは観光客やストリートミュージシャンで溢れかえるこの坂道も、雪に覆われた街と同じように閑散としていた。地下鉄駅に避難して、ホームや車内でキャンプする人が多い。しかし、ほとんどの人が地下室に避難しているか、家に閉じこもっている。防空サイレンの音とカラスの鳴き声が、静かな静寂に響いている。カラスに占領された木々を見ながら、アナスタシアは「こんなの見たことない」と言った。お父さんの家は歩いて行ける距離で、ウクライナのバリトン歌手、ヴァシル・スリパクに捧げられた小さな記念碑があった。

  10. アナスタシアはその歌手を知っていた。彼はパリに住んでいて、バスティーユ・オペラ座やガルニエ宮で演奏していた。彼はまた、母国で過激派として、並行した生活を送っていた。2013年末、ヤヌコビッチ大統領はロシアの圧力に屈し、欧州連合との合意を破棄した。ウクライナ全土で大規模な抗議デモが発生し、「尊厳の革命」と呼ばれる蜂起に発展した。キーウ中心部にある独立広場では、デモ隊数万人がバリケードを築き、治安部隊と激しくぶつかり合った。2014年3月までに、警察は、実弾を使用し、100人以上のデモ参加者を殺害した。ウクライナ議会はヤヌコビッチ解任を決議し、ヤヌコビッチはロシアに逃亡した。ウラジーミル・プーチンは、この革命を西側の陰謀と断じ、黒海とアゾフ海に挟まれた戦略的半島クリミアを即座に併合した。そして、ロシア軍はウクライナ南東部のドンバス地方に入り、分離独立を目指す親ロシア派を支援した。ウクライナは反撃に転じ、ロシアとの国境に約6,000平方マイルの前線が張り巡らされた。独立広場で結成された義勇軍には、スリパクはじめ、革命で活気づいた若いウクライナ人が多数参加した。その後7年間、20回以上の停戦交渉と違反が繰り返された。その結果、領土の獲得や損失はほとんどなく、何千人ものウクライナ人が死んだ。

  11. アナスタシアは、フランスの活動家ネットワークを通じてスリパクと知り合った。最後に会ったのは2016年6月のパリでの抗議活動で、彼女はソルボンヌ大学の夏休み中で、彼はドンバスに戻る準備をしていた。2週間後、ロシアのスナイパーが彼を殺害した。「彼の死は、私の戦争のビジョンを変えました」とアナスタシアは、アンドリイエフスキー坂の記念碑で、筆者に言った。「具体的になって、あそこに行くしかないってわかったのよ」。翌月、彼女は前線の軍部隊に配給物資、モバイルバッテリー、発電機などの寄付物資を運ぶグループに加わった。ある前線基地で救急車の運転手と出会い、携帯電話で負傷者を搬送するビデオを見せられた。「とても感動し、自分の力不足を痛感しました」とアナスタシア。衛生兵になりたいが経験がないと運転手に告げると、彼は訓練してくれる組織、ホスピタラーズの名前を教えてくれた。

  12. アナスタシアは23歳のとき、ウクライナ南部で、ホスピタラーズの1週間コースに参加した。その後は短い間隔でドンバスに派遣された。紛争がもたらす惰性的で緩慢な犠牲は、ある種の苦悩を生み出した。アナスタシアが最初に搬送した兵士は、自殺しようとして腕を切断しかけた。地雷、迫撃砲、銃弾で死傷した兵士もいた。「ほとんどが、私より若い兵士だった」と、アナスタシアは日記に書いている。彼らの死があっても「全く何も変えられない」と心配した。

  13. 2020年夏、パンデミック下のドンバス視察を経て、彼女はフランスで勉強を再開していた。「戦争は過去のことだと思っていた」。そして今、彼女はホスピタラーズへの再入隊を計画している。しかし、そのためには、父に会い、母と海外へ行くよう説得することが先決である。スリパク記念碑を出ると、北側の郊外から、ゴロゴロと兵器の音が聞こえてきた。戦車と装甲車数百両、約1万5千人の兵士からなる40マイルのロシア軍部隊は、首都キーウに迫りつつあった。西側アナリストの多くは、キーウは急速に包囲され、封鎖され、壊滅的な砲撃にさらされると考えていた。米情報機関は、ロシア軍は2〜3日で首都を奪取すると見積もっていた。駐独ウクライナ大使は後日フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング紙に、ドイツ財務大臣に援助と武器の提供を断られた際に、「どうせあと数時間しかない」と言われたと語っている。

  14. キーウ市長は、300万人市民の半数が脱出したと発表するだろう。残る人々は、頑固者、勇気ある者、希望に満ちた者、妄信的な者、そして貧乏人に傾いていた。アナスタシアの父セルゲイは、貧乏ではなかった。上品な柄のローブを着て、太った腹を覗かせながら、玄関に現れた。酒で頬を紅潮させながら、まるで休日に帰ってきたかのように、陽気に娘を出迎えた。しかし、私たちが台所のテーブルにつくと、アナスタシアは彼と継母のイレーナに、脱出するようにと言い始めた。

  15. 「どこにも行くつもりはない」と、セルゲイが言った。

  16. ローブを着たイレーナは、アナスタシアに「アンティークの猟銃と3発の弾丸があれば、自分たちは守れる」と言い切った。大型テレビでは、ニュースキャスターがプーチンのことを話している。イレーナは首を横に振った。多くのウクライナ人と同様、彼女もセルゲイもロシア侵攻に唖然となった。プーチンは侵攻の数日前の演説で、「現代のウクライナはすべてロシアが作ったもので、主権国家として認めてはならない」「尊厳革命は、過激な民族主義者、腐敗したオリガルヒ、ネオナチが起こしたクーデター」「ウクライナ軍はNATOに直接応じ、ドンバスで大量虐殺を行った」「核開発の意図がある」などと空想上の正当性を主張していた。イレーナは、「プーチンは憑依されていると思う」と言った。

  17. .私たちは家を出た。アナスタシアは、お祈りするため聖ミカエル教会に立ち寄ってくれないかと頼んだ。彼女は敬虔な信者だった。私たちが仮住まいに着くと、彼女はリュックサックから小さな聖母マリアのイコンを取り出し、窓辺に置いた。

  18. ウクライナ正教会は、ロシアの干渉に強く反対し、「尊厳の革命」を支持していた。聖ミカエル教会は、独立広場への坂の上にあり、デモの最中、修道院は騒乱から逃れる聖域となった。神父やボランティアの医療関係者は、負傷したデモ参加者を治療し、食事を提供した。死者は、友人たちに弔われ運ばれた。大聖堂の外には、蜂起で死亡したデモ隊を称える記念碑が建ち、ドンバスで亡くなった何千人もの兵士やボランティアの写真が飾られた追悼の壁がある。壁の足元には、直立した砲弾の中に花が供えられている。

  19. アナスタシアの祈りの後、私たちはアパートに戻った。彼女は父親と継母に不満を感じていたが、2人の決意を受け入れた。彼女はホスピタラーズの衛生兵の一人にメールを送り、今どこにいるかを聞いた。衛生兵は、聖ミカエル教会にいると答えた。

  20. 翌朝、門は私たちに開かれた。修道院の中は、すべて熱狂的に変容していた。戦闘服の男女が縦横無尽に駆け回り、黒いローブを着た神父がトラックやバンから箱を降ろし、神学生が普段神学教育を受ける講義室では、兵士がカラシニコフを受け取ったばかりのボランティアに銃の基礎訓練をしている。

  21. アナスタシアは、ホスピタラーズのリーダー、ヤナ・ジンケヴィッチYana Zinkevychを、彼女と話したがっている人々でいっぱいの小さなオフィスで見つけた。26歳のジンケヴィッチは、派手な入れ墨を入れ、眉にピアスをし、ピンクとブルーの髪をしていた。車いすに乗っている。2014年、高校を卒業したばかりの彼女が医者になる計画を放棄し、ドンバスの義勇兵部隊に参加したときには、このような状況ではなかった。「負傷者を治療する人が誰もいなかったんです」と彼女は後で教えてくれた.「何かしなければと思ったんです」。彼女は独学で応急処置を学び、負傷した仲間を助けるために使い始めた。ある夜、激しい爆撃を受けながら壕に身を寄せていた彼女は、牧師から中世のカトリック軍事団体「ホスピタール騎士団」の話を聞かされた。翌日、ジンケヴィッチは、自分たちの大隊を作ろうと決心した。

  22. ボランティア6名とピックアップトラックから始め、フォルクスワーゲンのバンを手に入れた。ジンケヴィチは200件以上の避難を指揮したが、2015年末に交通事故で腰から下が麻痺した。数ヶ月して彼女は妊娠していることを知った。医師の予想に反して、彼女は合併症もなく娘を出産した。彼女はその後、犠牲者多数を治療するホスピタリストを何百人も訓練した。2019年、彼女は国会に立候補し、欧州連帯党代表に選出された。

  23. ジンケヴィチはアナスタシアを修道院別館に送り、戦闘服、防護服、手袋、長肌着、防寒靴下、ヘッドランプ、ポケットナイフ、寝袋を支給した。ヘルメットはまだなかった。アナスタシアはバスルームで着替えを済ませた。「現実感がない」「夢か悪夢のようです」。

  24. 包帯、ガーゼ、生理食塩水、注射器、添え木などの医療器具が階段に山積みされている。ジャガイモの袋、漬物の瓶、保存食、缶詰など、寄贈された食料が廊下に所狭しと並んでいる。食堂は寝床になり、食卓にはマットレスが何十枚も敷き詰められている。台所では、衛生兵がボルシチやカーシャを食べようと列をなして待っている。経済学の教授、歯科医、チェロ奏者、暗号通貨トレーダー、ナイフ格闘のコーチ、バレエダンサー、学生、映画監督、農民、セラピスト、ジャーナリストなど、私はその後は彼らの多くを知ることになる。ロシアの報復を恐れて、コードネームを皆が使っていた。20年前にミラノに移住したシングルマザーで医師の助手のイタリアの向かいに、マットレスを見つけた。戦争が始まると、彼女は23歳の娘を残してバスでキーウに戻ってきた。「娘は私がここにいることを支持してくれているのです」とイタリアは言った。彼女の娘は今、ヨーロッパ全土で500万人を超えるウクライナ難民の支援をしている。

  25. キーウは陥落しなかった。ウクライナの火砲と勇敢な待ち伏せが、ロシア軍を止めた。アナスタシアとイタリアは、空港近くの市立警察学校に派遣され、警官に応急処置の訓練をし、医療避難所を設置した。取材は禁止されていたが、親しくしているホスピタリスト(コードネーム「アウグスト」)の誘いで、北西部のイルピンにある戦闘激化を免れた住民の救急車に同乗した。

  26. キーウに住む24歳の監査役、アウグストは、以前から軍事に魅せられていた。特に、衛生兵のユージン・ローがお気に入りのHBOシリーズ「バンド・オブ・ブラザーズ」には心動かされるものがあった。2017年、アウグストはアナスタシアと同じ1週間コースに参加した。その後、休暇のほとんどをドンバスで過ごし、ライフルの扱い方や迫撃砲の撃ち方を習った。戦争の現実を知らない若い兵士にありがちな、行動への渇望をにじませた。弾薬ベストの弾倉には「fuck day」と書き、かつての恋人、ホスピタリストのアーニャが幸運を祈ってくれたという紫リボンで飾られている。防弾チョッキのパッチにはパタゴニアのロゴが描かれ、「ドンバソニア」の文字に変えられていた。

  27. .救急車には私たち5人が乗った。市外に出ると、検問所を何度も通り過ぎた。ボランティアが道端の土をかき集めて土嚢を作ったり、松の木をチェーンソーで伐採し、Iビームを溶接して作ったタンクトラップの後ろに丸太を積み上げている。アウグストはカラシニコフを握りしめ、緊張した面持ちで窓の外を見つめていた。もう一人のホスピタリスト、オレストは担架の上に座り、タブレット端末でチャールズ・ディケンズの小説「リトルドリット」を夢中で読んでいた。オレストは36歳の樹木医で、5人の父親であり、熱烈な登山家である。1週間前、携帯電話の電波が届かないルーマニア国境付近をトレッキングしていたところ、高い尾根で電波をキャッチし、ニュースを見たのだという。2日かけ最寄りの村まで行き、列車で首都に戻った。北極に遠征しようと思っていた彼は、北極グマから身を守るためにボルトアクションライフルを買うつもりだったが、キーウでAR-15を買ってしまった。

  28. 「遠征は延期になったんだ」とオレストはそっけなく言った。

  29. ロシア軍のキーウ侵入を防ごうと、ウクライナ軍は急流のイルピン川にかかる主要な橋を破壊した。川の南側の建物には、ロシア砲弾が当たり、逃げ惑う市民が何人か犠牲になった。北側のブチャでも、爆発音が鳴り響き、煙が立ちこめていた。陥没した橋のたもとに車を置き、高い堤防をよじ登り、パレットや廃材でつくった危険な歩道で氷の流れを渡ろうと、住民たちが続々と集まっていた。キーウのダウンタウンには、避難民を乗せたバスが待機している。バッグやスーツケースを抱えて一列で進む人、犬や猫、赤ん坊を胸に抱く人。杖や歩行器を持った高齢の男女が、ガタガタの板の上をよろめきながら歩いている。

  30. .老人、病人、怪我をした市民多数は、歩道を通ることが全くできない。アウグスト、オレストなどのホスピタラーズが彼らを運び始めた。それから6時間、ホスピタラーズは急流を行ったり来たりして、何十人を救急車に乗せ、キーウの病院へ運んだ。前線から戻った疲労困憊のウクライナ兵も渡河した。黒い頭巾をかぶった囚人を連れた一団がやってきた。両手を縛られ、シャツは血まみれだった。

  31. 橋の上にいた人々の怒りと絶望が悲惨な体験を示していた。花柄スカーフを巻いた足の悪い婦人が、アウグストに助けられ堤防を降りるとき、「あいつは死んでほしい!」と叫んでいた。プーチンのことだ。「あいつはファシストだ。あいつはファシストだ!」「あいつはろくでなしだ!」「私生児でもない、獣よ!」。別の女性は、スエットスーツにスリッパ、財布以外は何も持たず家を出てきた。「彼らは森のそばにいるのよ。私たちの家を爆撃する必要があるなら、そうしてください。殺せばいいんだ」。

  32. 民間人は大部分が女性だった。イルピンやブチャの男性たちは、ペットの世話や家を守るため、隣人を助けるため、あるいは単に義務感から残っている人が多かった。ピンクのティンカー・ベルのナップサックを背負った少女は、ユニコーンのぬいぐるみを抱えていた。2人は妻子を橋のたもとに案内した。「お母さんの言うことを聞きなさい」一人は子供たちを抱きしめてキスしながら言った。「お母さんと仲良くね」。 もう一人の男性は涙を隠しながら、別れを告げられず歩き続けていた。突然、彼は立ち止まり、「ロバ!」と呼びかけた。思春期の息子が振り向くと、男性は急いで戻って彼を抱きしめた。

  33. その日の夜遅く、老女2人を乗せたバンがやってきたが、1人が降りようとしない。「さあ降りて」と彼女の友人が怒鳴った。「もう二度と会えないかもしれないんだから。とにかく来て。来てよ!」

  34. 「家に帰りたい」

  35. ホスピタラーズ隊員も「さあ、降りてください」と告げた。

  36. 「言うことはききたくない。家に帰りたいだけ」と答えていた。

  37. ホスピタラーズが家に誰か残ってるか尋ねると、一人暮らしと答えた。

  38. 「今誰が家にいるかわかりますか」とアウグストが口を挟んだ。「ロシア軍ですよ。帰ってどうするつもり」

  39. 老婦人に動じる様子はなかった。「わたしゃ82だよ。あんたも長生きしてね」

  40. 連れの婦人は姿を消していた。車両がたまってきた。「このひとを連れ戻してくれ。助けなくちゃいけないひとが他にいる」とアウグストが運転手に伝えた。

  41. .車は噴煙が立てこもる方向へ戻っていった。

  42. 総動員令直後の数日間で登録したウクライナ人は大部分が、国家予備軍の領土防衛隊に配属された。しかし、すぐに定員超過となり、入隊を断念せざるを得なくなった。聖ミカエル教会の中年の理学療法士は、徴兵所ロビーで一晩中待たされて、家に帰されたと言っていた。そして、ホスピタラーズに入隊した。また、火炎瓶を作ったり、カモフラージュ・ネットを縫ったり、要塞を作ったり、食料を準備したり、配達したりと、その場しのぎの集団で行動する人もいた。ある日、キーウで私は若いバー経営者に会った。彼は、料理人、ウェイター、バリスタなど約200人の元レストラン従業員のネットワークに属し、陸軍部隊や自宅に取り残された民間人に1日数千食を作り続けていた。戦争が長引くと、彼は自分の貯金をはたき軍隊に防弾チョッキを調達した。

  43. また、基礎的な医療器具を緊急に必要とする部隊もあった。聖ミカエル教会では、アナスタシアが歩兵部隊のために、圧迫包帯、止血帯、外傷用剪刀、緊急用毛布、止血ガーゼ、胸傷用シールなどの救急キットを何時間もかけ作り上げていた。これらの製品は、ヨーロッパの寄贈者から送られたものか、ホスピタラーズが購入したものだ。救急車も同様に、出所を示す各国の文字が刻印されたものを多く入手した。「アンブランザ」、「アンブランシア」、「アンビュランス」。

  44. アウグストの元恋人で、幸運のリボンをくれたアーニャは、募金活動の責任者だった。「尊厳の革命」が始まったときは、彼女はキーウ音楽院でバイオリンを勉強していた。独立広場で警官に手を折られ、「4歳のときからずっと演奏ばかりしていた」彼女にとってこの怪我が、音楽人生に終止符を打った。1年後、彼女はドンバスで戦闘に志願した。

  45. アーニャは、在外ウクライナ人と連絡を取り、SNSで寄付を募った。ある日、スイスのメーカーから止血帯5000個を手に入れた彼女は、「スイスの止血帯がなくなった」と言い放った。

  46. 首都近郊で戦闘が続く中、ホスピタラーズは「安定化ポイント」の設置に取り掛かった。これらの前線基地では、負傷した兵士や市民が初期治療(主に出血のコントロールと点滴治療)を受け、その後キーウの一次医療施設に搬送される段取りだ。月の第1週、私はアウグストとオレストと一緒にホレンカという地区に行き、ホスピタラーズの新しい安定化ポイントの場所を模索した。ホレンカは東側がブチャに接し、ロシア軍の砲撃が激しく、ウクライナ軍の戦車や装甲車とすれ違う途中で、前方の道路で迫撃砲が炸裂して救急車が揺れ、引き返さざるを得なくなった。目的地に着いたときは暗くなっていて、夜空に鮮やかな光跡が残っていた。ウクライナ軍が発射したロケット弾が林の中で光っている。廃墟となった児童療養所を占拠する国防軍に合流した。志願兵には年配で体格の悪い人もいて、「7年前からこの時のために準備してきた」と話してくれた。

  47. ”男たちが所属していたのは、2015年結成の「民間スナイパークラブ」だった。ドンバスで戦争が拡大すると見越して、彼らは週末に集まり、射撃術、野外技術、戦闘医学、さらには 戦術登山術を練習していた。(突然の都市攻撃には、アパートから懸垂下降の必要があるかもしれない)。彼らは互いの名前も、身元が分かる詳細も知らない。私が驚いていると、黒いタートルネックを着た不格好な男が、「僕にはゲーマー社会出身だから簡単だよ」と答えた。

  48. 私はこの人たちに見覚えがあった。もちろん、彼らとアメリカの同類であるプレッパー、サバイバリスト、民兵メンバーとの違いは、思い描いた恐ろしいシナリオが薄気味悪い空想ではなく現実になったことだ。タートルネックのゲーマーは、「2月24日に目が覚めて、『ああ、来たんだ』と思った。そうだ、始まったんだ」

  49. ホスピタラーズにも似たようなタイプがいた。私たちが聖ミカエルに戻ると、あごひげを生やし、金網の眼鏡をかけ、髪を短く刈り上げた新入りが、膨大な戦術服の束を解いていた。彼はキーウ出身だが、アルバータに住み、コードネームは「カナダ」。2016年にドンバスで従軍中に、彼は悟った。「これはどこでも起こりうる」。彼は中古の冬用タイヤを転売するビジネスをしていたが、時間とお金の多くを 「プロジェクト」に捧げていた。アルバータ州には、12丁の銃と1000発の弾薬、食料を積んだプラスチック容器、そして愛車の「パトロール・トラック」(SUVに1万6000ポンドのウィンチ、ロールバー、ライフル・ラックを取り付けてカスタマイズした)があった。事態が崩壊しても戸外で生き残るべく携帯用ソーラー・パネルの購入資金も貯めていた。

  50. もし、北米で会っていたら、カナダの世界観は偏執的で終末論的だと思っていたかもしれない。ウクライナでは、多くのアナリストが、ロシアが核兵器を投入すると推測していたのだ。ロシア兵がザポリージャ州の原子力発電所を攻撃し、火災を起こした。キーウを狙う部隊の一部は、チョルノービリ原発の立ち入り禁止区域から侵入し、放射能で汚染された森に塹壕を掘って、汚染土をかき集めていた。

  51. カナダの妻もウクライナ人だった。彼女の両親と弟は、電気も暖房も水道もなく、食料も不足するマリウポルに住んでいた。カナダに会った翌日、ロシア軍機が市内の産科病院を空爆した。義理の両親は、電話にも出なかった。

  52. マリウポルの状況は厳しかったが、ロシア軍はウクライナ全土の居住地とインフラを標的にし、特にキーウから300マイル東にあるハルキウがその最たるものだった。3月16日、私は数人のカメラマンとハルキウに行った。ダウンタウンの数ブロックが砲撃で破壊されていた。オフィス、ショップ、レストラン、カフェ、大学の建物、そしてアーネスト・ヘミングウェイの名を冠したパブが廃墟と化し、中には壊れたパイプの氷に包まれたところもあった。地域行政の本部は、6階建ての一枚岩で、部分的には爆風に耐えていたが、外側に巨大なクレーターが口を開けていた。もう1発のミサイルで地下の厨房(ちゅうぼう)が破壊され、女性数人が死亡した。近くには頭蓋骨が転がっていた。シャベルを持った消防士たちが、瓦礫を掘り返して死体を捜していた。I.T.と名乗る地域防衛隊の兵士は、24人の遺体を収容したという。I.T.は「私も死んでいて当然だ」と言った。彼は戦前、ハルキウでコンピューター技師だった。彼は、アナスタシア同様に、突然の惨状に驚いた。2週間前、妻に「もう飽きたと言いながら口論していたんですよ」と、皮肉交じりに振り返った。倒壊した建物、炭化した車の燃え殻、残骸の山々を見渡し、彼はすべてを処理しきれない様子で言った。「ビデオゲームの中に放り込まれたような気分だ」と言った。

  53. その1時間後、数キロ東の市場が砲撃された。行ってみると、消防士が燃え盛る屋台を掘り起こしていた。軍事目標と間違われるようなものは、どこにもなかった。その様子を撮影していると、すぐ近くに迫撃砲弾が落ちてきた。爆風と破片で女性が負傷し、腹部から出血していたが、すぐ救急車に乗せられた。シリアでは、ロシアとアサド政権が、住民の戦意を喪失させ、服従させるために、初動要員を組織的にターゲットにしていた。

  54. 同じ戦略がウクライナで採用されたのは明らかだった。その日、ロシア軍は民間人が避難するマリウポリの劇場も爆撃した。駐車場には、ロシア語で「子供たち」と巨大な文字で描かれていた。何百人もが死んだという。翌日の午後、ハルキウでは、東欧最大の市場が砲撃された。戦前は何千人が働いていた。猛烈な炎が市場を焼き尽くし、タールのような黒い煙が空を暗くした。

  55. 翌朝、ホテルのロビーで朝食をとっていると、大爆発音で建物が揺れた。ガラスのファサードがゆがんで、みんな椅子から飛び降りた。標的は、公務員教育施設であった。私たちは、救助隊と同時に現地に到着した。学校の一角は、砕けたコンクリート板、曲がった鉄骨、ねじれた鉄筋で埋め尽くされていた。建物の横には死体が横たわっている。埃をかぶった男が1階の窓から顔を出している。

  56. 白いヘルメットに難燃性つなぎを着た消防士が、狭い隙間から叫び声が聞こえてくるのを聞いていた。「聞こえるか」と彼は叫んだ。「空気が吸えるか」別の救助隊員が数メートル先を指差した。「この下のどこかにいる!」。

  57. 防衛部隊兵士が、携帯電話で連絡を取ってくれた。ビルが倒壊したとき、彼は地下のトイレで歯を磨いていた。消防士に携帯電話を渡すと、「名前は何ですか?立っていますか、座っていますか?「外壁のところに行きなさい。その横に座って、膝を胸に引き寄せなさい」と指示していた。

  58. 「瓦礫を一個一個、持ち上げていかなければならない」との声が上がった。瓦礫の上に登った救助隊員は、スレッジハンマーや電動ノコギリを持っていた。クレーンが来た。到着するやいなや、兵士が「次の攻撃に備えて、ここから離れろ」と叫んだ。みんな走り出した。消防隊員は、向かいのビルの鍵のかかったドアを蹴破り、バールを持った男がドアをこじ開けようとしたが、うまくいかなかった。結局、2回目の攻撃は来ず、クレーンで家具の大きさのコンクリートの塊を引っ張り出し、救助活動を再開した。夜も更けてきたので、私たちはキーウに戻ることにした。

  59. 途中、小さな町に立ち寄った。町の中学校は、前日の朝、ロシアの空爆で倒壊していた。校庭では、教師たちが残骸を観察していた。「飛行機の音と爆発音が聞こえた」と、英語教師のヤロスラバさんが教えてくれた。周辺にウクライナ兵はいなかったという。ばらばらになった教室を整理する教師もいた。ヤロスラバさんは、「使えるものは回収している」と言った。

  60. 後で知ったのだが、行政研修校の地下に閉じ込められていた男性は、無事に救出されたそうだ。ハルキフのホスピタラーズは彼を知っていて、生き埋めになって8時間後に瓦礫の中から歩き出すビデオを携帯電話で見せてくれた。映像には、顔や上着に血がにじんでいる。誰かが「具合はどうだ?」と聞くと「前より良くなったよ」と彼は答える。「でも、タバコが吸いたい」。

  61. 3月20日に聖ミカエル修道院でホスピタラーズ隊と再会すると、救急車の4台から10数台に増えていた。車体はスプレーで深緑色に塗られ、テールライトは黒テープで覆われていた。アナスタシアは、私が狙撃手に会った療養所から数ブロック離れた廃墟の産院に置かれた安定化ポイントに向かっていた。北の郊外では、戦闘が劇的に激化していた。アナスタシアのチームから派遣された衛生兵は、砲撃で負傷した兵士22名を治療し、全員が助かった。

  62. アナスタシアの救急車に乗っていた4人のホスピタラーズ隊員は、ベテラン・ハブというN.G.O.を運営する旧友だった。そのうちの一人、コードネーム「アルテム」の元軍人心理学者は、2018年に、ドンバスの退役軍人のカウンセリングと雇用支援を行う組織を共同設立していた。救急車のライフル兵であるマモンは、ロシアの迫撃砲によって脳に損傷を受け、右手に障害を負った後、アルテムに出会った。(アルテムとマモンの仕事は、退役軍人が疎外感を感じず社会に再び溶け込む支援に重点を置いていた。しかし、もはやその必要はない。全国的な精神衛生上の危機を予見していたアーテムは、「これが終わったら、たくさんやらなければならないことがある」と筆者に言った。退役軍人ハブはトラウマを抱えた一般人や兵士の親族を対象とした心理的支援のホットラインを開設していた。

  63. 産院の外にはコウノトリの像があり、くちばしから赤ん坊がぶらさがっていた。壁には砲弾が突き刺さり、窓ガラスは粉々に割れていた。ホスピタラーズ幹部は52歳の脳神経外科医で、コードネームはユジクだった。ドンバスの手榴弾で足が不自由になった。杖をつき、木製の十字架と拳銃をぶら下げている。ユジクは、救急ステーションに改造した診察室を見せてくれた。乳児の写真が並ぶロビーには、ヘリウムを詰めたハート形風船が残っていた。

  64. 産院に滞在していた3日間、ウクライナ側は北郊外で激しく反攻していた。装甲車が走り、ウクライナ野砲が夜明けまで鳴り響き、対抗してロシアの武器が私たちの周囲を打ち鳴らした。病院の隣家の瓦屋根は、ロシアのロケット弾にやられた。そのほかにも、頭上でシューシューと鳴り響き、マモンですら階段を駆け下りるほどの勢いで地面に叩きつけられた。

  65. 市民は大部分がその場を離れていたが、アナスタシアのチームが最初に受け持った患者は、家が被爆した成人兄妹だった。妹は母親と一緒に地下室に避難して、軽傷だった。庭にいた夫は死亡、外にいた弟は破片で大量出血していた。ユジクが両足に圧迫包帯を巻き、別の衛生兵がオピオイドのトラマドールを点滴すると、彼は苦痛で泣いた。

  66. 妹は診察台に座り、衛生兵を振り払った。「私は大丈夫」と彼女は言った。「心配不要です」。

  67. 「おばあさんはどうなったの」ユジクが聞いた。

  68. 「無事です」「地下室で一緒でしたが夫は即死だった」「夫と一緒だったら、私も死んでいたかもしれない」。ショックを受けている口ぶりで、そう言った。夫の遺体は瓦礫に埋まっていた。「動かせないんです」。足首にガーゼを巻きながら、ユジクは「恥ずかしい」と本音を述べた。

  69. 「いい日焼けしていますね」とユジクは気を引くように言った。

  70. 女性は笑った。「おひさまが好きなの」

  71. アナスタシアは、兄妹を救急車に乗せ、病院へ同行した。兄はバイタルサインの観察中に興奮状態になり、うめき声をあげ身動きが取れなくなったと、後で教えてくれた。妹は辛抱強く兄をなだめた。「彼女はとても落ち着いていました」とアナスタシアは言った。

  72. その夜、股間と腹部に銃弾を受けた84歳の女性が、安定所に運ばれてきた。彼女は声を上げなかった。衛生兵が「よく頑張ったね」と声をかけると、女性は「私も第二次世界大戦を生き抜いたんですよ」と言った。

  73. 女性は、地元の消防署が襲撃された際に負傷した。消防署は、彼女の家の向かい側、筆者たちの陣地から数ブロック離れたところにあった。翌朝、訪ねてみた。消防署はまだ煙を上げており、地面に穴が開いていた。消防署長のオクサクは、崩れ落ちた壁や屋根に部下が水をかけるのを見ていた。彼は、この攻撃を冷静に受け止めているようだった。ロシア軍は管内の公共建築物をほとんど破壊してしまった、と彼は言った。数日前にアウグストとオレストと一緒にいた子供療養所もやられた。

  74. 安定化ポイントに戻って間もなく、兵士の一団が民間SUVでやってきた。一人が砲撃で負傷していた。ホスピタラーズが手当する間、ローマン・シュリヤーという兵士が、全員は国土防衛隊の所属だと教えてくれた。シュリヤーは、3週間前までは企業買収専門の弁護士で、契約交渉が生活の中心だった。「プロの兵士ではありませんが、自分の立場を守っています」と彼は言った。同部隊の2番目の患者は、50代の配管工で、砲撃中に動悸と極度の高血圧に見舞われ始めた。配管工に酸素を供給し、負傷した仲間(元警察官)を治療しながら、シュリヤーは「誰一人辞めていない。誰一人、逃げたりはしない」と話した。「戦時中の兵士の気分を味わうと、繰り返したくなる。国のために役に立ちたいと思うようになる」。

  75. 筆者が会ったホスピタラーズ隊員も同様の衝動に駆られているようだった。しかし、同団体は以前は、ウクライナ国内外で批判を浴びていた。マモンはドンバスでアゾフ大隊に所属していた。ある夜、産院で脳外科医ユジクに、胸にあるタトゥーを見せられた。アゾフ大隊と右翼セクターは、独立広場で警察と対決したデモ隊の先頭に立ち、「尊厳革命」から生まれた組織だ。両組織とも、東部で戦うことになった。白人至上主義者を含む一部の強硬派は、好戦性と極度の愛国主義に惹かれた。イデオロギー的な親和性よりも、グループの規律と勇気に触発され、引き寄せられた人もいた。革命後のウクライナ軍は長年の腐敗と怠慢で混乱していた。マモンやホスピタラーズ隊の創設者ヤナ・ジンケヴィチは、高校卒業後にドンバスに行き、一時的に右翼セクターの部隊に参加したが、そのような人々にとって、ボランティア民兵は魅力的な代替手段になった。

  76. ファシズム的な意味合いを持つ「ナショナリスト」の呼び名は蔑称として、多くのウクライナ人を困惑させた。彼らは、自国の歴史は、ロシアが自国の生存権を否定することで定義されてきたと主張している。アメリカやヨーロッパのナショナリズムは、一般的に国内の疎外された人々を悪者扱いして他者を迫害する意味があるが、ユジクとマモンの最大の関心事は、外部のはるかに強力な侵略者に抵抗することだった。マモンがいたアゾフ大隊の多くは、マリウポルを消滅させんとするロシアの猛攻から同地を守っていた。マモンの友人もそこで殺された。その父親は、ハルキウでボランティア中に死んだ。マモンはウクライナ人以外が、暴君の正体を知らないことに苛立ちを覚えていた。

  77. アゾフ大隊と右翼セクター双方の指導者が排外主義的で非自由主義的な倫理観を擁護していたことは疑いようがない。反ユダヤ主義、同性愛嫌悪、人種差別を公然と唱える者もいた。2010年、アゾフの初代司令官アンドリー・ビレツキーは、「世界の白色人種を最後の十字軍に導きたい」と宣言し、2015年には右派セクターの創設者ドミトリー・ヤロシュが、キーウでのゲイ・プライドパレードを「死んでウクライナを守った人々の墓に唾を吐くもの」と発言した。しかし、全体的に見れば、こうした意見はロシアや、米国はおろかウクライナでは少数派だった。ヤロシュは2014年に大統領選に立候補したが、得票率は1%にも満たなかった。2019年には、右派セクターとアゾフ大隊の退役軍人が他の極右グループと連携し国会議員候補を擁立したが、1議席も獲得できなかった。この年、ホロコーストで曽祖父母を亡くしたロシア語を話すユダヤ人のヴォロディミル・ゼレンスキーが地滑り的に大統領に選出された。

  78. 滞在していた産院の院長、ヴァレリー・ズーキンもユダヤ人だった。ズーキンは、ユジクやホスピタラーズ隊に自分の施設を使ってもらうよう働きかけていた。ある日、現地を訪れたズーキンは、ドンバスの主要都市ドネツクの出身だと教えてくれた。家族は多くのユダヤ人と、2014年にロシアの支援をうけた分離主義者がドネツクを支配した後、ドネツクから逃れてきた。「反ユダヤ主義のレベルは信じられないほどになっていた」と彼は言った。筆者が反ロシア戦闘員がネオナチとする描写に触れると、ズーキンは 「非常に大きなでたらめだ」 と答えた。

  79. プーチンは、マリウポリへの無慈悲な攻撃の口実として、アゾフ大隊に執着していた。しかし、「尊厳の革命」以来、ロシアのプロパガンダは、ロシアの好戦性を合理化し、ウクライナの自衛を悪者にしようとする人々のために、偽情報を一貫して発信してきた。キーウでの2週間目、私はロシアのロケット弾が2発命中した高層ビルを訪ねた。入居者や近所の人が消防士が炎を消すのを見ながら、私は隣の大学寮に部屋を借りていた野次馬の一人、オレクシイ・プロコポフに話を聞いた。プロコポフは、ドネツクと同じく親ロシア派分離主義者が統治するドンバス地方の都市ルハンスク出身だ。2014年にルハンスクを離れたが、兄は残っていた。「もう彼とは連絡を取っていない」「彼は8年間ロシアのテレビを見続け、今ではロシアの言うことは何でも信じています」。プロコポフは、憤りというより悲痛な声で、「このような番組を毎日見ていれば、信じるようになるのです」と付け加えた。

  80. 両親はクリミア近郊のクバン地方出身のロシア人で、結婚後、ルハンスクに移り住んだ。両親は「尊厳の革命」前に亡くなっていたが、最近、母親が夢に出てきたという。「母を見て私はとても幸せでした」。その時、どこかで爆発があり、プロコポフは目を覚ました。防空サイレンで目が覚めた。それでも、「彼女と話し続けました。泣いていたよ。お母さん、ここはあなたの母国だよ。どうしてこんな目に遭わないといけないの」。

  81. プロコポフはマンションが攻撃された時は、寝ていた。窓の破片が顔に落ちてきて、目が覚めた。慌てて外に出ると、裸足で逃げ惑う老婆がいた。夢と同じような緊迫した雰囲気で、2つの出来事に関連があるのではないかと思い始めた。

  82. プロコポフに、「母なら今回の危機をどう見ていたと思うか」と尋ねると、直接答えることを避けた。「母はいい人でしたよ。芸術と詩が好きな人だった。ドイツのファシストと戦ったロシアの英雄たちや女性たちの詩を教えてくれた」。これは夢ではないと、彼は目を見開いて煙と炎を見つめた。「戦争が始まった。しかし、相手はドイツのファシストではない。ロシアのファシストだ」。

  83. アナスタシアと一緒に産院にいる間のウクライナによる反攻は、キーウの戦いで極めて重要な転換点となった。ロシア軍の砲撃は破壊的だったが、ロシア砲撃の回数よりもウクライナ側の砲撃の方が多かった。米国は3月中旬までに、対空・対戦車システム、レーダー装置、ヘリコプター、ドローン、グレネードランチャー、砲弾、その他装備に数十億ドルを割り当てた。その後、追加支援として、米海兵隊がシリア北部のラッカを制圧した際に使用した長距離攻撃用の榴弾砲などの重火器が提供されることになった。

  84. ドンバス紛争を通じてNATOアドバイザーの訓練を受けてきたウクライナ軍は、各兵器を非常にうまく使いこなし、キーウだけでなく、より広い範囲で変化が起きていた。3月末、ロシア軍は1カ月にわたり占領していた北東部の都市トロシュチャネツから撤退した。数日後、私はそこを訪ねた。広場は泥まみれで、戦車や装甲車の残骸が散乱している。その中に、実物大のソ連戦車が鎮座する第二次世界大戦記念碑が、巨大な台座の上に鎮座していた。ハンマーと鎌をあしらったプレートは、ドイツ軍の補給線を断ち切り、近くの駅を占領したソ連軍大隊の記念碑だ。

  85. 後にトロシュチャネツで会った兵士たちによると、ウクライナ軍はこの街をほぼ包囲し、ロシア軍に選択肢は2つしかなかった。「進むか、死ぬか」。兵士たちは、車両約150台が撤退したと推定している。「撤退前に交渉はあったのか」と聞くと、「そんなことは自分たちには関係ない」と言う。しかし、ある兵士は「交渉はあったようだ」と言った。「そうでなければ、あんな風に撤退できるわけがない」。

  86. 広場では、ウクライナ国鉄の職員2人が、鉄道駅にあった平台の「Z」マークを塗り潰していた。(この文字は、もともとロシア輸送隊を識別するため使われていたが、今やロシア全土でTシャツ、ビルボード、バンパーステッカーなどに使われ、侵略への支持姿勢を象徴している)。広場の向こう側に駅がある。その途中、泥の中を自転車で歩く中年男性に出会った。娘の家が倒壊したというので、様子を見に来たという。オレクサンドルと名乗る男性は、占領末期にロシア兵が駅の地下に避難していたと教えてくれた。一緒に見てみようということになった。

  87. 線路上の機関車は爆破されており、プラットホームは迫撃砲弾と木製の弾薬箱でいっぱいだった。私は携帯電話のライトを点灯させ、オレクサンドルに続いて階段を降りると、ロシアの制服やブーツ、配給袋が散乱した薄暗い部屋に入った。パイプには靴下がかけられ、テーブルにはトランプが置かれ、ウォッカ、ワイン、ウィスキーの空き瓶が驚くほどたくさん散らばっている。しかし、後で多くの住民に聞いたところでは、ロシア人がトロシュチャネツで最初にやったのは、スーパーマーケットで酒を略奪することだったそうだ。

  88. オレクサンドルは、聖書やイコンよりも、アルコールに驚いているようだった。包帯や生理食塩水の入った袋、血まみれのマットレスでいっぱいの部屋で、彼は新約聖書を手に取り、「見てみろ!ひどい!」と驚嘆した。「これでどこが信仰深いのか」。

  89. 部屋の外の狭い廊下の壁には、ロシアの小学生が書いた手紙やカードが壁に貼られていた。中の1枚、「大砲から花が飛び出した2台の戦車に、明るい太陽が微笑んでいる」というカラフルな絵に、9歳のオリヤちゃんがサインしていた。赤いソ連国旗の横には「平和のために」「ロシアに勝利を」とあった。「親愛なる兵士たちへ。あなたが強くなって、私たちを守ることができ、世界が幸せになることを心から願っています」。3月上旬、ロシアのカザンでは、末期患者のホスピスが、雪の中で両親やスタッフと「Z」の字型に立つ患者の写真を公開した。駅の地下にある部屋のメッセージやイラストは、明らかにテンプレートからのコピーで、最も気になったのは、子供たちがここまで冷酷に利用されているというより、大人がこの暗黙の遵守から真の慰めを得ていることだった。

  90. 大人と想定するのは間違いかもしれない。トロシュチャネツ市内のあちこちで、自宅や地下室から人々が出てきていた。話を聞くと誰もが、占領者たちが若く見えたかを指摘していた。ボランティアが砂糖や卵、おむつなどの基本的な食糧を配布している文化センターでは、ディーゼル発電機につながれた電源コードの周りに住民が身を寄せ、携帯電話を充電したり、数週間ぶりにニュースを読んでいた。彼らは、ロシア兵を揮発性の略奪者と表現した。部隊が街を去ると、彼らの車両にはテレビ、カーペット、電子機器、家電製品、その他盗品が満載だった。

  91. ユーリイ・ボバ市長は市庁舎を見せてくれた。ひっくり返った書類棚や壊れたコンピューターを見ながら、「これ②男の意味があるのか」と言った。「ロシアに栄光あれSlava Rossii!!!」の落書きの下に生理ナプキンがドアに貼り付けられていた。

  92. 製菓工場に、ボバ市長が連れて行ってくれた。その工場は、オレオ、ミルカ、ナビスコの製品を製造していた。占領軍兵士は、倉庫の在庫品で食いつないでいたようだ。工場の組立ラインの近くには、未使用のロケット弾が何十箱も積み上げられていた。オフィスはすべて荒らされていた。窓をキャンディー缶でふさがれた会議室の白いプロジェクターには、ロシア兵がマジックでメッセージを残していた。

  93. 「命令に従っただけ。すみません」

  94. 「我々もこんな戦争はいやだ」

  95. 「送り込まれただけ。許してください」

  96. 「兄弟よ、大事にしている」

  97. .数日後、キーウ北方のロシア軍も退却した。彼らも何か残していないかと思い、私も首都に戻った。

  98. イヴァナ・フランカ通りは、ブチャ東端の古風な未舗装の小道で、イルピン川を挟んで、ホスピタラーズ隊が駐屯する産科病院があった。ロシア軍占領下の1カ月間、ウクライナ人居住区に隣接するこの通りは前線基地と化し、焼け残った家屋や横転・炎上した車両の中に、焼け残ったロシア軍戦車やトラックが多数あった。呆然とした表情で瓦礫の中を数少ない人たちがさまよっており、大災害の生存者のようだった。

  99. イヴァナ・フランカ通りの終点で、ダウンコートにショールを羽織る老女が手招きしていた。老女に手を引かれ、急斜面を登ると、線路があった。線路は暗渠(あんきょ)になっており、下に2人の男性の遺体が、雑草やゴミに埋もれて置かれていた。被害者は兄弟で、「みんなに愛されていた。なぜ殺されたのか分からない」と言った

  100. ユーリとヴィクトルの兄弟は、60歳代で、隣家に住んでいた。地元では「ユーリおじさん」「ビクトルおじさん」と呼んでいた。ブチャの占領中、ユーリは中立を示す白い布を袖に巻き、飢えた隣人のためパンを焼いていた。二人とも頭を撃たれている。草むらにビールの空瓶が転がっている。

  101. 「これは知らない人」と女性は言いながら、道端に倒れている姿を指さした。太った中年の男で、私服に身を包み、後退した白髪ときれいに整えられた白いひげがあった。こめかみの弾痕から血がにじんで、足元まで紅く染まった土が広がっている。

  102. ウクライナ軍兵士が「もうひとり犠牲者を見つけた」と声をかけてきた。黄色い家の地下に入ると、痩せた10代の子供が床に倒れていた。口と鼻から血が漏れている。兵士はしゃがみこんで、頭蓋骨の下をさわった。「後頭部を撃たれている」。

  103. 二階建ての小さな家の外には、ロシア兵がパレットやブロック、弾薬の空き箱などで即席の検問所を作っていた。裏庭では、3人が処刑されていた。一人は耳を撃ち抜かれ、フェンスに仰向けに倒れていた。もう1人は薪小屋のそばで、羊革のジャケットを着ていた。彼も仰向けで、Tシャツを着て顔を覆っていた。三人目はうつぶせになっていた。頭の半分が吹き飛び、脳みそが土にこぼれている。

  104. .その時、庭に30代半ばの女性2人が現れた。違和感を覚えた。ブチャ住民と違い、清潔感がある。洋服はしわくちゃだがおしゃれ、白いスニーカーに化粧し、宝石もつけている。警察官が1人ついている。水玉模様のセーターに黒いジーンズの女性が1人、顔にTシャツをかぶった男のそばにしゃがみ込んだ。彼女はイリナ・ハブリウクといい、男は夫だった。フェンスそばの死体は弟だった。

  105. ロシア軍がブチャに侵攻して、彼女と母親、兄の息子はキーウに逃げ込んだと、後にハブリウク夫人は話してくれた。兵士が動く車に発砲してくるので、戦車や大砲の音が聞こえる中、一家は2マイルほど走り、ウクライナ人が支配しているイルピンに着いた。そこでは、アウグストとオレストが川を渡るのを手伝った大勢の避難民に混じり、破壊された橋まで乗せていってもらった。対岸でバスでキーウの鉄道駅に行き、列車でウクライナ西部のザカルパッチャに向かい、友人宅に泊めてもらった。

  106. 夫セルゲイ(47歳、民間警備員)は、犬2匹と猫6匹を置き去りにできず、ブチャに残った。弟のローマンも一緒にいた。ロシアがブチャの発電所を破壊し、携帯電話を没収して、ハブリウクは2人と連絡が取れなくなった。昨日、2人が死んだことを知った。

  107. ハブリウクはセルゲイとローマンの身元を確認し、警官は写真を撮った。そして、ハブリウクはセルゲイの顔にかかるTシャツを持ち上げた。口が開いている。右目を銃弾が貫き、穴が開いていた。

  108. 「それはよくないですよ」と、警官は言った。

  109. ハブリウクはTシャツを戻した。

  110. もうひとりは親友のオレーナ・ハラカだった。ハブリウクは「手が震える」と言いながら裏庭を出た。口調は、産院で「主人は即死でした」と言った女性の口調と同じで、沈着冷静であった。ハブリウクは、開けっ放しの玄関に向かう途中、一輪車の前で足を止め、手のひらを眉間に当てた。一輪車には愛犬ヴァリック(ピットブル)が乗っていた。射殺されていた。

  111. 夫人はハラカと中に入った。床の血痕を見て、ハブリウクは 「ヴァリックを撃ったのはここ」と言った。キッチンに入り、冷蔵庫を開け、食料庫に入り、食器棚やキャビネットを物色した。何を探していたかは分からない。ロシア軍が仕掛けたとされるブービートラップがあり、キーウ警察に所属するハラカが心配した。「あちこち動いてはダメ」とハブリウクに言った。

  112. ハブリウクは聞いていなかった。リビングルームで、洋服ダンスからドレスやシャツを取り出して、ビニール袋に入れ始めた。ハルカは、自分の身の回りのことを自分でやろうとしている友だちの気持ちを察し、警備はそっちのけで、手伝った。

  113. 「セルゲイの服はいる?」「そうね、取っておいて」

  114. 靴の空箱が山のように積まれていた。「靴を盗まれてる」とハブリウクは言った。ランジェリー、香水、宝石類もない。特別な日のために隠しておいたチョコレートの箱を見つけ、ハラカに渡した。「あなたの子供の分よ」と彼女は言った。

  115. ハルカは箱を見て、「毒入りかもしれない」と言った。

  116. 女性二人は階段で寝室に行き、閉じ込められていた小鳥を驚かせた。小鳥は激しく飛び回り、壁にぶつかり、床を飛び跳ねていた。ハラカが窓を開けると、ハブリウクは夢のように数秒間、鳥が飛び去るまで追いかけまわした。そして膝をついて、ベッド下から古い革表紙を取り出した。それは、19世紀の作家タラス・シェフチェンコの詩集だった。シェフチェンコは、近代ウクライナ文学の祖といわれ、ロシアと別のウクライナのナショナル・アイデンティティの確立に、誰よりも貢献した人物だ。詩集に収められている「私の遺言」は、尊厳革命でデモ隊の賛美歌のようなものになった。詩は、「私が死んだら、愛するウクライナに埋めてください 」で始まる。

  117. 「これは何?」 ハラカはジッパー付きポーチを手に取り、尋ねた。

  118. 「あ」ハブリウクは言った。「主人の集めていたコイン」

  119. .微笑している。キプロス、シンガポール、アメリカ、インドネシアを旅した人たちがセルゲイにくれた外貨が、ポーチから出てきた。コレクターだったのだ。棚にはミニチュアの椅子がそろえてあり、セルゲイが、使わなくなった携帯電話を置くために作ったもので、携帯電話はロシアに奪われていた。

  120. ハブリウクが別の部屋から荷物を集めていると、ロングコートに眼鏡をかけた女性が立ち寄り、お悔やみの言葉をかけた。占領中ずっとブチャにいた彼女は、体が弱く、栄養不足のようだった。ハブリウクは、石鹸、シャンプー、化粧品、洋服......と、ありったけのものを女性の腕に詰め込んだ。

  121. 「サイズはいくつでしたっけ」と尋ね、靴三足を押し付けた。

  122. ”女性は遠慮がちに「これからどうするの」と聞いた。

  123. ザカルパティアに行きます」

  124. 「もう戻ってこないの」

  125. 「とりあえずね」

  126. 「セルゲイ、とローマンは埋葬するの」

  127. 「どうしようかな」鉛筆の瓶が横になっているのに気づき、ハブリウクは縦にした。

  128. しばらくして、ナデジダ・チェレドニチェンコという隣人がやってきた。ベストとフード付きのトレーナーはぼろぼろで、手は切り傷と水ぶくれ、爪には土がいっぱいついている。ハブリウクさんを抱きしめてから、息子のボロディミールさん(27歳、電気技師)が3月初めに拘束されたと告げた。チェレドニチェンコは3週間後、家の前をパトロールしていた2人のロシア兵に声をかけた。「私は彼らに『母親としてお願いします。私の息子は生きているのでしょうか?』と聞くと兵士の一人は『もういないよ』と答えた」という。

  129. 近所の人にチェレドニチェンコが連れて行かれた地下室で、ヴォロディミルが耳を撃ち抜かれていた。左手の指5本が全部、後方に引きちぎられていた。

  130. ハブリウクは、隣人の話を黙って聞き、ときどきうなずいた。ハブリウクは、友人に対する言葉はなかったが、自分自身の喪失感から、チェレドニチェンコが心を許せる存在になったようだった。後日、チェレドニチェンコは、ヴォロディミールを埋葬した自宅の庭を見せてくれた。ウクライナでは、故人の好物を墓に供える習慣があるが、占領下のブチャの住民は、生きるため最低限の食料を得るのがやっとだった。チェレドニチェンコは、ヴォロディミルが好きだったカフェイン入りインスタントコーヒーを、無名の墓の上に置いた。

  131. チェレドニチェンコが帰ると、ハブリウクは前庭に行った。フェンスが倒され、材木を動かすと、もう一匹の犬が下敷きになっているのを見つけた。

  132. ハブリウクは顔を両手にうずめた。肩が震えている。帰国後、初めて泣くことを許した。

  133. ハブリウク宅のそばには、炭化した死体がゴミのように転がっていた。地元の人によると、戦車に乗ったロシア人が死体を捨て、火をつけたという。(後に、警察が現場にテープを貼り、6人の犠牲者を示す黄色い目印をつけた)。一人は女性、もう一人は子供と思われたが、手足が切断されており、はっきりしない。焼けただれ、切断された足や胴体を猫や犬が嗅ぎまわっていた。

  134. 残虐行為は、イヴァナ・フランカ通りに限ったことではない。地方検事長によると、同地区で600体以上の遺体が発見された。ヒューマン・ライツ・ウォッチは、「即決死刑、その他の不法な殺害、強制失踪、拷問の証拠が広範囲に存在する」と報告した。少なくとも1人の男性は首を切られていた。司法長官事務所は、児童療養所の地下にある「拷問室」で拘束され処刑された男性の写真を公表した。ウクライナの人権擁護委員リュドミラ・デニソヴァはBBCに、14歳から24歳まで20数人の女性と少女が、ブチャの地下室で監禁されている間に「組織的にレイプされた」と述べた。9人は妊娠していた。タイムズ紙の寄稿者は、ジャガイモ貯蔵室で頭を撃たれた女性の死体を撮影した。

  135. ロシア軍のブチャ占領中に、ボランティアチームが命がけで遺体を集め、地元の死体安置所に運んだ。死体安置所が10日で満杯になり、冷蔵室もないため、住民が正教会の裏手に集団墓地を掘った。死体が積み上がると、トラクターで土をかぶせた。1つ目の墓が満杯になると、2つ目、3つ目と掘っていった。イリナ・ハブリウクに会った翌日、教会を訪ねた。3番目の穴には、黒い袋が山積みされ、泥の中から手足がはみ出ていた。アンドレイ・ハラビン神父は身廊で、弾丸で割れた窓を修理していた。「ここだけではないんです」「ブチャのあちこちに人が埋まっているんだ」。

  136. 神父は公園を見せたかったのだ。途中で、最初に進入したロシア軍部隊の車列をウクライナの無人偵察機が一掃した通りを通りかかった。砲塔、エンジン、大砲、バラバラになった戦車の履帯が、400ヤードに及び道路上に散らばっていた。破壊力は並大抵ではなかった。住民の何人かは、その後のロシア兵の行動は、復讐心からか、もっとひどくなったと言っていた。

  137. 公園の隣に止めてあったバンは、弾痕だらけだった。ボンネットには「子供」というロシア語が描かれていた。サイドミラーには白いシートがかかっていた。ハラビン神父は「彼らは帰ろうとしていた」と乗客について語った。埋葬した人も知らない。バンの後部バンパーから外れたナンバープレートだけが、草むらの中の新しい土に残っていた。

  138. 不思議なことに、公園に馬糞が散らばっていた。神父の説明によると、馬小屋が爆撃されたらしい。生き残った馬は、絶え間ない砲撃で気が狂い、郊外を走り回った。「馬は今どこにいるのですか」と聞くと、ハラビン神父は肩をすくめた。

  139. 馬はともかく、野良犬になったペットがあちこちにいるのが、主人の不在証明だ。線路向こうの小さな通りでは、老女が玄関に突っ伏して、その脇で震える犬が何度も何度も吠えていた。ツナ缶を開けると、その犬は貪るように食べていた。中に入ってみると、もう一人の女性も高齢で、台所の床で死んでいた。近所の人に聞くと、2人は70歳代の姉妹だった。ニーナとリュドミラという名前だった。唯一の寝室には、細いマットレスが2つ、毛布が1枚敷いてある。小さな家には、ハードカバーの本がたくさんあった。フランス古典をロシア語に翻訳した本が棚を埋め尽くしている。ヴォルテール、カミュ、モーパッサン...。箪笥の上には、イリーナ・ハブリウクがセルゲイのベッドの下から取り出したのと同じシェフチェンコ詩集が積んであった。

  140. イルピン川を渡ろうとしなかった橋の上の老婆が頭に浮かんだ。ニーナとリュドミラの死因ははっきりしないが、必然的な結果だったように思う。向かいの庭をロシア軍の戦車が突っ切り、隣家の屋根裏にはスナイパーがいる....そんな猛烈な殺傷力を前に、姉妹にチャンスがあっただろうか?

  141. また、ブチャに住む一人暮らしの別の老女は、ロシア兵が家に押し入ってきたとき、命乞いしたと話していた。「まさか70歳にもなって、19歳の野郎の前にひざまずくとは......」と。トロシュチャネツ村の住民と同じく、彼女も占領軍を恐ろしく、戦闘に慣れた虐殺者というより、気まぐれに殺人を犯す若者と表現していた。イヴァナ・フランカ通りからほど近い高校では、つぶれたビール缶が野砲陣地だった場所の周囲に散らばっていた。校長室は荒らされていた。校長室は荒らされ、ロシア兵がゴム印で丹念に陰茎を描いていた。

  142. アナスタシア、アルテム、マモンの3人は、イルピン近郊の安定化地点に駐留していた。ロシア軍が撤退したある日、アナスタシアは、杖をつきミニチュア・ハンドガンのネックレスをした脳外科医ユジクと一緒に、ブチャへ食料、水、薬を配りに行った。数日前に爆風で負傷した老女に会った。腕に大きな傷をつけていた。「露出させたままにしないよう、何度も言い聞かせたわ」とアナスタシア。「彼女は、時間を無駄にしてはだめと言い続けていました」。

  143. 4月6日、別のホスピタラーズから電話があり、集団墓地のあるブチャ教会に向かう途中だという。私は救急車やバンが到着する数分前に教会に着いていた。聖ミカエル教会の神父が1人来ていた。ヴィクトル・ヤヌコヴィッチ大統領がロシアに屈しEU協定を解除して3週間後の2013年12月11日の夜について、修道院でインタビューしたことがある。シドー神父は当時、神学生だった。午前1時ごろ、パニック状態の電話がかかってきた。独立広場に陣取ったデモ隊に、数百人の治安部隊が押し寄せたのだ。それまで、デモは大目に見られていたが、ついに政府はデモを鎮圧する決意を固めた。

  144. 「鐘を鳴らせと言われたんです」と、シドー神父は回想する。聖ミカエル教会の塔には、鋳造青銅製の鐘数十個が木製のバトンの鍵盤につながるカリヨンがあり、シドー神父は鐘を鳴らす役だった。カリヨンは朝の礼拝や祈りの前に短い間奏で演奏される。しかし、「ナバット」と呼ばれる鐘もあり、これは重大な危険を知らせるもので、極めてまれにしか鳴らされない。聖ミカエル教会で最後にナバトが鳴ったのは、1240年、モンゴルがキーウを包囲した時である。

  145. .修道院長の許可を得て、シドー神父ら修行僧5人は塔に登り、カリヨンのバトンを順番に拳で叩いた。塔を降り、丘を下りて独立広場に向かった。デモ隊はまだそこにいた。警備隊は去っていった。

  146. 「私たちの勝ちだった」 と彼は言った。

  147. ブチャでシドー神父は、長い白髪ひげを生やし、黒い聖職衣をまとい、高い円筒形の頭飾りをつけた年配男性のそばに立っていた。ウクライナ正教会のトップであるエピファニオス大司教である。聖ミカエル教会には、外国高官と一緒の写真が飾られており、聖堂での記者会見も見たことがある。「プーチン大統領へのメッセージは」との記者に対して、エピファニオスは「この人物は反キリストであり、論評したくない」と答えた。「破壊された都市を見れば、こんなことができるのは悪魔だけか、悪魔と手を結んだ者だけだとわかるでしょう」

  148. ハラヴィン神父がシドーとエピファニウスに挨拶する間、衛生兵がヤナ・ジンケヴィチ(ホスピタルズのリーダー)を車椅子に乗せるのを手伝っていた。全員がピットに向かった。三人の聖職者は、塹壕の端に立ち、低いメロディーのような聖歌を歌った。エピファニオスは、塹壕の横を歩きながら、銀の洗面器から聖水を、積み上げられた死体の上にまいた。

  149. 式典は非公開で、参加した衛生兵はわずかだった。その中に、「バンド・オブ・ブラザーズ」のファンであるアウグストがいた。1カ月前、聖ミカエル病院で弾薬ベストと防弾チョッキを着たアウグストと偶然知り合った。その人はもういない。今は憔悴しきった顔をしている。年寄りになって....

  150. 「元気だったの」と、儀式後に声をかけた。

  151. 「怒りしかない」という答えだった。

  152. アウグストは樹木医のオレストと、この2週間、キーウから東に50マイル離れたノバサンで過ごした。そこでも市民が処刑されていた。「街角に放置されていたんです。おばあさん、おじいさんがたくさんいました」。ロシア軍がノバサンを去る時、若い女性数名を連れて行ったとアウグストは言う。彼女たちの家族にも会ったが、彼女たちがどうなったのか、生きているのか、全く分からないという。

  153. 慰めるように、携帯電話を取り出し、死んだ兵士の上に立つ自分の写真を見せてくれた。「良いロシア人だ」とアウグストは言った。しかし、冗談も通じず、すぐに携帯をしまった。

Medical professionals attempting to identify hundreds of bodies by using DNA samples in Bucha.

ブチャの遺体多数は地元で埋葬され、その後キーウへ搬送されDNA検査で身元照合を行う。

  1. .式の前日、私はイヴァナ・フランカ通りに戻った。焼けた死骸は消えていた。残っているのは、焦土と化した一帯だけだった。

  2. イリナ・ハブリウク宅の前に白いバンが止まっていた。ホコリだらけの後部ドアに、誰かが指で「200」と書いていた。これは死亡者の軍事暗号で、私はホスピタラーズで学んだ(「300」は負傷者を表す)。このバンは、占領期間中に遺体を集め、死体安置所に運び、次に教会に運んだチームのものだった。この人たちは重たいものを運ぶのに慣れているようだ。その1人、セルゲイ・マチウクは、ウクライナでプロサッカー選手として活躍していた。カラフルなウインドブレーカーにつけたピンには、ブチャの紋章とウクライナ語で「I LOVE MY CITY」と書かれていた。推定では、300体以上の死体があり、そのうち少なくとも100体は両手が縛られていた。「その多くが拷問を受けていた」という。

  3. ボランティアの一人は、イリナ・ハブリウクの夫を知っていた。彼とマティウクがセルゲイの遺体を持ち上げようと屈んだとき、ボランティアは「金歯まで取られている」と言った。

  4. マティウクは、目の前の仕事に集中し、「行くぞ」と言った。

  5. ハブリウクは家にいたが、裏庭は避けていた。ボランティアたちが遺体袋を一つずつバンに運ぶ間、彼女は敷地内を歩き回り、いなくなった猫たちを探した。ある時、彼女は凍りつき、自分の手を見下ろした。

  6. 「何もかもが汚い」とつぶやいた。

  7. バンの半分は死体で埋まっていて、マティウクはセルゲイとローマンを山の上に乗せるため荷台に乗り込まなければならなかった。そして、黄色い家まで行き、地下室から10代の子供を運び出した。そこから地元の墓地まで運んだ。

  8. 翌日の午後、墓地に立ち寄った。マティウクたちが事務所に使っているレンガ造りの小屋の横に、袋詰めされた数十体の死体が列をなして積み上げられていた。マティウクは同色のウインドブレーカーにピンバッジを着けていた。腰には宝石が埋め込まれたアンティークナイフを差している。ロシア検問所の廃墟で見つけたもので、戦利品として持っているのだという。遺体はキーウに運ばれ、医療関係者がDNA鑑定をするという。教会の裏から110体以上の遺体を掘り起こすという。

  9. 「とても疲れました」とマティウクは言った。「寝てないんです」。

  10. 「ロシア軍が撤退してからですか」

  11. 「あいつらがここに来てから」

  12. 「戦後はどうするつもりですか」と聞くと、マティウクは「墓地で墓堀りの仕事をする」と言う。

  13. 「ここが自分の居場所なんです」。

  14. アナスタシアは翌日4月7日にアルテムとマモンとのローテーションを終え、筆者は彼女が借りていたアンドレイエフスキー坂のアパートで待ち合わせた。私たちは石畳の道を歩き、オペラ歌手ヴァシル・スリパク記念碑を通り過ぎ、ドニエプル川のほとりに進んだ。レストラン、ショップ、カフェが営業再開している。ウクライナに来て初めて好天に恵まれ、岸壁ではジョギングをする人たちと何人もすれ違った。川中の島には砂浜があり、アナスタシアはそこで開かれたコンサートを思い出して、微笑んだ。「夏場はすごいんですよ」。

  15. アナスタシアによると、ユジクから聞いた話で、ホスピタリーズは東に移動するという。ロシア軍はキーウ占領を断念し、ドンバス地方に焦点を移しつつある。その目的は、ドンバス全域を占領し、黒海に突き進み、クリミアへの陸橋を架けることだ。アゾフ大隊を含むウクライナ人最後の生き残りは、ロシア軍が間もなく封鎖する製鉄所の地下トンネルに家族と避難していた。

  16. .第二次段階では、第一次段階以上に重火器や兵器が投入され、残虐性も増していく。4月中旬、プーチンはブチャの惨状を引き起こしたと思われる部隊の「英雄的行為と勇気」を称え、名誉称号を授与した。アナスタシアとドニエプル川まで歩いた翌日、ロシアのクラスター弾がクラマトルスク駅を襲った。そこには、ドンバスから出る列車を待っていた、女性や子供を中心とした数百人の民間人がいた。50人以上が殺された。

  17. 岸壁で、アナスタシアに東へ行くのか尋ねると、「考えなくちゃ。殺される可能性が高いから」。彼女は1〜2週間、パリに戻る予定だった。論文も書きたいし、資金集めもしたい。この1ヶ月間、彼女はホスピタラーズ独特の軍事文化、日常生活、考え方に適応するのに苦労した。彼女は、カラシニコフ銃の携帯を拒否した数少ない衛生兵の一人だった。アウグスト、ユジク、マモンと対照的に、アナスタシアは戦争に魅了されたわけでも、気質的に向いているわけでもなかった。多くのウクライナ人のように、戦争から逃げるのを拒んだのだ。

  18. パリに行ってから、アナスタシアはウクライナに戻った。最後に話したとき、彼女はキーウの家族を訪ねていた。ホスピタラーズは聖ミカエル教会から移動していた。彼女は東部で合流するつもりだった。 ♦

Letter from Ukraine | The New Yorker

May 9, 2022 Issue

How Ukrainians Saved Their Capital

When Russia attacked Kyiv, Ukrainians dropped everything to protect the city—and to ease one another’s suffering.

By Luke Mogelson

May 2, 2022


Published in the print edition of the May 9, 2022, issue, with the headline “The Wound-Dressers.”


コメント

このブログの人気の投稿

フィリピンのFA-50がF-22を「撃墜」した最近の米比演習での真実はこうだ......

  Wikimedia Commons フィリピン空軍のかわいい軽戦闘機FA-50が米空軍の獰猛なF-22を演習で仕留めたとの報道が出ていますが、真相は....The Nationa lnterest記事からのご紹介です。 フ ィリピン空軍(PAF)は、7月に行われた空戦演習で、FA-50軽攻撃機の1機が、アメリカの制空権チャンピオンF-22ラプターを想定外のキルに成功したと発表した。この発表は、FA-50のガンカメラが捉えた画像とともに発表されたもので、パイロットが赤外線誘導(ヒートシーキング)ミサイルでステルス機をロックオンした際、フィリピンの戦闘機の照準にラプターが映っていた。  「この事件は、軍事史に重大な展開をもたらした。フィリピンの主力戦闘機は、ルソン島上空でコープ・サンダー演習の一環として行われた模擬空戦で、第5世代戦闘機に勝利した」とPAFの声明には書かれている。  しかし、この快挙は確かにフィリピン空軍にとって祝福に値するが、画像をよく見ると、3800万ドルの練習機から攻撃機になった航空機が、なぜ3億5000万ドル以上のラプターに勝つことができたのか、多くの価値あるヒントが得られる。  そして、ここでネタバレがある: この種の演習ではよくあることだが、F-22は片翼を後ろ手に縛って飛んでいるように見える。  フィリピンとアメリカの戦闘機の模擬交戦は、7月2日から21日にかけてフィリピンで行われた一連の二国間戦闘機訓練と専門家交流であるコープ・サンダー23-2で行われた。米空軍は、F-16とF-22を中心とする15機の航空機と500人以上の航空兵を派遣し、地上攻撃型のFA-50、A-29、AS-211を運用する同数のフィリピン空軍要員とともに訓練に参加した。  しかし、約3週間にわたって何十機もの航空機が何十回もの出撃をしたにもかかわらず、この訓練で世界の注目を集めたのは、空軍のパイロットが無線で「フォックス2!右旋回でラプターを1機撃墜!」と伝え得てきたときだった。 戦闘訓練はフェアな戦いではない コープサンダー23-2のような戦闘演習は、それを報道するメディアによってしばしば誤解される(誤解は報道機関の偏った姿勢に起因することもある)。たとえば、航空機同士の交戦は、あたかも2機のジェット機が単に空中で無差別級ケージマッチを行ったかのように、脈絡な

主張:台湾の軍事力、防衛体制、情報収集能力にはこれだけの欠陥がある。近代化が遅れている台湾軍が共同運営能力を獲得するまで危険な状態が続く。

iStock illustration 台 湾の防衛力強化は、米国にとり急務だ。台湾軍の訓練教官として台湾に配備した人員を、現状の 30 人から 4 倍の 100 人から 200 人にする計画が伝えられている。 議会は 12 月に 2023 年国防権限法を可決し、台湾の兵器調達のために、 5 年間で 100 億ドルの融資と助成を予算化した。 さらに、下院中国特別委員会の委員長であるマイク・ギャラガー議員(ウィスコンシン州選出)は最近、中国の侵略を抑止するため「台湾を徹底的に武装させる」と宣言している。マクマスター前国家安全保障顧問は、台湾への武器供与の加速を推進している。ワシントンでは、台湾の自衛を支援することが急務であることが明らかである。 台湾軍の近代化は大幅に遅れている こうした約束にもかかわらず、台湾は近代的な戦闘力への転換を図るため必要な軍事改革に難色を示したままである。外部からの支援が効果的であるためには、プロ意識、敗北主義、中国のナショナリズムという 3 つの無形でどこにでもある問題に取り組まなければならない。 サミュエル・ P ・ハンチントンは著書『兵士と国家』で、軍のプロフェッショナリズムの定義として、専門性、責任、企業性という 3 つを挙げている。責任感は、 " 暴力の管理はするが、暴力行為そのものはしない " という「特異な技能」と関連する。 台湾の軍事的プロフェッショナリズムを専門知識と技能で低評価になる。例えば、国防部は武器調達の前にシステム分析と運用要件を要求しているが、そのプロセスは決定後の場当たり的なチェックマークにすぎない。その結果、参謀本部は実務の本質を理解し、技術を習得することができない。 国防部には、政策と訓練カリキュラムの更新が切実に必要だ。蔡英文総統の国防大臣数名が、時代遅れの銃剣突撃訓練の復活を提唱した。この技術は 200 年前のフランスで生まれたもので、スタンドオフ精密弾の時代には、効果はごくわずかでしかないだろう。一方、台湾が新たに入手した武器の多くは武器庫や倉庫に保管されたままで、兵士の訓練用具がほとんどない。 かろうじて徴兵期間を 4 カ月から 1 年に延長することは、適切と思われるが、同省は、兵士に直立歩行訓練を義務付けるというわけのわからない計画を立てている。直立歩行は 18 世紀にプロ