スペースシャトルが飛ぶずっと前から再利用可能宇宙機を運用する構想が米国にあった。ニューヨーク爆撃後、太平洋に移動する爆撃機を創ろうとし第二次大戦中のドイツ技術を応用したボーイングのX-20ダイナソアはロケット打上げで単座宇宙機になるはずだった。
同機は大気圏と宇宙空間の境界を滑空し、ペイロードをソ連国内の目標地点に投下したあと、大気圏外へ跳びはねて移動する構想だった。X-20は核の時代にサイエンスフィクションの世界から生まれた夢の構想で、実際に機能したはずと見る向きもある。
ペーパークリップ作戦と冷戦の高まり
ジョン・F・ケネディ大統領、リンドン・B・ジョンソン副大統領の間に座るカート・H・デビュNASA局長はV-2ロケットの開発陣の一人だった。WikiMedia Commons)
第二次大戦が終結に向かうと、米国とソ連の関係は気まずくなってきた。米ソは冷戦の到来を予期し、次の大戦で勝利をどう実現するかを考え始めていた。
ナチ科学技術陣がドイツの優位性を実現しており、こうした成果を生んだ科学者が敗戦後に訴追を逃れようとしているのを米ソともに承知していた。両国はナチ科学者技術者の確保が戦略的優位性につながると着目した。ドイツ科学者の確保を米国ではペーパークリップ作戦と呼んだ。
ペーパークリップ作戦を主導したのは共同情報目的庁(JIOA) で米陸軍の対諜報部隊が中心となりドイツ人科学者技術者等を1,600名確保し米国へ移送した。各員には米国の軍事技術開発で役割が与えられた。NASAで名を成したウェルナー・フォン・ブラウンは月ロケット、サターンVロケット開発の中心となったが、ペーパークリップで米国へ連れてこられたドイツ科学陣で最高位の人物だったが、その他にウォルター・ドーンバーガーおよびクラフト・エンリケがいた。
両名はベルエアクラフトで垂直発進式爆撃機とミサイルを合体させたコンセプトを最初に提案した。ドイツではシルバーフォーゲル(銀色の魚)と呼んでいた構想だ。現在の目から見ても理にかなっている構想だ。ロケットブースターに機体を乗せて地球周回軌道下ながら大気圏外高度へ移動させ、瞬間宇宙に入ってから大気圏に向け滑空し、主翼を使い「跳ね返り」ながら移動する。
X-20ダイナソアの想定図 (WikiMedia Commons)
今日では再利用可能宇宙機を準軌道高度へ送る構想は当たり前に聞こえる。だが、ドンバーガー=エンリケ提案は1952年のもので、ソ連が世界初の人工衛星を打ち上げる5年も前だった。ペーパークリップ作戦はドイツ科学を使い米軍事装備開発を一気に進める狙いがあったが、倫理上の問題は別として、狙いは実現したといってよい。
スプートニクの影
1957年10月1日、ソ連が世界初の人工衛星スプートニク1を打ち上げた。小型金属球形状で直径はわずか23インチ、無線アンテナ4本を後部につけ、ソ連のみならず世界各地に信号を送った。西側世界で「スプートニク危機」が発生した。
大戦後の米国は事実上の世界超大国として軍事・経済力で君臨していた。だがスプートニクの打ち上げ成功で米国の優越性に疑問が生まれた。ソ連は米国と核兵器で追いつき、水爆も1953年に実験成功した。今度は米国に追い付くのではなく、ソ連が最初からリードを取った格好となった。米国はドーンバーガー=エンリケ構想を採択し、三段階の事業としていた。ロケット爆撃機(RoBo)、長距離偵察機(ブラスベル)、極超音速兵器研究だ。スプートニク1直後に米国は各事業を整理し、三つを単一のウェポンシステム464Lに統合しダイナソアと呼んだ。
X-20ダイナソア打ち上げの想像図(NASA)
新規事業ダイナソアは三段階で実用化するねらいだった。ダイナソア1は研究用、ダイナソア2は偵察機能、ダイナソア3で爆撃機能を実現するとした。米国は迅速な作業をめざし、1963年までに滑空実験、翌年に動力滑空を行う予定だった。その時点でダイナソア2がマッハ18を実現する。ダイナソアから開発するミサイルが1968年までに実用化され、宇宙機は1974年に実用化となる目論見だった。
(U.S. Air Force image)
三段階の実現目標を達成すべく、ベルエアクラフトとボーイングが提案書を作成した。ベルが先行したがボーイングが契約を獲得し、X-20ダイナソアの開発作業を開始した。
ダイナソアの製造
(Boeing photo)
宇宙機の全体設計が1960年にまとまり、デルタ翼に小型ウィングレットがつき、尾翼は省略された。再突入時の強烈な温度に対応すべく、X-20には超合金の耐熱レネ41を採用し、その他モリブデン黒鉛やジルコンを機体下部の熱遮断に使った。
空軍の主任歴史専門員だったリチャード・ハリオン博士は「超高温に耐えるようニッケル超合金を採用した。主翼前縁にはさらに高性能合金を使い、アクティブ冷却効果を狙った」
その同じ年に宇宙爆撃機の宇宙飛行士が選抜された。その一人が当時30歳の海軍テストパイロット、ニール・アームストロングだった。
同年末までにX-20の制式名称がつき、ラスヴェガスで一般公開された。X-20の大気圏内投下実験にはB-52ストラトフォートレスが母機に選ばれ、ロケットブースターの初の稼働実験も成功した。事業は順調に予定より先行しているように映り、当時の技術でも実現可能性は十分あるように思われた。1960年代初頭の当時にはアメリカが宇宙爆撃機を飛ばす日が来るのは確実だった。
(U.S. Air Force photo)
X-20ダイナソアのモックアップは全長35.5フィート、翼幅20.4フィートで、着陸時には格納式三脚をつかった。大気圏外まではA-4あるいはA-9ロケットが必要だったが、ミッションでは大部分を滑空移動し、大気圏に接近して揚力を確保してから跳ね返り、水面を跳びはねながら移動する小石のように移動する構想だった。最終的に速力が落ちると同機は地球に帰還するのはスペースシャトルと同じだ。
X-20ダイナソアの終焉
(U.S. Air Force)
X-20構想は奇想天外なものだったが、技術的に実現可能であり、初期テストからダイナソアは目論見通り機能思想だと判明した。しかし、事業はおどろくべきほどの高予算となり、新しく発足した国家航空宇宙局はジェミニ計画を進めると、政府指導層はソ連への対抗として宇宙機の実用化により関心を示し、国際的な地位の誇示には役立たない兵装への関心は低くなった。
「ブラック事業としてU-2のように進めていれば、確実に実現していたはずだ。障害となる技術要因はなかった」(ハリオン)
1963年12月10日にX-20事業は中止となった。米国は410百万ドル(2021年換算で35億ドル超)をつぎ込んだが、X-20が宇宙爆撃機になるのはまだ相当先のことだった。ハリオンの回想どおりでもX-20の完成は2.5年先で370百万ドルが必要なはずだった。宇宙爆撃機は文字通り世界規模の航続距離を実現するが、1957年に米空軍はB-52で世界一周飛行を実現しており、高価格のロケットは不要になった。
X-20事業が中止となり、米政府は残る予算を有人軌道上実験室事業に転用し、ジェミニ宇宙機を使い、有人軍事プレゼンスを地球軌道上に実現しようとした。
だが、X-20は歴史の波に完全に飲み込まれたわけではない。同事業の遺産はNASAのスペースシャトルに見られ、宇宙軍の極秘X-37BにはX-20に通じるものがある。X-37Bが宇宙爆撃機ではないことはほぼ確実だが、米国で最高性能の偵察機材になっている可能性はある。■
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X-20 Dyna-Soar: America's hypersonic space bomber
Alex Hollings | February 11, 2021
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