歴史に残る機体15 B-24リベレーター 地味ながら驚異の大量生産で大戦の勝利に貢献したのが同機です。当時の爆撃は重力に任せての投下で良くて数パーセントの命中率しかなかったので大量の機体から大量の爆弾を投下する必要があったのですね。今日はスマート爆弾のような精密誘導兵器があるので空を覆うような大編隊は必要がなくなったことになっています。そのためこのような数千機数万機を生産し搭乗員を養成し運用をシステムで行う事態は想定していません。戦争の在り方がかわってしまっているのですが、人間の頭の方がついていっておらず、やれ徴兵復活だのイメージで騒ぐ手合いが多いことには閉口しますね。やれやれ、新年からぼやきですか。
78 years ago, the B-24 Liberator took its first flight — here's how it helped bring down the Nazis
B-24初飛行から78年、ナチ打倒にどんな貢献をしたのか
- Dec. 29, 2017, 6:08 PM
米軍はボーイングB-17の増産を1930年代末に計画する中で、コンソリデーテッドエアクラフト社にも生産参加の打診をした。だがボーイングのシアトル工場を視察した同社は別の機体を提案してきた。
コンソリデーテッドは設計検討では新型爆撃機としてB-17を超えた性能を期待された。同社はすばやく設計案をまとめ試作機XB-24の製作契約を1939年3月に交付された。
1939年12月29日、XB-24が初飛行したがナチドイツの電撃戦がポーランドで9月に始まった数か月後だった。1940年春にはアドルフ・ヒトラーの軍は西欧に進軍し、コンソリデーテッド新型爆撃機は英国に送られた。
フランクリン・D・ロウズヴェルト大統領がB-24リベレーター爆撃機の部隊編入を視察した。機体は米国で訓練を受けたユーゴスラビア軍要員が運用した。ワシントンDC,1943年10月6日。(AP Photo)
1940年にナチドイツは勝利一歩手前だった。米国はまだ参戦していないもののフランクリン・ロウズヴェルト大統領は米産業界に生産を戦時体制に変えるよう強く求め、敗北寸前の連合国軍の状況を変える軍事装備の生産が始まった。
「銃を、航空機を、艦船を、さらに多くを米国内の工場で武器工廠で生産する必要がある。全国で数十万名の作業員の養成が必要だ」とロウズヴェルトは1940年12月29日に述べて。「民主主義の兵器工場にならなければならない」
B-24にはリベレーターの名称がつき、各戦線で活躍したが、特にヨーロッパでドイツ軍の打破に尽力した。
1941年初頭には他社もB-24生産に加わり、中でもフォード自動車が大胆にも一時間で一機完成させると公約したが、航空機産業界の嘲笑を買い、自動車産業に実現できるはずがないと見られていた。
モデル32の制式名称がついたB-24がサンディエゴ沖合を試験飛行中。この後同機は英国に回航された。生産初期の26機が英国向けに確保されていた。写真の機体には迷彩塗装と英空軍標識がついている。 1940年12月3日。(AP Photo)
1942年1月にフォード社長のエドセル・フォードEdsel Fordがコンソリデーテッドのサンディエゴ工場でB-24を初めて目にし「怪物のような大きさだ」と述べている。試作機はその一年前に完成していたが、全長66フィート4インチで全高17フィート11インチ、翼幅110フィートと当時の米国で最長の機体だった。
コンソリデーテッドエアクラフトの新工場内の組立てラインの一部を望む。1942年5月21日。(AP Photo)
主翼は「異常に長く細い、高アスペクト比で異例なほどの揚力を稼いだ」とA・J・ベイムA.J. Baimeが "The Arsenal of Democracy”に書いている。主翼は「機体上部に乗っておりまるで両腕を伸ばしているようだった。エンジン四発がぶら下がっていた」
フォード自動車は機体内配線は5マイルが部品3,000点をむすび、部品の大きさは8インチから32フィートまで分布していると解析した。部品は85%がアルミ合金で鋼鉄は13パーセントだった。残りはマグネシウム、黄銅、プラスチック、ゴム他だった。
一機にリベットは合計360千個が必要で、一部は16分の一インチで0.0005ポンドと極小だが一方でその50倍の長さで重量0.05ポンドのものもあった。
フォードの技術主任チャールズ・ソレンセンCharles Sorensenはコンソリデーテッドエアクラフトは「とんでもない兵器」を作ったものだと思いながら同社の生産方式では時間ばかりかかると批判していた。フォードはB-24を短時間で生産できる組立ラインでの大量生産方式を検討した。
フォード自動車のウィローラン工場でB-24の主翼中央部の組立が進む。1942年7月11日。ここから各工場で加工されてから同工場で最終組み立てされた。(AP Photo)
型式によるがB-24には7名から10名が搭乗した。爆撃士が腹部から爆弾倉を開閉した。航法士、機関士も機関銃座を担当していた。銃座は機首、尾部、背部、腹部に配置されていた。
コックピットには計器27種類、レバー12個で飛行速度と燃料を制御した。エンジン四発で4,800馬力を引き出し当時のフォードV8エンジン56基に相当した。
「フォードV8と四発リベレーターを比較すのは車庫と摩天楼を比べるようなものだ」とソレンセンは書いた。だがB-24生産契約がフォードに交付された。全長1マイルと世界最大の組立工場ウィロウランで同機を生産した。本当に毎時一機の爆撃機が完成した。
フォード自動車の巨大なウィローラン工場でB-24リベレーター爆撃の最終組み立てが進む。1943年3月3日。(AP Photo)
当初政府はフォード案を拒絶したが同社に480百万ドルで1,200機のB-24を「ノックダウン」生産する契約を公布し、同社はエンジンはじめすべての部品を組み立てた。1941年3月3日時点で800機が完成した。
フォードは生産実施で数々の問題に遭遇した。青写真から再作成の必要が生まれた。新工場に専用生産設備が必要だった。また人員確保をし訓練も必要だった。
戦時中のフォードは労使紛争や人種間緊張を同工場含むデトロイトでうまく収める必要があった。エドセルは父との関係も悪く、会社の将来の巡る確執も加わる。
真珠湾攻撃により米指導層も航空兵力が必要不可欠な存在と理解した。陸軍長官ヘンリー・スティムソンは大統領に四発爆撃機で「世界規模の戦略変化」が生じると説いた。ロウズヴェルト自身は「勝利を得る唯一の手段が爆撃」と信じていたといわれるが、ドイツ軍が高性能機材を大量に保有しているとの報道からロウズヴェルトも米航空機生産の増強を戦時中通じ注視した。
ウィローラン生産のB-24一号機は真珠湾攻撃の二日後に完成した。同機はウィローラン工場併設の飛行場で1942年5月15日に初飛行した。
ウィンストン・チャーチルがカサブランカでの首脳会議への移動手段としてB-24を選んだのは1943年はじめのことだ。爆弾倉を乗客用の座席に変更した
1942年のはじめにはB-24生産に四社が参加していた。コンソリデーテッド・エアクラフト、ダグラス、ノースアメリカン、フォードだった。このうちフォードのみが航空機生産とは縁がなかった。
B-24は米軍の最速重爆撃機として構想され、最高速は300mph、航続距離は3,000マイルと他機の水準を超えていた。最大ペイロード8,000ポンドに匹敵する米爆撃機はなかった。三輪式の降着装置は爆撃機では初で最大離陸重量は60千ポンドだった。前輪タイヤも3フィートの大きさがあり、27千ポンドを支えた。
ニューギニアのサラマウを爆撃中のリベレーターの左翼下に爆弾の炸裂が見える。1943年。同地はその後連合軍が奪回した。(AP Photo/US Army Force)
機体は薄いアルミ製で操縦士は鋳鉄製座席におさまり対空火砲等から守られた。機体には4千フィートに及ぶゴム、金属チューブで燃料や液漏れを防いだ。
B-24にはゴム製燃料セル18基があり、うち12個を主翼中央、3個ずつを主翼外側に配置した。セル合計で16,320ポンド(2,720ガロン)の100-オクタンガソリンを搭載し、弾丸が命中すると自己修復する機構になっていた。爆弾倉には三種類の搭載方法があった。2千ポンド4発、1千ポンド8発、500ポンド12発および100ポンド20発だ。
B-24は戦時中各方面で運用され、太平洋の遠距離移動や大西洋の通商航路をU-ボートから守る任務にまで投入された。連合国首脳部がカサブランカで会談した1943年1月に米司令部が米陸軍航空隊で最大に野心的な作戦を立案した。標的はナチ占領下のルーマニア都市プロエスチに広がる石油精製施設だった。攻撃が成功すればヒトラーの石油製造の三分の一が消える。同市はチャーチルが「ドイツ軍事力の源泉」とまで評していた。
米第8空軍所属のB-24編隊が占領下のヨーロッパ上空を飛行し爆撃に向かう。1943年8月12日。(AP Photo)
ベンガジを離陸しリビア砂漠を横断し全行程2,400マイルになる。これだけ飛行してプロエスティを攻撃できるのはB-24のみだった。連合軍司令部は津波作戦と命名し1943年8月の決行とした。
だがプロエスティこそ最大限に防空体制が強化された場所でレーダー警報から数多くの88ミリ対空砲陣地が展開していた。
プロエスティ石油施設攻撃の試みは被害多く失敗に終わった。津波作戦は1943年8月1日に実行されB-24計178機に1,763名の陸軍航空隊隊員が搭乗しリビアから13時間の飛行を開始した。全機搭載の兵装は「ゲティスバーグ陸戦二回分を上回る火力」と陸軍航空隊所属の記者が書いた。だが大編隊はギリシアでドイツ軍前哨に探知されてしまう。さらに厚い雲に苦しむ。混乱し位置が分からくなった米機編隊はナチの対空装備で一番密度の高い地点に飛び込んでしまった。
第9空軍所属のB-24がルーマニアのプロエスティで燃え盛る石油精製工場上空を飛行する。被害の9割はこの写真が撮影された後で遅延信管爆弾によるものだった。1943年8月16日。(AP Photo)
プロエスティ空襲は27分続き、対空砲火を生き残った機体は離脱したが、ドイツ戦闘機の追尾でさらに数機を喪失した。
ベンガジに戻ったのは88機のみで446名が戦死行方不明になったが、プロエスティ石油精製施設の被害は半数のみでしかも生産はまもなく再開した。
カサブランカ会談(1943年1月)で連合軍作戦部門は爆撃機活用の戦略方針で合意形成した。米爆撃部隊は戦略目標といて工場、港湾、軍事基地等ドイツの戦闘遂行に不可欠な目標を昼間攻撃する。
英空軍爆撃機は夜間攻撃を受け持ちドイツ都市を狙う。多くがこれをドイツ空軍の電撃作戦や英国の戦いで残酷な攻撃への反撃と位置付けた。
このトップシークレットの作戦は「合同爆撃機攻勢」と呼ばれた。
1944年4月に連合軍爆撃機部隊は再びプロエスティを襲った。初回攻撃ではB-24爆撃機9個集団とB-17の4個集団でTNT換算1.2百万トンを投下していた。爆撃で立ち上る煙は数十マイル先からも視認できたほどだ。空襲はその数週間続き5月31日のB-24編隊428機投入でクライマックスを迎えた。ナチの戦争継続能力は大きな打撃を受けた。ドイツ機は離陸できなくなり、戦車部隊も動きを止めた。
第八空軍所属のB-24がフランスのバスティア・コルシカを爆撃中。停泊中の大型商船一隻と小型船3隻に命中している。1943年10月2日。(AP Photo)
Source: "The Arsenal of Democracy"
本国では続々と機体が完成していた。1944年6月6日のDデイの数時間前にロウズヴェルト大統領に通算1万機のB-24が生産された事実が教示されていた。ノルマンジー上陸までにリベレーターは歴史上最大規模で生産された機体になっていた。
B-24乗員は機体を「空飛ぶ貨車」「空のスパム缶詰」等と命名し、乗員には有名人やその後有名人になったものが多く、ジミー・スチュワート、クラーク・ゲイブル、ウォルター・クロンカイト、アンディ・ルーニーがいた。フォードのウィローラン工場では1912年オリンピックの金メダリスト、ジム・ソ―プ、1936年の金メダリストのジェシー・オーウェンスが働いていた。
オーストリア、ウィーナー・ノイシュタット航空機工場空爆で着弾したB-24 リベレーターには5フィートx13フィートの大穴が開いた。同機はこの後墜落した。1943年11月2日。(AP Photo)
Source: "The Arsenal of Democracy"
「B-24のボール銃座で銃手だった。最初の交戦で気分は高揚したが恐ろしい経験だった」とある乗員が語っている。「高射砲でたくさんの乗員を失った。地獄だよ。爆弾落下の様子は目にした。もっとたくさん爆弾を落とすべきだった。地上の人たちのことなど構う暇がなかった。とにかくこっちに弾が飛んでくる中で早く逃げることしか考えていなかった」
第二次大戦の米国戦死者合計416,800名のうち陸軍航空隊の犠牲者は79,265名だった。
第15空軍のB-24リベレーター編隊がウィーン南部のウィーナー・ノイシュタット航空機工場空襲に向かう。1944年4月12日。(AP Photo)
Source: "The Arsenal of Democracy"
終戦までフォード自動車含む米産業界は空前の規模で軍需生産をし、米国の航空機生産は合計324,750機でトップ、二位三位の英国、ソ連の合計数を上回っていた。このうち、リベレーターは18,482機で、さらにそのうち8,685機をフォードのウィローラン工場が生産した。
第15空軍のB-24が105回の出撃を完了した。同機はアフリカ、地中海、欧州北部、バルカン地方を転戦し、英国内の基地で乗員が誇らしく回数を機に記入している。1944年5月31日。
Source: "The Arsenal of Democracy"
「生産に携わった人々、運用支援した人々、実際にB-24を飛ばした人々の合計規模を上回る機体はどこにもない。これまでもなかった」とスティーブン・E・アンブローズStephen E. Ambrose が"The Wild Blue"に書いている。「B-24で連合軍が勝利をつかんだというのは誇張だが同機がなかったら戦争に勝てたかわからない」
カリフォーニア州ロサンジェルス出身のアルヴァ・H・アレン曹長が「テキサス・ケイト」の仕上げ中。同機は太平洋で日本相手に戦闘に投入されていた。1945年6月11日。(AP Photo/Charles P. Gorry)
Source: "The Arsenal of Democracy"
B-24は終戦までに技術、性能で旧式化していた。陸軍は「超重爆」のB-29スーパーフォートレスのテストを1943年夏に始めていた。B-29は航続距離でもペイロードでもB-24を上回り与圧式機体によりさらに高高度飛行が可能だった。1945年8月6日にB-29が「リトルボーイ」原子爆弾を広島に投下し、その三日後に別のB-29が「ファットマン」原爆を長崎に投下した。日本は9月2日に降伏した。■
第15空軍所属のB-24の機体が炎上している。オーストリアのウィーンの合成燃料工場を狙う空襲でMe-109戦闘機による被害を受けた。1944年7月7日。同機はその後空中で二つに分解し、乗員全員は無事脱出した。(AP Photo)
Source: "The Arsenal of Democracy"
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