アメリカの伝説的な爆撃機B-52ストラトフォートレスが初めて空を飛んだのは70年以上前で、供用期間が100年を超える可能性が高い。B-52は、B-1BランサーやB-2スピリット各爆撃機が退役した後も、飛行し続ける予定だ。
長寿で幅広い能力を持つ同機で驚くべきことは、BUFF(Big Ugly Fat Fellow)と呼ばれる同機が、オハイオ州デイトンのホテルの一室に詰め込まれたボーイングのエンジニア数名でよりわずか1回の週末で設計されたことだろう。
B-52が生まれたのは、P-51マスタングが現役の時代
1957年、フライトラインに並んだB-52B (U.S. Air Force photo)
B-52の活躍は、数十年にわたる紛争を超え、航空史に残るものだ。B-52は、戦闘航空の概念がジェット機時代へ生まれ変わろうとしていた時代に誕生した。
1952年にB-52が初飛行した時点で、第二次世界大戦中のP-51(F-51)マスタングは、朝鮮戦争で活躍中の主要機材の一つだった。1955年にBUFFが就役する頃には、超音速ジェット機を搭載したF-100スーパーセーバーが運用を開始していた。
しかし、変化の激しい時代に、B-52の後退翼とジェット推進は、時代に対応できるだけでなく、爆撃機への期待値を一気に引き上げ始めた。
就役開始の1年後、B-52はビキニ環礁で世界初の熱核兵器の空中投下を行い、核兵器運用機能を証明した。翌年には、3機のB-52が空中給油により、わずか45時間19分で世界一周無着陸飛行を行い、その実力を世界に知らしめた。翌1958年には、別のB-52が世界速度記録を樹立する。さらに、無給油飛行距離の新記録も複数樹立するなど、B-52は数々の記録を打ち立てていった。
戦争と高度を越えて
B-52は5万フィート上空からの爆撃を念頭に開発されていたが、1960年にゲイリー・パワーズ操縦のU-2が撃墜された。しかし、空軍は同機を退役させるのではなく、レーダーが追尾できる400フィート以下の低空飛行爆撃機に移行できると即座に判断した。
B-52はベトナム戦争で重要な役割を果たし、特にラインバッカーII作戦では729機のB-52がハノイなどの目標に15,000トン以上の爆弾を投下した。B-52はベトナム戦争で、超音速のMiG-21を2機撃墜したとされる
1990年代の湾岸戦争でも、B-52は空爆作戦で重要な役割を果たした。
「不朽の自由」作戦では、精密誘導弾でアフガニスタン地上部隊に近接航空支援を行うとともに、同地域の米軍の爆弾投下の少なくとも1/3を提供した。「イラクの自由」作戦では、B-52はAGM-86C通常型空中発射巡航ミサイルをスタンドオフ距離で発射し、爆撃機が目標の真上から爆弾を投下する以上の用途に活用できることを証明した。
2021年9月、B-52は、26億ドルの民生用エンジン交換プログラム契約をロールス・ロイスに発注し、1960年代のTF33エンジンが新しいF130エンジンに交換され、2050年代まで飛行を続けることで、新しい命を再び手に入れた。
プロペラ機版B-52の原型モデル
B-52原案は一介の大佐に一蹴された
1948年7月、ボーイングは創設間もないアメリカ空軍から、新型重爆撃機の設計・製造契約を受注した。3年前に最初のジェット戦闘機ロッキードP-80シューティングスターが就役していたが、当時ターボジェットエンジンは黎明期だった。P-80は時速600マイル、高度47,000フィートまで上昇できたが、燃料を大量に消費するエンジンでは、長距離爆撃機に適さないと考えられていた。
1948年10月21日、ボーイングのプレゼンテーションチーム3名がライトフィールド空軍基地に到着し、B-29ストラトフォートレスのような第二次世界大戦を思わせるターボプロップエンジン4基を搭載した直線翼爆撃機案を持参してきた。ボーイングの航空力学部長ジョージ・シェーラーが、空軍の爆撃機開発責任者ピート・ウォーデン大佐に設計案を見せたが大佐は感心しなかった。
プロペラ機B-52の設計変更案.
ウォーデンにボーイングのターボプロップ爆撃機の設計案を中止させる権限はなかった。しかし、伝説的なカーティス・ルメイ(当時戦略空軍司令官)やケネス・ボナー・ウォルフ(航空資材司令部)といった有力な将軍たちが、後退翼ジェット爆撃機こそ未来だと考えていたことをウォーデンは知っていた。ウォーデンもこれに同意していた。
ウォーデンはターボジェットエンジン搭載の新設計を提案と、設計の見直しをボーイングに依頼した。これは、ボーイングにとって、ゼロからの出発を意味する。ボーイングにとって幸運なことに、当時ウォーデンは知らなかったが、シェーラーはジェットエンジン搭載の爆撃機の可能性を研究した成果をブリーフケースに入れて持ち歩いており、再設計が可能と考える十分な根拠があったのである。
そこで、ボーイングの技術担当副社長エド・ウェルズに電話し、ウォーデンの要望を伝えた。ウェルズは、その日の夕方にデイトン入りし、シェーラー、エンジニアのアート・カールソン、ヴォーン・ブルメンソールとホテルで合流した。
4人は、シャイラーの初期データをもとに、直翼機ながらターボジェットエンジンを搭載したB-52の設計作業を急いだ。翌日の金曜日、ボーイングはジェットエンジンを搭載したB-52の設計図を携えて戻ってきたが、ウォーデンの評価はいまひとつだった。
「まだ十分と言えない」。
ウェルズは金曜の昼、大佐に「何ができるか考えてみます。月曜の朝、お目にかかります」と伝えた。
(左から)ジョージ・シェーラー、ヴォーン・ブルメンソール、メイナード・ペネル、エド・ウェルズ、アート・カールソン。 Image courtesy of Boeing
デイトンの週末が歴史を変えた
設計チームにとって幸運だったのは、その週、ボーイングが2人のトップデザイナーを別の案件でデイトンに滞在させていたことだ。B-47が採用した後退翼の設計に携わったボブ・ウィジントンと、歴史に残るB-29プログラムでアシスタントマネージャーのメイナード・ペネルだ。この2人は、シャイラー、ウェルズ、カールソン、ブルメンタールと、狭くなったホテルの部屋で、スケッチや素早く書き込んだ数学的な計算に没頭していた。コンピューターが航空設計に使われるようになるのは、数十年後のことである。全く新しい爆撃機を設計するのは、この6人の男たちとその知恵に任されていたが、わずか48時間しか残っていなかった。
金曜日の夜遅くには、新型爆撃機B-52の姿が見えていた。185フィートの巨大な翼を持ち、胴体から35度の角度で後方へ振り出した機体。その巨大な翼を飾るのは、当初予定の4基のターボプロップエンジンにかわり、8基のターボジェットエンジンとなった。
1952年、飛行中のボーイングYB-52。 (U.S. Air Force photo)
翌朝、シャイラーは近所のホビーショップを訪ね、バルサ材、接着剤、彫刻刀、銀色の塗料などを買い求め、ウェルズは、正攻法で機体設計図に取りかかった。残りのメンバーは、機体重量や性能の計算に集中した。
日曜日に企画書が完成し、現地の速記者に清書してもらった。月曜日の朝には、33ページの企画書とあわせ、14インチの銀色の手作り模型も手にして、ウォーデン大佐の事務所に戻ってきた。ウォーデンは、新設計がすぐ気に入った。
「これこそB-52だ」。
わずか4年後に最初のB-52が初飛行した。ボーイングの伝説的なチームがオハイオ州デイトンの歴史あるホテル・バンクリーブで48時間かけて組み立てた小さな模型と図面集とほぼ同じ姿だった。■
Alex Hollings | September 13, 2022
Alex Hollings is a writer, dad, and Marine veteran who specializes in foreign policy and defense technology analysis. He holds a master’s degree in Communications from Southern New Hampshire University, as well as a bachelor’s degree in Corporate and Organizational Communications from Framingham State University
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