MAX SMITH/WIKIMEDIA COMMONS
保存展示されている二式大艇(H8K)の威容
日本が80年前真珠湾を攻撃し、米国は第二次大戦に参戦を余儀なくされた。以後連綿としてその日の攻撃は米国民の琴線に触れる記憶となっている。
1941年12月7日の奇襲で米太平洋艦隊の戦艦部隊は大損害を受けたが、日本帝国はこれで十分とは見ていなかった。知名度は低いが日本は三カ月未満で次の襲撃を敢行し、この際は大型飛行艇川西H8Kを投入した。当時最新鋭の機材を投入し、その時点で最長の爆撃行に踏み切ったのだ。
12月7日攻撃直後の効果には大きなものがあり、日本帝国海軍(IJN)は太平洋艦隊の戦艦8隻すべてに打撃を与え、二隻を破壊、残る各艦も当面行動不能にした。物資面の損害以外に米国民2,400名超が殺害された。
米国を大戦に巻き込んだ日本はその後もアジアの制覇に乗り出し、米太平洋艦隊は弱体化し、日本の動きを阻止できない状態だった。
ただし、真珠湾の海軍基地の損傷度合が限定的なものに留まっていたと急速に判明した。合計21隻の艦艇に何らかの損傷を与えたものの、大部分は修復可能だった。また艦船攻撃に集中するあまり、艦艇整備施設はほぼ無傷で残った。基地内の燃料貯蔵分もそのままで、太平洋艦隊の空母部隊は当時湾内にいなかった。.
そこで1942年3月、IJNは二回目の真珠湾奇襲攻撃を実施する準備を整え、K作戦と呼称した。なお、12月7日のミッションはZ作戦とされた。
今回の作戦は進行中の基地機能再開と整備作業を止めることにあり、IJNに対抗する米太平洋艦隊にさらなる打撃を与えることにあった。同時に真珠湾の情報収集もめざした。
Z作戦の先鋒は空母部隊と大小の潜水艦部隊だった。K作戦はずっと小ぶりで、爆弾搭載の飛行艇を投入した。川西H8K連合軍名称エミリーが選ばれた。
航空史家レネ・フランシロンが「第二次大戦中の飛行艇で最も傑出した機体」としたH8Kは最新鋭の機体だった。試作型の初飛行が1941年1月にあったばかりで、同年後半に量産化が決まった。真珠湾第二次攻撃には最適の機材と判断されたのは長大な航続距離のためで、機内に最大4,400ポンドのペイロードがあることも理由とされた。同機を使い、カリフォーニア空襲も企画されたが実施されなかった。
真珠湾第二次攻撃では長距離性能が前提で、往復4,800マイルの行程となった。これだけの長距離爆撃を可能とした機体はそれ以前は存在しなかった。成功すれば同様の攻撃で米海軍の戦闘力を削ぐはずだった。
H8Kは機体サイズにもかかわらず、敵戦闘機の攻撃を受けても生存する性能をその後発揮した。驚くほどの操縦性があり、かつ防御兵装は強力で、20mm機関砲5門、0.303口径機関銃4門を配置した。
当初は8機をK作戦に動員する予定だったが、結局投入できたのは2機にとどまった。横浜海軍航空隊の機体でマーシャル群島ウォッジェ環礁を1942年3月4日離水した。一号機は橋爪寿夫大尉が指揮をとり、二号機には笹生庄助少尉が機長となった。各機には550ポンド爆弾4発が搭載され、真珠湾の艦艇ドック上空から投下を目指した。特筆すべきは同型機が実戦に投入されたのはこれが初めてだった。
両機は1,900マイル飛行しフレンチフリゲート礁に着水した。ホノルル北西560マイル地点だ。同地は北西ハワイ群島に属し米国領だったが、遠隔地で無人のためIJNが停泊地に利用していた。ここで飛行艇は燃料補給のため待機していた潜水艦二隻に合流した。日没後に飛行艇部隊は離水しオアフをめざした。
実際に12月7日に先立ち、米暗号解読部門は日本軍がフレンチフリゲート礁を利用した燃料補給活動を計画していることをつかんでいた。だが真珠湾攻撃前に入手したその他情報内容と同様にこれも無視された。
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全行程4,800マイルのマーシャル群島からハワイへの航路
日本軍も利用可能な情報の不確かさに直面していた。米側の天候情報は解読でき、真珠湾上空の気候状況は把握できた。だが米側が暗号を変更したことで情報は入手できなくなり、H8K部隊は悪天候の中を飛行せざるを得なくなった。
米側に情報面の落ち度はあったものの、ハワイから200マイル地点で飛行艇部隊は米レーダーに捕捉され、P-40戦闘機部隊がスクランブル出撃した。日本機にレーダーは搭載されておらず、敵機の接近を知ることはなかったが、厚い雲と暗闇に紛れ、飛行艇部隊はオアフ上空15千フィートに3月4日早朝に到達した。
夜間と悪天候がIJN機を助けたが、同時に搭乗員が投下目標を視認するのに苦労した。月光に助けられたが、ハワイは灯火管制下にあり、あてずっぽうに頼るしかなかった。真珠湾付近にIJN潜水艦イ23を配備し飛行艇を誘導するはずだったが、同艦は消息不明となっており、当日も利用できるか不明だった。
飛行艇搭乗員は爆弾を投下したものの、このような状況では運に頼るしかなかった。橋詰機の爆弾はホノルル郊外の山麓に落下し、高校校舎の窓が飛散したが人身被害は発生しなかった。
笹尾機の爆弾は水面を叩いたようで、同機は攻撃開始後に一号機と連絡がとれなくなった。
爆弾投下後の二機は南西に進路を取りマーシャル群島へ向かった。笹尾機はウォッジェ環礁に帰還したが橋爪機はフレンチフリゲート礁から離水時に損傷を受け、同じくマーシャル群島のジャルート環礁に向かった。
空襲は長距離爆撃ミッションとしては成功したといえ、両機は生還できた。このため、日本側は宣伝工作に利用できると考え、真珠湾に大打撃を加え、米側の人的損失も甚大と発表した。
だが実際の軍事成果はとるにたらないもので、ミッションは想定したのと反対の効果を生んでしまったのである。
次の攻撃が3月10日実行されたが悲惨な結果に終わった。橋爪機はミッドウェイ礁付近で海兵隊戦闘飛行隊VMF-211のブリュースターF2A-2バッファロー戦闘機により撃墜されてしまった。
米太平洋艦隊の再建を阻止する狙いと裏腹に、一回目の空襲で米側はハワイの警戒態勢をさらに強化してしまった。IJN強襲部隊は迎撃されなかったが、レーダー解析結果から各機がフレンチフリゲート礁で燃料補給を受けたことが判明した。米海軍駆逐艦が付近を航行中で日本軍の動きを監視するよう指令を受けた。
その一か月後に米軍も長距離爆撃ミッションを実施し、B-25爆撃機の16機がUSSホーネットから日本本土を空襲した。1942年4月18日の「ドゥーリトル空襲」の真価は米国が日本心臓部を攻撃したことで日本側に衝撃を与えたことにある。
米側が攻勢に転じたことで日本は大きな賭けにでざるを得なくなり、ハワイ群島を占領し、米海軍空母部隊を撃滅し、米軍の侵攻を阻止する決意に出た。
ハワイ方面の次の手がミッドウェイ島で、米海軍とIJNは1942年6月に雌雄を決する海戦を展開した。これが太平洋での戦争の転回点となったと一般に見られている。
話には皮肉な展開があり、太平洋で戦ったH8Kについてワイアット・オルソンはStars and Stripes記事で、ミッドウェイ開戦に先立ち、同飛行艇が米空母の偵察任務についたが、ハワイ空襲後のフレンチフリゲート礁は米海軍の監視対象となり、飛行艇の利用ができなくなったため、IJNは貴重な情報が入手できなくなったと記した。実施可能ならば、ミッドウェイで待ち伏せる米空母の位置が判明していたはずで、結局米海軍は日本空母4隻全部を沈めることができた。
SAN DIEGO AIR AND SPACE MUSEUM ARCHIVE
陸上に上がったH8K
こうして真珠湾第二次攻撃はIJN敗北につながる展開を開始する結果を生み日本帝国の野望は消え去ったが、H8Kは終戦まで投入された。
米PBYカタリナ飛行艇や英ショートサンダーランド飛行艇のように生産数は多くなかったが、H8Kは優秀な性能を示した。合計167機が生産されたが、兵員輸送など無駄に性能を使ったのは、戦況が日本に不利になったためだ。
今日、軍用飛行艇の姿はアジア太平洋で限定的に見ら得る。新明和工業が現在もUS-2水陸両用機を海上自衛隊向けに製造しているが、同社は川西飛行機のH8Kの流れを受け継ぐ企業だ。
米軍ではここにきて水陸両用機への関心が高まっており、80年前には想像できない展開だ。米空軍特殊作戦軍団の高官が岩国基地でUS-2を視察したのは、MC-130輸送機の水陸両用版の実現に同軍団が注力しているためでもある。
U.S. AIR FORCE/1ST LT RACHAEL PARKS
海上自衛隊が米空軍特殊作戦軍団副司令、海兵隊岩国基地司令とUS-2の前に並んだ。 November 9, 2021.
IJNによる真珠湾への長距離爆撃ミッションを覚える向きは少ないが、広大な太平洋では飛行艇の運用はまだ終わっていない。■
Flying Boats Flew Japan's Little-Known Follow-On Raid On Pearl Harbor
The second attempted attack on Pearl Harbor indirectly changed the course of the war in the Pacific.
BY THOMAS NEWDICK DECEMBER 7, 2021
Contact the author: thomas@thedrive.com
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